第二章 君に赦して欲しいだけ
あんなことがあったのに、
そう思っていた雪樹だったが、存外いつもと変わらぬ時間を過ごしていた。こんなものかと自嘲気味に笑いを浮かべる。
「ふぅ……」
ため息を一つ。本当のところは
「あっ、雪樹発見! こんなところにいたのね」
ぴょっこり雪樹の前に現れたのは、
「
「どうしたもこうしたもないでしょ。一緒に帰ろうと思ったら雪樹いないし」
よいしょと雪樹の隣に座ると、律華は心配そうに雪樹を覗き込んだ。
「ごめん。ちょっと考え事をね」
「ふうん……」
律華は雪樹と同じように空を見上げて、
「結局告白はしたの?」
直球にそう聞いてきた。雪樹は少し意外だなと驚き、
「まぁ……な」
そっけなく返した。そんな雪樹をじーっと吟味するように睨みつつ律華は、
「その様子だとフラれた?」
「なんでちょっと楽しそうなんだよ……」
「喜ぶに決まってるでしょ。これでやっぱり雪樹は、律華と結ばれるしかないって証明されたんだし」
腰に手を当てエッヘンと律華。そんな様子に思わず苦言。
「それはされてないって……」
肩を落とす雪樹に律華は、
「ほら、早く律華にも告白してよ」
自分の豊満な胸をぱしぱし叩きつつ、突然の提案。
「なんで好きじゃない女の子に告白しないといけないんだよ」
「将来的には律華と付き合って結婚するんだから、今からでも構わないでしょ?」
「だから……はぁ。というかさ、なんで今まで聞いてこなかったの?」
この一週間。律華は雪樹が告白したと知っているはずなのに、何も聞いてこなかったのだ。雪樹は帰ったら色々聞かれると覚悟していたのに、とんだ肩透かしを食らっていた。
「それはもちろん、すぐに聞くのは心の傷的にどうかと思ってやめてあげたの。出来るお嫁さんは、そういう配慮も出来るんだから」
再びエッヘンと胸を張る律華。雪樹は呆れたように、
「それはまぁなんと、ありがたい配慮だね」
「でしょ? じゃあほら、ちゃっちゃと告白告白」
「だからしないって」
「なんでよー、鳴海ちゃんにはしたのに」
「それは……桜城のことが……」
雪樹の様子に、律華はふんと鼻を鳴らし、仕方ないといったため息をつき、
「……もう、じゃあ代わりに律華とデートして」
告白とは全く違う提案。突然の方向転換に雪樹はえっ、と素っ頓狂な声を上げる。
「で、デート? なんでそうなるんだよ?」
「だって雪樹が告白は嫌々言うから、仕方なく妥協してあげてるの。感謝してよね」
「俺が悪いのこれ?」
「そうに決まってるでしょ。だから、デートするの」
上目遣いに雪樹を見とめる律華に、
まぁ……告白するよりはマシ……なのか……?
苦悩する雪樹に、律華はさらなる追い打ち。
「そもそもさぁ、雪樹に拒否権なんて、あったっけ?」
「……じゃあ、それでいいよ」
雪樹の表情は、それこそ嫌々といった様子だったが、律華にそんなことは関係ない。ぴょんとベンチから飛び上がり、
「じゃ、決まりだからね」
律華は雪樹に向き直る。その表情は平静を装っているものの、
「随分と嬉しそうだな」
にやにやと本心を隠せないといった様子だった。
「別にそんなことないけど。むしろ怒ってるくらいよ。最初からはい行きますって言えばいいのに」
俺の自由を奪ってそんなに楽しいものなのか……。いや、楽しくはないんだろう。胸のすく思いって言ったほうが正しいんだろうな。これで律華の気持ちが晴れるなら、別にいいか。
「……急に黙ってどうしたの?」
雪樹が黙り込んでいると、少しおっかなびっくりといった様子で律華。
「いや、少し考え事してただけ。気にすんな」
「ふーん、そう」
興味のなさそうな様子の律華に、雪樹の方からデートについて提案。
「それじゃあ、今週末にでも行くか?」
「あー……いや、来週の日曜日がいい」
「えっ? どうして?」
「今週末はバイトがあった気がするし。それに、お楽しみは後にとっておいた方がいいでしょ?」
「……まぁそういうことなら」
「じゃあ絶対だからね? もちろん雪樹にすっぽかすなんて選択肢、ないと思うけど」
「わかってるよ」
「きゃははっ、それじゃあ日も暮れてきちゃったし、帰るわよ」
さぁと律華に促され、ゆっくりと立ち上がる。ルンルン歩調の律華の後ろを歩きながら、
もしも……過去のことがなかったら、俺と律華の関係はどうなっていただろう。あの事故よりも前は、きっと律華のことが好きだった。もしも疎遠にならずに今も好きで、律華とこんな風に一緒に下校して、デートに行ったりして……。
それでもしも、律華も俺のことを本気で好きだったら。それはきっととても素敵で……。
「……もしもなんて、存在しないよな」
自分の考えていることが馬鹿らしくなり、つい口に出てしまった。
「ん? 雪樹なんか言った?」
「なんでもない。ただの独り言」
「なになに? 律華へのプロポーズの練習?」
「そんなわけないだろ……」
きゃははっと笑う律華に辟易する雪樹だった。
翌日の昼休み。雪樹は意を決して緋波に会いに行くことにした。ちゃんとお弁当をもって。
……多分、ここにいるんじゃないかな。
そう目星をつけて雪樹が訪れた場所は、
「あれ? いない……」
扉をくぐると、暑い日差し。屋上だ。だが予想反してどれだけ目を凝らそうと、緋波の姿はなかった。
ここに来れば会えると思ったんだけど……。
「雪樹くん?」
突然背後からの声。驚いた雪樹は思わず、
「うわっ!」
と大きな声を上げると、
「きゃっ!」
今度は緋波の小さな悲鳴。そして雪樹に抱きついた。
「どっ、急に、どうし……。あっ、大きな音は苦手だからか?」
緋波のこの行動を覚えていた雪樹がそう問うと、
「うん……急におっきな声出すから、びっくりしたよ?」
「そ、それは申し訳ない……。いやでも後ろから急に来たら、俺もびっくりするぞ」
「そっか、ごめんね?」
「いや俺の方こそ……それより、そろそろ離れてくれないか?」
「あっ、ごめんね? 暑いよね?」
そういう理由じゃないけど……いや言うまい。
鳴海の密着には多少慣れているものの、自分に好意を寄せている女の子の密着では、また思いが違うのも当然だろう。
すっと離れながら緋波は、
「雪樹くんはどうしてここに?」
「
「私を? どうかしたの?」
「用があってさ。とりあえずご飯食べようぜ」
「うん、そうだね?」
とてとてと緋波はいつものベンチに向かい、すとんと腰を掛ける。なんとなく気恥しい雪樹は、この前よりも少し緋波と離れた位置に座った。
座ると、流れる沈黙。緋波は相変わらず無表情で気にする様子はないが、雪樹はそれがどうにもたまらず、いつもより荒っぽく弁当の包みを広げた。食事の音だけが響く空間。なんて切り出したものか……、と雪樹が悩んでいると、
「雪樹くん?」
先に切り出したのは緋波だった。思わず身構える雪樹だったが、
「私のお弁当、食べる?」
予想だにしない話に、思わずポカンと雪樹。
「えっ、な、なんで? 俺今日はちゃんと弁当持ってきてるよ」
「男の子だから?」
「えっ、どういうこと」
「もっといっぱい食べるんじゃないかと思って?」
「あっ、そういう……。これで十分だから大丈夫だよ」
「そう? ならよかった?」
納得したのか、そのまま同じようにお弁当を食べ進める緋波。雪樹は今がチャンスとばかりに、
「あ、あのさ」
「どうしたの?」
「その……告白の事なんだけど」
緊張で声が上擦りそうになるのを、必死に押さえつつ切り出す。
「告白? 私の?」
「そっ……ちじゃなくて。桜城にしたんだよ、俺」
「告白できたんだ? よかったね?」
とは言うものの、緋波は相も変わらず無表情だった。かまわず雪樹は続ける。
「それでその……せっかく藤枝が背中を押してくれたのに、ダメだったんだ。ごめんね」
結果を聞き、緋波はあっ……と口を開け停止。しばらくして、んっと口を閉じると、
「ううん、謝る必要なんてないと思うよ? もしかして、今日はそのことを伝えるために来たの?」
「まぁそんなところだよ」
「そうなんだ? 私なんて気にしなくていいのにね? 雪樹くんはいい人だね?」
「俺なんかよりも藤枝の方が……」
いや、藤枝が優しいのは俺だからなのか?
ふとそんなことが頭によぎり、そこから先の言葉は出なかった。
そして再び流れる沈黙。ご飯を食べているのだからおかしくはないはずなのだが、雪樹にとっては少し苦痛だった。
……何か話題ないかな。っていってもそもそも、俺って藤枝のこと全然知らないんだよな。
「なぁ藤枝。藤枝って、どんな人なんだ?」
「えっ?」
「あっ、え、っと、ごめん変な質問しちゃって」
つい思ったことをそのまま口にしてしまった雪樹。こんな質問をされても、すんなり答えられる人間なんていないだろう。
「私? ちょっと変な子だと思うよ?」
「……」
割と自分のことを客観視出来る子なんだなぁ。
雪樹は素直に感心した。
「あー、教えてくれてありがとう。そういえば藤枝のこと、あんまり知らないなと思ってさ」
「そうだったんだ? いいよ? 他にも聞いて?」
「えっ? じゃ、じゃあ……」
と言うものの、何を聞いたものかと迷ってしまう雪樹。話題を探すためにまじまじと緋波を見つめる。
「んっ……」
すると緋波は無表情ではあるものの、少し恥ずかしそうに身をよじった。そんな姿になぜか焦りのようなものを覚えた雪樹は、緋波の容姿で一番と言っていいほど目を引く所について聞くことにした。
「そういえば髪の毛、かなり長いけど切ったりしないの?」
緋波は自分の髪を触れると、優しく撫でるように毛先まで滑らせる。そして毛先を大事そうにいじいじ。
「自分のことながら、確かに長いね? もう何年も切ってないんだ?」
「そうなんだ。とっても綺麗だなって思ってたから、気になってたんだよ」
「……えっ?」
一瞬雪樹がなんと言ったのか理解できなかったが、自分が褒められたのだと理解して緋波は胸を押さえて顔を逸らしてしまった。雪樹も自分の発言を省みて赤面、慌てて、
「あっえっ、その、なんかごめん」
「ううん、嬉しいよ? ありがとう?」
「いやその、礼を言われても困るというか……」
「じゃあ、触ってみる?」
自分の髪を愛しそうに撫でながら緋波。
「えっ……それは……」
頭では迷っているものの、とても手触りの良さそうな緋波の髪の毛。雪樹の手は自然に伸びて――
「ん……あ、いたいた。探したよー
屋上の扉がきぃと鳴り人の声。雪樹は慌てて手を引っ込めて、弁当をかき込んだ。そして飲み込み、何事もなかったかのように来訪者に声をかけた。
「さ、桜城? どうしてここに?」
現れた鳴海は、日差しに目を細めながら二人の下に歩み寄る。
「桐柴に用事があったんだよ。あれ? もしかして隣にいるのは……」
値踏みするような視線で鳴海。察しのいい彼女には、雪樹の隣にいるのが誰かもうわかっているのだろう。
「ああ、彼女が俺を助けてくれた藤枝緋波だよ」
「よろしくね?」
雪樹の紹介に、軽く首を傾げながら小さくあの人が桜城さん……と緋波。そんな彼女に鳴海は目を輝かせ、
「そっか! ありがとう緋波ちゃん!」
お礼とともに熱い抱擁をする鳴海。緋波は少し戸惑いつつ、
「どうして私にお礼を?」
「私の桐柴を助けてくれたからに決まってるよ! ほんとにありがと!」
「じゃあ、どういたしまして?」
なにがなにやら、といった様子ながらも緋波はそう頷いた。
「その辺にしといてあげてよ桜城」
「えーなんでよー。桐柴もやって欲しいの?」
「そういうんじゃなくって」
「そうならそうと言ってくれればいいのにー。遠慮なんかしちゃってっ!」
結局雪樹にも抱擁をかます鳴海。
前だったら嬉しくないわけじゃなかったと思うんだけどな……。気持ちの置き所がわからないや。
鳴海にされるがままになっている雪樹。そんな二人に、
「ねぇ、桜城さん?」
「どうしたの?」
「雪樹くんに何か用があったんじゃないの?」
どことなくムッとした様子で緋波は、鳴海の用件を問うた。
「あっ、そうだった忘れるところだったよ」
うっかり、とばかりに自分の頭をポンと叩き、やっとこさ雪樹から離れる鳴海。
「ほら、来週はもう中間テストでしょ? だから律華ちゃんと勉強会やろうって話になってさ。それで桐柴にもお誘いをね」
「中間テスト?」
雪樹は鳴海の言ってることが理解できなかった。
「どうしたの桐柴? 先生の話ちゃんと聞いてた?」
「そういえば……」
振り返ってみれば、そんなことを言っていたような気もする……。
この一週間、生気の抜けたように過ごしていた雪樹には、届いていなかったようだ。
「いつもなら平均ぐらいは狙えるけど……今回は一ヶ月も授業抜けてるから流石にやばいぞ……」
鳴海のノートで勉強はしたが、さすがに授業を受けていなければ不安にもなるだろう。
「ほら、だからこそ勉強会しようって。桐柴も一緒にしようよ」
律華に教わるのか……なるべく借りは作りたくないけど、背に腹は代えられないよな。
「そうだな……そうさせてもらうよ」
「決まりだねっ! それで、桐柴の家でやらせて欲しんだけどどうかな?」
「親に確認しなきゃだけど、大丈夫だと思うよ」
「おおー、ありがたい。これで律華ちゃんにいっぱい教えてもらえるよ」
「俺へのお誘いはついでなんじゃ……。まあとにかくやるか」
そう話の折り合いがついたところで、
「ごちそうさまでした」
緋波の小さな声。二人が話している間に、もくもくと食べ進めていたようだ。
「ねぇねぇ緋波ちゃん」
不意に鳴海。座っている緋波に目線を合わせるように腰を折り、
「よかったら緋波ちゃんも来ない? 勉強会」
緋波を誘った。場所提供の雪樹に一切の断りもなく。
「私? 私は行かないよ?」
「えーどうして? 一緒にやろうよぉ」
「私は一緒に勉強しなくても大丈夫だと思うよ?」
「むぅ……緋波ちゃんは普段から勉強しているタイプなのか……」
恨めしそうな鳴海をよそに、緋波はすっくと立ち上がり、
「雪樹くん、ごめんね? 私この後行くところがあるから?」
「あ、ああそっか。それじゃあまたね」
「うん、桜城さんもまたね?」
「まったねー」
とてとて屋上を後にする緋波の背中が見えなくなったところで、
「すっごいな緋波ちゃん……」
キラキラと目を輝かせて鳴海。
「どうしたんだよ急に」
「だってべらぼうに美人だったよ?」
「べらぼうて」
言葉のチョイスどうなってるんだ。
「だってすっごい綺麗な子だったじゃん。思わず抱きしめちゃったよ」
あれは感謝の念からの抱擁じゃなかったのか……。
雪樹は額から流れるよくわからない汗を拭った。はぁー……と鳴海は幸せそうに長いため息をつき、
「世の中にあんな美人がいるなんてなぁ……」
しみじみとそんなことを呟いた。
桜城も大概だよ。そんな言葉を、雪樹は静かに飲み込んだ。
そして迎えた勉強会の当日。雪樹は自分の部屋を片づけていた。もちろん律華の部屋でもいいのだが、律華は雪樹が自分の部屋に入るのを許さないのだ。
「雪樹! 片づけ終わった?」
当の本人はノックなしで入ってくるのだが。
「もうそろそろだよ」
片づけをしつつ律華に返答。といっても物欲のあまりない雪樹の部屋は、気合いを入れて片づけをするほど散らかってはいない。ただ、鳴海が来るということで、少し気を遣っているのだろう。
「早くしてよね、まったくもう。律華の方はもう大丈夫よ。鳴海ちゃんの苦手分野もまとめて、雪樹の抜けている一ヶ月分の問題集も出来たし」
どや、といった様子でノート二冊を掲げる律華。
「えっ? 俺の分も作ったの?」
「当たり前でしょ。そもそも雪樹は、別に勉強会なんてしなくても教えてあげるのに」
「いや……これ以上律華に借りを作るなんて……」
渋る雪樹の様子に、寂しそうに目を伏せる律華。
「……あっそ。どうせ結婚するんだから、気にしなくていいのに」
「いやだから結婚はしないって」
「またまたぁ」
律華といつものやり取りをしていると、ピンポーンと玄関のチャイム音。雪樹は立ち上がり、
「俺が出るよ」
「いや、律華が出るよ。雪樹は片づけ、終わらせちゃいなさいよ」
「そういうことなら……」
パタパタと玄関に向かう律華。雪樹は最後の仕上げをして待っていると、元気な声。
「やっほー桐柴!」
部屋に入るなり雪樹に突撃、雪樹もろともベッドに倒れこんだ。
「来て早々抱きつかないでよ……」
今日も鳴海は元気いっぱいだった。相変わらずどんな感情になればいいのやら、そんな様子で雪樹は脱力しされるがままだった。
「鳴海ちゃん、今日は勉強会なんだから」
律華の注意に鳴海はあははーと笑みを浮かべて雪樹から離れ、
「ごめんごめん。それじゃあ早速始めよっか。『目指せ赤点回避! 律華ちゃんとあたしの勉強会! イン、桐柴の部屋~』」
鳴海の謎の開会宣言をポカンと眺める雪樹に対して、律華は待ってましたとばかりの拍手。律華は立ち上がると、
「それじゃあ律華はお菓子持ってくるね!」
「えっ? 勉強会にそれ要るの?」
それ以前にもっとツッコミたいところはあるものの、とりあえず目前の疑問を処理してみるが、
「わかってないなぁ桐柴は」
「そうだよ雪樹。こういうのは雰囲気が大事なの。ね、鳴海ちゃん」
「さっすが律華ちゃん!」
なんだろうこの居心地の悪さ……。
ただただ阻害されるだけだった。律華がリビングからお菓子を持って来ると、いよいよ勉強会が始まった。
こんな状態で集中出来るのか雪樹は甚だ疑問だったが、案外集中の沈黙が流れていた。三人ともども、自分の勉強に集中している。
「うーん……律華ちゃん。ここってどうなってるの?」
げんなりした様子で鳴海。しばらくうんうん困っている様子だったが、どうやらギブアップらしい。律華が問題を見るとさっそく理解。
「ああこれね。こういう問題はちゃんと文章の中に答えがあるからそれを探して……」
「んー……あ、もしかしてこれ?」
「そうそう!」
「やったぁあたしにも解けた! ありがと律華ちゃん!」
二人は仲がいいな……。っと俺も集中しないと。それにしても律華の問題集、よく出来てるな……。桜城がまとめてくれたノートで基礎が理解できて、律華の問題で応用が理解できる。桜城って意外とやれば勉強できるんじゃ?
「……」
やばい、この問題分からないな……。
「どうした桐柴? わからないの?」
「ああちょっと……。って、俺で分からないんだから、桜城もわからないだろ」
「なんだとー、何事もチャレンジあるのみだよっ! どれどれ……、って反対側からじゃ読めないや。よいしょっと」
雪樹の向かいから、隣へ席替えする鳴海。真横に座る彼女に、雪樹は思わずのけぞり、
「って、えっ? ちょっと近すぎない?」
「何を気にしてるのさ。あたしと桐柴の仲じゃん」
「そうだけど……」
やっぱり桜城に俺は、一人の友達としてしか映らないんだな……。
「どうしたんだ桐柴?」
「別になんでもないよ。ほら、教えてよ。わかるんだったらね」
昔は感じた熱も、今はこんなにも冷たい。あの感情は、いったい何だったんだろう。
「……ごめん、やっぱわかんないや」
「だから言ったのに。いいよ、自分で解くか」
「律華が教えてあげるよ」
わざわざ雪樹の言葉を制して律華。今度は律華が隣を陣取った。ふわりと香る女の子らしい花のような匂いを、雪樹は全力で無視した。
「なーんだ、こんな問題もわからないんだ」
「わざわざ馬鹿にしに来たのかよ」
「律華ちゃーん? それあたしも馬鹿にしてる?」
二人の抗議の視線を笑顔で無視し、律華はわかりやすく解説を始めた。
「だから、この式を代入すると、この解が得られるの。わかった?」
「あ、ああ……ありがとう」
悔しいがものすごくわかりやすいな……。
「また何かあったら、遠慮なく聞いて頂戴ね」
くすくすと意地の悪い笑みを浮かべる律華に雪樹はため息。はいはいわかったよと適当に返した。
そしてまたしばらく勉強を進めていると、
「うー疲れたー」
やはりギブアップは鳴海から。机にベターっと伏せてしまった。だが気持ちは雪樹も同じようで、
「確かに結構集中してたもんな」
時計を見れば、開始から三時間ほど経過していた。意外と勉強会って集中できるもんなんだな、と雪樹は驚いていた。実際のところ集中できるかどうかは、周りの人間次第なのだが。
「律華ちゃんお菓子追加してー」
「ごめん鳴海ちゃん。もうないんだ」
「えーっ! うえーん桐柴買ってきてよぉ」
「何で俺をパシるんだ……」
雪樹に抱きついてねだる鳴海。いやいやこのおねだりは卑怯だろと雪樹は思った。雪樹の嫌そうな態度にぱっと顔を上げると、
「それならここは公平にジャンケンしかないね! ほら律華ちゃんも参加参加」
「り、律華も?」
「こうなった桜城はてこでも動かないのは律華も分かってるだろ……」
「ええ……そうね……」
珍しく律華も諦めたようにため息。
「よぉし!それじゃいくよ。ジャンケン……」
「「「ポン!」」」
「俺の負けか……」
結果は雪樹の負け。鳴海は嬉しそうに跳ねながら、
「やったぜ律華ちゃん! ハイタッチ!」
「えっ、ちょっと待って鳴海ちゃん。雪樹、一人で大丈夫?」
鳴海とは対照的に、深刻そうに律華が雪樹の顔色をうかがう。
「い、いや一人で買い物くらい行けるよ?」
「そうじゃなくて! 体は、大丈夫なの?」
「えっ、あ、ああ、なんだよ今さら。もう大丈夫だって」
「本当に?」
なおも心配そうな律華に雪樹は戸惑いつつ、
「どうしたんだよ? 俺がちゃんと快復してるの、律華だって知ってるだろ?」
律華はまだ何か言いたそうに口を開くが、静かに閉じた。そして納得したように一度頷くと、
「ならいいけど……。気をつけなさいよ?」
「あー……なんかごめんね? やっぱりあたしが行くよ」
ことの張本人が手を挙げるものの、雪樹はそれを制した。
「桜城までどうしたんだよ。大丈夫だって。それじゃあ行ってくるから」
すっかり変な空気になってしまったこの空間。雪樹は足早に部屋を出ていった。残された二人。鳴海は申し訳なさそうに人差し指同士をちょんちょんと、
「ごめんね律華ちゃん。あたしのせいで」
「ううん、雪樹も大丈夫って言ってたし、きっと大丈夫よ」
いまだ暗い顔の律華に、鳴海は優しく肩に手を置き、
「……どうする? ついて行く?」
そんな提案をした。だが律華は首を振ると、
「そうしたい気持ちは山々だけど……やめておく」
「いいの?」
「うん……、律華だってずっと雪樹のそばにいられるわけじゃない。雪樹のお嫁さんになるんだから、笑顔で見送れるようにならないと」
嬉々として未来を語る彼女の姿に、鳴海は思わず胸を抑えた。
「律華ちゃんは桐柴のこと、すっごく好きだね」
鳴海がそう聞くと律華は、
「当たり前でしょ。雪樹の事、大好きなんだから」
自分の宝物を自慢するように、満面の笑みを浮かべた。
「近くのコンビニでいっか……」
そんなことを呟きつつ、コンビニに向かう雪樹。家の近辺にはコンビニがなく、近くと言っても駅前まで出向かなければならないのだが。信号を渡り、駅前の入り口に差し掛かったところで、
「……んっ? あの姿は」
遠くに見える人影に目を凝らすと、緋波の姿があった。白いTシャツに飾り気のないスカート姿。お洒落なんて興味ないですよ、と言わんばかりの装いだ。そんな緋波は、自販機で買ったのだろうか、炭酸飲料を片手に歩いていた。
「藤枝……」
と、声をかけようとしたところで、
「あっ」
緋波が開けた炭酸飲料が、プシュっと気持ちのいい音とともに噴水のように吹き出した。そして噴水が終わるころには、ものの見事に緋波の服はビシャビシャになっていた。
「……」
だがしかし緋波は気にする様子もなく、ゴクリと一口。
「おいしい?」
と、そんなことを呟いて歩き出してしまった。
「ちょ、ちょっと藤枝!」
「? 雪樹くん? どうしたの、こんなところで?」
何の気なしに振り向く緋波だが、その姿を見た雪樹は思わず、
「うおっ!?」
奇声を上げてしまう。それも仕方がないだろう。なぜなら濡れた緋波のTシャツが透けているのだから。さらに驚いたのは、
「ななんで下着付けてないのさ?」
緋波はブラジャーを身に着けてはおらず、濡れて透けた服の上からその胸があらわになっていた。雪樹の指摘に首をかしげる緋波の姿に、ここで話してもダメだと見切りをつけた。周りに悟られないよう、テンパりつつも続けて小声で、
「と、とりあえずこっち来て」
手を握り、人気の少ない路地に走り出す。しばらく進んでいき、人が周りにいないことを確認して安堵のため息。すると緋波は、
「こんなところに連れ込んで、私をどうするの?」
首をかしげながら聞いてきた。えっと声を漏らす雪樹だが、冷静になれば女の子をこんな薄暗い路地に連れ込むなど犯罪臭しかしない。
「いや、そういうつもりは毛頭ないから! それよりも、なんで下着を着てないのさ!」
緋波の方を一切見ずに雪樹。言われて緋波は自分の胸に目を落とし、
「私、ちっちゃいから必要ないと思うよ?」
「そういう問題じゃなくて!」
「雪樹くんだって、私の胸なんて見てもなんとも思わないでしょ?」
「思うよ! ものすごく!」
「えっ?」
「あっ……ああもう! とにかくちゃんとつけなくちゃいけないんだよ! いや男だから知らないけど!」
もはやテンションがおかしくなってきた雪樹だが、自分が上着を着ていたことを思い出す。震える手で上着を脱ぐと、
「そのままじゃよくないから、とりあえずこれを着て」
「……わかったよ?」
珍しく素直だな……と思った雪樹だったが、
「雪樹くんが興奮するんだもんね?」
珍しく赤面する顔を、受け取った上着で隠しながら緋波。いろんな意味で体温が上昇した雪樹は無言に徹することにした。緋波はもそもそと上着を羽織ると、
「どう?」
見せびらかすように腕を広げる。前を閉じていないせいで、広げた腕に引っ張られ再び見えそうになってしまうが、それさえしなければ大丈夫だろうと目を逸らしつつ、
「うん、大丈夫そうだ。着てくれてありがたいよ」
「よかった? じゃあ、私は行くね?」
とてとてその場を去ろうとする緋波を慌てて制止。
「ちょ、ちょっと待って」
「まだなにかあるの?」
「いや、俺が上着を渡したのは姑息的な処置というか……。いくら暖かくなってきたとはいえ、そのままじゃ風邪引くだろ」
「私は大丈夫だよ?」
「いやよくないって……」
「じゃあ、どうするの?」
問われて、いやどうするんだと我ながら悩んでしまう雪樹。だが緋波をこのまま放置するわけにはいかない。おもむろに財布を引っ張り出し、中身を確認。
「……服、買いに行こうか」
雪樹の提案にえっと口を開く緋波。
「私の服を買うの? そんなにお金、持ってないよ?」
「いいよ、俺が出すから」
「それじゃあ雪樹くんに悪いよ?」
「藤枝がそのままの方がよくないって。ほら、行くよ」
半ば強引に歩き出す雪樹に、慌てて後ろから緋波。路地を抜けしばらく歩くと、雪樹のよく通る婦人服店へ。最寄りの駅前とはいえ、案外通るだけで利用したことのない店は多い。このお店は雪樹にとってそんな存在の一つだった。緋波がちゃんとついてきていることを確認し、いざ店内へ。
「待ってよ雪樹くん……あっ、いろんな服があるね?」
緋波も店内へ入ると、キョロキョロと首を振る。心なしか、ワクワクしているように見える。雪樹も、入ってみると案外いろいろあるんだ、と感心していた。
「藤枝はどんな服が好きなの?」
「服とかはそんなに興味ないよ?」
その私服を見れば想像に難くない……。
「ちなみに今着ている服は?」
「お店に入ったら近くに売ってた」
「そんな選び方……、藤枝は綺麗なんだから、ちゃんと選んだ方がいいぞ?」
「えっ?」
「あっ。いや、今のは聞かなかったことに……」
「うん、雪樹くんがそう言うなら、そうするね?」
はぐらかそうとする雪樹だったが、緋波にうんと頷かれてしまった。誤魔化すように咳ばらいを一つし、
「ま、まぁとにかく……、気になるものはない?」
「これは?」
雪樹に聞かれて手に取ったものは、
「いや藤枝、これ水着だから」
目的が何なのか忘れてないか……?
頭を抑える雪樹だったが、緋波は手に取った水着を自分にあてがい、
「似合ってないの?」
涼しげな青色の、ワンピースタイプの水着。雪樹は緋波が着ている姿を想像して、
「……いや似合ってると思うけどさ、別に海とか行くためにここに来た訳じゃないし」
「雪樹くんと海、行くの?」
「えっ? い、いやそういうつもりで言った訳じゃないよ」
「私と海に行くのはいや?」
「そういう訳じゃなくて……行きたいと思うよ。海でもプールでも」
「じゃあ、いつか行こうね?」
なぜか強引な流れで海へと行く約束が成された。雪樹は頭を掻きながらわかったよ、と少しぶっきらぼうに言い、
「じゃなくて、今日は藤枝の服を選びに来たんだから」
「うん、選ぶね?」
とてとて歩いていく藤枝を見送り、雪樹も何となく店内を徘徊。
「こういうの似合いそうだよな……」
薄ピンク色で脇腹にリボンがあしらわれたブラウス。ふとそんな一着を手に取ると、
「雪樹くんはこれがいいの?」
「うわっ、服を見に行ったんじゃないの?」
「気になるもの、なかったよ? 雪樹くんは私にそれ、着てほしいの?」
「き、着てほしいっていうか単純に似合うんじゃないかと思っただけで……」
「じゃあ、それがいい」
じーっと雪樹の持つ服を凝視しながら、迷いなく言い切る緋波。
「えっ……それなら、試着する?」
聞くも緋波は首を強く振り、
「ううん、これにするよ?」
「試さなくていいの?」
「うん、だって雪樹くんが選んでくれたんだよ?」
「そ、そっか」
ぐいぐいと来る緋波に圧されつつ足早にレジへ向かうが、不意に緋波が足を止めた。
「……ん?」
「どうした藤え……」
思わず言葉を失う雪樹。緋波が足を止めたのは、下着売場だった。
「ブラジャーもつけた方がいいんだよね?」
「確かにそう言ったけども、それは一人でまたの機会に選んでください」
流石に下着選びには付き合えん、と目を逸らして再びレジへ。そして服を購入し、試着室で着替えさせてもらった。試着室の前で待つ雪樹だが、ごそごそと聞こえてくる衣擦れ音に思わず唾を飲み込む。シャーとカーテンを開く音とともに、ぴょこんと緋波。
「どうかな、雪樹くん?」
雪樹に見せびらかすようにくるりと一回転。あしらわれたリボンがふわりと揺れる。
「うん、思った通り、とっても似合ってるよ」
我ながら想像以上だ、と雪樹は自分の感性を自賛していた。
「ありがとう? 雪樹くんの服は、洗って返すね?」
「あー……いや、いいよ。気にしなくて」
「ううん、だめだよ? ちゃんと洗って返すから、ね?」
なぜか頑な緋波に圧され、渋々首を縦に振る雪樹。緋波の強気な態度に、そんな一面もあるんだと驚いていた。二人揃って店を出て、帰宅の途につく。
「雪樹くん、今日はありがとうね?」
駅前通りの出口まで来たところで、着ている服を愛おしそうに見つめ緋波。どこか気恥ずかしさを感じた雪樹は視線を逸らし、
「気にしないでよ。あーでも、今度からはちゃんと服装も気にしてくれよ」
「わかったよ? それじゃあ、またね?」
またな、と返し帰路につく雪樹だったが、ふと空を見上げてあっと声を漏らす。
しまった。買い物に出かけるって言ってからだいぶ経ってるぞこれ。
気が付くとすでに空は赤らみ、カラスの鳴き声が聞こえた。急いでコンビニでお菓子を調達。そして帰ろうと走り出したところで、
「……桐柴!」
呼ぶ声は鳴海。息を切らして雪樹に駆け寄ると、
「こんなところにいたのっ!?」
「さ、桜城……、俺を探しに?」
「そうに決まってるよ! 携帯も置いてっちゃってるから連絡も取れないしさぁ」
「いやそれは申し訳ない……」
「それは律華ちゃんに言ってあげてよ。すっごくすっごく心配してたんだから」
「律華が、俺のことを?」
「そうだよ。何で不思議そうなのさ」
「いやだって……」
律華にとって自分は復讐するべき相手であるはずだ。それなのに心配なんて……。
信じられないという様子の雪樹に、鳴海は怒ったように腰に手を当て、
「もう、まだそんなこと考えてるの? だったら聞くけどさ、桐柴が入院したとき、律華ちゃんどんな様子だったの?」
「それは……」
最終的には脅されたけど……、すごく取り乱したみたいで、心の底から安堵しているように見えて――
「雪樹……」
噂をすればなんとやら。いつの間にか律華が雪樹の前に。今にも泣き出しそうな表情で。
「あっ……その……」
それ以上雪樹が言葉を発する前に、
「っ!」
律華は雪樹を抱きしめた。
「雪樹のバカ! 律華をどれだけ心配させれば気が済むのよ!」
「その、ごめん」
雪樹の胸に埋めた律華の表情は読めない、いや、律華自身が見せまいとしているのかもしれない。
「律華に心配させるのがそんなに楽しいの!? 最低っ! 最低よっ! 」
「……」
胸を叩く律華をしばらく抱きとめたまま、落ち着くまで雪樹は無言でいた。そして律華がゆっくりとその手を止めて、脱力したように雪樹に寄りかかり、
「雪樹がいなくなっちゃったら、律華は一人ぼっちなのよ? そんなの寂しい、寂しいよ。お願いだからどこにもいかないで、ずっと律華のそばにいてよ……」
「ごめん。もうどこにもいかないから」
「本当に?」
「本当だって」
「律華と結婚する?」
「いやだからそれは……はぁ、案外元気じゃん」
突然の奇襲に雪樹は嘆息。律華は大きく深呼吸すると鼻をすすり、
「どのみち雪樹に拒否権なんて、ないんだけどね」
目を腫らしたままだったが、そこにはいつも通りの悪魔っぽい笑みを浮かべる姿が。
「ねぇねぇ終わったー?」
二人の会話が終わったのを見計らい、いつもと全く同じ調子で雪樹に抱きつく鳴海。
「いや終わったけども……よくそのテンションで来れるな」
「まぁそれが鳴海ちゃんらしいけど」
「二人とも、そんなに褒められたら照れちゃうよ」
褒めたわけじゃないんだけど……。
「それより早く帰って勉強の続きしようよ。桐柴のせいで時間減っちゃったし」
「ごめんなさいね。ほら、だったら帰ろうよ」
雪樹に続いて二人も並んで歩きだす。すると鳴海は雪樹に近づき、律華に聞こえないよう小声で、
「それにしてもさ桐柴、緋波ちゃんと何やってたの?」
「えっ、見てたのか?」
「ちらっと見ただけだけど……もしかして、緋波ちゃんに会うためにわざと買い出しに?」
「そんな器用なことできるかよ……」
「あはは、だよね」
「二人で何話してるの?」
「何でもないよ律華ちゃん。それにしても律華ちゃんさぁ……」
鳴海はぴょんと雪樹のそばを離れると、そのまま律華と何やら談笑を始めた。ふと律華を眺め雪樹は、
律華は……本気で俺のことを好きなのか? 鳴海の言う通り、俺のことを本気で心配してくれているように見えるし、でも俺のことを責めてくるし……。こんなに長く一緒にいても、人の気持ちが全然わからないなんて、少し悲しいな。
そんなことを考えている間に家に到着。だがすでに時刻はだいぶ遅い時間で、鳴海はそのまま帰り勉強会はお開きとなった。
「や、やっと終わった……」
中間テストの全科目が終了。その帰り道で雪樹は、思わずため息混じりにそんなことを漏らした。復帰してからおよそ三週間でテストは、けっこう堪えたらしい。空は生憎の曇り模様で、吹き抜ける心地よい風だけが雪樹を癒した。
満身創痍の様子でとぼとぼ歩いていると、
「雪樹くん?」
呼ぶ声は緋波。油断しきった背後から声をかけられた雪樹は、
「うおっ! ……ってごめん」
大きな声に驚き、緋波は雪樹に抱きついていた。緋波は慌てて離れると、
「ううん? 大丈夫だよ?」
「頑張って気を付けるよ……。それにしても、テストお疲れ」
「うん、お疲れ?」
緋波は首をかしげて答えると、歩き出す雪樹の横についた。
「テストどうだった?」
「よかったと思うよ?」
「そういえば藤枝って頭はいい方なの?」
聞いて、そういえば特進クラスであったということを思い出した雪樹。聞くまでもなく自分よりは上だろう。
「どうなんだろうね?」
「前回の結果とかは?」
「クラスの中では一番だったよ?」
「クラスの中では、ね……」
藤枝は特進クラス……その中で一番ということは……。
圧倒的な学力差で膝をつく前に、雪樹はそれ以上考えることをやめた。
「雪樹くんはどうなの?」
「まぁ俺は……大体学年で半分くらいのところだよ。いつも何とか平均点以上は取れるように頑張ってる。今回は入院してたから危なかったけど、律華や桜城に助けてもらったし大丈夫だと思う」
「そうなんだ? 雪樹くんはいろんな人に支えられているんだね?」
「そうだな……、それに藤枝にも」
「私も?」
不思議そうに聞き返す緋波に、
「もちろん。だって藤枝がいなかったら、いまだに桜城に告白できないままだったと思うしさ」
「雪樹くんは、後悔してないの?」
「それはまぁ少しは……でも、良くも悪くも前と変わらない日々を過ごせているし。これでよかったんだと思う」
「雪樹くんがいいなら、よかったね?」
「……なぁ藤枝」
雪樹は足を止め、少し真剣な表情で緋波を見つめた。緋波も雪樹のほうに振り向くと、
「どうしたの?」
「その、今まで話題に出しづらかったから言わなかったけど……その、藤枝のあの告白って、どうするべきなのかなって」
藤枝から雪樹への告白。結局緋波が一方的に伝えただけで、そのまま宙ぶらりんになっていたこと、雪樹はずっと気にしていた。
緋波は少し口を開くが、考えるように口をつぐむ。そして、
「あれのこと? あれはもちろん本気だよ? でも、答えはいらない」
「えっ?」
緋波の回答に、一抹の寂しさのようなものを覚え、不意に自分の喉を手で触れた。
「私は雪樹くんの事が好きで、でも、それだけ? 雪樹くんとお付き合いしたいとか、雪樹くんの赤ちゃんが欲しいとか、そういうのはないんだ? だから、答えはいらないよ?」
「そういう、ものなの?」
「うん、そうだよ? だから、雪樹くんは何も気にすることはないよ?」
「なら……でも……」
言いたいことはあるものの、胸に渦巻く感情をうまく言葉にできず、雪樹はそのまま黙ってしまった。そしてゆっくりと喉に触れた手を下ろし、
「えっと、ごめん。なんか変なこと言っちゃって」
「ううん、気にしないで?」
そう言って踵を返す緋波に、雪樹は重い足取りで追いつく。そして話題を変えるように、
「それにしても、なんかぱぁっと遊びたい気分だな」
「そうなの?」
「最近は勉強ばっかりだったから。って、そういえば遊ぶ予定あったな……」
「誰と遊ぶの?」
少し食い入るような緋波に引きつつ、
「律華だよ。桜城に告白した代わりにデートしろって、無茶苦茶な理由なんだけど」
「そうなんだ? 雪樹くんは楽しみ?」
「どう、なんだろうな……。最近は律華との距離がよくわからなくて」
「どういうこと?」
問われて考えるように俯くも、やはり答えが見つからず、
「ごめん、俺もよくわからないんだよ。結局律華が俺に求めていることが何なのかさ」
「そうなんだ? じゃあ、明日のデートで見つかるといいね?」
「だといいんだけどな」
ため息交じりの雪樹を、緋波は深刻な表情で見つめていた。
「雪樹おそーい! 何してるの!」
遠くに雪樹の姿を見つけ、ご立腹の律華。それもそうだ。すでに待ち合わせの時間から十分も経過しているのだから。
待ち合わせ場所は最寄り駅から五駅ほどの大きな街。休日ということもあり、かなりの人だ。雪樹たちと同じく待ち合わせしている人もたくさんいる。
雪樹は律華に駆け寄ると、
「ごめん。ちょっと寄り道してたら……。というかそもそも、一緒に家出ればいいんじゃないの? 同じ屋根の下に暮らしているんだし」
雪樹の提案に両手を軽く上げて、やれやれと首を振る律華。
「わかってないわね。それじゃ雰囲気がないじゃない」
「そういうものなのか……?」
そんな雪樹にため息一つ吐くと、あっと何かに気づいたように髪の毛を弄りだし、少し恥ずかしそうに身をよじる。
「どうしたんだ?」
「……今日の律華、どう?」
多分直接聞かなきゃ一生伝わらないな、と律華は諦めて聞いた。雪樹はあっと声を漏らし、意図を理解した様子。
黒色のオフショルダーに、短めのスカート。学校では黒ストを履いているが本日は履いておらず、すらりと伸びた真っ白な足を露わに。家では珍しくないはずなのに、どこか高鳴る心音を呼吸で制し、
「あー……うん、とっても素敵だと思うよ」
そんな忌憚のない感想を述べた。答えは無難なものではあるものの、律華は少し嬉しそうに弄っていた髪の毛を離すと、
「ん。それじゃあ、行くわよ」
「えっちょ……そもそも今日の予定について、何も聞かされてないんだけど」
「本当は雪樹に男らしくリードしてほしいけど、雪樹どうせそういうの出来ないでしょ? だから今日は、将来のお嫁さんである律華がリードしてあげる」
「いつから嫁になったんだって……」
雪樹の話は聞いていないとばかりに、律華はぐいぐいと引っ張っていく。人の流れの隙間を見つけながら進んでいくが、その際に様々な男たちが律華に振り返るのを見て、やっぱり誰から見ても美人なんだな、と雪樹は感心していた。
そして連れてこられたのは、
「映画?」
雪樹の目の前には、様々なジャンルの映画の広告。それを見ただけで、雪樹の心は踊った。
「これこそデートの定番よね」
「まぁ確かに……それで、何を見るの」
「もちろん、大人なラブロマンスよ」
「はぁ」
反応に困った雪樹からはそんな声が漏れた。そして建物に入ると律華は、
「それじゃあはお手洗い行くから、雪樹はポップコーンとか買っておいてよね」
「わかったよ」
雪樹は手早く注文を済ませて、商品の出来上がりを待つ。ふとロビーに目をやると、
「ん?」
一瞬、緋波の姿が見えた気がした。
「お待たせいたしやしたー」
「あ、ああどうも」
慌ててもう一度見るが、どんなに目を凝らしても緋波の姿はなかった。気のせいだったのか……と雪樹は首をひねっていると、
「誰かいたの?」
「ああ藤枝がいた気が……って律華!?」
いつの間にやらお手洗いから戻っていた律華。雪樹の様子に目をとがらせる。
「ふーん藤枝さんね……ねぇ雪樹。藤枝さんがいたところで、どうしてそんなことを気にするの?」
「べ、別に街で知り合いを見かけたら、少し気になるだろ」
「でもさぁ雪樹、今は律華とのデート中なのよ? ほかの女を気にするなんておかしいでしょ」
「それは付き合っている男女ならそうかもしれないけど」
「律華と雪樹は付き合ってるも同然でしょ? 同棲しているんだしさ」
「同棲ってそれは……」
「それは、なにかな?」
「……」
唇を噛む雪樹を見て、律華はぷっと吹き出した。
「あはは、冗談だって! 本気にしちゃった? ほらほら映画が始まっちゃうし、早く行くわよ」
いつものようにひとしきり笑う律華にため息、ああと気のない返事をして先を行く背に追いつく。
やっぱり、俺の事なんて玩具ぐらいにしか思ってない、よな。
館内に足を踏み入れるとすでに暗くなっており、もうすぐで始まるというところらしい。ひとしきり映画の宣伝が終わると、
「いよいよ始まるみたいね」
「楽しそうだな」
「もちろんよ」
こうしていると、本当に彼氏彼女になったみたいだ。実際のところ、桜城には振られたんだし。律華の言う通り、俺には律華しかいないのかもしれない、なんてことまで思えてきてしまう。
しばらく映画を見進めていると、主人公である男性が叫ぶ。
『アミエル・グランダは、シレーナのことが好きなんだ。友達としてじゃなく、女の子として!』
うっはー、この告白ものすごくデジャブでものすごく恥ずかしいんだけど!
思わず赤面する雪樹は、映画を直視できずに目を逸らした。
『ごめんなさい。あなたのことを異性として見たことはないの』
なんだろうな……ものすごく感情移入してしまいそうだ。
雪樹はすでに感極まっているが、これはまだ序盤だ。これからどうなっていくのか雪樹がワクワクしていると、
「!」
突然律華が手を繋いできた。しかも恋人繋ぎ。雪樹はどうしたんだと律華を見やるが、当の本人は映画に夢中ですよ、と前を向いたままだった。今は上映中、抗議することも出来ず、渋々そのまま映画を見続けることに。
そして映画は進んでいき、諦めずに告白を続けた男性に女性がついに折れ、感動のフィナーレ。
そして濃厚なキスシーン。思わずドキッとする雪樹。体温の上昇を感じていると、
あれっ……?
ふとつないだ手の温度が急に上がった気がした。
まさか律華も……、いや、気のせいか。自分の手の熱だよな。
そしてエンディング、明転。ぞろぞろと客が出ていく中、なんとなく手を繋いだまましばらく黙っている二人。人がほぼいなくなったところで、
「り律華、そろそろ出ようか」
「そ、そうね」
手を放し、慌てて出ていく雪樹たち。雪樹は手を繋いだことを問い質すのをすっかり忘れていた。
映画の後、近くのファミレスで軽食を食べ終えた二人。お昼時を過ぎていることもあり、店内の人影はまばらだ。
「この後はどうするの?」
「ちゃんと予定があるから安心しなさい」
「なんというか本当にプラン立てているんだな」
「もちろん。雪樹に出来る女の子ってみせつけなきゃいけないし」
「それは頼もしいな」
「じゃあそろそろ……」
「あれっ、桐柴と律華ちゃんだ」
声に驚き振り返ると、
「桜城? どうしたんだこんなところで」
そこにはドリンクを取りに行く途中だったのか、空のグラスを持った鳴海の姿が。
上着はフリル系で可愛らしく、パンツはダメージジーンズという出で立ちだった。
「私は別に、せっかくの休みだから外に出ようと思っただけだよ」
「そっか。えっ、てことは一人なの?」
「そうだよ。何か変かな?」
「別にそういうわけじゃないけど」
「そういう二人はデート中なのかなぁ?」
にやにやと意地悪い笑みを浮かべる鳴海に、律華はどこか嬉しそうに、
「そうよ。前から約束してたの」
「あはは、羨ましいなぁ。それじゃあお邪魔なあたしは退散するとしようかな」
「そんなこと言わずにもう少しいればいいのに」
「心にもないこと言っちゃって」
「どうでしょう?」
おどけてみせる律華に鳴海はあははと笑う。そしてひとしきり笑うと、手を軽く挙げて、
「それじゃ、本格的にまたね」
「ああ、またね」
ドリンクを注いで、自分のテーブルに戻る鳴海を見送ると律華が、
「鳴海ちゃんって、一人でこういうところ来るのね」
「そうみたいだな。ちょっと意外かも。どっちかといえば、誰かといたいタイプだと思ってた」
「どんなに近くにいても、わからないこともあるんだね」
律華は少し寂し気な眼差しで、氷が解けて水だけになったコップを眺めながらそんなことを言った。
「そんなものなのかもな」
「っとそれより、律華たちも行こうよ」
「そうだね」
二人で席を立ち会計を済ませ、今度こそ外へ出ると律華は伸びをした。
「んー、暑くなってきたわね」
「もうすぐ夏だもんな」
「このまま外にいたら干からびちゃいそ」
「早く移動しようか。……って、そういえば例によって行き先知らされていないのですが」
雪樹が伺うと律華はあーと気の抜けた返事をしてから、
「そうだったわね。ほら、律華についてきて」
そうして先行する律華についていくこと数分。やたらと大きな音が鳴り響くここは、
「今度はゲームセンター?」
「やっぱりここもデートの定番よね」
「まぁ確かにそうだな」
いろんな音が入り混じる店内。いつもより気持ち大きめの声で同意する雪樹。そして雪樹はここに来た目的を聞いた。
「で、何をやるの?」
「そうねぇ……ひっ」
もったいぶるように間延びした口調だった律華が、突然小さな悲鳴をあげた。
「どうしたのって……お化けか」
律華の視線の先には、お化けを銃で撃ち倒していくビデオゲーム。律華はお化けの類が得意ではない。それを知っている雪樹は、律華を抱き寄せて軽く背中を撫でてやる。
「うう……」
「い、いまだに怖かったんだ」
自分からやっておいて、女の子の背中を撫でているという事実に緊張する雪樹。だが律華に気にする様子はなく、相変わらず雪樹の胸で小さくなっていた。
「だって目に見えないんだもん。目に見えないものは怖いよ……」
「とりあえず離れようか」
雪樹がそう呼びかけると、律華はうんと小さく頷いた。ある程度距離を取ったところで、
「もう大丈夫だよ」
「あ、ありがと、雪樹」
落ち着きを取り戻した律華は、恥ずかしかったのか服をちょいちょいと直す振りをして目を逸らした。
「それで、ゲームセンターに来た目的は?」
「ああ、ちょうどこれよ」
避難してきた先がどうやら目的地だったらしい。律華が指さしたのは、
「プリクラ……確かにそれっぽいな」
「将来的にも絶対はずせないわよね!」
「将来的……?」
「ほらほら早く撮るわよ」
雪樹の疑問を無視して、無理矢理筐体の中へ押し込んだ。中に入ると白くまぶしい空間、ファンシーな音楽。初めてプリクラを撮る雪樹はオロオロと、
「えっと、どんなポーズをすれば……」
「大丈夫よ。律華に任せて」
エッヘンと胸を張る律華に促されるまま、様々なポーズで撮影していく雪樹たち。律華の先導はうまく、雪樹もだんだんと楽しくなってきていた。そして、
「次が最後の一枚か。どうするんだ?」
「ここをこうで、このまま前向いてて」
「こ、こう? ってカウントダウンが……」
「あっ雪樹! こっち向いて!」
焦る雪樹に突然の指示。反射的に律華の方を向くと――
「えっ?」
パシャリ。
「律華、いま……」
雪樹がは呆然と立ち尽くしたまま、真っ赤な顔で問う。
「うん。デートなんだから、これくらい当たり前でしょ?」
余裕そうに見せる律華だが、その表情は雪樹ほどではないが上気しているように見えた。
「でも」
「ほら、次はお絵かきタイムだから、行こう?」
「あ、ああ……」
雪樹と目を一切合わせることなく筐体を出ていってしまう律華。雪樹は自分の唇に触れようとして腕を伸ばすが、頭を軽く振りゆっくりと腕を下ろした。
「よく撮れてるわね」
完成したプリクラを感慨深いように眺めながら律華。そんな彼女に雪樹はそうだな、と淡泊に答える。
ゲームセンターの前で立ち尽くす二人は、先ほどのこともありなんとなく沈黙。車の通りすぎる音、人々の微かな話声。赤く染められた空。
雪樹がその沈黙に耐えられなくなったところで、
「えっと、このあとはどうするんだ?」
「このあとの予定は特にないわ。時間も時間だし、お開きね」
「そっか、じゃあ帰るか」
先を行く雪樹に、律華もついていこうと歩き出したところで、
「……痛っ」
小さな悲鳴を上げた。雪樹は律華に振り返り、心配した様子で近づくと、
「どうした?」
「ちょっと靴擦れしちゃって……」
靴を脱いだ律華の足を見ると、皮がむけ赤く腫れていてかなり痛そうだ。その具合から察するにかなり長い時間、我慢していたのかもしれない。
「とりあえずここだと邪魔になるから、脇にそれよう。俺の肩もって」
「ごめん……」
珍しくしおらしい律華に、雪樹はどこか胸の高鳴りを感じた。変な間が生まれたことに気づき慌てて、
「あ、謝るようなことじゃないだろ。でもどうしたもんか……」
悩む雪樹に、律華はぴっと暗く細い道を指さし、
「ここを抜けたところに公園があるの、とりあえずそこで休むわよ。絆創膏も持ってきてるし」
「えっ、この道? 本当に公園なんてあるの?」
「律華のこと疑うの?」
鋭い目の律華に睨まれ委縮し、
「いや、その、ごめん。じゃあおぶるね」
「うん……」
腰を下ろす雪樹に律華は、ゆっくりと覆いかぶさるように体重をかけた。よっと雪樹が立ち上がり、ゆっくりと律華の示した路地裏を行く。しばらく歩いたところで、
「ほ、本当にあった……」
感嘆の声を漏らす雪樹に、律華は少し落胆の色が混じった声音で、
「やっぱり疑ってたんだ」
「あ、ごめん……」
「別にいいけどっ」
律華はぶっきらぼうにプイっと告げると、早く下ろしなさいと命令を下した。
「じゃあ下ろすからな」
「うん、それじゃあ絆創膏、貼って?」
「えっ、俺なの?」
「当たり前でしょ。ほら早く」
動物にしつけるかのようなトーンで、ぺいっと雪樹の目の前に絆創膏を突き出した。
「わ、わかったよ」
やれやれといった様子で受け取り、雪樹は律華の前にかしずくように腰を下ろした。ふと周りを見るとあまり遊具らしきものもなく、公園というよりは空き地と言ったほうが近いかもしれない。
絆創膏の準備をする雪樹の様子を律華はうっとりと眺め、なぜか艶っぽい声で、
「……優しくしてね?」
「ど、どういう……。それにしても、人少ないな」
動揺する雪樹ははぐらかすように話題を逸らした。だが律華に気にする様子はなく、
「ええ、場所が場所だから。そもそも知ってる人も、ほぼいないと思うわ」
自慢するように語る律華だが、緊張する雪樹にはあまり届いていないらしい。
こんな風に女の子の足に触れるなんて、なんだかいけないことをしてるみたいだ……。というか顔上げたらスカートの中見えそうだし……。
雑念を振り払うように頭を振り、ぺたりと絆創膏。
「っと、これでよし。とりあえず大丈夫か?」
貼り終えた雪樹は顔を上げ、律華の顔色をうかがう。律華は満足そうに微笑みありがと、と短く告げた。
「それじゃあそろそろ」
と雪樹が立ち上がったところで律華が突然、
「雪樹!」
力強く呼ぶ声に驚いている雪樹を掴み、自分と入れ替わるようにベンチに無理矢理座らせた。そして律華は逃げられないよう、覆うように両手でベンチを押さえた。
「ど、どうしたんだ律華」
驚き目を見開く雪樹に、律華はにこりと妖艶に笑った。
「デートの最後だよ?」
「さっきもう予定はないって」
「デートの最後にすることなんて決まってるでしょ」
ゆっくりと顔を近づけ、また口づけでもされるのかと雪樹は身構える。そんな雪樹を意地悪く笑い、律華の唇が雪樹の耳元まで来たところで、絹のように柔らかな声で、
「子作り、でしょ?」
囁く声。一瞬で思考がショート。雪樹自身もよくわからない汗が流れる。
「な、なんでそんなこと……」
「安心して。今日はちゃんと危ない日だから」
愛しそうに自分の下腹部をゆっくりと撫でる律華に、
「そんなこと聞いてない。どうしてこんなことをするんだって」
「決まってるでしょ。雪樹の子供さえ出来れば、もう律華以外と結婚するなんて、無理よね」
「だからってこんなこと」
「雪樹は律華に逆らうの? どうして?」
抗おうと身ををよじる雪樹だったが、その言葉に脱力。
「……俺は、律華のことはそんな風に見ていないし、それに俺には」
「好きな人なんて、いないよね? だって振られちゃったんだもん」
追いつめるように、逃げられないように、離さないように。律華の一言一言に、そんな力が込められているようだった。雪樹は上げていた手すらも、するりと力なくベンチに落としてしまう。
「確かに……そうだけど……」
「だったらさ、律華でいいじゃん」
「……」
今の雪樹には、とても魅力的な提案に聞こえることだろう。
「律華は雪樹のこと男の子として見てあげるよ。律華は雪樹のずっとそばにいるよ。律華は雪樹の味方だよ。律華だけは雪樹のこと、永遠に愛してあげられる。だから、いいでしょ?」
「そう……なのかもな……」
そもそも俺が桜城と付き合うことはもうないんだ。だったら律華と付き合えば、そうすればこの胸に突き刺さる杭からも解放される。それに律華のことが嫌いな訳じゃない。だったら、だったらこれで……
ぼぅっと、頭の中から支配されていく感覚。
「ね、そうよね。じゃあ、始めよっか……」
律華はゆったりと妖艶に、すらりとした真白い手を雪樹に伸ばす――
「待って」
響く声。律華はその声を聞くと同時に、歯を強く食いしばった。そしてゆっくりと振り返り、
「また、あんたなの……」
律華の視線の先には、雪樹に買ってもらった服に身を包んだ藤枝緋波が佇んでいた。
「なんで、なんでここにいるのよ!」
一度ならず二度までも! そんな怒りのこもった律華の咆哮。だがやはり緋波に動じる様子はなく、視線を雪樹に向けた。
「雪樹くん、よく考えて? 雪樹くんは好きなのか分からない人と、こんなことをするの?」
「……」
相変わらず呆然としている雪樹。律華は緋波に向き直り、さらに詰め寄る。
「どうして律華の邪魔をするの!」
「別に
律華の呼びかけに雪樹は息を吸い、吐く、目を閉じる。そしてもう一度、大きく深呼吸した。
「……やっぱりやめよう」
絞り出すような声。ただの一言。だが、律華を突き放すには十分なものだった。
「雪樹……どうして……」
「律華のことは好きだけど、ごめん。そう意味では好きではないんだ」
その言葉に律華の唇が震え、噛みしめ、そして。キッと緋波を睨んだ。
「……っ! あんたのせいでっ!」
「律華っ!」
手を上げてしまうんじゃないかと思った雪樹が、声を張り上げ制止する。緋波はというと、いまだに顔色一つ変えずに、
「いいよ。私はかまわない」
堂々と言い放つ。その姿に律華の勢いは失われ、そのまま俯いてしまった。そして緋波は少しだけ、躊躇うような表情を見せ、
「ねぇ、八知読さん。あなたは本当に――」
「……先に帰る」
緋波の質問を遮るように、律華は突然そんなことを言った。ただ、その理由は律華自身にもまだよくわからなかった。
「律華は絶対に諦めないから」
雪樹に恨みがましい視線を向け、そのまま家の方角へ去ってしまう律華を、雪樹と緋波は静かに見ていた。そして律華の姿が見えなくなると、
「……その、また、助けられちゃったね」
雪樹は恥ずかしそうに頭を掻きながら礼を言うと、緋波はんっ? と首を傾げた。
「私、助けになれたの? 本当はせっくすしたかったとかない?」
「……それ、笑いとろうとしてる?」
雪樹はあまりにも真顔、そしてキャラじゃない発言に、どんな表情をすればと迷いながら聞くと、緋波はなにか? といった様子でまた首を傾げた。
「そう、ならいいや。それにしても、藤枝には情けないとこ見られてばかりだな」
やはり恥ずかしいのか、雪樹は緋波を直視できないままだった。
「そんなことないと思うよ? いつだって雪樹くんはちゃんと決断しているよ? 私はただ、背中を押しているだけだと思うな?」
「それじゃあ俺は藤枝がいないとダメな人みたいだな」
笑いながら、何気ないそんな一言に、
「それってなんだか、告白みたいだね?」
わざわざ雪樹が逸らしていた視線をとらえ、上目遣いにそんな感想。
雪樹は確かな胸の高鳴りを感じた。
「……うん、俺はきっと藤枝のことが好きなんだ」
気づいたときには、そんなことを口走っていた。雪樹は慌てて口を押さえるが、自分で言葉に出してみて、実感。
そう、だよな……。この気持ちはきっと。
「お友達として?」
「いや、女の子としてだ」
「えっ?」
驚き目を見開く彼女の姿は珍しい。そんな表情を引き出せて、少しだけ役得な気分の雪樹。だがはっと思いだしたように、
「いや、ついこの前まで別の人を好きだって言ったのに、正直自分でもどうかと思う。でもきっと、この気持ちは間違いない。だから」
だから、藤枝のことが――
「それは違うよ」
無表情に緋波の言葉。唐突な否定に雪樹はえっ、と声を漏らす。
「雪樹くんのそれは勘違いだよ」
さらに突き落とすように、緋波は続けた。
「どうして、そんな……」
「たまたま雪樹くんの命を救った人間、雪樹くんにとって私はそれ以上でもそれ以下でもないんだよ」
淡々と事実だけを述べていく緋波に、雪樹は強く訴える。
「そんなことない! 俺にとって藤枝はもう大切な存在だ!」
「それは雪樹くんが命の恩人に対して報いたいだけなんだよ」
「じゃあ俺のこの気持ちは……いったい、何なんだよ……」
表情を一切変えずに話す緋波の姿は、今の言葉が本心から出ていると確信するには十分だった。
「ごめんね、いくら雪樹くんが想いを打ち明けてくれても、私にとってはその奥にある、命の恩人が化けているようにしか思えないんだ」
「……」
「じゃあ、私は行くね?」
そう言い残し去っていく背中を、ただただ見つめる雪樹。拳を握りしめて、
俺のこの気持ちは、きっと命の恩人だとかそれだけのものじゃない。偽物なんかじゃないはずなんだ。でも、それならこの気持ちはどうやって証明すればいい? 想いは、どうやってはかればいいんだよ……。
雪樹から遠ざかっていく足音たち。雪樹はしばらくそのまま、動けずにいた。
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