コンクール当日
ヴァイオリンのコンクール当日、窓から朝日が静かに入り、ベッドで横になって天井を見つめるトビーの顔を温めていた。
トビーは昨日の夜から一睡もできていなかった。携帯の目覚ましが鳴る前に布団から手を伸ばしてアラームを止め、小鳥の鳴き声に耳を傾ける。静まって耳をすませば、至る所にも音楽を見つけられるんだなと気がついた。
息子のコンクールに行けるのは今日が最後かもしれない。
まだまだ寝たく、パジャマ姿のシモンを食卓の椅子に座らせ、食パンをトースターで焼く。ナイフにつけたバターを焦げ目がついたパンに滑らす。
「どうだ調子は?」
パンをかじりながら、シモンに明るく聞く。シモンは肩をすくめ、さっそく次のパンに手を伸ばしていた。あっという間に口に挟んでいたパンがシモンの喉の中に飲み込まれていく。
「とにかく今日は楽しむんだ」
と明るくシモンに伝える。というより自分に言い聞かせ、笑顔を装いながら息子を見つめる。
トビーはパジャマからスーツに着替えた。この数週間の中でスーツが大きくなっていて、肩はブカブカ、ズボンのベルトも最後の目で縛っていて貧相に見える。サイズを大きく間違えて買ってしまったような印象がある。
次に息子の服をタンスから取り出す。同じようなスーツではなく、深みのある濃い紫色の毛糸のセーターだった。大事な日のために買ったこの服は、サラの葬式の日にしかまだ着ていない。タンスの中のサラの服の横にたたんであったので、妻の匂いがかすかにした。セーターを抱きしめてから、隣の部屋で遊んでいるシモンに着させにいった。シモンの頭をセーターに通すのに手こずったし、いざ着させてみると裾から腕の肌が少し出ていてみすぼらしい。それでもシモンの一番綺麗な服だった。
コンクールはアイオワ高校で開催されている。その学校に行ったことはないが、何となく道のりはわかる。車で朝のアイオワシティを移動する。
助手席に座っているシモンは、膝下においた楽譜を眺め、時々目をあげては外の流れている風景を観察している。息子の頭の中で音楽が流れているのか、目の焦点が合っていない。邪魔をしないようにトビーは黙ってハンドルを握りしめた。
トビーのおでこには脂汗が滲み出ていて、まるで有罪か無罪の判決を受けるために裁判所に行くようだった。
アイオワ高校にたどり着くと、黄色のヴェストを着た中年の男性に学校の中へと車のまま誘導された。駐車場は高校のグラウンドにあり、見渡す限り既に車で埋め尽くされていた。ランボルギーニ、BMW、ジャガーといった高級ブランドの車が多く、車の前をヴァイオリンを抱えた子供たちの手を引っ張る親たちが通り過ぎていった。その子供たちは正装していて、男の子は黒や紺のスーツ、白いシャツの上にチェックやらストライプの蝶ネクタイでオシャレだった。女の子は幼稚園児でもあるにかかわらず、ハイウェストのドレスを纏って、背中はVカットで肌を出していた。服装からしてもトビーは自分たちが場違いのような気がした。
車を隅っこの方に駐車させ、シモンの手をしっかりと握りながら他の親たちと同じ方向に足を進めた。全員、学校の玄関に向かっているようで、既に20人ぐらいの列が入り口前にあり、子供の笑い声やら、親が叱りつけている声がした。シモンだけは他の子供たちを静かに眺めていた。
前の方を見ると、列に向かって初老のおばさんが笑顔で立っていた。おでこがくっきりと見えるぐらいに金髪を横に流してピンで留めて清潔感のある顔立ちだった。胸から足先まで届く黒いドレスを着込んでいて、首には真珠のネックレスが太陽の光を眩しく反射していた。手には書類を持ち、親子たちに何かを聞いては書類にペンで何かをチェックしていた。ペンの動きでさえ美しさが伴っている。
いよいよ自分たちの番が回ってきた。トビーの鼓動が収まらず、鼻息が少し荒くなっていた。
「観客席はあちらの入り口になります」
おばさんが斜め後ろの遠い場所を指していた。
「いや、観客じゃなく、演奏側なんですけども」
シモンの腕に収まっているヴァイオリンを指差しながら言った。
「まあ」
そして初老のおばさんは、シモンを靴から頭の上までじっくりと見下ろした。
「息子さんの服装が規則にあっていませんね」
「これしか調達ができなかったんです。ハハハ」
おばさんは首を横に振り、指先でシモンの毛糸のセーターを軽くつまんだ。
「ここは歴史ある由緒正しいコンクールですの。最も優秀な才能を発掘するために世界中からヴァイオリン審査員を呼んでいます。基本的な敬意と礼儀を払って頂けないならご退場をお願い致します」
「才能を探すのが目的なら、カッチリした服装じゃなくてもいいだろう」
トビーは顔を赤くして言った。おばさんはニコッと笑って後ろにいる人達がトビーの発言が聞こえたかを伺っていた。
「本日のコンクールの演奏者は120名ですが、最終的に3人だけが選ばれて、アイオワオーケストラに出るのです。カッチリ?正装することで、良い緊張感を持って演奏に挑むのです。それだけ皆さん本気だと思いますこと。基本的な規則に沿えない方、その場に相応しい装いができない方を入れさせることはできませんのよ」
演奏の堅苦しい服装のイメージのせいで「敷居が高い」「気軽に聴けない・難しそう」という印象を持っていた。が、この説明で少し印象が変わった。それにしてもこのおばさんは腹が立つ。こういう外の形にこだわり、人を裁く人間が好きじゃなかった。
おばさんはトビーたちの後ろの人たちを手で招いた。
「演奏者ですか?」
「はい、そうです」
そしてその親子たちの名前を聞き、リストにチェックを入れた後に中に入れさせた。そこに立ち尽くすトビーたちを無視して次の親子たちを呼ぶ。
ああ、わかりました。帰ります。と受付のおばさんに言う。だけども諦められるかよ。そこで一旦観客用の入り口に行って中に入ろうとしたが、チケットがないので無理だと断られた。
このままでは中に入れない。
トビーはサラのシンデレラ劇場を思い出した。あの時も中に入れずに指を加えたまま待つしかなかった。だが今日という今日はそんな訳にはいかない。
工事現場で何度も働いてきたトビーにとって、建物にはいくつもの入り口が必ずあるのを熟知していた。シモンの手を引っ張りながら学校の建物を歩き回ると、開いている窓が一つあり、中を覗いてみるとトイレだった。周りに誰もいないか確認してから、シモンを肩車して窓から学校の中に入った。
息子の手を引っ張りトイレの出口に向かった。シモンの手を毎日繋いでいるが、今ではとても重たく感じる。その時、シモンは繋いでいる手を引っ込めて立ち止まった。
「こわいよ」
声がかすかに震えていた。トビーはしゃがんで怯えている自分の子供を見た。顔が固まっている。
「何が怖いんだ?」
「ここ、あまりすきじゃない。お家にかえりたい」
「数時間したら帰れるからさ、頑張っていこうよ」
シモンの手をもう一度握ると、汗が浮かんでいてさっきよりも熱かった。なんとかしてシモンをトイレから押し出して、廊下をノロノロと歩く。
「ト、トビーさん?」
名前を呼ぶ声がして振り返ると、後ろに立っていたのはゴンザレ先生だった。幼稚園では見ることのないスーツ姿でシワが全くない。クルクルの髪の毛がワックスで綺麗にオールバックでぺったんこにしてあり、あの初老のおばさん同様に服装や身だしなみに清潔感があった。
「な、何をして、いるのですか?」
「うちの子供もコンクール受けるんです」
「そ、その、おもちゃのヴァイオリンで?」
「はい、このヴァイオリンで。何か?」
ゴンザレ先生は信じられなさそうな目つきでヴァイオリンを見る。
「・・・グ、グッドラック、としか言えません」
「先生はなにしているんですか?」
「私は、しし審査員の一人です。うちの教え子も、で出ます」
ゴンザレ先生、いやゴンザレ審査員の後をついて行くと体育館のドアの前に着いた。中からヴァイオリンを調整する音が止まらない波のように耳に入ってくる。ドアの前に立ち止まったゴンザレ先生は
「し、シモン君、先に中に入って、わたしは、お父さんとお話し、をします」
とゴンザレ先生は先にシモンを中に入れさせて扉を閉じた。そしてトビーに振り返った。
「今日までのレ、レッスンはどうしてきたんですか?」
「レッスンはなしです。息子は動画を見ながら自力で毎晩外に出かけて一人で練習しています」
それを聞いたゴンザレ先生は呆れたように眼鏡を両手で抑えて深いため息を吹き出した。
「それしか方法がなかったんです」
「ト、トビーさん、それじゃあ今日の、コンクールは無理で、ですよ」
「それはやってみないとわからない。息子はうまくなっているよ」
「受かりません」
今度はキッパリと先生が詰まらずに言った。
「何故なら癖や音ズレは第三者のプロがいないと指摘が、ででできないからです。それにここの子供達はとんでもなくレベルが高い。このドアの向こうにいる子供達は平均のレベルが違うんです」
「それでもやらせます。挑戦に罪はない」
「他の誰でもないこの私が正直に一つだけ、トビーさんに真っ先に伝えさせてください。お、お落ちます」
「なんでそんな事を俺に言うんですか?」
「忠告をしたいのです。と、トビーさんの目を見ているとわかるんです。期待いっぱいの目が・・・」
「何が悪い、子供に希望を持って何が悪いんだ」
トビーの咳の発作が始まった。手を口と胸に抑える。幸いなことに血は出てこない。息を整えている間に、親子のペアがトビーたちの間を通って中に入った。隙間の向こうに大勢の子供たちがヴァイオリンを調整している姿があった。
先生は続けた。
「シモン君はコンサートのプレッシャーではなく、あなたの期待に今、押しつぶされています。トイレからここに来るまでの間にそれを感じました。このままだと・・・」
「あんたに何がわかるんだ!」
トビーは扉を叩いた。トビーは最近イライラしやすくなっていた。手がジンジンする。
「チャンスをあげたいだけなんだ。今やらないともう二度とできなくなる」
ゴンザレ先生は落ち着いて自分の分野の話を続けた。
「私は子供をいつしか潰してしまう親を沢山見てきました。親の過度なプレッシャーはヴァイオリンの挫折になります。ただそれだけを言いたかったのです。ヴァイオリンに関しては、正直に伝える義務が私にあります」
ゴンザレ先生が扉を開けると、体育館の中ではヴァイオリンを持ったたくさんの子供達がヴァイオリンを構えて、親の側で練習していた。全て、今日の演奏課題のFerdinand Kuchler's violin concertino in G opus 11。子供達のヴァイオリンから流れてくる音色はシモンが持っているヴァイオリンとは全く違うものだった。
「そ、それでは、シモン君の、番を楽しみにしています」
先生が言って立ち去ろうとした。そこでトビーはハッとして
「先生、服装の問題で息子が演奏リストから外されているんです。お願いですから、リストに入れ直してもらえませんか?」
先生はため息をつき、渋々頷いた。先生は体育館のステージの前にある黒板まで歩いて、演奏プログラムを書き直してくれた。
9時;ジョージア・ハラランピア
10時;アレクサンダー・スイタラ
11時;ラウラ・パーク
12時;ケリー・タリム
13時;シモン・ブラックウェル
14時;シエラ・フアング
シモンを人混みの中で探した。息子は体育館の隅っこでヴァイオリンのケースを床に置いたまま、触らずに立ちすくんでいた。
「どうしたんだ?最後に練習しておきなさい。他の子供たちも練習しているだろ。なんで何もやらないんだ」
シモンは恐る恐るヴァイオリンのケースを開けて、ヴァイオリンを膝の上に乗せた。電子機器のチューナーを取り出して調整を始めた。やけに時間がかかり、トビーは息子の周りを歩いてイライラし始める。
練習もできることなく、体育館の中央に並べてある椅子に座る時間になった。
ステージの横からスーツを着た老人がステージの中心に向かって姿勢良く歩き、スタンドに立てられたマイクに向かって咳をした。一瞬でガヤガヤしていた体育館の人混みが静かになる。マイクの後ろに流れる微かな電気の流れが静寂な体育館の中に響いた。
「お互いに競争して、学び合う。芸術を耕して、教育をして、ベストなタレントをだす」
観客席に座っている誰かが何回か咳をした。ありがたいことにトビーではない。
「簡単な数学もできない子供達が、この年代で、プロへの入り口に立っているのは素晴らしいことです。私の前にいる皆さんはサナギです。これから羽化をして世界に羽ばたくポテンシャルがあるッ!」
老人はボクサーのように両手を宙で握りしめた。トビーも膝の上で拳を作っていた。
「さなぎって何?」
横のシモンが質問した。
「蝶になる前の虫が殻に入っていて」
「ぼくは虫なの?」
「いや、大きくなる可能性が誰にでもあるって事だよ」
ステージに立つ老人は大きく息を吸って
「ヴァイオリンの歴史の中で今ほど環境が恵まれている時代はありません。ヴァイオリンでパッション、メッセージ、楽しさ、悲しさを私たち審査員に伝えてください。技術だけではなく、魂が見たいのです」
と言うと力強い観客の拍手と共にステージから退場した。そしてステージの横から6人の大人が出てきた。その内の一人はゴンザレ先生で、もう一人は受付の初老のおばさんだった。ステージの横にある6人は横長いテーブルの後ろに座り、書類に目を通したり、ペンを取り出したり、メガネを外したりしていた。
「では、まずジョージア・ハラランピアさん。ステージへどうぞ」
トビーたちの前方に座っていた小さな女の子がピョンっと立ち上がった。黒いハイウェストのドレスを着ていて、一応シモンと同じ4歳らしのだが、どこか大人っぽかった。
楽譜をステージのスタンドの上で開いて、ヴァイオリンを構える。そして深く息を吸ってから弓がヴァイオリンの上を横切った。
シモンとの練習の中でも聞いたことのない大きな音が飛び出てきた。主張力がある。滑らかな弓の動かし方であそこまで大きな音が出ている。同じぐらいの音を出そうと思えば、シモンの場合は弓を強く引っ掻いたり、素早く動かしたりしないといけない。
ジョージアが時々跳ねたりする演奏姿が可愛らしく、ヴァイオリンがしっかりと伝えたい音を観客席に伝えてくる。まるで観客と会話をしているようで、引き終わると観客から拍手が湧き上がった。トビーとシモンは唖然として拍手を送るのが遅れた。
「次!アレクサンダー・スイタラ」
今度はスーツを着た小さな男の子がステージの上に立った。トビーと同じぐらいの背だ。同性という事もあり、固唾を吞みながらトビーはその子を観察した。
目に留まったのは彼の指の動かし方だった。指が滑るように弦の上を細かく動いているのだ。この子のヴァイオリンバターから溶けるような滑らかな音楽が響いた。それと比べてシモンの場合は、ヴァイオリンの弦を押さえる指がばたついているように見える。安物のヴァイオリンの限界を超えて無理に音を出そうとしている証拠だ。
シモンをちらりと見ると、両手をお尻の下に置いて座って石造のように固まっている。
同じ曲だがさっきの女の子と比べると音楽の解釈が違った。なんというか滑らかでエレガントだった。これがまだ10までも数えられない年齢の集中力なのだろうか。4歳ですでに大きな可能性を持っているのがトビーですら明らかだった。
審査員は紙の上にペンを走らせているのもいれば、椅子に身を委ねて音楽をじっくりと楽しんでいるのもいた。審査員のおばさんは音楽に合わせて深く頷きながら笑顔で聞いている。
演奏が終わった瞬間、観客は静かだった。すぐにワッと拍手が観客席から巻き上がる。最初の子よりも拍手のボリュームが大きい。
他の子供達のパフォーマンスが続く中で、トビーの額に脂汗が出てきた。焦らない、比べない、落ち込まない。そう思いながら、トビーはシモンの固くなった肩に手をまわした。
「次、シモン・ブラックウェル!」
シモンがビクッとした。
「シモン・ブラックウェル?」
審査員のおじさんが観客席の方を見渡した。シモンは椅子から動こうとしない。
「大丈夫だから」
トビーは囁く。シモンの手はいまだにお尻の下に敷いてあり、肩を押して動かそうとするが、首を横に振って抵抗された。
「今すぐ降りなさい」
強めの口調で言う。
「ノーッ!」
シモンの声が体育館に響いた。
周りの親や子供達が席から振り返ったり、首を伸ばしたりしてこちらを覗き込んだりしていた。観客の視線が一気に降り注がれる。
「こんなのバカだよ!」
シモンはもう一度叫んだ。トビーはシモンの耳元であえて優しく囁いた。
「大丈夫、ここで競争するんじゃなくてリラックスして、ここで学べる事を出来るだけ学ぶんだ。ここにいることだけでも凄いことなんだ」
シモンは頷かなかった。
「ヴァイオリンはそもそも楽しいんだろう?」
頷かない。
「今日は楽しめればいいんだ」
「シモン・ブラックウェルはいませんか?では次にクリス・ヴォンガルド」
ここで諦めるわけにはいかなかった。自分が死ぬ前に息子にステージに立って演奏する経験をさせたかった。今が最後のチャンスかもしれない。
「・・・シモン、母ちゃんがこれを見ていたらガッカリするよ」
クリス・ヴォンガルドらしい男の子が後ろからステージへとヴァイオリンを抱えて歩いた。ステージの階段を上がって行く。
その瞬間、観客から騒めきがあった。
「おや?」
審査員の一人が声を発した。クリスはすでにステージの中央にいたのだが、シモンはステージの階段で転んでいた。それでもヴァイオリンを握って立ち上がり、クリスの横へと進んだ。楽譜をすでに開いていたクリスは困惑してキョロキョロしている。
「シモン君ですか?」
シモンは審査員に振り返るが、頷かない。
「あなたはシモン君ですか?」
シモンは口を開いてパクパクするが、何も言葉が出て来ない。口で息を吸おうとしているが、体が痙攣しているように見えた。
審査員がお互いに話し合っている。シモンを見た審査員の初老のおばさんが、手に持っていた鉛筆をテーブルに叩きつけて、腕を組んだ。そして一生懸命何かを審査員たちに首を横に振りながら伝えた。
「そ、その子がシモン君です!」
審査員の席から金切り声を出したのはゴンザレ先生だ。
「わ、わわ私が教えていた時がありました。こここここで彼は演奏するのです。シモン君、始めなさい」
クリスがステージから降りて、シモンは楽譜を震えながら広げた。あんなに恐れているシモンを見たのは初めてだった。出来れば一緒に手を繋いでステージの真ん中まで行きたかった。息子のそばに立って演奏を見守りたかった。だが、今のあの一人で立つ姿が、近い将来息子を待ち受けているのだ。
シモンはヴァイオリンを構える。大きなステージでは本当に体が小さく見える。
そこでトビーの周りから拍手が湧き上がる。観客が小さな子供を応援している。
シモンは引き始める。明らかに音色が弱い。掠れた騒音だった。その瞬間、シモンの手から弓が落ちて音楽が途切れた。
シモンはヴァイオリンを構えたまま観客を見つめながら固まってしまった。
観客のざわめきが始まった瞬間、シモンのズボンの股が黒くなり、徐々に太ももの方に広がって行く。
失禁をした。トビーは目を固く閉じた。どこからかクスクスと笑い声がする。胸が張り裂けそうだった。走ってでも、観客を押しのけてでも息子を引き取りに行きたい気持ちがあるのだ。だけど近い将来、シモンは一人になる。いきなり一人になるのではなく、今この瞬間から、たとえ4歳であったとしても世界の厳しさと冷たさに慣れて欲しいのだ。トビーは席から立ち上がらず、失禁した息子を引き取りに行かないことにした。
目を開けるとステージからシモンが泣きそうな目でこちらを見ていた。まだ弓を拾っていない。
トビーは立ち上がって
「弓を拾って演奏しろ」
観客席から息子に命令をした。すぐに観客がざわめいた。残酷、ありえない、頭がおかしい、子供がかわいそうだろ、やめさせろ!トビーは立ったまま全ての親子たちを無視してシモンをまっすぐ見た。すぐに観客からのブーイングが体育館を埋め尽くした。
ゴンザレ先生が席から立ち、シモンに駆け寄った。弓を拾ってあげ、そして指を観客席にさして、ブーイングが続く中でシモンをステージの真ん中から押し出した。
階段の降りるところまで来ると、シモンはチラリとこちらに目をあげてキョロキョロとトビーを探した。トビーは立ったまま動かず、表情はさっきと変わらない。そして腕を上げて人差し指をステージの真ん中に突き指した。ブーイングが更に強くなり、前に座っていた大人が立ち上がり、
「おい、辞めさせろ!子供がかわいそうだろ。あんたそれでも親かよ!」
「うちの子は演奏します」
今度は横に座っていた大人が立ち上がり、トビーの両肩を握って
「あんた、親として恥ずかしくないのかよ、失格だよ」
トビーは歯を食いしばって
「恥ずかしくはありません」
次々に観客が立ち上がり、トビーを取り囲んで罵声をかけた。
その瞬間、シモンはゴンザレ先生の腕を振りほどき、ステージの真ん中に走って、すぐにヴァイオリンを構えた。視線はトビーに向けられていて、眼差しには怒りと悲しさが混ざっていた。
「すわって」
マイクに向かってシモンが呟いた。観客は戸惑う。
「すわって」
もう一度冷たくシモンが言う。トビーも含めてみんなが席に座る。体が小さいシモンが、ステージで大きく見える。ヴァイオリンはシモンよりも大きいのに、シモンの方が存在感がある。
シモンが弾き始めた。今度は強く弓を引っ張り、ヴァイオリンから力強い音を一発奏でた。一つ一つの音符を怒りと悲しさに任せてぶち込んでくる。これは音楽なのだろうか。いや、人間の生の感情を観客に打ちかます音のコミュニケーションだった。音を生み出すヴァイオリンよりもシモンの表情、弓の動きに目がいってしまう。シモンとヴァイオリンが一つに見える、大きく見える。時折、飛び跳ね、ヴァイオリンが唸る。音楽から騒音へ、そしてまた音楽へ、そして騒音へと紆余曲折しながら生の魂を伝える演奏が続く。トビーは鳥肌が立ち、息が荒くなるのがわかる。
そして腕が一瞬止まる。シモンは涙を流しながら演奏を始めた。今度は胸に語りかけてくる、うっとりとする音色だった。悲しみから生まれた音楽。すごく辛いときに莫大なエネルギーが生まれてきて、そこにはトビーの、いやおそらく観客の魂を掴んで揺さぶり続けているものがあった。
演奏が終わってシモンは涙の溢れる目を開けた。その瞬間、強烈な拍手が観客から巻き上がる。審査員の一人は立ち上がって拍手を送っていた。どの子供達の演奏よりもはるかに大きなエネルギーの爆発だった。あんなオモチャのヴァイオリンで人を感動させたのだ。「ロケットのように才能を伸ばしていく」そう言ったゴンザレ先生の言葉がトビーの頭の中で響いた。
トビーは嬉しくなって、誇らしくなって観客席からステージの階段の方に走り寄った。よくやった!よくぞ、よくぞ!トビーはときめく肺がんの胸を手で押さえながらシモンが降りてくるのを待った。
刹那、シモンはヴァイオリンを宙に持ち上げた。
「シモン、やめろ!」
トビーが怒鳴っても遅かった。息子がステージの床に向かってヴァイオリンを投げつけたのだ。ヴァイオリンは一瞬跳ね返ったかと思うと、音を立てて砕け散った。つづいてシモンは弓を思いっきりステージから観客席に向けて投げ捨てた。
一瞬で観客の拍手が止まり、再び動揺の波が広がった。
シモンはそのまま階段を走り降りてきて、トビーの横を駆け抜け、体育館の扉を押し開けて飛び出て行った。
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