第一章 君が助けてくれたから
目が開く。
そんな当たり前のことに
起きあがろうとするが、体が重い。痛い。
少しずつ何があったのか、記憶がおぼろげに姿を現し始めた。
……そうだ。確か階段で足を滑らせて、それから――
体に別の重みがあることに気づいた雪樹。ふと自分の体に目を向けると、
……女の子? しかも俺の知らない子だ。
イスに座り、雪樹の足元でうつ伏せに眠りこける少女。雪樹の体が動いたからだろうか。眠りから覚醒し欠伸を一つ。伸び、目をこすり雪樹を見る。
「あっ」
視線がぶつかると、少女の小さな悲鳴。そして、
「目っ! 目が覚めたんだね!」
慌てふためく少女。その慌てぶりに思わず身を引く雪樹だったが、ベッドの上なのでそれは叶わなかった。
「あっあっ、驚かせてごめんね? とりあえずナースコール……」
そう言って少女はギシッと片膝をベッドに乗せ、反対側にあるナースコールに手を伸ばす。必然、雪樹の目前に少女の顔が近づく。
「綺麗だ……」
雪樹の言葉に少女はえっ? と声を漏らし驚く。だがそれは雪樹も同じだった。雪樹は声が出たことに驚き、そして思ったことをそのまま口にしてしまった事に驚いた。
「えっと……ありがとう?」
少女はどうして良いか分からないといった様子ながらも、頬を赤らめてそんなお礼をした。
「しばらくしたらナースさん来ると思うから、もうちょっと待っててね?」
不思議な抑揚で喋る女の子だな、と雪樹は思った。そして腰よりも下まで伸びた長い髪の毛は、どこか浮世離れしたようなものを感じて、雪樹はなんとなく妖精という単語を思い出した。
状況を整理しようと目を閉じると、少女は優しく問うた。
「えっと、雪樹くんはどこまで覚えてる? ちゃんと、ここがどこで、自分が誰で、何があったのか、わかる?」
「うん……それは大丈夫。ただ、何があったのかはまだ少し……」
「えっとね、雪樹くんは、頭から血を流した状態で、階段のところに倒れてたんだ? それで救急車でここまで運ばれてきたんだ?」
「そう……か。そうだったんだね」
「かなり血が流れてたこともあって、結構危なかったんだよ? 二日も目を覚まさなかったから、私も心配だったよ?」
「二日?」
日数としては短いかもしれないが、自分が一切知覚していない二日間は、とてつもなく大きく感じた。
「そう、二日間だよ? ずーっと目を閉じたままだったよ?」
「そうだったんだ……。丁寧にありがとう。ところで、君は?」
「私? 私はお見舞いに来たんだ? さっきまで雪樹くんの知り合いの女の子も来てたよ?」
「女の子……」
多分、律華だよな。
その存在を思い出し、雪樹は少しだけ気分が落ち込んだ。
「きっとこれからいろんな検査もあると思うから、私はもう行くね?」
そう言って席を立つ少女。雪樹は慌てて、
「ま、待って」
「どうしたの?」
立ち止まる少女に雪樹は問うた。
「君は、誰なの?」
その問いに少女はあっ、と口を開けて少し残念そうに俯く。そんな様子に雪樹は、理由も分からないまま申し訳ない気持ちになった。
そして少女は無表情になると、
「私は
そう言って部屋から出ていってしまう緋波と名乗る少女。雪樹はまだ聞きたいことはあったが、引き留めることは出来なかった。
ひとしきり検査を終えて雪樹が戻ると、
「雪樹!」
雪樹の胸に女の子が飛び込んできた。あまりの勢いに思わず倒れそうになるが、病み上がりながら何とか持ちこたえた。
「いたた……。律華、急に飛び込んでくるなよ」
雪樹に咎められる
「雪樹、雪樹雪樹! ちゃんと、ちゃんといるよね? 律華の前から、消えちゃってないわよね? ねぇ、雪樹……?」
確認するように雪樹の背を撫でる律華。そして消え入りそうな声。雪樹は少し意外に感じながら、
「いるいる、ちゃんといるよ」
と答えた。だが聞いてもなお不安なのか、律華はしばらくの間無言で雪樹を確認し続けた。
「律華……」
雪樹が呼ぶと、やっと安心したのか律華はゆっくりと離れた。
「本当に……大丈夫なの?」
「医者も問題ないって言ってたよ。だから大丈夫だって」
「よかった……本当に……」
安堵の息をもらしながら、両の目を拭う律華。
「そんなに心配してくれてたんだな」
「当たり前でしょ。律華には雪樹しかいないんだから」
すんと鼻をすすりながら、少し恥ずかしそうに視線を逸らす律華。そんな姿が、雪樹にはやはり不思議に映った。
「ごめん、ちょっと意外だったから。むしろ律華にしてみれば、俺なんていない方がいいと思って」
「どうして、そんなこと言うのよ」
先ほどまでとは違う、低く責めるような声音。明らかに律華の雰囲気が変わったのを感じた。
「そんなこと思うわけないでしょ。だって雪樹はずっと、永遠に律華のそばにいなくちゃいけないんだから。なのに律華の前からいなくなろうとするなんて……」
雪樹の目をまっすぐと見つめ、にっこりと笑顔を浮かべた。
「絶対に、許さない」
言葉とは裏腹に、優しく呟く。
「雪樹は律華から大事なものを奪ったんだから、一生律華のそばにいるのは当然でしょ? 死んで終わりにしようなんて許さない。もし死神が雪樹を連れて行くなら、その死神を殺してでも連れ戻す」
淡々と語る律華。過去の記憶を引き出され、雪樹の打ったばかりの頭を痛みが襲う。
「わかってる……だからごめん」
「いいや雪樹はわかってない。ううん、雪樹にはわからないよ。律華の生まれたころにパパは病気で死んで、ほかに近しい親戚もいない。律華にはママだけだった。そんな大事なママを、目の前で殺される気持ちなんて」
「あれは……」
「そう、あれは事故だった。あの時は雪樹もまだ子供だったし、突然道路に飛び出しちゃうこともあるよね。でも、事実には変わりないでしょ?」
「……」
雪樹を庇って車にはねられた律華の母親。庇われたとはいえ、雪樹も頭をかなり強く打った。その上あの事故から、かなりの年月も過ぎて記憶も朧げ。ただ胸に残っているのは罪悪感と恐怖。
沈んだ雪樹の表情を見て、律華はにこりと満足そうに微笑んだ。
「普通なら絶対に許さない。どんなに謝っても、例え律華の面倒を見てくれても、どれだけ律華に尽くそうと、許しはしない。だけど」
律華は優しく雪樹の頬に手を添え、じぃっと雪樹のことを見とめた。
「律華なら、許してあげる。だって、律華は雪樹のことが好きだから。だから、雪樹がずぅっと律華のそばにいるなら、許してあげる。ね、律華は優しいからね」
すっと雪樹の手を両手で祈るように握り、
「だから、律華と結婚して? そうすれば、雪樹は赦されるよ?」
「そう言って俺から自由を奪いたいだけ、なんじゃないのか?」
「……。もし本当にそうだったとして、雪樹に拒否権なんてないよね」
「それは……」
言葉に詰まる雪樹に、
「ふふっ」
と、律華は笑った。さっきまでの表情はどこへやら、別人のように眩しく笑う。
「もう、冗談に決まってるでしょ! まさかホンキにしちゃった?」
「……別に」
「全く雪樹は冗談が通じないんだから」
律華はひとしきり笑い終えて両の目を擦ると、
「まぁでも、ねぇ……」
悪魔っぽく口角を上げる。ああ、やっぱりいつもの律華だ。雪樹はそう落胆した。
それからおよそ一ヶ月の月日が流れ、雪樹の体はすっかり快復を果たした。そして今日は快復してから初登校の日。
『雪樹の久しぶりの登校だから一緒に行きたかったけど、今日は早く行かなきゃだからごめんね』
そう言って律華は家を先に出たため、学校へと一人で向かう雪樹。
久しぶりだな……学校行くの。でもちょっと怖いな。クラス替えがあった直後じゃないとはいえ、入院だもんなぁ、浮いたりしないかな。
などと漠然とした不安。紛らわすために深呼吸すると、少しじめりとした空気を感じる。そうか、もうすぐ梅雨だもんな、と曇り空を見上げていると、
「桐柴ぁ!」
突然後ろから思い切り抱きついてくる女の子。その声と行動に一瞬驚き目を丸めるも、雪樹はすぐに正体が分かった。
「桜城、急に抱きつくのやめろって」
俺の周りでこんなことをするの、桜城だけだよな。
「しょうがないじゃん。桐柴に会うの久しぶりなんだから」
雪樹が離れろと言っても、一切離れる様子を見せない
「桜城の場合いつもだろ」
前と変わらない鳴海の様子に呆れつつも、雪樹はここに帰ってきたんだと安心した。
「そんなこと言わないでよ。一ヶ月も学校来ないんだもん」
「そりゃそうだけど。別に寂しくはないだろ? 友達多いんだし」
鳴海はいったん離れ雪樹の前に回り込み、キスをするんじゃないかというほど顔の距離を詰めた。
「桐柴と比べたら多いとは思うけど、あたしは桐柴に会いたかったの。わかってよね」
鳴海の無邪気な発言、行動に思わずドキッとしてしまう雪樹。気を紛らわすように頭を振り、グイっと鳴海を引き離した。短くまとめた鳴海の髪がふわりと揺れ、甘い花のような匂いが雪樹の鼻をくすぐる。
「ほら、早く行こうぜ。復帰初日から遅刻なんて悪目立ち、したくないし」
歩き出す雪樹に、小走りで横に並ぶ鳴海。
「大丈夫だって。桐柴なら、遅刻しても気づかれないから」
「どういう意味だよ」
ムッとする雪樹に鳴海はケタケタ笑い、
「そんなに怒らないでよ。それより、体はもう大丈夫なの?」
「ああ、それなら問題ない。医者のお墨付きだし」
「そうなんだぁよかった。あたしすっごく心配したんだよ?」
「その割にはお見舞いに来てくれなかったけどな」
入院中、来た人といえば家族と律華と、あと藤枝緋波と名乗る少女だけだった。しかもその緋波もあの一度以降、来ることはなかったので実質家族と律華だけ。そう思い返して雪樹は少し悲しくなった。
「あははー……ごめんねぇ。病院は嫌いなの……」
「自分が検査されるわけじゃないだろうに」
「しょうがないの。いいでしょ、心配してたのは本当なんだから。ほら、伝われあたしの心配!」
抱き着こうとしていることを察した雪樹は、するりと身をかわした。
「ことあるごとに抱きつこうとするのやめろって」
鳴海はむぅと頬を膨らまし、
「なんでよぉ。そんなに嫌い? あたしのこと」
「嫌いとかそういう問題じゃなくてだな……」
言葉を濁す雪樹に、どしたのと顔を覗き込む鳴海。雪樹はゆっくりと視線を逸らした。
無理もない。想いを寄せる異性に事あるごとに抱きつかれては、心のやり場に困るだろう。
「別に理由なんてないよ」
「えー、じゃああたしの心配はどう伝えればいいのぉ」
うるうると涙をためた抗議の視線。雪樹は見ない振りをして、
「もう十分伝わったから。ありがとうな」
ぶっきらぼうに告げ、少し歩調を速めた。待ってようと隣に追いついた鳴海はあっと声を漏らし、
「ところで桐柴、そもそもどうして入院することになったの? 階段から落ちたーってところぐらいしか聞いてないんだけど。まさか、誰かに突き落とされたの?」
「そんな事件性のある話じゃないよ。単純に俺が足を滑らせて落ちて、頭を強く打ったってだけらしいぞ」
「らしいって?」
「いや、正直俺もあんまり覚えてないんだよ、前後の事。頭を強く打ったからかな」
雪樹は入院中何度か思い出そうと試みたものの、残念ながらその時のことがさっぱり思い出せなかった。
「そうなんだ……。でもよかった、大事じゃなくて」
「そうかもしれないけど、発見がもう少し遅ければ出血多量で死んでたらしいよ」
「あ……。なんか、ごめんね」
「いや気にしないでくれよ」
変な沈黙が流れ、雪樹は余計なことを言ったと後悔した。車が過ぎ去る音だけがしばらく続く。
そういえば、俺を見つけてくれたのって藤枝緋波だって言ってたな……。
「桐柴、どうしたの?」
ぼーっとしていた雪樹に、心配そうな声の鳴海。雪樹はいや別にと手を軽く振り、
「桜城、藤枝緋波って知ってるか?」
鳴海はんんっ、と唸って過去を振り返るように空を見つめ、首をかしげる。
「ヒナミ? ううん、知らない。その子がどうかしたの?」
「いや、その女の子が俺を見つけてくれたらしくてさ」
聞くと鳴海はパチンと手を鳴らし嬉しそうに、
「じゃあその緋波ちゃんって子は、命の恩人なんだ」
「そうなんだよ。律華にも聞いたんだけど、知らないの一点張りでさ」
「おや、律華ちゃんにそんなこと聞いちゃったの?」
やってしまいましたねぇ、と動かぬ証拠を見つけた探偵のようにしみじみとした口調の鳴海。
「何か問題でも?」
「そりゃあ……ほかの女の子の話なんて、律華ちゃんが妬いちゃうでしょ?」
「妬くってそんなまさか。律華は俺のことを好きだから結婚したいんじゃなくて、俺に復讐したいからあんなことを言ってるだけなんだから」
「うーん……どうなんだろうね」
鳴海はどうとも取れない雰囲気でそう言うと、
「まぁ律華ちゃんのことはさておき、要するに桐柴はその緋波ちゃんにお礼を言いたいんだね」
「そういうこと。入院中一回会ったっきり来てくれなくてな……」
あらら、それは残念……と鳴海は肩を落とし、
「でもあたしに聞くってことは、同い年くらいの子なの?」
「多分……。でも知っているのが名前だけじゃ、どうしようもないよな」
「そうだねぇ、確かに難しいかも。でもあたしも探してみるから、何かわかったら教えてあげるね。あたしもお礼、言わなくっちゃだし」
「? なんで?」
「だって、その子がいなかったら桐柴、いなくなってたかもしれないんだよね? そんなのあたし、嫌だし……」
「桜城……」
鳴海にとって自分の存在がそれほどのものであることが分かり、胸の奥がジーンと熱くなるのを感じた。
「だからあたしもお礼を言いたいんだ。なんなら、ノーベル賞あげたいぐらいだよ!」
「なんの賞をあげるんだよ……」
「救命賞?」
「そんな賞ないよ」
桜城のお馬鹿ぶりに思わずため息。だが雪樹はどこか心地よいものを感じていた。
「そうだ桐柴」
思い出したように鳴海。そしてなにやら鞄をガサゴソ。雪樹が首をかしげていると、
「はいこれ、あたしからの退院祝いだよっ」
そう言って差し出してきたのは、一冊のノート。不思議そうな面持ちでそれを受け取り、ノートを開くと、
「これ……まさか」
そこに広がるのは雪樹の知らない授業の内容が、丸っこい文字で刻まれたページ。鳴海はえへへっと照れたように笑うと、
「そ、入院している間の分のノートだよ」
「桜城……」
鳴海の優しさに、胸に熱いものが込み上げる雪樹。
「あの桜城がちゃんと授業聞いてるなんて……」
「驚くとこそこっ!? もう、そんなこと言う人にはそれあげないよ?」
「ごめんごめん。すごく嬉しいよ。ありがとう桜城」
教科ごとにページを変えたりしないあたりが鳴海らしいが、雪樹にとってはもはやそんなことは気にならなかった。
「最初っからそう言えばいいのに。どういたしまして」
唇を尖らせながら鳴海。素直にお礼を言われて照れているのかもしれない。そして鳴海は思い出したようにあっと声を漏らすと、
「そだ桐柴。今日は一緒にご飯食べよーよ」
肘で雪樹を軽くつついて誘う鳴海に、ふふんと雪樹。
「いいね、久しぶりだもんな」
「今回は桐柴の快気祝いだからね。あたしが奢ってあげる!」
「ほ、本当に!?」
「あっはは、すっごく嬉しそう。目が輝いて見えるよ」
「そ、そんなに? ちょっと恥ずかしいな」
「いやいや気にしないでよ。そこまで喜ばれると、あたしまで嬉しくなるしさ。食堂のメニューどれ頼んでもいいよ?」
「じゃ、じゃあスペシャ」
「それはダメだよ桐柴」
雪樹がオーダーを言い切るよりも前に、鳴海に口を人差し指で押さえられた。
「ぷはっ、なんで!? 何でもいいって言ったのに!」
「桐柴は遠慮って物を知らないんだね……」
遠い目をする鳴海に、さすがの雪樹もうぐと身を引いた。
「わ、わかったよ……別の物を考えておくよ」
「あっはは、さっすが桐柴。話が早くて助かるよ」
ぱちんとウインクを決めてみせる鳴海。雪樹はやれやれとため息をついた。
そして昼休み。鳴海とともに食堂に向かおうとしたところで、運悪く先生にお使いを頼まれてしまった雪樹。鳴海に先に行っててと、足早に職員室へ。
「失礼しました」
手早く用事を済ませた雪樹は食堂へ向かうが、
「きゃ」
女の子の小さな悲鳴が聞こえた。そちらに寄り道すると、どうやら窓からの風にプリントの束がさらわれてしまったらしい、女の子の姿があった。雪樹は慌てて駆け寄り、散らばったプリントを一緒に拾う。
「あっ、ありがとうございます?」
「いやこれぐらい……」
雪樹は顔を上げると、
「藤枝……緋波?」
目の前の光景を疑った。だがしかし、会えないと思っていた藤枝緋波は確かにそこにいたのだ。思わず言葉を失い目を丸くしていたが、緋波も同じような戸惑いの色を見せていた。緋波はどうしようと目を泳がすと、
「あっ! 待って!」
逃げるように走り出してしまった。雪樹は慌ててあとを追う。
どうして逃げるんだ?
そんな疑問はあるものの、今は必死で追いかける。ろくに逃げる先を考えずに走っているのか、緋波はどんどん階段を駆け上っていく。
息を切らせる雪樹の目に、屋上に消えていく緋波の姿。後を追うように屋上に踏み入れると、逃げ場がなくなったことに観念したのか、背を向ける緋波の姿があった。
「私に、何か用?」
ふぅと大きく深呼吸し、緋波の背に向けて、
「用も何も……、ど、どうして逃げるんだよ?」
緋波も息を整えるように深呼吸をすると、ゆっくりと振り返った。そして病院で見せた無機質な表情のまま、
「えっと、何となく?」
淡々と答える姿に、雪樹ははぁとため息。
「何となくで俺から逃げないでよ」
ちょっと傷つくでしょうが。
雪樹は心の傷をさすりながら、
「えっと、藤枝緋波、なんだよね?」
「そうだよ?」
「同じ学校、だったんだ」
「うん、2年A組なんだ? よろしくね?」
そう言ってスカートの裾を摘み、制服を見せびらかすように一回転して見せた。ふわりと揺れるスカートから視線を逸らし雪樹は、
「ごめん。俺全然知らなかったよ」
「ううん、気にしないで? クラスの場所も離れているし、知らなくても無理はないと思うよ?」
A組とB組はこの学校の特進クラスだ。D組の雪樹とは、緋波の言う通り無縁の存在かもしれない。
緋波の突然の逃走に、すっかりと抜け落ちてしまっていたが、
「あっ、そうだ。一番大事なこと……倒れている俺を、助けてくれたんだよね?」
緋波はなぜかあっ、と気まずそうに視線を逸らすと、
「うん、そうだよ?」
「助けてくれてありがとう。きっと俺、君が見つけてくれなかったらあのまま死んでたと思う。だから、本当にありがとう」
深く一礼をする雪樹に、
「お礼なんて要らないよ? 倒れている人を助けるなんて、当たり前のことだよ?」
緋波は少し恥ずかしそうに、体の前で小さく両手を振った。
「そうかもしれないけどさ、その……実はあの時、正直このまま死んでも良いかなって、たぶん思ったんだ」
「そう、なの?」
「まだ記憶があやふやだけど……きっとそうだった。実は俺、とても一人じゃ償いきれないようなことを抱えていてさ。きっと俺には償うことは出来ないから、このまま……って」
緋波はいつもの表情を少し崩し、悲しげに視線を落とした。
「でも今日学校に来て、会いたい人に会えて……。生きててよかったって思えた。それもこれも全部藤枝のおかげ。だから、本当にありがとう」
再び深く一礼する雪樹に緋波は、
「きっと」
自信なさげに口を開き、震える唇で、
「償えない罪なんてないよ」
そう、口にした。
「えっ?」
驚く雪樹の姿を見て、緋波も我に返ったようにはっと、
「あっ、ごめんね? 変なこと言っちゃって?」
慌てた様子で手を振って謝罪。そんな彼女を見て雪樹も、
「あ、ああいや、こっちこそ変な話しちゃってごめん」
と謝罪した。だが緋波は特に気にする様子もなく、
「それで、ちょっと気になっちゃったんだけどさ? 一つ聞いても良い?」
突然そんなことを口にした。雪樹がもちろんいいよと答えると無表情のまま、
「会いたい人って、雪樹くんの好きな人?」
「ぶふっ」
まさかの疑問に思わず咳込んでしまう雪樹。胸をとんとん叩いて息を整え、
「いやその……、そういうわけじゃ……」
「違うの?」
まっすぐとした瞳で見つめる緋波に、思わず息が詰まる。そして雪樹は観念したように、
「いや……まぁそんなところだよ」
正直に答えた。すると緋波はさらに続ける。
「その女の子とは付き合ってるの?」
ぐいぐい来るなぁと雪樹は思いつつも、緋波のまっすぐとした視線には、なぜだか断れない力のようなものを感じていた。
「付き合ってはないよ。仲はいい方だとは思うけど」
「ねぇ、好きなら告白しようよ?」
「なっ!?」
そしてまさかの提案。流石に雪樹も驚きの声を上げた。
「どうして急にそんな話になるんだよ」
「だってまた死にそうになったら、きっと後悔するよ?」
相変わらず無表情ではあるものの、そこには熱のようなものが込められていた。
「それは、確かにそうだけど……。でも今はもう健康で、後遺症もないって」
「だからって、ずっと伝えないままでいるの? 想いは伝えないと後悔すると思うよ? せっかく抱いた想いなのに、そのまま心の奥底にしまうなんて、悲しい事だと思うな?」
強く訴える緋波に、雪樹の気持ちに揺らぎが生まれる。
「そんな急に……」
「私も応援するからさ? ね?」
「ど、どうして俺のためにそこまでしてくれるの?」
畳みかける緋波に、雪樹はついにそんなことを聞いた。すると緋波は面食らったようにあっと口を開け、少し俯いた。そして、
「理由なんてないよ? 困っている人が居たら助ける、立ち止まっている人が居たら背中を押してあげる、それって普通の事だと思うな?」
さも当たり前のように言い放った。
「そう……だけど」
まっすぐ見つめる緋波から目を逸らし、唇を噛む雪樹。律華のことが頭をよぎったのだ。
律華の母親を奪ってしまった罪を償うには、律華の願いを叶えること。つまり、雪樹は律華と結婚するしかないのだ。だから、鳴海への想いはきっとこのまま暗い水の底にあり続けるのだろうと。
そんな雪樹の悲痛な表情を見た緋波は、優しげな声で語りかける。
「なにか、出来ない事情でも」
ぐぅ~。
沈痛な空気を壊すように、緋波の腹の虫が鳴いた。
「ん? おなか、空いた?」
ほわと口を開けて自分のおなかに問いかける緋波。
「確かに俺も……って! やっばい桜城を待たせてるんだった!」
「用事があったの?」
「そんなところだよ。……ごめん。俺もう行くね」
「わかった、じゃあまたね?」
雪樹の背を見送る緋波だったが、
「そういえば雪樹くん?」
不意に呼び止められ雪樹は足を止めた。
「どうした?」
「えっとね? 私でよければいつでもお話、聞くよ?」
「……ありがとう」
そして雪樹は複雑な気持ちを抱えたまま、鳴海の元へと向かった。
緋波と別れた雪樹が急いで食堂に向かうと、むすっとした鳴海の姿が。雪樹は急いで駆け寄り、
「ごめん! 待ったよな」
「すっごく待ったよ! 職員室に行くだけなのに、どれだけ時間かかってるのさ!」
ガタと席を立ち詰め寄る鳴海。手を合わせてさらに謝罪して、
「いや、まぁ色々あってな……」
「どうしたの? また律華ちゃん?」
「いや違うよ」
鳴海は雪樹と律華の関係を知っているし、過去も知っている。そのため雪樹自身も、律華とのことをよく鳴海に相談していた。
「本当に? ちょっかいかけられたんじゃなくて?」
「ちょっかいなんて可愛いものじゃ……じゃなくて、今回は完全に別件だよ」
ふーんと言いながら、しばらく雪樹を見つめる鳴海。美少女にまじまじと見つめられた雪樹は、思わず息をのんだ。そして鳴海はあっと声を漏らすと、
「もしかして、緋波ちゃんと再会できたの?」
「えっ?」
「あっ、当たり? やったぁ」
小さくガッツポーズの鳴海に、雪樹は依然として口が塞がらない。
「何で……?」
「いや、なんとなくだよ」
そういえば桜城って、結構こっちが求めていることをドンピシャでお言い当ててくるんだよな……。
「まぁとりあえず、桜城の言うとおり藤枝にまた会ったんだよ」
「ってことは同じ学校の人だったんだ。いやー世界は狭いんだね。じゃあお礼も言えた?」
「ああ、しっかりとな」
「そかそか。あたしも後でお礼言いに行かなきゃだね」
「本気だったのか……知らない人に突然お礼言われても困るだろうから、やめておけって」
「えーっ……、まぁそれもそうだね。ってそれより早く頼もうよ。昼休み終わっちゃう。誰かさんのせいでね」
「悪かったって。はぁ、性格悪いな」
「桐柴にだけね」
パチンと雪樹にウインクをかまし、てへっと笑って見せた。そんな鳴海に雪樹は肩を落とし、
「どういう意味だよ、それ」
「どんな意味だろうね」
おちゃらけて鳴海。そして席を立つと、
「あたしが注文して持ってくるよ。なんといっても、今日は桐柴の快気祝いだもんね!」
「いやでも、俺まだ何を頼むかなんて」
「ふっふっふっ、あたしに任せてよ!」
引き止める雪樹を強引にとどめ、そのまま券売機に向かう鳴海。雪樹にしばし穏やかな時間が流れる。
「お待たせっ♪」
席に戻ってきたランラン気分の鳴海。いつもより弾んだ声に首を傾げつつ振り返ると、
「なっ! それは! わが校の誇るスペシャルメニューじゃ!」
驚きの声を上げる雪樹に、にんまりご満悦の鳴海。
「そうだよ」
「まさか本当に奢ってくれるなんて」
「だからあたしに任せなさいって言ったでしょ?」
向かいに座る鳴海を、雪樹は神々しいものを見るような目で見つめていたが、
「あれ? でも桜城の分は?」
「これだよ?」
そういって指さすのは、雪樹の分のはずのスペシャルメニュー。雪樹がなおもハテナを浮かべていると、
「あたしもこれ食べるの」
「……えっ、本気?」
「本気だよー本気本気。こんな高いの二つも頼めないし」
「ええぇ」
雪樹が動揺するのも無理はない。好意を寄せる女の子と同じご飯を食べるというのだから。
「もしかして、あたしと一緒に食べるのは嫌?」
訝し気な視線の鳴海に慌てて雪樹は、
「そういうわけじゃないけどさぁ」
「ならいいじゃん」
なんだよーと不満そうな声に雪樹はむっとして、
「じゃ、じゃあ逆に桜城は、いいの?」
緊張の面持ちで尋ねる雪樹に鳴海の態度は、
「あたし? あたしは別に、桐柴とならいいよ」
余裕そのものだった。思わず雪樹もえっ、と声を漏らす。
「奈乃ちゃんとだって友ちゃんとだってやったことあるし」
一瞬上昇しかけた熱が冷める雪樹。まぁいいか……と頭を掻いて、
「じゃあ一緒に食べようか」
「出来立てがおいしいもんね。全く桐柴が遠慮なんかするから、少し冷めちゃったよ」
「また俺のせいかよ。だったら先に食べるからな」
「ああー! 最初の一口はあたしが食べようと思ってたのに!」
「俺の快気祝いならそこは譲ってくれよ」
わいきゃいと談笑をしつつ食べ進めていると、不意に鳴海が、
「そういえば結局、律華ちゃんはどうなの?」
そんなことを聞いてきた。どうって? と雪樹が聞き返すと、
「いや、相変わらず桐柴に求婚しているのかなって」
「ぶはっ! ……っ。まぁそうだよ。相変わらず」
「律華ちゃん、桐柴のこと好きだもんね」
しみじみとした口調の鳴海を雪樹は鼻で笑った。
「律華にそんな感情はないよ」
「どうしてそんなこと言うの」
「だって俺のせいで母親を失ったんだぞ? 恨みこそすれ、好意なんて持たれる訳ないだろ」
「まぁ確かにそうかもだけど……。じゃあ逆に、桐柴は律華ちゃんのこと、嫌いなの?」
「いや、それは……」
言い淀む雪樹に、鳴海はにやりと笑みを浮かべ、
「意外とまんざらでもない感じ?」
瞳を覗き込む。気まずそうに雪樹は人差し指で軽く頬をかき、
「一緒に暮らしてるわけだけどさ、結構家事だって出来るし、居候じゃ悪いってバイトもしてる。それに顔だってまぁ……。それはともかく、相手として全然いい。むしろ俺なんかにはもったいないとすら思うよ。それに……」
「それに?」
「過去のことだってある。俺のせいで律華の母親が死んだのは事実だ。だから、それで律華が満足してくれるなら、それで……」
んんーっと鳴海は少し頭を抱え、
「だったら、結婚しちゃえばいいんじゃないの?」
「そうなるかもしれないけどさ……、そんな気持ちで生涯律華を愛せるのかって考えた時、自信が持てなかったんだよ」
「なるほどねー……」
水を飲み干し、落ち着いた様子の鳴海。どうやらもうお腹いっぱいらしい。
「悪いな。こんな話しちゃって」
「いやいやあたしが聞いたんだし。それにさ、あたしにそういう話をしてくれてるのって、なんだか信頼されているみたいで、けっこう嬉しかったりするんだ」
えへへ、と無邪気に笑う鳴海に充足のため息をつき、
「……そりゃあ、信頼しているよ」
「嬉しいな。でも、そっか」
何に納得したのか、うんうんと唸る鳴海。雪樹がどうした? と問うと、
「いやほら、桐柴が律華ちゃんと結ばれないってことは、桐柴はほかの誰かと結ばれるって事、なんだよね?」
「まぁ可能性の話だけど」
別に俺が嫌々言ってるだけで、律華と結ばれないなんてことはないし。
そして残りを完食した雪樹も水を飲み干し、腹を撫でた。
「ふふ、あたしは桐柴の味方だからね。どんなことになっても応援するよ。もちろん、桐柴と結ばれる人も」
願わくばその結ばれる相手が、桜城ならいいけどなぁ。……なんて、言えるはずもないよな。
そして雪樹は静かに目を閉じた。
「雪樹! 一緒に帰るわよ」
授業が終わるなり律華が教室に突貫してきた。
「ああ、ちょっと待ってくれ」
落ち着いた様子で雪樹。久しぶりではあるものの、このやり取りは日常茶飯事だったのだ。
「じゃあね桐柴。律華ちゃんも」
鳴海は友人に抱きつく手を一度ゆるめ、二人に軽く手を挙げた。
「うん! 鳴海ちゃんバイバイ!」
「またな桜城」
鳴海に手を振り、律華と教室を出る雪樹。そして靴を履き替え外に出ると、相変わらずの曇り空。
「こうやって雪樹と帰るのも久しぶりね」
校門をくぐったところで、感慨深いように律華がそんなことを呟いた。
「そうだなぁ、一ヶ月ぶりぐらい?」
「正確には三十四日ぶりだけどね」
「そっか……そんなに経つんだな」
改めて自分が置かれていた状況を振り返り、そこからここに帰ってきたんだと胸が熱くなった。
「その間、すっごく寂しかったんだからね?」
むぅと頬を膨らませて律華。そんな彼女に軽く頭を下げて、
「ごめん。それに、家のことも任せっきりになってたもんな」
「確かに雪樹の分の家事も増えたけど……雪樹のことを想えば、全然苦じゃないし。そもそも結婚したら、ほとんど律華がやることになるんだし」
ちろりと律華の視線。それはまるで雪樹の反応に期待をしているようだった。
「俺が稼ぐこと前提なんだ……。いやそもそも結婚前提なんだ」
「きゃははっ、当たり前でしょ。雪樹が最後に選ぶのは必ず律華なんだから」
そんな未来を信じて疑わない様子に、すっかり落胆する雪樹。そんな雪樹を知ってか知らずか明るい調子で、
「でも、もちろん雪樹の稼ぎだけじゃ不安なら、律華も働いてあげないこともないよ? そもそも今だってバイトしてるし」
律華は明るい未来計画を述べた。さも当然のように語る姿に、そんな現実がやってくるのかもしれないという気になって雪樹は少し心の落ち着きどころを失う。
「それはありがたいけど……。そもそもお金のことを気にして、バイトなんてしなくていいのに」
家の稼ぎについて稼いでいない雪樹が言うのもちゃんちゃらおかしいが、本人もそれは自覚済みだ。
「大事なことよ? 雪樹のせいとはいえ、居候の身なんだし」
「……」
バツの悪そうな雪樹に律華はいつもの調子で、
「あっ、ごっめーん。責めるつもりじゃなかったんだけど。とにかく、もし一人で暮らすとなると、きっと莫大なお金がかかるだろうし。そうならないのは、雪樹のお家に身をおかせてもらっているからだし。これでも感謝してるんだよ? それにバイトするのって結構楽しいんだから」
「まぁそういうことなら……。ところで一ついい?」
律華とバイトの話になったところで、雪樹はかねてからの疑問を聞くことにした。
「なによ改まって?」
「いまだになんのバイトしているのか、教えてもらってないんだけど……」
「えー言う必要ある?」
なぜかものすごく嫌そうな顔で律華。雪樹がバイトのことを聞くといつもこうだった。
「いやそりゃ……やっぱり気になるし」
「律華のこと気にしてくれるなんて嬉しーいっ」
「話を逸らすなよ。それともそんなに教えたくないの?」
「いや? 単純に律華のことで悩んでる雪樹が見たいだけに決まってるじゃない」
けろっとした様子の律華に思わずため息。
「なんかもういいや」
「ちょっと興味なくさないでよ。教えてあげるから」
「じゃあ……何をしているの?」
投げやりなトーンの雪樹に律華は、どう説明しようかなーと空を見上げ、
「んーとねぇ、放課後に大人の男の人と町を歩いて、夕食を食べたりホテルでお休みしてお金をもらうバイト」
「……えっ? おいおいおいおいそれって良くない仕事じゃ? ものすごい犯罪臭が」
待って待ってと慌てた様子の雪樹にぷっと吹き出し、
「きゃははっ、嘘だって。もー、雪樹ってば冗談が通じないんだから」
「ほ、本当に違うんだよな……?」
言って、そもそも律華がそんな遅い時間に帰ってきたことなんてないことを思い出した。
「違うって。本当は人からものを受け取って、指定されたところまで運ぶお仕事なの。一つ運ぶごとになんと、十万円ももらえちゃうのよ」
「いやそれもやばい仕事……」
「きゃははっ。そんな顔しないでよ。冗談だって」
「あのなぁ律華」
律華のふざけた様子に、ついに耐えられなくなった雪樹。
「俺はさ、本気で律華のことが心配なんだよ。その、過去のこともあるけど、それ以上に家族として大事なんだ。……結婚相手としてじゃないぞ」
雪樹の想いを聞き、律華はわぁっと手を合わせうっとり顔で、
「……っ。雪樹からそんなこと言ってくれるなんて嬉しいっ! 冗談を言ったかいがあったわね!」
相変わらずけろっとした様子の律華に雪樹はげんなりし、
「いや俺は真面目に……」
「心配しないでよ。本当に普通のバイトなんだから」
結局教えてくれないのか……。
そう落胆するものの、笑顔で語る律華は嘘をついていないだろうと納得することにした。
「そういえば、今日はお母さんも帰り遅いみたいよ。だから今日のご飯は律華が作るけど、何がいい?」
「そうだな……」
何を食べようか、としばし思案し、
「「グラタン」」
雪樹が言うのと同時に、律華も全く同じことを口にした。ぴったり言い当てられたことに目を見開いていると、
「驚いた? いいお嫁さんは、旦那が何を食べたいのかもわかるものよ?」
「……だから結婚するつもりはないって」
「またまたぁ」
茶化す律華にため息をついたところで、家に到着した。
翌日の放課後。律華はバイトがあると先に帰ってしまったので雪樹は一人で下校。靴を履き替え外に出ると、
「……桜城か?」
妙にソワソワした様子で、はたから見たら不審者のように見えるまである鳴海の姿が。そしてそそくさと校舎裏に消えていってしまった。
不思議に思った雪樹は、こそこそと後をつけていくことに。桜城の後を追うように、前方を確認しながら極力足音を殺して校舎の裏へ。鳴海が曲がり角を曲がったのを見計らい、雪樹も歩みを進める。そして壁にぺったりと張り付き、様子を窺うように角の先を見ると、
「あっ……」
その光景に一瞬で察した。人気のない場所に男女。普通は告白か性交の二択だろう。ただお互いに緊張の面持ち。恐らく前者が正解だ。
「その、僕桜城さんのことが好きです! よかったら付き合ってください!」
手を伸ばし、深く一礼。雪樹は思わず息をのんだ。鳴海は少し困ったように一歩引き、
「ご、ごめんなさい」
「そんな……」
内心ほっとする雪樹。人の不幸に胸を撫で下ろすのはよくないかもしれないが、こればかりは仕方ないだろう。
「僕のこと、好きって言ってくれたのに……」
「あ……ごめんね。あたしそれは誰にでも言うんだよ」
確かに桜城は結構誰にでも言ってる印象あるな。そもそも接触も多いし、全体的に人懐っこいというか人たらしというか。
「くぅ……っ!」
涙をこらえるように顔を押さえながら、男の方がこちらに走ってくる。雪樹は慌ててどうしようとオロオロ。だが近くに隠れるような場所はない。
あっ、終わっーー
絶望を感じた雪樹、その横をものすごい勢いでかけて行ってしまう男。失恋のショックが相当大きいのか、雪樹の存在は見えていなかったようだ。安心した雪樹はその場にストンと腰を落としてしまう。
「……って、俺も早く行かなきゃ」
「桐柴?」
思い立った時には既に遅く。帰ろうとしている鳴海とはち合わせてしまった。
「えー……っと、その、これはですね……」
だらだらと冷や汗を流す雪樹を見て全て悟ったのか、鳴海はジト目で、
「桐柴……あんまりいい趣味じゃないよ」
「わかってはいたんだけど……ごめんなさい」
咎められると、シュンと小さくなり素直に謝罪する雪樹。そんな姿を見て鳴海はあははと笑う。
「やっぱり桐柴は面白いなぁ」
「なんだよ急に……というか抱きつくなって」
鳴海のいつもの抱擁も。今はバカにされているように感じて雪樹は身をよじった。
……でも、やっぱり桜城、人気があるんだな。こうやって俺が何もしなかったら、いつか桜城は誰かのものに……。
鳴海に抱きしめられているというのに、冷たい何かが背中を走り抜けるような気がした。その様子に鳴海は心配そうに、
「どうかしたの?」
「い、いやなんでもない」
否定しつつ、脳裏には緋波の言葉が蘇っていた。
しまった……、弁当を忘れたぞ。
学校に復帰してから一週間ほどが経ったお昼休み。雪樹は絶望的な気分になっていた。いつもなら律華が持たせてくれるが、本日は日直の仕事といって雪樹よりも先に登校していた。律華よりも先に帰宅し、忘れた弁当を急いで食べるミッションを発令。そして現状に目を向ける。
金も……昨日使ったんだった。桜城は……既に他の友達と食べに行ったか。律華……に頼るのも遠慮しておきたいし、忘れた事実は伏せたい。仕方ないし、水でも飲んでくるか。
雪樹は席を立ち、水を飲みに廊下へ。とぼとぼと重い足取りで廊下を進んでいると、
「んっ?」
雪樹の視線が捉えたのは、ゆったりとどこかへ向かう緋波の姿だった。雪樹はなんとなく沸き上がった好奇心から後を追うことに。階段を上り、緋波がたどり着いた場所は、
「屋上……?」
緋波は屋上に着くと、ベンチに腰をかけてなにやら包みを広げる。雪樹はそれをドアの隙間から覗きつつ、
いつも弁当ここで食べてるのか?
と考えていたところで体重をかけすぎたのか、寄りかかるドアが小さく悲鳴を上げた。
「? 誰かいるの?」
緋波の声に、すごすごと雪樹は姿を現した。
「雪樹くん? どうしたの?」
屋上に出ると、少し暑い日差し。雪樹は思わず目を細めた。
「いや、姿が見えたからちょっと……単純な興味でついてきた」
「そうだったんだ? となり、座る?」
ぽんぽんとベンチの隣を示す緋波にじゃあ、と雪樹は腰を下ろした。
「いつもお弁当なの?」
「うん。そうだよ?」
「へぇ……もしかして、自分で作ってたり?」
「そうだよ? お母さん、朝弱いから」
失礼にも、緋波のふわっとした雰囲気からあまり料理とかうまくなさそう、と思っていた雪樹は素直に感心した。
「雪樹くんはもうお弁当食べたの?」
「あー……実は弁当忘れちゃってな。あいにくお金も今なくて。水で紛らわそうと思っていたところなんだよ」
「そうなの? んー……」
何かを考えるように緋波は指先を自分の唇に当てると、
「じゃあ、はい?」
自分の弁当を差し出した。
「少しくれるのか?」
その様子におすそ分けしてくれるのかと思った雪樹だったが、
「ううん、全部?」
それは違った。少しではなく、緋波は自分のお弁当全てを雪樹にあげようとしていた。
「ぜっ、全部? いやいやそれはおかしいって」
「どうして?」
まったくもってどこがおかしいのか、緋波はそんな様子だった。
「どうしても何も、これは藤枝のだろ? それを俺が全部もらうなんておかしいって」
「そんなことないよ? はい?」
なおも差し出そうとする緋波。雪樹は身を引き、
「な、なんでそんなにしてくれるんだよ」
「なんでって、困っている人がいたら助けるのは、当然じゃないの?」
「それは間違ってないけど、これじゃあ自分が困るだろ?」
「ううん、私は大丈夫だよ? 雪樹くんが満足してくれるならそれで?」
「いやいやお腹は満足しても、気持ちは満足しないって」
「そうなの? でもお腹、空いてるんだよね?」
「それは藤枝もそうだろ?」
「私のことはどうでもいいんだよ?」
「いやそういう問題じゃ……」
と雪樹が食い下がろうとしたことで、ぐぅ~という腹の虫が聞こえた。それは前に聞いたことがあるもの。当然雪樹のものではなく、
「やっぱり、お腹空いてんじゃん」
「ん……そんなことないと思ったのに? でも、雪樹くんにあげるよ?」
「頼むからせめて半分こにして……」
絞り出した雪樹の妥協案。緋波は首をかしげて、
「それで雪樹くんは満足するの?」
「するする、すっごくする」
「じゃあ、わかった?」
やっとこさ妥協してくれた緋波に、心の中で大きなため息をついた。そして、
いや待て。そもそもよく考えたら、女の子の作ったお弁当を、女の子と半分こだって? いったいなんでこうなったんだ……?
と、現在の状況を冷静に整理して戦慄していた。
「あ、ごめんね? お箸一本しかないから、雪樹くんが先に食べて?」
「えっ、俺から?」
差し出され、間接キス的に先に食べたほうがいいのか悩む雪樹。迷った挙げ句、さっきのやりとりを繰り返すよりはと緋波からお弁当を受け取った。
「あっ……ものすごくうまい」
早速一口、そんな感想が思わず漏れた。
「本当に? 嬉しいな?」
と、相変わらず無表情ながらも、その声は弾んでいた。
「すごい料理上手なんだな」
「そうなのかな? あんまり興味ないから、考えたことなかったよ?」
ほえっと首を傾げる緋波に、
「そういえばさ、藤枝って屋上好きなの?」
「うん? どうして?」
「この前も屋上に逃げてたから。そうなのかと思って」
「うーん、そうなのかもね? 静かだからかな?」
「確かにうちの学校の屋上、人があんまりいないもんな」
生徒に開放されている屋上は、教室から離れている上にはっきり言って狭い。わざわざ来るほどの価値はないと思っているのかもしれない。
校庭や校舎から生徒たちの喧噪は聞こえるものの、遠くから聞こえるその声たちは、別の世界から届いているようだった。
「静かな場所が好きなんだな」
「うん、そうだよ? 雪樹くんはこの場所、好き?」
「結構好きだよ。俺もお気に入りの場所になりそうだ」
「よかったよ?」
そんな話をしていると、突然屋上のフェンスがガシャン! と叫びをあげた。恐らく校庭から放たれた、何らかのボールがぶつかったのだろうその音に、
「きゃっ!」
「藤枝!?」
突然緋波が雪樹に抱きついたのだ。余りに突然の出来事に、雪樹はどうしたんだと目を白黒させていた。しばらくして緋波ははっとして、
「ご、ごめんね、雪樹くん?」
慌てた様子で雪樹から離れた。
「いや気にしないでくれ。えっと、大きい音、苦手なのか?」
「そうなんだ? 昔から突然おっきな音が聞こえると、体が縮こまっちゃうんだ?」
「そ、そっか。もう大丈夫か?」
問いつつ、微かに緋波の熱が残る体を、不意に撫でてしまう雪樹。すぐに何をしているんだと後悔した。
もう大丈夫だよ? と言う緋波の様子を見て安心。最後に一口お弁当をもらい、
「ごちそうさま。ありがとうな」
「どういたしまして?」
緋波は雪樹から弁当を受け取り、小さく頂きますと会釈。少しどきどきとしている雪樹をよそに、
「……」
普通に食べ始める緋波。なんとなく雪樹ががっかりしていると、
「ねぇ、雪樹くん?」
不意に呼ぶ緋波に、先ほどまでの視線がばれたのかと、はぃ!? と素っ頓狂な声をあげてしまう雪樹。ごほん、と誤魔化すように咳払いをして、
「どうしたの?」
「結局告白は出来たの?」
「ぶふっ!」
せっかく冷静を装ったのに早速崩されてしまう。
藤枝もこう見えて案外普通の女の子みたいに、ほかの人の恋バナとか好きなのか?
そんなことを考えつつ、その真意を問うてみた。
「えっと、どうしてそんなに気にするの?」
緋波はえっと……と口を開け、
「雪樹くんに幸せになって欲しいからだよ?」
「どうしてそんなに……」
「そんなに?」
「……ごめん。なんでもない」
「そう? ねぇ、雪樹くん? 好きな人に告白しようよ」
「いや、だから俺には……」
「どうして躊躇うの?」
「それは……」
自分の過去について話すべきか迷ったが、雪樹を見つめるまっすぐとした瞳。一度小さく頷き、雪樹は過去のことを話すことにした。そして、自分の好きな人についても。
訥々と語る雪樹。緋波はそれをただ静かに聞いていた。相変わらず無表情ではあるが、とても真摯に聞いてくれていると雪樹は感じていた。
「……だから、俺は自分の気持ちを諦めるしかないんじゃないかって」
雪樹の話が終わったところで緋波はうん、っと頷き、
「そっか、それであの時、償いがって言ってたんだね?」
「そういうことなんだ」
「でも、ずっと一緒にいたいと思うのは、その桜城さんなんだよね? だったら、私はそうするべきだと思うよ?」
「そう、かな。そうするべきなのかな」
いまだ迷うその姿を見て、緋波はゆっくりと自分の胸に手を当てた。
「想いを伝えるのって、すっごく怖いことだと思う。誰だって、自分の一番の感情は否定されたくない。そんなの、私だって嫌だ。でも、自分のこと以上に誰かのことを想うのって、とっても素敵なことで、私だったらその綺麗な気持ち、好きな人に見て欲しいって思うよ」
そして緋波は自分の胸に当てた手を、今度は雪樹の胸に当てた。
「ね、雪樹くんの綺麗な気持ち、桜城さんに見せてあげて」
「そっか……そうだな……」
自分の中で決意を固める雪樹。その様子を覗き込む緋波と目が合った。
「なんていうか、藤枝は不思議だな」
不意にそんな感想を口にする雪樹。
「そうなの?」
「何でも話してしまいそうになるっていうか……そんな雰囲気を持ってる」
「うん? なんかごめんね?」
「いや悪い訳じゃないんだ。それはきっと、藤枝の良いところだと思うよ」
「そうなの? 私、雪樹くんにとっていい人?」
「ああ、藤枝は今まで出会った人の中でも、とってもいい人だ。ただ、自分の事ももう少し大切にしてくれよ。自分のお弁当全部渡そうとしたりさ」
首を傾げ、何かを考え込む緋波。まだ先ほどの行動の何がいけないのか、いまいちご理解いただけてないのかもしれない。
「雪樹くんは、私が私を大事にするのは嬉しい?」
「もちろん、嬉しいよ」
「……うん、そっか? じゃあ大事にするね?」
そして緋波が弁当の最後の一口をほおばり、ごちそうさまと呟いた。
「お弁当、本当にありがとうね」
「ううん、お粗末様でした?」
無表情のままそう言って、てきぱき片づける緋波に、
「藤枝」
改まって雪樹。片づけの手を止め、緋波は雪樹に向き直った。
「俺、告白するよ。うまくいくかなんてわからないけど」
雪樹のその決意に一瞬だけ、どこか嬉しそうに緋波の頬が緩んだ気がした。普段無表情な彼女の見せたその隙に、少しだけ雪樹の胸がときめいた。
「うん、それがいいと思うよ? 頑張って?」
「ありがとう」
やると決めたらすぐにやるべきだ。今日の放課後、桜城に伝えよう。
そう心に決め、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「よし」
終礼とともに小さく呟き、鳴海の様子を確認する雪樹。友達と楽しそうに談笑する鳴海。すぐに帰る様子はなさそうだった。そんな鳴海が一人になるのを待つため雪樹はうつ伏せになり、いかにも寝ていますよーという姿勢をとった。
ひとしきり話し終えた鳴海たちは、皆一様に鞄を持ち別れを告げた。好都合なことに鳴海以外は部活があるらしい。教室を出て鳴海は一人になった。
そして鳴海のあとを追い、声をかけようと、
「雪樹! 一緒に帰るわよ!」
したところで律華に呼び止められた。まるでこの時を待っていたかのようなタイミング。いや、きっとそうなのだろうと雪樹は感じていた。
「わ、悪い今日はちょっと用事があって……」
「またまたぁ、そんなこと言っちゃって。部活も入ってない雪樹に用事なんてあるわけないでしょ」
「いやそういう用事じゃなくて……」
「じゃあどんな用事なの?」
律華の目の色が明らかに変わった。心を見透かされているんじゃないかと、雪樹は冷や汗を流す。
「別に……なんだっていいだろ」
「よくないよ。だって雪樹は律華にとって全てだもの。雪樹が何をしようとしていて、何をするのか。全部知りたいし、律華には知る権利があると思うけど」
「……」
ここで正直に言ったら律華はどんなことを言うだろうか。
雪樹はそんなことを考えていた。どうするべきか迷った。
「……桜城に告白する」
だが、あえて正直に言うことにした。ごくりと唾を飲み込む。
「へぇ……律華の前でよくそんなことが言えちゃうね」
「しょうがないだろ……桜城が好きなんだから」
「律華がそんなこと許すと思ってるの?」
そう微笑んで見せるが、目の奥はまるで笑っていない。
「思わないよ。でも、俺はもう決めたから。無理やりにでも行くよ」
「律華にそんなこと出来ればいいけどね」
そう言われ、一歩引きさがってしまう雪樹。やはりそう簡単に、過去の気持ちを割り切る事は出来ないのだろう。そして唇を噛んだところで、
「八知読さん」
後ろから律華を呼ぶ声。雪樹が振り返ると、
「藤枝……?」
そこには緋波の姿があった。律華は緋波に対して訝し気な視線を向ける。
「あんたは……」
「そう、病院では雪樹くんがお世話になったね?」
「当たり前でしょ。雪樹は律華の婿になるって決まってるんだから。あんたに言われるまでもない。いったい何の用なのよ」
敵意むき出しの律華に、緋波は一歩も引く様子はない。そしてはっきりと、
「雪樹くんの邪魔をしないで」
言い放った。さすがの律華も少し動揺を見せる。
「なんで、あんたにそんなこと……。雪樹を助けてくれたのは感謝しているけど、出しゃばりすぎじゃない?」
「雪樹くんの幸せのためだから、これくらい普通だと思うよ?」
「雪樹の幸せは律華と結婚することなの! あんたに何がわかるっていうのよ!」
語気を荒げる律華に対し、なおも平坦に緋波は続ける。
「分からない。でも、それじゃあ雪樹くんが幸せになれないのはわかるよ? それに……あなたも」
「なっ……なんなのあんた……」
吐き捨てるように律華。唇を噛んで感情が抑えられない様子。律華のこんな姿を見たことがなかった雪樹は驚いていた。
雪樹がこの状況をどうしようかと考えていると、不意に律華と目が合った。そして口角が緩んだかと思うと、
「なーんてね」
律華はいつもの様子に戻り、そんなことを言った。雪樹が目を丸めていると、
「嘘に決まってるでしょ? 雪樹ってば本当に冗談が通じないんだから」
「え……」
「告白でもなんでも好きにすればいいでしょ」
先ほどまでとは打って変わって、あっけらかんと後押しまでされてしまった。
「急にそんな……」
「急にもなにも、全部冗談だってば。それじゃあ律華は先に帰るわね」
踵を返す律華だったが、
「冗談だけど……でも、ねぇ?」
そう言って悪魔のように笑い、雪樹たちの前を颯爽と去っていった。台風一過のような静けさののち、
「……なんかよくわからないけど、ありがとう藤枝」
「ううん? 私は何も特別なことはしてないと思うよ?」
「いや、そうだとしても助かったよ。ありがとう」
きっとあのままだったら、告白をやめていただろう。雪樹にはそんな確信があり、緋波には感謝しかなかった。
「じゃあ、どういたしまして? それより雪樹くん、早く桜城さんを追わなきゃ?」
「そ、そうだったな。それじゃあ、ありがとう」
駆け出す雪樹だったが、
「……一つ」
立ち止まり、緋波に向き直った。
「聞いてもいい?」
「どうしたの?」
首をかしげる緋波に、雪樹は目をまっすぐと見据え、
「どうして俺に、そこまでしてくれるんだ?」
ずっと胸にあった疑問を問うてみた。考えてみてもおかしい。ほとんど面識のない人間に、ここまでしてくれるなんて。彼女は当然のことだと言うけれど、雪樹はどうしても納得できなかった。
「いくらお人好しでも、ここまではしてくれるのは明らかにおかしいよ」
「……」
雪樹の言葉に黙る緋波。重苦しい沈黙の後、緋波は静かに口を開いた。
「ううん。ごめん。本当はそれだけじゃないよ」
「じゃあどうして」
雪樹の言葉を遮るように緋波はその答えをあっさりと、他愛もない会話でもするかのように、緩やかに告げた。
「雪樹くんのことが、好きだからだよ?」
「えっ?」
その答えに、思考のホワイトアウト。雪樹は緋波が何と言ったのかすぐには理解出来なかった。
「この答えじゃ、雪樹くんは満足しない?」
「いや……それは……えっと……」
なんて答えれば、そんな様子の雪樹に緋波は、
「雪樹くん、早く行かないと追いつけないよ?」
と思考の端に追いやられていた目的を告げた。慌てて雪樹は、
「あ、ああ、それじゃあまたな」
そう言って駆け出すが、その心は体に付いてきてくれなかった。
「桜城!」
「ん? 桐柴じゃん。どうしたの?」
結構離れてしまっていたが、何とか追いつけた。雪樹は鳴海のとなりに並ぶと、
「いや、一緒に帰ろうと思って」
「それなら声かけてくれればよかったのに」
「……確かにそうだな」
そう言って笑い合うと、ぽっかりと空いたような静寂。別段おかしなことではないが、雪樹にとってこの沈黙の時間は少し苦痛だった。
「えっと、桜城」
呼んで、鼓動を抑えるように深呼吸。
「……どうしたの?」
不思議そうに鳴海は立ち止まった。雪樹の雰囲気から、普段の様子ではないと勘づいているのだろう。雪樹は再び深呼吸、そして口を開く。だけど声が出ない。思わず俯く。
告白って、こんなに難しい事なのか……。
想いを伝えるとは、自分を見せる事。口で言うほど、簡単なことではないのだろう。鳴海はそんな雪樹を静かに見守っていた。
「俺は……」
藤枝がせっかく送り出してくれたんだ。ここで言わなくてどうする!
そう自分を奮い立たせ雪樹は顔を上げた。
「えっと……桐柴雪樹は、桜城鳴海のことが好きです。友達としてじゃなく、女の子として」
「桐柴……」
驚いたように鳴海。虚を突かれたようなその顔に、どんな感情が通っているのかはわからなかった。だが雪樹は、
「悪いけど、今すぐ返事を聞かせて欲しい」
強気に言い放った。
「えっ、と……」
悩むように鳴海は俯き、しばらく路傍の石を眺めていたが、うんと頷くと雪樹を見とめた。
「回りくどい事はなしに、率直に言う、ね?」
鳴海はそう前置き。雪樹は息を止めた。そして――
「ごめんなさい」
その答えが告げられた。
「私は桐柴のことをそんな風に見たことないんだ。すごく気の合う友達だってしか見たことないから……」
鳴海は視線を合わせぬまま、自分の思いを告げてゆく。雪樹は息を吐きだした。
「そっか……」
「そしてこれからもきっと、桐柴のことをそんな風に見れる日は来ないと思う。だから、ごめんね」
頭を下げる鳴海に、雪樹は顔を上げてと言い、
「ありがとう。桜城ははっきりしていて、本当にいいな」
「あれ? 振ったのに結構余裕?」
雪樹の態度を不思議そうに鳴海が問いただす。
「そんなわけないだろ……。具体的に言うなら、今すぐ走って帰って布団に入りたい」
「あははっ、なにそれ」
鳴海はひとしきり笑うと、
「うん、やっぱり楽しい。ねぇ桐柴」
雪樹の顔をまっすぐに見とめる鳴海。雪樹は少し背筋を伸ばして、
「なに?」
「酷なお願いだとは思うけどさ、あたしは友達の桐柴と一緒にいるのが好きだ。だからこれからも、こうやって一緒笑って欲しい、一緒にいて欲しい」
そのお願いに、雪樹は肺を掴まれたように息が詰まった。
「お願いだよ桐柴。あたしはそんな桐柴が好きなんだよ。だから、お願い」
雪樹の目をまっすぐに見とめ、期待のこもった眼差しの鳴海。息をするのも精一杯の雪樹。なんて答えればいいんだと、グラグラと揺れる視界の中で悩み、
「……うん、いいよ。俺も好きだ」
そして口を開きかけ、閉じ、無理矢理前を向き、
「友達として、こうやって桜城と過ごすのは」
そう言って笑って見せるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます