第7話 もういい
「お、おま……お前、何やってるんだよ」
「何がですか?」
菱谷は不思議そうに首を傾げる。
「おまえ……お前、い、今、ひ、人を……」
安藤は血まみれで倒れている店主を指さす。
キョトンとしていた菱谷が「あっ」と声を漏らした。
「そうですよね。すみません」
菱谷は申し訳なさそうに謝罪する。
「このままじゃ、汚いですよね」
「え?」
菱谷はパチンと指を鳴らした。菱谷の影がグニャリと歪む。
菱谷の影は、大きく伸び、床に転がっている店主の死体を覆う。すると店主の死体が床に沈み始めた。
いや、違う。
菱谷の影が店主の死体を『喰って』いるのだ。
まるで蛇のごとく、店主の死体は菱谷の影に飲み込まれていく。
さらに周囲に飛び散った血も、菱谷の影に集まり、吸い込まれていく。
10秒もしない内に、店主の死体と周りに飛び散った血は跡かたもなく消え去った。菱谷の影は「ゲフッ」と声を漏らすと、元の形に戻る。
「綺麗になりましたよ。先輩」
菱谷はニコリとほほ笑む。
「さぁ、デートの続きをしましょう!」
***
「うわあああああああああああ!」
宝石店を飛び出した安藤は、街を走った。行く当てなどない。それでも走る。
(人を……あいつ、人を殺しやがった!)
あっさりと、しかもなんの罪悪感もなく。
(逃げなきゃ、逃げなきゃ!)
雑踏をかき分け、安藤は走る。
「おい、あれ……」
「魔女と一緒にいた……」
「なんで、一人?」
周囲の人間が皆、安藤に注目する。
「あっ……」
人にぶつかった安藤は、その場に倒れる。
「おっと、悪いな。兄ちゃん」
安藤がぶつかったのは、とても体格の良い男だった。体格の良い男は、倒れている安藤に手を伸ばす。
「大丈夫か?」
「あっ、はい。だ、大丈夫です。こちらこそすみませんでした」
安藤は差し出された手に掴まり、立ち上がる。
「悪かったな……あれ?アンタ……ひっ!」
安藤の顔を正面から見た体格の良い男は、途端に怯え始める。
「あ、あんた。ま、魔女の仲間か!」
「え?……あ、ち、違います。お、俺は!」
安藤は慌てて否定する。
「嘘をつけ、魔女と一緒に歩いていただろう!」
「そ、そうですが、俺は、あいつの仲間ではなく……」
「ひっ、ち、近づくな!」
体格の良い男は安藤を突き飛ばした。安藤はまたしても地面に転ぶ。
「あっ!」
男は、しまった。という顔をする。
「あ、あいつ。魔女の仲間を突き飛ばしたぞ」
「おい、まずいんじゃないか?」
「お、俺は知らないぞ。何も見てない」
「俺もだ。俺はたまたま此処にいただけだ。関係ない」
「俺も」
「私も」
周囲がざわつき始める。体格の良い男の顔がみるみる蒼ざめていく。
「す、すまねぇ。い、いや、す、すみませんでした!」
体格の良い男は倒れている安藤に慌てて手を伸ばす。
「た、大変、し、失礼なことをしました!」
差し出された男の手はブルブルと震えていた。
「あ、いえ、別に……」
安藤は先程と同じように体格の良い男の手を掴もうとした。だが、安藤がその手を掴む前に、体格の良い男は手を引いた。
「ひっ!」
体格の良い男が短い悲鳴を上げる。その視線の先にいたのは……。
「何をしているんですか?」
無表情の菱谷が静かに立っていた。
***
「ひっ!」
体格の良い男と同じく、安藤も短い悲鳴を上げた。
「酷いじゃないですか、先輩。急にいなくなるなんて……」
「や、やめろ。く、来るな!」
恐怖で足に力が入らない。安藤は地面に座ったまま、必死に手を振る。
「大丈夫ですよ、先輩。私、分かってますから」
「え?」
「私を驚かせて心配させたかったんでしょ?私がどれだけ先輩のことを愛しているのかを確かめるために……」
菱谷はニコリと笑う。
「違う!お、俺は……うんっ!?」
皆が見ている公衆の面前で、菱谷は安藤の口に自分の唇を重ねた。
「んんんんっ、んんんっ!!」
安藤は抵抗しようとする。しかし、菱谷が魔法を使っているのか、手が全く動かない。
「んんっ……はぁ」
決して短くない時間、安藤と口づけを交わした菱谷は、ゆっくりと唇を離した。
「大丈夫です。全部分かっていますから」
菱谷は、パチンと指を鳴らす。すると、目に見え何かが、倒れていた安藤を立ち上がらせた。
「さて……」
突然、菱谷の表情が変わる。凍った表情で菱谷は体格の良い男に視線を向けた。
「お前、よくも先輩を転ばせたな……」
菱谷は、体格の良い男にゆっくりと近づいて行く。
「も、も、申し訳ありません!」
体格の良い男は地面に頭をつけ、謝罪する。
「わ、わざとじゃないんです!ま、魔女の……い、いや、ヒシタニ様のお仲間だとは知らず……申し訳ございませんでした!」
体格の良い男がまるでネズミのように小さく見える。男にゆっくりと近づく菱谷を見て、安藤の脳裏に先程の店主の姿が浮かんだ。
「やめろ、菱谷!」
安藤は、体格の良い男と菱谷の間に割って入った。
「やめろ、菱谷!殺すな!」
「先輩……」
「頼む。この人を殺せないでくれ!お、俺は大丈夫だから!」
「先輩……」
「頼む!」
安藤は勢いよく、頭を下げる。
「先輩」
菱谷は安藤の肩にポンと手を置いた。
「頭を上げてください」
安藤が頭を上げると、菱谷はニコリと笑っていた。
「先輩は、やっぱり優しいですね」
「菱谷……」
柔らかな表情の菱谷を見て、安藤は、ほっと息を吐く。
「しかし、その男は許せません」
「えっ?」
「先輩を傷付けるなんて、絶対に許せません」
「菱谷!」
「『先輩は、そこで見ていてください』」
菱谷がそう言った瞬間、安藤の体は、その場から動けなくなった。菱谷は動けなくなった安藤の横を通り、体格の良い男の前に立つ。
「や、やめろ。やめてくれ!お、俺には……妻と二人の子供がいるんだ!」
「菱谷、やめろ!」
菱谷は、体格の良い男に人差し指を向け、何かを囁いた。
「やめてくれええええ!」
体格の良い男は両腕で自分の顔を覆う。
だが、菱谷は人差し指を下ろすと、クルリと体格の良い男に背を向けた。
「えっ?」
体格の良い男は、自分の顔から両手をどける。
「『もう、動いていいですよ』」
菱谷は固まっている安藤の耳にそっと囁いた。安藤の体に自由が戻る。
「行きましょう」
「あ、ああ」
安藤は菱谷の後に続く。
(良かった。なんとか、思い留まってくれたみたいだ)
安藤は後ろを振り向く。
そこに、体格の良い男はいなかった。
「えっ?」
安藤は慌てて周囲を探す。だが、体格の良い男はどこにもいない。
「助けてくれええええええ!」
突然、上から悲鳴が聞こえた。思わず上に視線を向けた安藤は息を飲む。
30メートル程上空に体格の良い男が浮かんでいた。
男は空中で手足をばたつかせている。
「たっ、助けてええええ!」
体格の良い男は必死に助けを求める。
「菱谷!」
安藤は菱谷の肩を掴んだ。すると、菱谷はボソリと何かを呟いた。
その瞬間、吊るしてあった糸を切られたかのごとく、空中に浮いていた体格の良い男が地面に落下した。
「うああああああああああああああああ」
グシャ。
上空30メートルから、地面に叩きつけられた男はピクリとも動かない。
周囲の人々が怯えた表情で地面に叩きつけられた死体を見る。そして、その表情のまま、ゆっくり菱谷と……安藤を見た。
「さぁ、先輩。次はどこに行きますか?」
菱谷は満面の笑みを安藤に向ける。安藤は力なく答えた。
「もういい。もう……帰ろう」
「そうですか。先輩がそう言うのなら、もう帰りましょうか」
菱谷は安藤の腕に自分の腕を絡ませ歩き出す。
人々から恐怖と、憎悪の目を一心に受け、安藤と菱谷は屋敷へと帰って行った。
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