4-1  ラチェット・レンチの少年①



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 コーテナのあの目つきが不愉快だった。

 幸せが欲しいと願いながらも、その幸せを手放す行為が理解できなかった。

 誰だって幸せを求めるものだろう。心の奥底でずっと。

 だというのに彼女はなぜ、自身以外の幸せを優先したというのか。


 イライラした。腹が立った。

 ラチェットはその目を見るたびに思い出した。


 あの地獄の日々を。



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 ----彼が小学生の年齢だった頃の話だ。今でもその頃の記憶は鮮明に残っている。

 きっと死を迎える瞬間までこびりついて剥がれないであろう呪いの記憶だった。粘着性の高いペンキで塗りたくられたような油まみれの記憶だった。


『お父さんはいません』

 少年時代。まだ掛け算や割り算に最小公倍数など……一般常識としては常識も常識の問題を学ぶ頃の年齢だったころの話である。


『お父さんは出かけてます。お父さんはいません』

 少年は学園の風景を漫画やドラマでしか見たことがなかった。

 どこにでもあるような団地街で父親と二人で過ごしていた少年時代だった。


『ですので、お父さんはいません』

 部屋の中はカップ麺の容器の束や捨てられていないゴミ袋の山。

 唯一整理されている茶の間のテーブルの上には山のように積み重なったタバコの吸い殻の入った灰皿。ヤニ臭い。呼吸をすれば肺を刺激する匂いが支配する空間。


『お父さんはいません。本当にいません』

 彼はその空間で数年を生きてきた。


 ----少年の目の前の風景は常に二つの色でしか形成されていなかった。


 昭和時代のブラウン管テレビや遺影を思わせるような灰色グレイ・カラー、夕暮れも顔負けの真っ赤な色。その二つの色だけが彼の目に映る風景を彩色している。

 これだけ散らかっているのに殺風景。薄暗く白黒モノクロな世界に少年はいた。その目は酷く濁っていた。


『お父さんはいません。お仕事に行ってます』

 少年は電話を手に取っている。置き型の電話の子機だった。

『お父さんはいません。お仕事に行ってます』

 受話器を手に取って同じような言葉を何度も口にする。保険会社などのコールセンターのナビゲートのように。

『お父さんはいません。お仕事に行ってます』

 ずっとその言葉だけを口にする。それ以外の言葉を吐けば何かが起きるのだろうかと言わんばかり……虚ろな目つきでその言葉だけを連呼する。

『お父さんはいません。お仕事に行っています』

 もし、それ以外の言葉を口にしたのなら……




 



 市販で購入したカップ酒を片手に顔を真っ赤にした父親の拳が何度か目に入る。タバコと酒の匂いにまみれた中年男が鼻息を荒くして、少年をじっと見ている。




『お父さんはいません、お仕事に、』

 彼が同じ言葉を十二回ほど呟いた直後。通話時間が四分を越える寸前で向こう側から電話を一方的に切ってくれた。

「……電話、切られちゃったよ?」

「よし良い子だ。食え」

 四割引きのシールが張られたマヨネーズの菓子パンを渡される。

 これが今日の晩御飯。賞味期限は二日ほど切れている。

 冷蔵庫にも放り込んでいなかったマヨネーズパンは腐りかけ始め、酸っぱい匂いが袋の外に漏れつつある。

「……いただきます」

 彼は腐りかけのパンをゴミの山の真ん中で一人黙々と食べている。口の中でギットギトの酸っぱい匂いがこびりついて気持ちが悪い。

「……お仕事、行かないの?」

 食事を食べながら少年は周りの世界を黙視する。

 いつからだろうか。そのすべてが何の色もないグレイに染まり始めたのは----

「いたっ!」

 少年の頭に何かがぶつかる。

 捨てられていないカップ麺の容器に住みついていたゴキブリが飛び出し滑空。沿線上にいた彼の頬にたまたまぶつかってしまったようだ。小石をぶつけられたような感覚に少年は思わず声を上げる。

「声を出すなつってんだろォがよォ~」

 小さな声で怒鳴ってきた父親の声。


 -----そして幼子の頬を殴打する鈍い音。

(あぁ、まただ)

 グレー一色だった風景が今度は赤色に染まった。

(また、まっかっかだ)

 かき氷のいちごシロップのように生々しい透明な赤。どこかスライム状に粘り気のあるドロドロとした赤色がつまらない世界に染まった少年の視界に彩りを加える。真っ赤っか。風景が何一つ見えない赤一色の世界に。


 ……少年は最悪な親の手によって生まれた。

 

 母親は父親の出来ちゃった婚により妊娠。

 母親は非合理な方法で営業されていた風俗の女性。未成年でお金目当ての売春婦だった。父親は何処で働いているかもわからないヤツで、ダメだと言われているのに本番行為でその女を孕ませた。

 母親は特にタイプでもないこの男とは一時の間だけは過ごしていた。体だけの関係という愛も何もない関係上で、金だけを求めて。


(どうして、どうしてぼくはがっこうにいかないんだろう)

 生まれたときにつけられた名前。

 雑誌とか建物など、たまたま見えた風景から勝手にとってつけられた名前だったのは今でも覚えている。愛も何もないクソみたいな名前だ。

(どうしてぼくはおともだちとあそべないんだろう)

 彼が生まれてから四年後。母親は彼を置いて、通帳などある程度のお金のみを回収して家から姿を消した。母親も母親だったのだ。子供を捨て、夫も捨てて金だけを手に入れた。

 

 -----それから地獄のような日々は続いた。


 父親は元より、救いようのないクソ野郎だった。

 昼からロクに働きもせず競馬やパチンコに没頭し、昼は酒を片手に街を徘徊し豪遊するなど面倒にも程がある社会不適合者。屈指のサイコ・パス。

 自身の処遇についての話になると、『とことん良い会社に出会えない』、『働くにしても環境が悪い』など外を言い訳にする徹底ぶり。自分を棚に上げている。


 働いていない彼の資金はどこから来たかと思えば、亡くなった母親の保険金を利用していた事も判明。昼間から仕事をしていないクソ野郎が生き残るための唯一の資金源であった。

 ところがその保険金の貯蓄も限界が近づき、保険や電気ガス代などの滞納も続く。支払いは家賃のみと最低限の生活を繋ぐところにのみ。水道などは既に止まっており、ライフラインは手が届かぬ位置になりつつあった。


 先程の電話も保険会社からの滞納のお知らせだった。

 携帯電話は未払いのため利用不可能。となれば電話は自宅の置き電話にしか来るはずがない。少年はそれから逃げるためのナビゲートとして使われているだけ。都合のよい火除けグッズとして利用されているだけだった。


「まずいな、くそっ」

 父親の舌打ちが聞こえる。滞納も既に一年近く続いている。

 電気ガス代などの未払いも続くなど、これ以上生活を繋ぐには資金は底をつき掛けていた。

「……そろそろ逃げるかっ。これ以上はごまかせねぇ」

 業者の大人たちがこの家に乗り込み始めてもおかしくはない。お金がゼロ寸前のこの大人にどうしようもできる状況じゃなくなるのだ。となれば逃げるしかない。

「ガキは……捨てるかァ。連れてきて邪魔だしな」

 最早、餌を与える金すらも勿体ない。子供は破棄する。ゴミとして一緒に置いておくかと吐き捨てた。

「明日辺りにでも飛び出すか……いや、待てよ」

 頭から血を流し倒れている少年は今も父親の言葉に耳を傾けている。

 ----聞こえてくる。父親の本音が常に耳に通ってくる。

「子供を残すのはまずいか……喋られると厄介だし。念には念を入れてって言葉があるんだしなァ~……!」

 物騒な言葉。父親の目つきが怪しく光る。父親はゴルフクラブを手に取る。

 ゆっくりと横たわる自分の元に近寄ってくる。

「やっとくか? あぁ、やっといた方がいいだろ。別にいらネェし」

 ----殺される。

 散々利用された挙句に殺される。

 

「……やだ」

 少年はボソッと口にした。

「いやだ。いやだ」

 ----

 最も望むワガママを父親に対して口にした。

 こんなにも頑張ったのに。なぜ何一つ報われずに死ななければならないのだ。

「駄目に決まってるだろうがッ!」

 しかし、父は躊躇なくゴルフクラブを斧のように振りかぶった。

「お前に生きる資格なんてねェんだよォオオ!! 俺のためにィッ! 俺の命のために死ぬ義務だけが存在してるんだァアアッ!!」

 終わる。全てが終わる。そう感じた。

 真っ赤な風景の先に見える父親のシルエットが霞んで見えてきた。



「いたっ!?」

 殺意で固まったシルエットが突如揺れる。姿勢を崩して揺らめいている。

 ----ゴキブリだ。場所を変えようと移動したゴキブリが今度は父親の顔に命中した。小石をぶつけられたような感覚に見舞われた父親はゴルフクラブ片手に目を閉じてしまう。本当に、それは本当に偶然の事だった。

「おおぁわーーーーっ!?」

 床に落ちていた腐りかけのマヨネーズパン。それを踏んだと同時、父親は間抜けにも豪快に滑る。父親は壁に頭をぶつけ、その痛みに耐えきれずゴルフクラブを手放して唸り始める。

「いてぇ……いてぇよぉ~」

 頭にタンコブが出来た程度の痛みである。しかしそれよりも腰が痛む。立ち上がるには少しばかり時間がかかりそうだ。父親は自分にそう甘えつつ、ゆっくりと目を開けていた。




「……え?」

 目を開けた先には”ゴルフクラブを構える少年の姿”。

「おい待て。何をして」

 父親は途端に顔を引きつらせる。

「しね」

 少年の口から出てきた言葉はもはや人間のものとは思えなかった。

 地獄の底からやってきた……

「待てやめろッ! おいっ!! 誰がお前を育ててやったと思ってんだッ……子供がっ! 親を殺すのかッ!? そいつはおかしい話だろうがァアーーーッ!!」

「----うぁああああああッ!!」

 少年は凶器を振り下ろした。

 ゴルフクラブが勢いよく父親の顔にめり込む。

「うぐぁあっ……!?」

 ぶつかったのは左眼球。骨が砕けるような音も響き鮮血が噴き荒れる。

「ッ! ァッ!! アァアッ……ッ!!」

 少年は人間のものとは思えない声を上げながら何度もゴルフクラブを父親の顔面に殴りつける。骨がつぶれる音が次第に肉を潰すような音に変わり始める。

 少年には最早理性がない。彼の中で何かが壊れてしまっていた。決定的なリミッターが外れてしまっていた。

「まっ……までぁっ、あぐっ、ぐごっ、おごっ……ぼぼぼっ…----」

「しねっ、しねっ、しねッ!!しねぇえッ!!死ねェエエッ!」

 左の眼が潰れたら右の眼も潰れだし、鼻も口も、顔のパーツは何一つ原形をとどめることなく潰され続けていく。


 ----怒りだった。苦しみだった。懇願だった。憎しみだった。

 ----ただ一つの少年の夢をこの男は踏みにじった。許せなかった。


 頭部に何度もゴルフクラブは殴りつけられる。

 頭蓋骨は容易く粉砕され、その衝撃は脳髄にも届き、父親の発狂の悲鳴はいつの間にか文字化けした文章を口にしているような声へと変わっていく。


 -----何時間殴っただろうか。

 殺されたくないという一心。若さゆえの暴走。

 一時間。彼が理性を失って殴り続けたのはそれだけの時間。


「ああ……」

 限界になった彼は腰を抜かす。

「ああぁ……」

 少年の目の前にいるのはだった。


 真っ赤だ。彼の体も、目の前の風景も。

 鉄臭い匂いと共に真っ赤に染まっていた。


「うぁあああああああああッ!?!?!?!?!?」

 少年は再び咆哮した。

 挙句……その風景のショックに耐え切れず気を失ってしまった。



 -----数分後。

 隣の部屋からの通報で様子を見に来た大家さんが部屋に入ってくる。

 変り果てた父親の姿に、肉片がこびりついたゴルフクラブを片手に眠っている少年の姿を見て戦慄したという。

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