ヴァイオリンは諦めない

 ボスとの会話から2ヶ月があっという間に経ってしまった。


 毎朝、新聞を隅から隅まで見回して求人広告に応募もし続けたが、以前の業務内容が主にホッチキスだったと知られると、「無能」という扱いになって面接であっけなくなんども落とされた。勿論ネットでも仕事を探したし、公共職業安定所にも訪れたりもしたが、子育てをしながらとか、ヴァイオリンのレッスンを受けさせてあげれるような給料物が見つからなかった。


 その2ヶ月の中のある日のこと。喫茶店で友人がコーヒーを奢ってくれたのに、大げんかをしてしまった。


「うちの息子、ヴァイオリンのコンクールに受かったよ」


 友人の子供はシモンと同じ幼稚園に通い、ヴァイオリンをゴンザレ先生から学んでいる。友人とはつまりパパ友だ。目の前のソファーに座り、両腕を背もたれにかけている。胸のシャツのボタンを3つ外していて、これまた筋肉質の胸板をみんなに自慢しているようだった。友人はスマホでヴァイオリンを握る子供の写真を見せてくる。どれもこれも笑顔。メダルが首からぶら下がっている。


「そ、そうか。めでたいな」


 トビーはコーヒーをすする。へー、といいながら一生懸命笑顔を保ちながら話を聞き続ける。シモンも同じコンクールを受けているが、まだ結果の通知が来ていない。


友人は


「やっぱりゴンザレ先生がいいんだよなあ」


とか


「息子が変わったのはあの先生についてからだよ。あいつには子供の才能を引き出す才能があるね」


と言う。


「知ってるか?この間、あいつの生徒の一人がカートス音楽小学校に受かったって」


「カートス音楽小学校?」


「知らない?音楽に特化した学校だよ。ニューヨークにあって、ハーバードやスタンフォードを抑えて全米一の入学の難しさなんだ」


 トビーはアイオワ州を生まれて、ここから出たことが一度もなかった。ニューヨークなんてテレビと映画でしか見た事がない。そんなところに子供を送るという事は相当な金持ちなのだろうか。


 ・・・6歳で子供を手放すのか。シモンより一年だけ上じゃないか。


「カートスの卒業生には、ジリアン・マー、マイルス・ブラッドフィールド、ショーン・マニロウ、ジェームズ・グラスとか聞いたことがあるような名前がずらり」


「そうなんだ」


「まあ、芸術家になるために学校に行けばいいってもんじゃないけど」


 トビーはコーヒーをまたすする。学校に行けばいいというものではない、確かにそうだ。だけどその子の親はそれで子供にベストを尽くしたつもりなのだろう。ベストな環境を与える。だからこそ6歳で子供を手放せれるのだ。


友人よりも早いペースでコーヒーがなくなっていっている。追加のコーヒーをトビーのために友人が注文してくれた。


「で、仕事は何も見つからない訳?」


 お題が切り替わる。


「ホッチキス男だと相手にされないよ」


 友人はコーヒーをテーブルにそっと置き、トビーを眺めた。視線がトビーの手元から顔にゆっくりと移る。男にそう見つめられると気持ちが悪い。


「何?」


「君の今の容姿のままだと雇われにくいかもな」


トビーの口の周りのヒゲはジャリジャリ伸びていて、黒髪もボサボサ、その上、白髪は2ヶ月前よりも増えていた。しかも、髪に手を伸ばすとフケが次から次に落ちてくるほど不潔。一方でトビーの友人はクルーカットされたブロンドの整えられた短い髪。シャツは胸をむき出しにしてカジュアルに見えるものの、シワのない青スーツをうまく着こなしていて休暇前の爽やかなビジネスマンの姿だった。


「まあ、最低賃金の仕事が終わっても次があるよ。少しマシなところに行けばいいじゃないか」


「少しマシじゃダメなんだよ。俺だって子供にヴァイオリンをやらせたいんだよ。だから」


「よしとけってば、ヴァイオリンなんか」


 薄笑いをしながら友人が手を横に振りながら言う。ヴァイオリンを子供に学ばせ、しかもコンクールに受かった友人が。


「ヴァイオリンは金のない仕事のない家族が追求するもんじゃないんだよ。君のボスだってそう言ったんだろ?だいたい、子供なんて、すぐに次の事に興味がいくよ。子供の可能性は無限だし、ヴァイオリンが出来ないからと言って、人生失敗という訳じゃない。他にやれる事は無限にあるよ。これを糧に成長する事だって十分あり得る」


 それは何度も考えてきた。だけどこいつもボスと同じようにわかっていない事がある。そこでボスとこの友人は似ている事に気がついた。この友人から届いて来る爽やかな香水の匂いがボスの匂いとそっくりなのだ。勿論違う香水なのだろうが、この男たちの香水の匂いはオシャレに気を使える生活の余裕を主張している。匂いが作り出す独特な雰囲気が香水を買えないトビーの鼻にきつく入ってくる。


「息子には才能があるとゴンザレ先生から言われて・・・」


「あの先生はなあ、音楽に関して言うことが大げさな時があるんだよね。金だけかかるヴァイオリンはやめとけーっと君に言いたい。この間なんて、「100万円以上する弓」や「値段に0がたくさんついたヴァイオリン」がずら〜っと並んでる店に行ってビックリしたよ」


割り込んだ友人は冗談を言うように言って来る。それにカチンときて、コーヒーカップをテーブルにガシャンと叩きつけた。笑っていた友人は驚いて凍った顔になった。


「いいよな、お前は」


「は?」


「お前には何でも揃っていて。金も、嫁も、しかも健康で」


そこで若いウェイトレスがコーヒーを持ってきた。


「コーヒーの方は?」


ウェイトレスの声を無視して友人が反撃して来る。


「おいおい、君の不幸からくる怒りを僕にぶつけるのは辞めてくれよ」


「お前の子供はなんでも習い事ができるじゃないか」


トビーは自分の息子にできないことを口から吐き出す。


「あのー?」


ウェイトレスが突っ立ったまま二人のやりとりに困惑している。そのままコーヒーをテーブルに置こうとしたが、置こうとしたポイントに友人の腕がトビーに訴えるようにテーブルにのしかかった。


「こっちは良き友のアドバイスとしてヴァイオリンをさっさと辞めろって言ってるだけだよ。いいかい?金のある僕がよせって言っているんだよ。コーヒー一杯も飲めない状況じゃないか」


「ウェイトレスさん、俺、コーヒーいりません、そんなの注文していません」


「なんでだよ?君に飲んでもらうために買ったのに」


「え、ええと?」


ウェイトレスが迷っている。友人はトビーの前を指す。


「そこに置いてください。あと、トビーは甘党の甘いやつなんで砂糖をお願いします」


そして今度はトビーの顔を指差しながら


「この人、甘すぎるんで」


コーヒーがトビーの前に急いで置かれる。


「いらない。ウェイトレスさん、もうこのテーブルに来なくて大丈夫です」


そしてトビーはコーヒーを友人の方に押し返した。


「もう十分なんで」


「君は現実を見ていない」


「砂糖はあちらにー」


「俺は子供のためにベストを尽くして死ぬつもりだ」


トビーの声は荒く、隣のテーブルに座って本を読んでいる初老の男が怪訝な顔色でこちらをチラチラ見ていた。


「死ぬって、そんな大げさだな」


たとえ周りから常識的に、論理的に説得にかかってもトビーが死ぬ前にやろうとしている事を諦めるなんて考えられなかった。諦めたらその時点で死ぬ事ともはや同じだからだ。


「お前には絶対にこの気持ちはわからない」


その時だった。携帯メールに着信があった。タイトルは「アイオワ・ヴァイオリンコンクールの結果」。


「結果が届いたのか?」


友人は首を伸ばして携帯を覗こうとする。その前に携帯のスクリーンを閉じる。


「合格したのか?」


トビーは無表情のままテーブルを見つめる。


「不合格だったんだな」


「コーヒーをありがとう。アドバイスもありがとう。ただ、俺はお前の息子と同じチャンスをシモンに与えたいだけなんだ」


「今回のコンクールに受からなかっただけで・・・」


目から涙が出そうなのを堪えた。


「ヴァイオリンは諦めない」

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