第17話 猫と我が家と運転手

 マムに開けてもらったドアから外に出る。


 外に出ると、後ろで”カチッ”と音がする。


 ドアの鍵がかかった音だ。


 この音がどこか、もう元には戻れないスイッチの入った音のような気がして、一瞬不安を感じるが、とっくに元には戻れなくなっている事を思い出し、自嘲する。


 元には戻れないスイッチ……入ったとすると、鈴屋さんからのメールか……いや、メールは来るべくして来たのだろう。


 スイッチが有ったとするならば、鈴屋さんのメールを貰った後、経理部の先輩を訪ねた時だ。もっと厳密に言うと、訪問の連絡をタッチパネルで押した瞬間、もう戻れないスイッチが入ってしまったのだろう。


 ……もし、あの時経理部を訪ねなかったら、もし先輩から決算目録を見せられなかったら……今ここに居ないだろう。そして、今井さんとも今みたいな関係にはならなかっただろうし、何よりマムと出会う事もなかっただろう。


 少しばかり冒険をし過ぎな気もするが、結果的に一番良い流れになっていると思う。


 その良い流れを止めない為にも、先ずやるべきことを済ませなくてはならない。


「裏門に回るか……」


 このまま真っすぐ進むと、正門がある。


 しかし、正門から表通りに出てしまうと、誰かに見られた際のリスクが大きい。


 リスクを減らす為に、裏門から出るしかない。


 施設沿いに歩いて裏門に回る。


 …… ……


 裏門側に回ると、胸の高さ程のゲートと、その向こうに細い道が見える。


「よっ、っと」


 軽くジャンプしてゲートの壁を蹴り、三角飛びの要領でゲートを飛び越える。


「あっぶね~……」


 飛び越える途中で体勢を崩しそうになった。


 ここ暫く運動をしていなかったせいで、体幹やら筋力やらのバランスが崩れていたのだろう。


「……運動しないとな」


 今の状態だと、100メートルを全力疾走したら体力回復まで、多少の時間を必要とするだろう。


 これが2年前までであれば、毎日運動をするようにしていたのもあって、問題なかったはずだが・・アスリートは練習を一日休んでしまうと、その一日分を取り戻すのに3日かかると聞いたことがある。


 別に自分をアスリートと一緒にするわけでは無いが、少なくとも毎日何らかの運動はした方が良いかも知れない。


 ともかく、外に無事出られた。


 振り返って施設を見ると、目の前の裏門といい正門といい、敷地内への侵入を防ぐセキュリティーが極端に緩い気がする。


 セキュリティーらしいものは壁に幾つか取り付けられているカメラ位で、ゲート自体は小学校の門位の役割しかしていない……正直、小学生でもよじ登れば越えられるだろう。


 まあ、敷地内に入るセキュリティーが緩い分、施設内に入る為のセキュリティーは厳重になっているが……


 窓にはめ込まれたガラスなんかは全て防犯ガラスで二重になっていたし、ドア自体は通常の手段では開けない電子ロック式。しかも、ドアは厚みのある金属製だった。


 もし、力づくドアをこじ開けようと思ったら、大型トラックで突っ込むか、溶接機械を持ってきて根気強く溶かすくらいしか手段が無いだろう……


 そんな事を考えながら、細い裏道を歩いて行く。


 裏道はそんなに長くない為直ぐに、表通りに並行して通っているもう一本の道へと出る。


「左が会社だから、右に出ればいいな……」


 道自体は知ってはいたが、普段表通りを利用する事しかない為、この道を歩くのは初めてだ。


 確か、表通りが街路樹にちなんでケヤキ通りと呼ばれているのに対して、この道は猫が沢山いるから猫通りって呼ばれているんだっけ……アパートの大家さんがそんな事を言っていた気がする。


「確かに、猫多いな……」


 猫は夜行性の為か、通り過ぎる猫は昼間と違ってどの猫も歩き回っている。


 ここに住み着いている猫は恐らく、住民から餌を貰っているのだろう。どの猫も少し近づいたくらいでは逃げるそぶりが無い。


 それどころか、かえって近づいてくる。


 生き物は好きなので、こんな風に警戒心無く近づいてこられると、時間が無いのは分かってはいても構ってあげたくなる。


「おお、どうした?うん?お腹空いてるのか?」


 近づいてくる猫に声を掛けていたが、一匹の猫が近づいてくると他の猫は遠慮するかの様に、距離を取って遠巻きにこっちを見るようになった。


 一目で、引き締まった体つきをしているのが分かる。

 それでいて、他の猫に比べても二回りほど大きい。


「お前がここのボスなのか?確かに強そうだな……」


 何処か誇らしそうに胸を反っている……言葉を理解している訳では無いと思うが。


「だが、力での支配は終わり方が悲惨だぞ。賢いとは言えない」


 ……偶然だろう、目の前の猫が少しだけしょんぼりとした気がする。


「大丈夫、お前には覇者の風格があるし、その賢さがある……俺に付いて来れば猫の王にしてやろう」


 ……なんてな。


 最近小説を読んでいなかった……


 活字成分が不足していたせいで、変な事を口走ってしまったが、一緒に誰もいない時で良かった。


 ……マムは聞いているかも知れないが、わざわざ言い広めやしないだろう。


 ともかく、少しばかり時間を使い過ぎた……急いで家に帰ろう。


 スマフォを確認する。


 時間は、21時を過ぎたところ。


 ……マムが何処かキラキラした目をしていたのは気のせいだろう。


 AIのアバターに目を輝かせるなんて機能無い。


 ……いや、マムなら或いはあるかも……


 時間が想像以上に進んでいたので、早歩きでアパートまで向かう。


 俺の住むアパートは、5階建てだ。

 俺はその4階部分に住んでいる。


 元々そんなに距離は無いので、直ぐにアパートが見えてくる。


「エレベーターは……待つ時間があるから、階段を使おう」


 別に、エレベーターが恐いんじゃない……

 ただ、しばらく乗らなくても良いかなとは思うけど。


 アパートの前まで来たので、正面入り口からは入らず、階段を直接上がれる入口へと向かう。


 入り口で暗証番号を入力し、指紋認証をして中に入る。


「この階段を上がるのも久しぶりだな……」


 二度目になるが、別に、エレベータが恐いんじゃない。ただ、急いでるから待つ時間が……ほら、歩いていたらもう着いた。


 4階まで上がるのにそれほど時間はかからない。何より、早く荷物をまとめて仕舞わなくてはいけない。


「よし、さっさとまとめるか」


 自分の部屋の前まで来ると、ドアの認証装置に手をかざす。


 ここも指紋認証でロックが開くのだ。


 ”ガチャ”と音がして、ロックが外れたのを確認して、ドアを開く。


「……我が家だ~」


 今日も一日長かった気がする……


 この後の事を考えると、気を休められるまでまだ先は長いが。


 靴を脱いで、何を持って行くべきか考えようとしたところで、それ・・に気が付く。


「お前……中まで付いて来たのか」


 真後ろの、玄関入り口でちょこんと、座っている猫がいる。


 さっき猫通りで出会ったボス猫だ。


 何故こんな所まで付いて来てしまったのか……


 確かに、”付いて来い”とは言ったが……


 まあ、ボス猫が玄関で座り込んだっきり、動く気配が無いので、放っておいても良いだろう。


 外に出る際に、一緒に出て、そこでリリースしよう。


「……そこで待て」


 何となく、ボス猫にそう言ってから、自分の荷造りをする事にした。


――

 ……こんなもんか。


 一応、荷造りできた。


 と言っても、大したものは無い。


 普段から用意している非常時セットに、通帳とカードを追加しただけだ。


 ぶっちゃけ、3分もかかってない。


 その3分も、通帳とカードを引き出しから取り出し、机の横に置いている非常セットの中身を確認したのに要した時間だ。


 因みに、非常セットはリュックにまとめていて、中にはサバイバルに必要な道具が一式入っている。


 いつでも災害に対応できるように、この準備だけは欠かしたことが無い。


「よし、出来た!」


 大した準備はしていないが、口に出す事で達成感を感じる。


 人間とは、とても単純なものなのだ。


『パパ?準備出来ました?』


 スマフォマムを取り出す。


「出来たよ」


 ニコニコと機嫌が良いマムを微笑ましく思いながら、本題に入る。


「マムが次に向かう場所住所を教えてくれるんだっけ?」


 マムが、はい!と手を挙げる。


「私が案内します!」


 スマフォ画面上で、はいっ!と手を挙げ、しっぽの先も心なしか少し上向いている気がする。


 じっと見つめていると、しっぽが左右に振れたり、シュルっと丸まったりする。


 しっぽを意図して動かしているのか、一定の動作をするようにプログラムされているのか……


 何にしても、現実リアルに欲しい……


 3次元で、こう、近くで眺めていたい……


「……パパ?」


「ああ、いや、頼むよマム」


 危ない、危ない……


 気を抜くとしっぽの動きに見入ってしまう。


「……?」


 少し間が有ったが、マムは気にしない事に決めたようだ。


「はい、パパ!少し急いで外まで出て、その後お家の下でタクシーに乗ってください!タクシーは既に手配しているので、下に降りた頃には乗り込めます!」


 俺がマムの尻尾に夢中になっている間に、タクシーを手配していたらしい。


 マムさえいれば面倒なこと全てが片付いてしまう気がする。


「分かった、行先は?」


「それも既に連絡していますので、乗り込むだけで大丈夫です」


 そこまで済んでいるのか。


「それじゃあ、お金を……」


「いえ、それも既に決済済みですので、パパは乗って降りるだけで大丈夫です!」


 ……ダメだ、これダメなやつだ。


 マムに任せっきりにすると、ダメ人間になるやつだ。


 まあ、急いでるときはこの上なく助かるけど……今みたいに。


「分かった。それじゃあ、急いで降りるよ」


「はい、パパ!あと1分と28秒で着くので、下に降りたら丁度いいです!」


「よし!」


 そう言うと、リュックを背負って、スマフォマムをポケットに入れる。


 そのまま玄関に向かうと、猫……ボス猫はさっきと同じ、格好でちょこんと座っていた。……本当に言葉を理解しているのかも知れない。


「よし、ネコ……ボスネコ……ボス……ボス吉!出るぞ!」


 予想した通り、ネコもといボス吉に声を掛けてから、ドアを開くと、ちゃんと外に出て付いて来た。……もっとも、単に後ろを付いて来ているだけかもしれないが。


 後ろを付いて来るボス吉を確認して、階段を下りて行く。


――

 下まで降りると、タクシーが来ていた。


 マム……完璧な仕事だ。


「すいません、良いですか?」


 タクシーの前で待っていた運転手に声を掛ける。


「は、はい!お願いします!」


 ……?


 やけに緊張している気がするが、新人なのかも知れない。


「中、乗りますね」


 扉が開いているので、中に乗り込む。


「は、はい!それ、では出発いたします!」


 ……大丈夫だろうか。


「あ、あのぅ……」


 運転手が、恐る恐ると言った感じで話しかけてくる。


「はい?」


「そ、その猫さんも一緒で良かったですか?」


 まさか……やっぱり。


 隣を見ると、いつの間に乗り込んだのやらボス吉が座っている。


「……まあ良いです。このまま行って下さい」


 ここで余計な時間を使ってしまうのは悪手だ。


 後で如何にでもなるだろうし、ボス吉は普通の猫よりも頭が良い気がするし問題ないだろう。


「は、はい!分かりました!それでは、全力で急がせてもらいます!」


 やけに気合が入っていて、逆に心配になってくる。


「あ、あの……そんなに急がなくても良いので、安全運転でお願いします……」


「いえ……それだとボーナスが……それに、丁重に対応しないと……」


 運転手が何やら小さい声で呟いていて、全ては聞き取れない。


 ただ、何やら仕事に関する事を呟いていたので、余程仕事熱心なのだろう。


 ふと目に入った、運転手のプロフィールカードを読む。


 そこには、入社27年目とあった。


 ……ベテランやないかい!


 27年目のベテランともなれば、客対応で今更緊張などしないだろう。


 普通なら。


 となると、可能性は絞られてくる。


 何をしたんだろうマム……


 ポケットの中のスマフォマムを取り出すと、相変わらず可愛い笑顔を浮かべて微笑んでいる。こんな可愛いマムが何かするわけない……きっと、俺の勘違いだろう。


 運転手さんはきっと、マム以外ほかの何かが理由で余裕が無いんだ。その余裕のなさが、運転にも出ているのかも知れない……ほら、今も信号ギリギリだった。


 既に黄色信号に変わっていたのに、加速して……今日は気のせいか、ジェットコースターに乗った気分を味わう機会が多い気がする。


 タクシーに乗ってまで、その機会があるとは思わなかったが。


 ……運転に狂気を感じる。


 ただ、運転手の腕は確かなようだ。


 狂気に煽られたかのように疾走していても、安定性はある。


 まあ、狂気を感じる運転に安定性とは?とも思うが……


 それでも、事故になりそうでならない、ぎりぎりを攻めている様に見える。


 ……変に声を掛けて事故ったら嫌なので、しっかりと締めたシートベルトに掴まって、”早く着いて欲しい”と願いながら目をつむるのだった。

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