菱谷忍寄、過去

第74話 前編

 私は何のために生まれたのだろう?


 私は何のために生きているのだろう?


 その答えを、私はついに見付けた。


***


「なんなのこの点数!もっと頑張りなさい!」


 九十点を取った数学のテストを見せた瞬間、母は激怒した。

 母曰く、九十五点以上は零点と変わらない。とのことだ。

 無茶苦茶な言葉だが、当時の私にとって、母の言葉は絶対だった。

「塾にも行かせて、家庭教師も付けて、どうしてこの点数なの?ちゃんと真面目に勉強しているの?」

「ごめんなさい」

「謝れば済むと思っているの?」

 母の説教は続く。それを見ていた父がため息を付いた。

「情けない。本当に俺の子か?」

 そう言ったきり、父は自分の部屋にこもった。


 私の父も母も、どちらも有名大学を卒業している。

 父は若くして大企業の重役となるほど優秀で、母もある有名大学の准教授として、いくつもの研究で成功を収めている。

 父は将来の社長候補の筆頭であるし、母も近い将来、教授になるだろうと噂されている。

『学力こそが全て。勉学で成功してこそ人間には価値がある』

 父も母もそう信じ込んでいた。


 そんな両親の間に、私はひとり娘として生まれた。


 学力こそが全てと信じている両親の教育は厳しかった。

 とにかく、勉強。勉強。勉強。勉強……一日のほとんどの時間を、私は勉強に費やした。


 そんな毎日だったので、当然友人など出来ない。私には『友達と遊んだ』という記憶が全くない。


 その代わり、勉強漬けの毎日だった私の学力はどんどん上がっていった。

 親が行けと言った高校にも、今の学力であれば、ほぼ確実に合格出来るはずだった。


 だけど、私は親が行けと言った高校に行くことが出来なかった。


 試験直前、私は倒れた。

 倒れた原因は、受験に対する極度の緊張と親からのプレッシャー。それらが大きなストレスとなり、私を襲ったのだ。

 私は直ぐに病院に運ばれ、事なきを得たが、入学試験を受けることは出来なかった。


 試験すら受けることが出来なかった私を母は罵倒し、父は呆れ顔で見た。


 目的の高校を受験出来なかった私は、仕方なく滑り止めで受験した別の高校に進学した。 

「せめて大学だけは、一流を目指しなさい!」

 高校に入学したら今まで以上に勉強するように。と、母は私に言った。


「疲れた……」

 一日の勉強が終わり、私は倒れるようにベッドに横になった。

 身体だけではなく、心も疲れている。精神はもうボロボロだ。


 私は自分が生きている意味について考える。


 私は何のために生まれたのだろう?

 私は何のために生きているのだろう?


 何度も、何度も、考える。


 だけど、答えはまだ出ない。


***


『新入部員、募集中です!』


 高校に入学してしばらくすると、学校で部活動の勧誘が始まった。

 運動部や文化部、学校にある全ての部活が新入生獲得に動き出す。


「バスケ部です!一緒に汗を流しませんか?」

「野球部です。皆で甲子園を目指しましょう!」

「テニス部です。初心者歓迎です!」

「サッカー部です。アットホームな部活ですよ!」

「柔道部です。心も体も強くなります!」


 だけど当然私は、部活に入るつもりなど無かった。

 有名大学に進学するために勉強しなければならない私に、部活動をする時間など無い。


 手書きの勧誘ビラを渡そうとする上級生達の間をすり抜け、私は歩く。

 すると、一枚のビラが目に入った。


『静かな部活です。小説や詩を読んだり書いたりするのが好きな人には、お勧めです』


 その部活は『文芸部』だった。


 ほんの少しでも良いから、勉強から逃れる時間が欲しかった私に、『静かな部活』という単語は心に響いた。


 散々悩んだ末、私は文芸部に入ることに決めた。


 案の定母は「部活なんてする暇があったら勉強しなさい!」と言ったが、私は、

『何か部活に入っていた方が、内申が良くなり推薦に有利になる』

『成績が下がったら、すぐに部活を辞める』

 と言って、説得した。母は渋々ではあるが、文芸部に入ることを許可した。


 聞いた所によると、私の高校の文芸部は勧誘ビラの通り、とても静かに活動しているらしい。


 普段は本を読んで過ごしたり、コンクールに応募するための小説や詩を書いたりしている。

 学園祭には、書いた小説や詩を販売するらしい。


 そして、入部の日。

 文芸部に入部を希望したのは、私ともう一人の計二名だけだった。


「山田です。よろしくお願いします」

「菱谷……です。よろしく……お願いします」

 緊張しながら私は挨拶をした。文芸部は部員が少ないので、新入生は喜んで迎えられた。

「あれ?」

 そこで、私は疑問に思った。


 勧誘ビラには、今の文芸部の部員は五人と書かれていた。

 私ともう一人入部したから、此処には七人居ないとおかしい。だけど、此処には六人しか居ない。

「ああ、あいつはクラスの用事で遅くなるらしい。もうすぐ来ると思……」

 その時、部室のドアが開いた。


「すみません。遅れました!」


 その人は、肩で息をしながら「もう、部員の紹介は終わりましたか?」と部長に尋ねた。

「今、全員の紹介が終わったところだ。お前も早く自己紹介しろ」

「はい」

 その人は息を整え、自己紹介する。


「二年の安藤優斗です。よろしくお願いします」


「一年の山田紀彦です」

「お、同じく一年の菱谷……菱谷忍寄……です」

 私ともう一人も自己紹介をした。

「山田君と菱谷さんか。よし、覚えた!」

 先輩はウンと頷く。

「これからよろしくね。山田君。そして……」

 先輩は私を見る。


「菱谷さん」


 先輩は優しく、穏やかに微笑んだ。

 見る者全てを安心させる。そんな笑顔だった。


 ドクン。


 その瞬間、私の心臓は激しく高鳴った。

 そして、雷に打たれたような衝撃が全身に走る。


 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。


 心臓が信じられない程早く動く。全身が熱くなる。

 顔が紅くなっているのが、自分でも分かった。


 その後の記憶は無い。

 気が付けば深夜になっており、私は自分のベッドで寝ていた。

「先輩……安藤先輩……優斗先輩……安藤優斗……先輩……」

 私はベッドの中で先輩の名前を繰り返した。その度に、先輩のあの優しい笑顔が頭の中に蘇る。

 すると、あの時感じた衝撃が全身に走る。


 それは、今まで感じたことのない快感と幸福感だった。


「先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩……」

 ベッドの中で何度も何度も『先輩』と繰り返す。

 何時間も、何時間も……。気付けば、夜が明けていた。

 結局その日、私は一睡も出来なかった。


 だけど、全く眠くないし、辛くない。

 勉強のために徹夜をしたことは何度もあるが、こんな経験は初めてだった。


「これが一目惚れ……」


 私はそれまで『一目惚れ』というのを信じていなかった。

 一目見ただけで、その相手を好きになる。そんなことが実際に起こるなんて信じられなかった。


 だが、違った。一目惚れは存在する。

 私の今の状態が、それを証明している。


「先輩……先輩……ああっ……先輩、先輩!」

 学校に行くまでの間、私は何度も「先輩」と言い続けた。


***


 次の日の授業は、とても長かった。


 時計が壊れているのではないか?と思うぐらい時間の進みが遅い。

 早く放課後になれ。早く、早く、早く……。


「じゃあ、今日の授業は此処まで。部活やって無い奴らは気を付けて帰れよ!」

 帰りのホームルームが終わった。


 私は鞄を掴むと、急いで部室に向かった。

「はぁ、はぁ……」

 部室の前に来ると息を整え、身だしなみをチェックする。前髪や服装は乱れていないだろうか?……良し。

 部室の扉を開ける。先輩は……居なかった。

 私は、椅子に座ると、読みかけの本を手に取り読み始める。だけど、本の内容は全く頭に入らない。

 頭の中は先輩の事で一杯だった。


 しばらく待つと、部室のドアが開いた。

「あっ」という声が耳に届く。私は読んでいた本を乱暴に閉じ、声の方を向いた。


「菱谷さん。早いね」


 先輩は、ニコリと笑う。

 またあの快感と幸福感が体を走り抜けた。

 人は快感や幸福を感じると脳内でドーパミンという物質が出るらしい。おそらく、私の脳内では凄まじい量のドーパミンが放出されていることだろう。

 だけど私はそのことを態度に出さず、先輩に挨拶した。

「先輩、お疲れ様です」

「うん、お疲れ様」

 先輩は、また私に微笑んでくれた。早くなっていた鼓動がさらに早くなる。

 幸せ過ぎて心臓が止まるかと思った。


「ねぇ、菱谷さんは……」

「はい!」

「どんな、本が好きなの?」

「えっと……推理小説とか」

「へぇ!」

 

 その後、軽く雑談を交えた後、私は思い切って先輩に言った。

「あ、あの……先輩!」 

「ん?何?」


「わ、私の事……『菱谷』って呼んでくれませんか?」


 日ごろからあまり声を出さないせいか、音量の調節が上手く行かず、ついつい大声になってしまった。

 先輩は不思議そうに私を見ている。慌てて言葉を続けた。

「せ、先輩の方が一つ年上ですし……上級生ですし、呼び捨てにしてくださって良いんですよ?私の方が後輩ですし……」

 私がそう言うと、先輩は「う~ん」と迷うような仕草をした。

「俺は別に上級生だからって、無理に呼び捨てにすることは無いと思うんだけど……菱谷さんは呼び捨てにされて嫌じゃない?」

「いいえ、全く!」

「本当に?」

「はい!」

 私は強く言い切った。

「分かった。じゃあ、これからは呼び捨てにするね」

 そして先輩は言った。言ってくれた。


「菱谷」


 先輩が笑顔で私の名前を呼び捨てにした時、私は理解した。


 自分の感情が『恋心』から『愛』に変わったことに。


 私は、この人を……先輩を『愛している』。


 同時に、ずっと悩んでいたことにも答えが出た。


 私は何のために生まれたのだろう?

 私は何のために生きているのだろう?


 その答えだ。 


 私は何のために生まれたのだろう?

 私は【先輩に出会うために生まれた】。


 私は何のために生きているのだろう?

 私は【先輩のために生きている】。


 絶望という闇に居た私を、先輩という暖かな光が照らした。


 そう。私は先輩に救われたのだ。


***


 それから一週間後、部活を終え家に帰ると、険しい顔をした母が椅子に座っていた。

 

「忍寄、ちょっと座りなさい」

「……何?お母さん」

「いいから!早く座りなさい!」

 母はテーブルを勢いよく叩いた。


 前の私なら、怯え、恐怖し、体を竦ませていただろう。

 だけど、今の私は―――生きる理由を見付けた今の私は、母など全く怖くなかった。


 でも、意味なく母と対立するつもりはない。私は、母の言う通り、椅子に座った。

「忍寄、私に何か言う事があるんじゃない?」

「言う事?」

 少しの間考えてみたが、母に言わなければならない事など思いつかない。

「特に無いと思うけど?」

「とぼけるんじゃないの!」

 母はまたしてもテーブルを叩いた。


「最近、文芸部で男の部員と随分仲が良いらしいじゃない!」


「……!」

 驚いた。どうして母が先輩のことを知っているのだろう?言った事など無いのに。

「貴方と同じ部活に山田って子がいるでしょ。その親御さんから聞いたのよ!」

 山田……ああっ、あいつか。確か、私と同時に文芸部に入部した奴だ。

 そういえば、そんな奴も居たな。


 私は、文芸部に居る安藤先輩以外の部員のことを本気で忘れかけていた。


「本当なの?」

「本当だよ」

 母の問いに、私は即答した。

「ふざけないで!」

 母はまたテーブルを叩いた。そんなに叩いて、手は痛くないのだろうか?

 怒りの形相で、母はまくし立てる。

「私はねぇ。貴方が内申に有利になるって言うから、部活をすることを許可したの!恋愛なんてさせるためじゃないの!分かる!?」

 全く分からない。母は一体、何が言いたいのだろう?

 

「部活はもう辞めなさい。そして、二度とその男の子に近付くんじゃないわよ!」


…………………………………………………………は?


 母は……いや、『』は今なんと言った?


『二度と先輩に近づくな』。そう言ったのか?


「いいわね?部活を辞めたら、前みたいに勉強に力を……」

 母はまだ何か言っている。だけど、全く耳に入らない。

 私は椅子から立ち上がり、母の直ぐ傍に立った。

「何?座りなさい。話はまだ終わって……」

 

 バン。


 私は無言で母を殴った。


 殴られた衝撃で、母は椅子から転げ落ちる。

「……えっ……?えっ……?」

 床に倒れた母は何が起きたのか分からないという表情で、私を見上げていた。

 当然だろう。今まで一度も反抗した事の無い娘が、自分に手を上げたのだから。


 私は、呆然としている母の上に馬乗りになると、拳を振り下ろした。

 振り下ろした拳が、母の鼻に当たる。


「ああああっ!」

 母は鼻を抑え、悶絶した。

 私はさらに、何発も母の顔めがけて拳を振り下ろす。


 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も……。


「いや!痛い!忍寄!やめなさい!やめ……痛い!」

 母は抵抗する。だけど、そんなのお構いなしに、私は母を拳で叩き続けた。


 誰であろうと、私と先輩の仲を引き裂こうとする人間は許さない。

 そう。誰であろうと……。


「やめなさい!やめなさ……やめ……痛い、痛い!やめなさい……お願い……やめて……やめて……痛い、だ、誰か。誰か助けてえええ!いやあああ!」

 母は悲鳴を上げる。だが、この家の防音は完璧だ。母の悲鳴を聞いて助けに来る人間など居ない。

「いや……いやぁぁぁ……」

 母は徐々に抵抗する力を失っていく。

 すると、母はポツリと呟いた。 


「『お父さん』。お願い、やめて……」


 私は拳を止めた。母はさらにブツブツと呟き続ける。


「ごめんなさい……お父さん……ごめんなさい……許してください。良い子にします……良い子にします。だから……もう叩かないで……」


 あの母が、まるで子犬のように震えている。どうやら、私は母のトラウマに触れてしまったらしい。

「なるほどね……」私は理解した。

 母が言う『お父さん』とは、私の父の事ではないだろう。おそらく母の父親、つまり私の祖父の事だ。


 おそらく、母は祖父から厳しい教育を受けていたのだろう。

 その祖父と同じ方法で、母は私をしつけていたのだ。


(くだらない……)

 母から退く。私が退いても母はまだ顔を覆い、泣きじゃくっていた。

 私は丈夫な紐を持ってくると、泣きじゃくる母の両手と両足を縛り始めた。

「嫌、いや、やめて……うっ……ううっ……」

「よし」

 母を拘束し終えた私は、時計に目を向ける。そろそろ、父が帰ってくる時間だ。


 私は父の部屋に入り、キャディバッグからゴルフクラブを一本取り出す。

 そして、家中の電気を消し、父が帰ってくるのを静かに待った。


***


 それから二時間ほどして、父が帰宅する。


「ただいま。って、おいおい。誰も居ないのか?」

 家の中は真っ暗だ。

 私はゴルフクラブを手に、死角に潜む。


 父が家の電気を点けた瞬間、私は持っていたゴルフクラブで背後から父を殴った。


「ぐはっ!」

 短く叫んで父は倒れる。

「がっ……がはっ……なっ?なっ?」

 母と同じように、父も何が起きているのか分からず混乱しているようだ。

 やがて、父の目がゴルフクラブを持っている私を映す。


「忍寄……お前、なん……ぐはっ!」


 とりあえずもう一発殴る。父は呻き声を上げ、苦痛に顔を歪ませた。

 私は、父に立つように命じる。父は「何のつもりだ!」と怒鳴った。だから、もう一発。今度は足を殴る。

「ぐっ……がっ……」

「いいから、早く立って」

 私は早く立つようにせかす。

「―――ッ!」

 父は私を睨むも、今度は口答えせず、おとなしく指示に従った。


 居間まで歩かせると、私は父の両手両足を母と同じように紐で拘束した。

 そして、拘束した父と母を横に並べる。


「忍寄、お前!親に向かってこんなことをして……ぐがっ!」

 文句を言った父を、私は蹴飛ばした。父は悶える。

 私の許可なく発言したらどうなるか。さっき理解しただろうに、もう忘れたのか。

 頭の良い大学を卒業したことをいつも自慢しているくせに、学習能力が低い。


「お父さん、少し黙って」


「―――ッ!」

 父はビクッと震え、口を閉ざした。ようやく自分の立場を理解したらしい。

 私は椅子に座り、二人を見下ろす。

「お父さん、お母さん」

 ニコリと微笑む。先輩みたいに優しく笑えたかな?


「二人にお願いがあるんだけど、聞いてくれるよね?」

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