第15話 留守番
「早く、早く、早く……」
遠くへ、とにかく、遠くへ。
安藤は走る。全速力で。
呼吸は苦しく、心臓は大きく脈打ち、今にも破裂しそうだ。
足には疲労が溜り、筋肉と骨が悲鳴を上げている。
しかし、それでも安藤は走る。
やっと、やっと巡ってきたチャンス。これを逃すわけにはいかない。
安藤は走った。暗い道を全力で。
***
「先輩!先輩!」
「うっ……く……ひ、菱谷……頼む。もう、やめ……くっ!」
抵抗できない安藤は、菱谷に成すがままにされる。
その晩、眠っていた安藤の部屋に菱谷がやって来た。菱谷は安藤を起こすと、耳元でそっと囁いた。
『先輩、すみませんが少しの間、隠れていて下さい』
菱谷がそう言った瞬間、安藤は菱谷の影の中に引きずり込まれていた。
そこは真っ暗な闇だった。その闇の中で、何かが蠢いた気もしたが、それを確認する前に、安藤の意識は消えた。
安藤が、目を覚ますと菱谷が自分に覆いかぶさり、自分の唇を奪っていた。とっさに引き剥がそうとしたが、菱谷は離れない。
「『力を抜いて、動かないでください』」
菱谷が囁く。すると、安藤の腕から力が抜けた。
(くそ……また……か)
安藤は抵抗するのを諦めた。何度も魔法に掛けれられている内に、理解していた。こうなってしまえば、菱谷の方が止めるのをひたすら待つしかないことに。
しかし、その日は、いつも以上に菱谷は安藤を求めてきた。
そのあまりの激しさに、安藤の体力が尽きかける。だが、その度に菱谷は安藤に回復魔法を掛けた。体力の戻った安藤の体を菱谷は再び求める。
何度も、何度もそれを繰り返した。
「菱谷……た、頼む。頼むから、もう、やめて……くれ!」
「嫌です」
安藤の懇願を菱谷は無視する。菱谷は同じ言葉を安藤の耳元で繰り返し、囁き続けた。
「先輩は、私の物です」
夜が明け、朝が来て昼になり、また夜が来ても菱谷は安藤を求め続けた。
***
「おはようございます。先輩」
安藤が目を覚ますと菱谷の顔が目と鼻の先にあった。
「朝ごはん、出来てますよ」
菱谷はそう言うと、一階に下りて行った。安藤は機械的な動きで服を着ると、菱谷に続いて部屋を出た。
「おいしいですね。先輩」
「……」
楽しそうに話す菱谷とは対照的に、安藤は何も喋らず、黙々と目の前にあるスープを口に運び続けた。
テーブルの上には、豪華な食事が並んでいる。だが、何を食べても味がしない。
安藤の体力は菱谷の魔法によって一応、回復はしている。だが、昼夜を問わず体を求められたことによる精神的な疲労は回復していなかった。
今は、食事をとることで精一杯で、菱谷の話を聞く余裕はなかった。
「それでですね。先輩、実は……」
菱谷は少し言いづらそうに口を開いた。
「しばらくの間、家で留守番をしていて欲しいのです」
「え……?」
安藤は、勢いよく顔を上げた。菱谷の一言で、安藤の意識は戻される。
「留守……番?」
「はい。私は、これから用事がありまして出掛けなければいけません。その間、家で待っていて欲しいのです」
安藤は呆然と、菱谷を見ていた。
これまで、安藤がこの屋敷に来てから菱谷が外に出たことは何度もある。しかし、その度に必ず安藤も一緒に連れて行っていた。仕事であろうが、私用であろうが必ず。
菱谷が安藤を屋敷に置いて、一人だけでどこかに行くのは、これが初めての事だった。
(逃げられる)
安藤の脳裏に『逃亡』の二文字が浮かんだ。
「先輩、どうかしましたか?」
「……い、いや、なんでもない」
安藤は体の底から湧いてきた歓喜をグッと堪えた。
緩んだ表情を見せれば、菱谷は外出を止めるか、安藤も一緒に連れて行こうとするかもしれない。
「お前が、俺を置いてどこかに行くのは初めてだから、驚いただけだ」
喜びの感情を抑えながら、安藤は淡々と言う。
「そうですね……とても、残念です。でも、今回は先輩を連れて行くことは、絶対できないんです」
「どうして?」
「……」
菱谷は安藤をじっと見た。
「先輩……先輩は私がいなくなったら、悲しいですよね?」
「あ、ああ。も、もちろん、悲しい」
安藤は必死に笑顔を作る。
「私も悲しいです」
菱谷は、下を向いて溜息を吐く。
「先輩と離れるなんて、先輩が傍にいなんて、そんなの……そんなの」
菱谷は、ガックリと下を向いた。どうやら、本気で落ち込んでいるようだった。
その姿に、安藤の心がチクリと痛む。
「ひした……」
「……るな」
「え?」
菱谷が何かを呟k。しかし、声が小さすぎてよく聞こえなかった。
「菱谷、今、なんて……」
突然、菱谷はバン!とテーブルを勢いよく叩いた。
「ふざけるな!」
「―――ッ!?」
菱谷の叫びが屋敷中に広がる。驚いた安藤は思わず、口を噤んだ。
「何で、何で先輩と離れなくちゃいけないんだ。くそが!」
菱谷の体から黒い影が広がる。屋敷中がガタガタと震え始めた。
『くそったれが!』
『ちくしょう!』
『ふざけんな!』
「なっ!?」
屋敷中から声が聞こえた。安藤は目を大きく見開く。それは、安藤自身の声だったからだ。
屋敷の中に飾ってある無数の安藤の絵が口々に汚い言葉を罵っていた。
『どうしてだ!』
『何でだよ!』
『畜生が!』
『ふざけやがって!』
『あの野郎!』
安藤の絵は、安藤の声で叫び続ける。
異変は、テーブルに置いてある食材にも起きていた。
スープは赤く変色し、沸騰しているかのように泡立ち始め、果物や野菜は腐り、肉はまるで、生きているかのように飛び跳ねだした。
「くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそが!」
菱谷は自分の髪を無造作にかき乱す。
「あいつのせいだ。あいつのせいだ。あいつのせいだ。あいつのせいだ。あいつのせいだ。あいつのせいだ。あいつのせいだ。あいつのせいだ。あいつのせいだ。あいつのせいだ。いつも、いつも私の邪魔を……絶対、絶対、絶対、絶対、絶対、絶対、絶対、絶対……」
許すものか。
恐ろしく、低い声で菱谷はそう言った。
不意に、屋敷中に広がっていた影が消えた。
すると、安藤の絵は口を閉じ始めた。泡立っていたスープも、腐ったはずの果物や野菜も元に戻った。生きているかのように飛び跳ねていた肉も、今は何事もなかったかのように、大人しく皿の上に収まっている。
「すみません、先輩。ちょっと興奮しちゃって。私と会えなくて悲しいのは、先輩も同じなのに……」
「い、いや……べ、別に……き、気にしてない」
ガタガタと震える手を隠しながら、安藤は平静を装う。
「そ、それで?お、俺はどれくらい待っていればいいんだ?」
「そうですね……」
菱谷は顎に手を当てながら、少し間、考える。
「三日……といった所でしょうか」
「三日……三日か」
「はい。申し訳ありませんが先輩。それまで、待っていてくれますか?」
「も、もちろん!」
安藤は心の中で「よし!」と叫んだ。
菱谷はどんな用事で出掛けるのか、どうして、自分を連れて行こうとしないのか。
少し気になるが、そんなことはどうでもいい。三日もあれば、逃げ出すチャンスはある!
そう思っていた時だ。
「ああ、そうだ。先輩」
菱谷がニコリと微笑みかけてきた。
「『私が帰ってくるまで、絶対に家の外に出ないでくださいね』」
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