第45話 聖女の誘惑③

「ユウト様」


 ベッドで寝ている安藤の耳に、心地よい声が聞こえた。

「ユウト様」

 優しく、囁くようにその声は安藤の名前を呼ぶ。

 その声に導かれるように、安藤はゆっくりと目を開けた。

「んっ……?」

 ぼやける視界。それが段々と鮮明になっていく。


 銀髪の美しい少女が、微笑みながら安藤の顔を覗いていた。


 銀髪の少女は、ワンピースに似た白い服を着ている。その服には、見覚えがあった。

 安藤は、まどろむ頭で少女の名前を言う。


「……んっ……ホーリーさん……?」

 ホーリーは花のように笑う。

「はい、私です。ユウト様。『貴方の運命の相手』の……私です」


 その瞬間、安藤の体から眠気が一気に吹き飛んだ。

「えっ……ええっ!?」

 安藤はベッドから勢いよく上半身を起こす。

「な、なんで此処に……!?」

「会いたかったです。ユウト様」

 ホーリーは安藤に抱き付くと、再び安藤をベッドに押し倒した。

 そして強引に、安藤の唇の上に自分の唇を重ねる。

「……んっ」

「ホ、ホーリーさん……や、やめてくださ……くうっ!」

 安藤はホーリーを引き剥がそうとする。しかし、ホーリーはさらに強く、安藤の唇に自分の唇を押し付けた。

「……んっ、んんっ」

「―――ッッ……うっ、ううっ!」


 安藤は思う。一体、どうしてこんなことになってしまったのだろう?


「くっ……ホ、ホーリーさん。離れてください!」

 安藤はホーリーの肩を掴んで引き離す。

「答えて……はぁ……ください。なんで……はぁ、はぁ……なんで……此処にいるんですか?」

 安藤は荒くなった呼吸を整えながらホーリーに尋ねる。安藤の問いに、ホーリーは笑顔で答えた。

「資料を見たからです」

「資料?」


「協会が『冒険者カウンセリング診療所』に寄付している金額や、その他、『冒険者カウンセリング診療所』の様々な情報が書かれた資料です。その資料にユウト様の名前がありました」


「協会が……『冒険者カウンセリング診療所』に寄付を?」

「はい」

 ホーリーはゆっくりと首を縦に振る。

「協会は、病院など様々な場所に寄付や支援をしています。『冒険者カウンセリング診療所』もその中の一つです」

 ホーリーの言葉を聞いた安藤は、先輩であり、経理を担当しているケンが言っていたことを思い出す。


『一応、此処に寄付してくれる組織があるから、何とか運営できている』


『冒険者カウンセリング診療所』に寄付をしてくれている組織とは、協会のことだったのか。

「先程まで、見ていた資料にユウト様が『第七冒険者カウンセリング診療所』で働いているということが書かれていました。そうしたら、いても立ってもいられなくなり、テレポートで来てしまいました。此処には見学で何度か来たことがありますので、場所は分かっていましたから」

 ホーリーはフフッと笑みを深める。


(偶然……?)

 そんな偶然があるだろうか?


 ケンはシェンドナー医師が毎回赤字続きにも関わらず、安藤を『第七冒険者カウンセリング診療所』で雇ったことに不満があるようだった。

 安藤自身も、即戦力にならない自分を雇うことに何のメリットがあるのだろうと疑問に思っていた。

 だが、仮に安藤を雇うことに何かメリットがあったとしたらどうだろう?


 例えば、安藤を『第七冒険者カウンセリング診療所』で働かせる代わりに、寄付の額を多くする。そのような取引があったのだとしたら、安藤が雇われたのにも説明が付く。


 では、一体何のためにそんなことを?

 考えられる理由は、安藤とこうして秘密裏に会うためだ。


 安藤は思う。

 ひょっとして、


(いや、いくら何でも飛躍しすぎだ……)

 安藤は、先程の考えを頭から消した。


 そもそも最初に安藤をこの仕事に誘ったのは


 ということは、冒険者ギルドから『第七冒険者カウンセリング診療所』、もしくは冒険者ギルドが運営している全てのカウンセリング診療所に、『こういう人間が居るが、働かせてやってはくれないか?』という通知がされたはずなのだ。

 安藤を雇うことをシェンドナー医師が決めたのは、その冒険者ギルドからされた通知を見たからに違いない。


 つまり、ホーリーが安藤をどこかの『冒険者カウンセリング診療所』で働かせる取引をしたのなら、その相手はシェンドナー医師ではなく、カウンセリング診療所を運営している


 冒険者ギルドは巨大組織だ。


(いくら協会の権力が強く、ホーリーさんが協会の『聖女』だとしても、


 俺にそんな価値はない。


(だとすると、ホーリーさんは彼女の話の通り、偶然、此処で俺が働いている事を知ったことになる……)


「ユウト様が『冒険者カウンセリング診療所』で働いていらっしゃるのなら、もしかしたら今夜、此処に泊まっているかもしれないと思いました。『冒険者カウンセリング診療所』は最低誰か一人、泊まる事が慣例となっていますから。そうして来てみたら、ユウト様がいらっしゃいました。やはりユウト様と私は引かれ合う運命なのです」

「運命……」

 そうなのか?本当に彼女の言う通り、俺とホーリーさんは引かれ合っているのか?

 だから、ホーリーさんは俺を見付けることが出来たのか?

「ユウト様……」

 混乱する安藤をホーリーは、そっと抱きしめた。心臓がドクンと激しく高鳴る。

「あっ、あの!ホーリーさん!」

「ユウト様、お会いしたかったです」

 安藤の耳元でホーリーが甘く囁く。

「ユウト様は、私に会いたくはなかったですか?」

「お、俺は……」

 安藤はギュッと目を閉じる。

 言うんだ!はっきりと!

『いいえ、俺は貴方に会いたくなんてありませんでした!』そう言うんだ!安藤は意を決して、口を開く。


 しかし、声が出ない。


「……ぁ……ぅぅ……」

 喉まで声が出掛かっているのに、何も言葉が出てこない。

「ユウト様」

 ホーリーはさらに強く安藤を抱きしめる。ホーリーの大きな胸が安藤の体に押し付けられた。

「や、やめてください……離れて……ください……」

 ホーリーの体から甘い匂いがした。頭がクラリとする。全身の力が抜け、ホーリーを引き剥がせない。

(ダメだ。これじゃあ前と……あの時と同じだ)

 安藤は、必死に声を振り絞る。

「お、俺には……俺には由香里が……由香里がいるんです。だから……だから!」


「それは、本心ですか?ユウト様」


「えっ?」

 ホーリーの思わぬ言葉に安藤は目を見開く。

「どういう……ことですか?」

「ユウト様は、本当に奥様を愛していますか?」

「あ、当たり前です。お、俺は由香里を愛しています!」

「そうですか……しかし」

 ホーリーは耳元でクスリと笑う。


「あの夜。ユウト様は私を求めました」


「―――ッッ!!!」

 まるでナイフで刺されたかのように、安藤の胸はズキンと痛んだ。

「ユウト様。貴方はとても優しく、誠実な方です。貴方が本当に奥様を愛しているのであれば、あの夜、貴方は私を求めたりはしなかったでしょう。しかし、貴方はそうなさらなかった。貴方は……私を求めた」

「そ、それは……」

 安藤の顔が罪悪感と後悔でグシャリと歪む。

「勘違いなさらないでください、ユウト様。私は決して貴方を責めているのではありません。貴方が私を求めるのは当然のことなのです」


 なぜなら、私は貴方の『運命の相手』なのですから。


「ち、違う!」

 安藤は必死に口から言葉を出す。

「お、俺の『運命の相手』は貴方じゃない。俺の……俺が愛しているのは……由香里なんだ!由香里……なんだ……」

 昔からずっと好きだった幼馴染。昔から大切な、とても大切な存在。

 それが、三島由香里だ。


「ですがユウト様、貴方は苦しんでいます」


「……………えっ……?」

 安藤の思考が一瞬、停止する。

「い、今なんて……」


「奥様と一緒に居ることで、貴方は苦しんでいます」


「俺が……苦しんでいる?」

 安藤は頭を振って、否定する。

「そんなことありません!俺は、苦しんでなんか……」

「いいえ、貴方は苦しんでいます」

 ホーリーは安藤の目をじっと見る。


「ユウト様、貴方は奥様に。そして、


「―――ッッッッ!!」

 大きく目を見開いた安藤に、ホーリーはさらに続ける。

「貴方は前に私にこう言いました」


『妻は何でもできるんです。勉強も、スポーツも、魔法も、何でもできる。だけど、俺は何もできなくて……』


 倒れたホーリーを家に招いた時、確かに安藤はそんな事を言った。

「ユウト様。貴方は奥様と一緒に居る時、心の底でこう思っていませんか?」


 自分は、この人と一緒に居る資格があるのだろうか?


「―――ッ!」

「『自分がこの人の傍に居ていいのだろうか?』、『自分よりもこの人にふさわしい人物が居るのではないだろうか?』そんな風に思っていませんか?」

「そ、それは……」

 安藤はホーリーの言葉を否定できなかった。


 何故なら、ホーリーが言ったことは全て安藤が心の中で思っていることだったからだ。


 安藤が三島を愛しているのは、紛れもない事実。

 しかし、同時に安藤は昔から『自分なんかが由香里の傍に居ても良いのだろうか?』と常に心の中で思っていた。

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