婆ちゃんエピソード1

 コンクール1日前。とても晴れやかな日で、空を見渡しても雲が一つもなかった。初試合の前でトビーは落ち着かない気持ちで、ずっと一日中胃の中が掻き乱されていた。電話や会って相談する友達もいなく、トビーは婆ちゃんの病院にお見舞いをしに行くことにした。


病院の中は相変わらず消毒の匂いが強くて、長く時間を過ごしたいような所ではなかった。


「婆ちゃん?」


婆ちゃんは返事をしなかった。目を瞑っていて、息をしているのが微かに見えるからこそまだ生きているのが分かった。細くなったな、婆ちゃん。


「婆ちゃん、明日シモンのコンクールなんだよな」


婆ちゃんの呼吸に合わせて薄くて白いベッドシーツが少し上がりそして沈んだ。


「不安なんだ」


死ぬまでにシモンに残せるものはなんだろうかと、ずっと考えてきた。婆ちゃんがトビーの立場にいるなら、明日のコンクールではどう振る舞っているだろうか。


 トビーが高校生の時だった。校長先生が書類を一枚取り上げて、トビーが校内で振る舞った暴力や悪事を一つ一つゆっくりと読み上げては、机の向こうの婆ちゃんとトビーの反応を伺っていた。


 校長先生の話が続く中で、婆ちゃんは床を見つめていた。婆ちゃんが悲しんでいるのがトビーにヒシヒシ伝わる。ただその時、トビーの中で感情はなかった。ドライ。まるでこの光景を第三者の視点から眺めているようだった。


 校長先生が書類をテーブルの上に置いて


「しつけが良くないから、こんな悪い子供になったのでしょうね」


 と言ったその時だった。婆ちゃんが顔を上げて、校長先生を睨みつけた。


「この子は決して悪い子なんかではありません」


 大声でハッキリとした声だった。トビーの体に電気が走った。こんなにも轟くような声。胸ぐらを掴まれてビンタを喰らったように、トビーはビックリして婆ちゃんを目張った。


「決して悪い子供ではありません」


 婆ちゃんは繰り返した。トビーの開いた口は塞がらなかった。体の中でこれまで冷たく固まっていたものが砕けて、熱くなりかき混ぜられていく。心臓の鼓動が何故か収まらない。


 校長は明らかに婆ちゃんの発言にうろたえていて、謝りつつもブツブツと文句を言っているだけだった。


 校長室から出て行き、校内を出口に向かって歩く途中、他の子供たちが窓や廊下でトビーと婆ちゃんをチラ見していた。


 トビーは久しぶりに婆ちゃんと手を繋いでいた。婆ちゃんの手は力強くトビーの手を握っている。それをクスクス笑う子供達もいた。でも、今日だけはそれが気にならないのだった。


 校庭に出た時、眩しい太陽が二人に降り注いだ。空は青く澄んでいて鳥たちが空を自由に舞っていた。一緒に歩きながら婆ちゃんは口を開いた。


「ワタシは誰がなんて言おうと、トビーちゃんの味方だもんね」


 そして婆ちゃんは歩き止まった。


「あんた、どうしたね?」


 トビーは答えなかった。


「泣いてんのかね」


 トビーは熱くなった目頭を指で押さえていた。


子供の時、唯一の味方だった婆ちゃんは今、目の前のベッドで弱く小さくなって静かに横たわっている。トビーを一人で育てた婆ちゃんはどんなに苦労しただろう。決して諦めるような、悲しみに浸るような素振りを見せたことがなかった。


トビーは婆ちゃんのベッドのシーツを首の近くまでそっとかぶせて、部屋を後にした。

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