第16話

 王都前の大都市で旅に出て三日目の朝はとっくに過ぎた。

 魔王じいちゃんは絶好調ないびきをかきながら爆睡している。昨夜、誰の手にも負えなくなるほど酔っぱらった挙句、後片付けをまったくせずに自室に帰った。

 さっちゃんに関しては、今、魔王部屋にはいない。いびきに愛想をつかし、肩掛け仕様で腰丈の外套マントを脱ぎ捨てると、エミリアの部屋に逃げ込んだのだった。

 急にいびきが聞こえなくなった。魔王じいちゃんの息が止まっている。

 一分が経過する頃に、ガッと目を見開いた。息苦しさを感じたからだろうが、本人に息が止まっていた自覚はない。


「いたた、あったまいとぉて死にそうじゃわい」


 頭を押さえつけながら寝返りを打つ。そこでさっちゃんがいないことに気がつく。

 外套がハンガーにかけてあるのは、魔王じいちゃんの様子を見に来たお姫様役の女が気を利かせたのだ。

 その外套を手に取り、水欲しさに一階に降りることを決意。痛みで禿げ上がるような頭痛とまとわりつく怠さにもがきながらも、壁を手すりにしながらゆっくりと歩く。


「おじいさん、昨日飲みすぎてたクセに意外と早起きね」

「年寄りというのは往々にして寝つけんものじゃ」

「もうすぐお昼だけど」


 めし処にいた女魔導士に体を支えながら、魔王じいちゃんは腰を下ろした。


「……ふむ。そ、そういえば、さっちゃんはどこにおる」

「え? 一緒に寝てたんじゃないんですか?」

「いや、わし一人じゃが」

「さっちゃん、なら、きのう、エマちゃん、と、一緒に、寝まし、た、よ?」

「なんじゃと!? もう女子おなごと夜をともにするとは……。説教せんならん!」

「まだお酒抜けてないの? このエロクソジジィ」


 昨日の仕打ちを思い出したお姫様役の女は女魔導士のうしろにサッと隠れた。セクハラ魔王の仕打ちがトラウマになっているらしい。


「さっちゃんはまだ寝ておるのか。もう昼じゃというのに」

「アンタが言うか」

「すまんが起こしてきてくれんか。わしはあんまり動きとうない。なぜじゃか頭がいとぉていとぉて」


 酔っ払いの面倒を見るのが鬱陶しくなった女魔導士は、お姫様役の女と一緒にさっちゃんを起こしに行った。一人でも大丈夫だったが、怯えたお姫様役の女を独りにさせるわけにもいかなかった。

 ウェイトレスが水を運んできた。水を見る魔王じいちゃんに急な吐き気が襲いかかってきた。脳が酒だと錯覚して受けつけない。気張ってひと口水を飲むが、二日酔いの呪いが酒の味を再現してしまう。


「おじいさんっ!」

「よさんか。あまり大きな声を出すでないわ。頭に響くじゃろ」

「さっちゃんがいないのっ!」

「えっちゃんとデートにでも行っておるのじゃろ」


 女魔導士の緊迫した声に、発せられる言葉とは裏腹にグラスを持つ手が震える。これは二日酔いのせいではない。動揺、焦り、不安。とめどなく溢れ出す好ましくない感情が最悪の場合を想定させてしまう。


「エミちゃんはケガしてたから、私が治療してきた」


 お姫様役の女がこの場にいないことから、彼女はエミリアの看病にあたっているのだろう。


「ではトイレかのぉ」

「床に血が飛び散ってたわ。エミちゃんはたいした傷じゃなかったから、あれは」


 頭痛も気怠さも一瞬にして消し飛んだ。現実を受け止めた魔王じいちゃんの感情がとうとう顔色に表れ始めた。真っ青だ。

 誘拐された可能性が頭にちらつき始めた。


「どこじゃ……どこにおるんじゃ、さっちゃああぁぁぁあああんッ」

「おじいさん落ち着いて」

「さっちゃんはまだ魔法を意のままに行使できん。わしが二日酔いじゃったせいで、わしのせいで。このままでは……このままではッ!」

「落ち着けって言ってんの!」


 女魔導士は禿げた頭を引っ叩いた。

 頭皮に紅葉をつけられたおかげで目が覚める。慌てふためいても状況が変わるわけもない。早く対策を講じなければならない。


「……これ以上後手に回っても仕方ないの」


 静かな怒りを瞳に燃え滾らせ立ち上がる。不安で身体を蝕まれてしまえば思うように動かなくなる。ならば不安を糧に怒りを振るった方がまだマシだ。

 魔王じいちゃんは何かを決心した鋭い眼を身に宿す。


「どうせ悪趣味にも見ておるんじゃろ。さっさと出てこんか」


 致し方ない。魔王からの呼び出しだ。


「結局その汚い尻を僕に拭かせるのかい――魔王じいちゃん。介護にはまだ早いと思っていたのだが」


 さっちゃんと王都へ出発する前に確かに言った。汚い老いぼれのケツを僕に拭かせるなよ、と。


「おぬしの息子が攫われたというのに、随分と悠長に高みの見物を決め込みおって。のんきなもんじゃの」


 確かに心配ではある。だが魔王じいちゃんにかかれば問題はない。むしろ僕が出ていった方が足を引っ張る。そう思って飛び出したくなる衝動を殺して身を引いたのだが。それに――、


「え、え、え、だれ、どこからわいて出たの、その赤色の宝石? 急に光ったら急にでてきた!? え、その紅い目ってもしかして魔族!? 結構美形のおじ様なんですけど!?」

「こう騒がしくなることがわかっていたから、しばらく姿を現さなかったのだ。話が中断してしまっては状況把握に時間と手間がかかる」


 女魔導士は僕がさっちゃんの外套に施していた宝石から突然姿を現したのがよほど気に入ったらしい。この僕にかかれば魔宝石を通じて転移することなど造作もない。


「なるほどのぉ、この宝石から見聞きしておったのか。ならば状況を改めて説明する必要はなさそうじゃな」

「私が説明してほしいんだけど!?」

「やはり人間は下等種族だな。僕の言葉をもう忘れたのか。それとも言葉を理解できていないのか。いずれにせよ時間と手間が惜しいということは伝らなかったらしい」


 軽い挑発に怒りを覚え始める女魔導士。やはりこの程度で感情を揺さぶられるとは人間は下等種族で間違いない。なるほど、だから誘拐などという姑息な手を講じてしまうのか。

 今にも殴りかかってきそうな勢いを見せる女魔導士を、魔王じいちゃんが必死になだめている。


「とにかくじゃ、こやつはわしの息子で、わしらの味方じゃ。じゃから今は気を静めてくれ。攫われてしまったさっちゃんのためにもの」

「おいクソ親父、話を戻す。お前が知らないだけで、さっちゃんは魔法をちゃんと自分で使えるようになっている。エミリア蘇生のように、たまに暴走もするようだが」

「ほんとうか!?」

「あの子は見様見真似がうまくてね。お前は酔い潰れて覚えてはいないだろうが、怪我対策魔法もすでに使っていたよ。今回もうまく立ち回っているはずだ」

「ではなぜ血が」

「不意打ちには対策できなかったのだろう。まだ子供だ。歴戦の猛者たるお前とは違う。寝込みを襲われては仕方ないだろう」


 魔王じいちゃんは痛々しい表情を浮かべた。さっちゃんが受けた痛みを思ってのことだろうが、過去に思いを馳せている時間はない。一刻も早く奪還せねばならない。人間バカは何をするかわからない。


「とにかくクソ親父、お前の監督不行きの咎は改めて問うことにして――」

「最近耳が遠なってのぉ。何を言っておるのかさっぱりわから――」

「その言い訳はに聞いた」

「……ぐぬぬ。盗聴に盗み見、この変態さんには困ったもんじゃの」

「いいから早く雑音を消せ。今からさっちゃんを探知する」


 魔王じいちゃんの雑音除外魔法が組み合わされば、僕の探知魔法の効果範囲と探知正確度は格段に跳ね上がる。たとえ人間が馬を駆けらせ丸一日移動したとしても逃さない。


「さてさっちゃん、お迎えの時間だ。今日はパパと遊ぼうか」


 しばらく会えなかったのだから、今日くらいは独り占めさせてもらおう。

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