PAGE.63「自由な日々(その1)」
涼しいというよりは冷たい。
肩の部分が妙に冷たい……いや、妙に風通しが良くて涼しい。
知らぬが仏という言葉。
面倒事に巻き込まれることは可能な限り回避し続けてきたラチェットにとっては強く胸に刻んでいる言葉である。
その言葉の意味。ラチェットは改めて思い知ったような気がした。
刃だ。
二本の刃がラチェットの肩を貫いている。刃には真っ赤な泥が塗られ、その刃を視認したかと思うと逃げるように瞬時に引っ込んだ。
「……ッ!?」
理解した。状況を理解した。
「うぐっ……がぁああッ!?」
それからは世界が爆発するかのような感覚が体にほとばしる。
引っ込んだ刃、入り交じり変動する肉のつなぎ目。妙な風通しの正体は内側の肉が外の世界に晒された証拠。
ラチェットはベッドに倒れ込み足掻き苦しむ。言葉にならない痛みにエイリアンの鳴き声のような呻き声を上げ続ける。それは最早、叫びというよりは嗚咽。あまりの痛さに頭痛と涙が止まらない。
これが、”刃を体に突き入れられる感覚”。
想像を絶する痛みだ。花瓶などの鈍器で頭を強く殴られる感覚なんかとは洒落にならない。
じわじわと追いつめていく……体と精神を破滅させかねない痛感が嵐の荒波のように何度も殴りつけてくる。
一度や二度ならず、その波はラッシュをかけてくる。身を守る隙さえも与えない地獄にラチェットは視界が遠のいてしまいそうになる。
「うぐっ……くぅう!!」
だが、耐える。
ランプだけで照らされた部屋は明るさを取り戻している。涼しくなった部屋を見渡すと、ラチェットは自身に傷をつけた犯人の正体を視認した。
“ハミング”だ。
血の付いたカギヅメを地に下ろし、何事もないような目で見下ろしている。
「遅いぞ。この役立たずのゴミが」
助けてもらったというのにこの始末。内心ではかなり焦っていたかのように吐き出される言葉から、ラチェットは事を理解した。
……命令したのか。
すぐに戻ってきて侵入者を排除するように指示を送ったのか。
外にいる少女はスカルたちが必死に取り押さえている。いくら命令を送ろうにも援護に来ることはないが……このハミングはアタリスが取り逃がしてしまったか。
体が酷く火傷まみれだ。
逃げないように炎をバラまきまくったのだろうが、殺さない程度の妨害は彼の前では無意味だったという事だ。
「クソがっ……!」
何としてでも資料を皆に届けなければならない。
だが、そんな余裕さえないラチェットは立ち上がる気力を失い続ける。
うずくまるだけという惨めな姿を晒してしまう。
「さてと、もういい」
村長の指示に従い、ハミングはそっと部屋の片隅に移動する。
「その面を何度も潰してやりたいと思ったんだ……俺の顔に傷をつけた、そのムカつく面をなぁっ!」
うずくまっていたラチェットの体を村長は勢いよく蹴り飛ばす。
立ち上がる気力すら残っていないラチェットの体に容赦なく仕返しの蹴りが何度も撃ち込まれる。
今も尚、安らぐことのない肩の傷。止まらない出血を目の前にしようと、小太りの男は何度も何度も少年の体に蹴りを入れる。
「いいねぇ! いいじゃん、その姿っ!」
村長はラチェットの腹を幾度となく殴る。
ただ殺すだけでは飽き足らない。気持ちが晴れるまで痛めつけないと気が済まないのか、殴るたびにその鬱憤が晴らされていく。
これだけの出血なのだから治療さえしなければ何れ死ぬ。少年も死んでたまるかと必死にこらえる。
ならば容赦なく死に絶えるまでその体を痛めつけてやらんと安息の瞬間さえもこの男は与えない。もう口を開くことさえも嫌にしてやるほど、足を腹に減り込ませる。
……ラチェットは抵抗すら出来ない。
ただ、その暴力を受け入れ続けることしか出来なかった。
「ほらほら、何とか言ってみろよ?」
「……だったら、一つだけアル」
臓器が潰れそうだ。心臓や胃、過剰なまでの殴打を受け続けたラチェットの声は死にかけの虫の羽音のように掠れている。
それでもなお、彼はいつもの減らず口を畳もうとはしない。
「……ああ、そうダ。お前の言う通り、人形計画とやらで商売をしようとしたことは知ってイル……お前、子供にこんな仕打ちをして、何か思わない、」
「思うわけないだろ?」
即答する。
ラチェットの質問の合間に口を挟む。
「だって、“こんなの”元から人間じゃねーんだぜ? そんなのにどうして可哀想って思わないといけないわけよ?」
ただ立ったままのハミングの頭に手を乗せる。
「……むしろ、感謝されてほしいくらいだぜ? 俺はこんなクソの存在価値もないゴミに生きる価値を与えてやってるんだぞ?」
執拗以上に撫でまわす。
それは人間を褒めるというよりは……動物を扱うように乱雑だ。
「俺はコイツらに価値を与えてやってるんだよ!! 俺はコイツらにとっては神も同然だ!! そんな俺がコイツらどうにかしようと勝手だろうがっ!?」
手を離す。
あまりにも薄汚れた手。その魔の手にかかってしまったハミングという名の少年。
……泣いている。
感情を失っているはずのハミングの片目からは、雫が一粒溢れていた。
「お前……」
ラチェットは心の底から声を上げる。
「お前……本当に人間かヨ……ッ!!」
ここまでのクソ野郎は初めてだった。
まるで、かつての父親も見ているような気分だった。
ただ、子供を自分の都合の良い道具としてしか使わない。子供の未来を自身の未来のために悪用しぶっ潰す。
___ここまで反吐が飛び出しそうになったのは、いつ以来だ。
「相変わらず、ヒーロー気取りかよ。このクソガキっ!!」
小太りの蹴り。革靴による頑丈な蹴りがラチェットの首を捕らえる。
その衝撃で仮面が飛んでしまう。
見られたくない姿を晒してしまう。
「おお? おいおい……」
興味良さげに村長はラチェットの髪の毛を握り、顔を近づける。
「顔を傷つけてやろうと思ったが……既に傷ついていたとはな? 随分とオシャレさんじゃねぇか!」
彼の前では顔面の傷の話はタブーである。村長はそれを知る由はない。
だが、知っていても同じような事をしていただろう。
嫌がることをエゲつなく繰り返し、その心が崩壊するまで叩きつける。
「でも、その傷だけじゃお洒落には程遠いだろぉ~? 俺がもっとお洒落にしてやるよ!」
パンチが顔面にめり込んだ。
鼻が潰れたような感覚がした。傷の目立つ顔面は内出血と鼻血で更に酷い有様へと成り果てていく。
「ほらほら、何か言ってみろよ、ええ? もう何も言えないかなぁ!? カッコのつかない、クソの役にも立たない子供がよッ!!」
膝の蹴りがラチェットの顔面の正面に入った。
意識が飛びそうだった。その一撃で完全に脳内の何かが吹っ飛びかける。
……かろうじて。
かろうじてだ。ラチェットはギリギリで意識を保つ。
「……無様、だナァ」
ボロ雑巾のように傷つけられていくラチェットは小さく呟く。
「ああ、そうだよなぁ~! 何にもできないお子様ほど、惨めなものはないよなぁ~!?」
ようやく負けを認めたかと村長は大笑いする。
屈服させた。あの苛立つ少年の心を折ることが出来た。これだけの快感が今までにあっただろうかと笑みを浮かべている。
「お前は充分に遊んでから、殺してやる……!」
絵画に出てくるような悪魔の笑みは胸に邪悪を宿らせる。
屈服はさせたがまだ満足はしていない。心が壊れたのなら、今度はその体が壊れるまで痛めつけるだけだと次の暴力に取り掛かろうとしていた。
「……惨めダ」
ラチェットは口を開く。
「お前は本当に惨めな奴だナ……!!」
ラチェットも笑みを浮かべている。
顔は傷と涙で埋もれている。だが、その挑発じみた表情は今も変わらない。
「力のないお子様を痛めつけることでしか快感を覚えられないなんて……ノミのように小さい奴だヨ、お前……”お前なんかと一緒にしたく”はないが、その小ささ……俺と大して、変わらねぇ……いいや、俺以下だッ……!」
折れていない。
彼の敵意は未だに消えていない。
まだ、“屈服”していない……!
「お前はド最低に惨めだっ……! 今まで見てきたどんな大人よりも……ノミが可愛くみえるくらい惨めで可哀想なヤツだナっ!!」
「野郎ッッ!!」
最早生かしておく理由もなくなった。村長の中で理性が完全に消えてなくなった。
ぶっ殺す。その顔面の頭蓋骨も脳も何もかもを砕くまで殴り続けてやる。徹底的にぶっ壊してやる。
殺意しか籠らなくなった拳がラチェットに近寄っていた。
瞬間。
空間を引き裂く轟音が鳴り響く。
拳は彼の寸前で止まる。
銃声だ。部屋に銃声がこだました。
たった一発の銃声が、その空間の時間を静止させた。
「お前のような奴に殺されるのだけハ……真っ平御免だナ……!」
ラチェットの手元には麻酔銃がチラついている。
うずくまっているあの瞬間。一心不乱に拳銃を取り出したのだ。この男に武器を取り出したのがバレない様にこっそりと。
「こんな幼稚な挑発程度でキレやがって……本当に小せぇ、奴ダ……」
心臓をとらえた弾丸。催眠薬が一瞬で体全体に広がっていく。
……男は軽い痙攣を起こした後に、気を失った。
「これで……ひとまずハ」
村長が気を失った直後。
“人形と化したハミングも同時に気を失った”。
そうだ。元に戻す方法は分からないが、彼らを止める方法は思いついていた。
人形と化した少年少女は村長の命令で動いている。つまりは、村長の思考が停止すれば、この人形たちの思考もシャットダウンすることになる。
村長が気を失った事で、ハミングも気を失った。
「……っ! 小僧!」
窓からアタリスが部屋に入ってくる。
「無事か!?」
「うるせぇヨ……何、獲物逃がしてるんだヨ……おかげでこのザマだ」
「……大丈夫ではない、か」
アタリスは近くのベッドのシーツを引きちぎる。
大量出血による即死だけは避けようと応急処置をその場で始めた。
「ラチェット!?」
「おい! 何があった!?」
村長の思考が止まったことにより、外で足止めしていた半魔族の少女も連動して気絶したようである。
「……やべェ、眠い」
意識をこらえていたが限界だ。ラチェットは瞼をゆっくりと閉じてしまう。
「ラチェット!! ラチェットッ!!」
「おい起きろ!」
これだけ騒音が響いているというのに、体は言うことを聞いてくれない。目覚まし時計としては使えそうにない騒音だ。
___もう限界だ。
ラチェットの意識は闇に飲み込まれていった。
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