第16話 闇
「じゃあ、行ってきますね。先輩!」
「ああ……うっ!」
菱谷は安藤の首に両手を回し、自分の唇を安藤の唇に押し付けた。
短くない時間、口づけを交わした後、菱谷はゆっくり唇を離す。
「じゃあ、行ってきます!」
菱谷はニコリとほほ笑むと、小さく呪文を唱えた。
次の瞬間、菱谷はまるで煙のように消えた。
菱谷が消えると、安藤はゆっくりと自分の唇を腕で拭った。
***
「ダメか……」
安藤は深い溜息を吐く。
菱谷が掛けた言霊の魔法のせいで、安藤は窓やドアなど、外部に通じる場所に近づくことが出来なくなっていた。
近づこうとすると、足がまるで石になったかのように動かなくなる。
「マドニ、チカヅカナイデクダサイ」
そうして動けないでいると、屋敷にいる人形が凄まじいスピードで近づいてきて、安藤を窓やドアから、さらに遠くへ引き離すのだ。
安藤は何度も逃げ出そうとしたが、どうしても逃げ出すことが出来ない。あっという間に時間だけが経過する。
そして、菱谷が出かけてから三日目となった。
「くそっ!」
安藤は焦る。菱谷は三日程で戻ると言っていた。今日逃げ出さなければ、次のチャンスはいつ来るか分からない。
いや、今を逃せば、永遠にチャンスなど来ないかもしれない。
「動け、動け!」
安藤は自分の体を叩き、大声で叫ぶ。だが、菱谷の魔法の効力は絶大で安藤の体は全く言うことを聞かない。
動けない安藤に、人形達が一斉に駆け寄って来る。
「くっ……ダメ……か」
安藤は目を閉じて、諦めかけた。
すると、ガシャンと何かが倒れる音がした。
安藤が驚いて目を開けると、目の前で人形が倒れていた。
安藤は周りを見る。倒れている人形は一体だけではない。屋敷中の人形が倒れていた。
倒れている人形を安藤は、しばらくの間、呆然と見ていた。
そして、あることに気付く。
「足が……動く!」
窓やドアに近づくことすらできなかったのに、急に自分の意思で足を動かせるようになったのだ。
安藤は一歩ずつ、ドアに近づく。そして……。
安藤は、ドアの前に立つことが出来た。
「―――ッ!」
安藤は手を伸ばす。ドアノブにも触れることが出来た。
「スゥウウ」
安藤は息を大きく吸うと、意を決して、ドアノブを回した。
ガチャという音と共にドアが開いた。
ドアを開けると、心地よい風と日差しが家の中に入って来た。まず安藤はゆっくりと右足を外に踏み出す。土の感触が足の裏を通じて全身に広がった。
次に安藤は、左足を前に出す。
すると、安藤の全身が完全に外に出た。
「うおおおお!」
安藤は歓喜の叫び声を上げた。
何故、外に出れるようになったのか、また何故、屋敷中の人形が一斉に倒れたのかは安藤には分からない。
(時間切れ?それとも何か別の理由が?)
だが、そんなことはどうでもいい。
これは、天が与えてくれた千載一遇のチャンスだ。
安藤は走り出した。一度も振り替えることなく、前へ、前へと……。
***
それからは安藤は、ひたすら走った。
時計もないので、どれぐらい走ったのかも分からない。時間の感覚もなく安藤は走り続けた。
「はぁ、はぁ……くそっ!」
しかし、走れども走れども、安藤は誰一人として人に会うことはなかった。
だが、それも当然の事だった。
安藤は今、巨大な森の中にいるだから。
菱谷の巨大な屋敷は、周囲を森に囲まれていた。
もちろん、安藤もそのことは知っている。だが、走れば直ぐに森の中から出ることが出来ると思っていた。
しかし、その考えは甘かった。
菱谷の屋敷から街まで一応整備されている道はある。しかし、何度も分岐していたり大きく曲がっていたりしていたため、安藤は道に迷ってしまっていた。
安藤は菱谷の屋敷に連れて来られてきた時や、菱谷と共に外に出た時に森の中を通ったことはある。
しかし、馬車で揺られたり、魔法で移動していたため、正確にな道順を覚えることができなかったのだ。
(マズイ、日が傾きかけてきた……)
夜の森は危険だ。それは異世界でも変わらない。
(何とか……街まで)
だが、ペース配分も考えず、水も取らず此処までほぼ全速力で走って来た安藤の体力は、限界に近づいていた。足は重く、もう走ることは出来ない。
安藤は足を引きずるように歩く。しかし、時間は待ってくれない。
やがて完全に日が沈み、夜が訪れた。
「くっ……!」
安藤は歩みを止めた。月明かり一つない夜は、まさに完全な闇。
数メートル先すら見ることが出来ない。
「くそ、くそ、くそ……」
安藤は辺りを見渡す。しかし、最早自分がどちらの方向を向いているのかすらあやふやとなっていた。
「畜生……」
ついに安藤はその場に腰を落としてしまった。凄まじい眠気が襲ってくる。
座り込んだ安藤は、静かに目を閉じた。
「先輩」
安藤の耳元で声がした。その声は、まぎれもなく菱谷の声だった。
「ひっ……!」
思わず安藤は、目を見開き、その場から飛びのいた。
(ど、どこだ!?)
安藤は菱谷の姿を探す。しかし、菱谷の姿はどこにもない。
「先輩『私が帰ってくるまで、絶対に家の外に出ないでくださいね』って言いましたよね?」
また、耳元で声がした。
「ひ、菱谷!?どこだ!?どこにいる!?」
安藤は叫びながら菱谷の姿を探す。しかし、どこを探しても菱谷の姿は見えない。
「絶対に許しませんよ」
「ひぃ!」
安藤は地面に身を伏せる。そして、自分がこれから受ける罰を想像し、体をガタガタと震わせた。
しかし、いつまで経っても、何も起こらない。安藤はゆっくりと顔を上げた。
相変わらず、菱谷の姿は見えない。
もしかして……と、安藤は思う。
「幻聴……だったのか?」
夜の闇。それは、菱谷の影の中を思い出させた。菱谷に対する恐怖が安藤に幻聴を起こさせたのだ。
「ダ、ダメだ。こ、このままじゃ、おかしくなる……」
幻聴に惑わされ、もし、道から足を踏み出してしまったら……。
安藤の脳裏に「死」の一文字が浮かんだ。
その時、バンという音と共に、安藤の体を凄まじい衝撃と痛みが襲った。
「ぐあああ!」
あまりの痛みに、安藤はその場に倒れた。しばらくの間動くことが出来ずに、その場をのた打ち回る。
痛みが引き、やっと起き上がることが出来たのは、それから二十分以上経ってからのことだった。
「何だ?今の……」
安藤は自分の体を触る。しかし、どこにも傷はない。
幻聴の後は、幻痛が襲ってきたとてもいうのだろうか?
しかし、安藤は今の痛みに覚えがあった。あの痛みは、前にも感じたことがある。
「あ……ああっ!」
安藤は思い出した。さっきの痛みが何なのか。
あれは、安藤が死んだ時の痛みだった。
***
『トラックに人が跳ねられたぞ!』
『救急車を!早く!』
人々の慌てふためく声を、安藤は地面に倒れながら聞いていた。
トラックに跳ねられた時、安藤は即死していなかった。
一度は意識を失ったものの、安藤はその後、目を覚ましていた。
体はズタズタで、誰がどう見ても助かる見込みはなかったが、それでも安藤には意識があった。
(い、痛ぇ……いてぇ)
体は動かない。だが、凄まじい痛みだけは安藤を襲い続けていた。
『うっ……これは』
『ダメだろ……』
『ああ、ありゃ死んだわ』
野次馬が写真を撮りながら、そんなことを言っている。
(し、死ぬ?お、俺は……死ぬの……か?)
言いようのない恐怖が、安藤を暗く包み込む。
(い、嫌だ。死にたくない。死にたくない!)
自分の存在がこの世から消えることがたまらなく、怖い。
(だ、誰か……誰か……助けて)
安藤は必死に願う。しかし、その願いを聞く者は誰もいない。
ふと、誰かが安藤の腕を掴んだ。
(だ、誰だ?)
安藤は目の端で、自分の腕を掴んだ人間を見る。
その人間は、半分潰れた顔で幸せそうに笑っていた。
「せん……ぱい」
ズタズタの体を引きずりながら、その人間は安藤に覆い被さる。
安藤の耳には、やっと来た救急車の音も、野次馬の声も聞こえない。だが、耳元でそっと囁かれた声だけは、はっきりと聞こえた。
「先輩は、これで永遠に私のもの」
菱谷は、そう言って、ニヤリと笑った。
***
「うわああああああ!」
死んだ時の記憶を思い出した安藤は絶叫する。
どうして、今まで忘れていたのだ。あの苦痛を、あの恐怖を……。
きっと、あまりのショックで忘れていたのだろう。だが、暗闇により増幅した恐怖が記憶の扉を無理やりこじ開けてしまったのだ。
「い、嫌だ……嫌だ!」
安藤は頭を抱える。
「死ぬのは、嫌だ!」
もう、あんな思いをするのは嫌だ。もう、あんな苦痛を味わうのは嫌だ。もうあんな、恐怖を味わうのは嫌だ。
「あああああ!」
安藤は泣き叫びながら、頭を何度も振り続けた。
すると……。
「えっ?」
死の恐怖に震えていた安藤だったが、あるものが目に留まり、動きを止めた。
「……明かり?」
森の向こうに薄らと明かりが見えたのだ。
ホタルなどの明かりではない。家の、民家の明かりだった。
次の瞬間、安藤は走り出していた。
道があるとはいえ、何も見えない夜の森を走る行為はとても危険だ。
しかし、安藤は走った。もしかしたら、あれは幻覚かもしれない。安藤の心が見せた都合の良い幻かもしれない。
だが、安藤は走った。幻覚か、本物かなど考える余裕は、今の安藤にはない。
明かりに群がる虫のように、安藤は一直線にその光に向かって走った。
そして、安藤はその光に辿りつく。
その光は、幻覚などではなかった。紛れもない現実。
本物の民家から漏れ出る光だった。
「やった……」
安藤の目から歓喜の涙が流れる。安藤は民家のドアの前に立つと、力を込めてドアを叩こうとした。
しかし、その手がピタリと止まる。
(いいのか?本当にいいのか?)
安藤の脳裏に、菱谷によって殺された人々の顔が蘇った。
(もし、あいつに俺が此処にいることがバレたら……あいつはきっと、この家の人を……)
だが、此処で助けを求めなければ、安藤は確実に死ぬ。
(死ぬのは嫌だ。もう、死ぬのは……だけど……)
家の前に立ったまま、安藤は動けず固まってしまった。
どれくらい、そうしていただろう。長い時間だったような気もするし、短い時間だったような気もする。
すると、中からドアが開いた。
開いたドアの前にいは一人の男性が立っていた。
男性は、ドアの前にいた安藤を不思議そうな目で見る。
「こんな夜更けに、どうかしましたか?」
男性の顔を見た瞬間、気付けば、安藤は男性に頭を下げ、叫んでいた。
「助けて下さい!」
安藤は涙を流しながら、叫ぶ。
「俺を……助けてください!」
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