野外練習3 I miss mom
池で練習を始めたのが夜の7時。いつもと同じ場所に行き、再来週コンクールで弾く曲の練習を始めた。弦の下には色とりどりのステッカーシールが貼られていて、その上の弦を今日もシモンの小さな指が抑え、弓を滑らせながら音楽を奏でる。
ヴァイオリンを弾くシモンの表情や動きから情熱が伝わる。トビーはそばをウロウロ歩きながら耳を傾けていた。だが何かがおかしい。
「ちょっと待ってくれ」
シモンが弓をヴァイオリンから外す。音が明らかにズレれていた。だけどそれをどう指摘すればいいのかがトビーには分からない。ヴァイオリンの持ち方がいけないのか、それとも弓の圧力がいけないのか。
シモンの技術がついてきていないし、トビーの動画投稿サイトの知識ではどうにもならない。
色々試してみるが、毎回同じところで音が変になる。なんとかしたいが、出来る事が少ない。何度もシモンと一緒にヘッドフォンでヴァイオリンの音色を聴く。だけど改善しない。シモンが失敗するたびに弓を下ろして舌打ちをする。弾き方もどんどん乱暴になり、顔の表情が険しくなる。動画投稿サイトで言っていたように、耳をふさぎたくなる、黒板をひっかくような音だ。
息子にはヴァイオリンをさせてやりたい。しかしその為には先生がやはり必要だ。そしてそのためには金を見つける必要がある。仕事はなかなか見つからない。
「気分転換しよう」
そう言ったのはシモンが泣きそうな顔を見せた時だった。辛うじてヴァイオリンを投げ捨てなかったのが救いだった。シモンと一緒に池の周りを少し歩く。
「出来るようになるのかな?」
シモンが地面に目を下ろしたまま話した。そのしぐさが生きていた頃のサラと似ているのにビックリした。サラがシモンに重なって見える。
「ああ、耐えて時間をかけて頑張れば成長するさ。ママにも同じことをよく言ってたよ」
シモンが突然立ち止まった。トビーが振り返るとシモンは何かを考えこんでいる顔をしていた。
「どうした?」
「わからない」
気分が良くないのかと聞いたりもするが、シモンは首を横に振る。わからない、とばかり繰り返す。冷たい風がトビーの髪を吹き上げる。さざ波が岸にぶつかる音もした。
「ヴァイオリンは何年もやらなきゃいけないんだよ。少し出来ないからと言って悲しむことはないよ。そんな落ち込んでいたら父ちゃんなんかとっくの昔に落ち込んでるよ。アハハ」
「ママに会いたい」
トビーは笑うのを辞めた。
「死んだらどうなるの?」
分からないよ。トビーはシモンの隣に立って池の方を見た。丁度サラにプロポーズした場所がここからでも見えた。まるで池の上にサラが立っているかのように。
プロポーズの話をシモンにすると、二人は静かに何も言わなかった。
シモンには笑顔でいてもらいたい。好きなことだってやってもらいたい。それがママの願いだった。でもトビーはヴァイオリンのトラブルも解決できないし、生死の問題についても語る脳がない。いったい何ができるのだろう・・・。
「悲しいよな」
正直に思う事をシモンの横で言った。それしか言えなかった。今はシモンを息子と思わず、一人の人間、理解がある大人として話しかけた。
シモンは声を上げて泣いた。その涙は崩れたダムから落ちて来る水の量に、山の滝のように見えた。もし大人、父親でもあるトビーがそういう悲しいことに対して泣ける心を持てたらどれぐらいいいだろうか。シモンは子供の純粋さを持っていた。トビーが言った、悲しいよなという言葉がシモンの気持ちを言い表したに違いない。
トビーはシモンを抱き寄せて泣かせ続けた。小さな震える背中をさする。ママー、ママーとトビーの腹に顔を埋めて何度も叫んでいる。シモンの体は軽かった。
「大丈夫、大丈夫だからな」
と繰り返し同じことを伝える。
「そうだよな。悲しいよな」
トビーは優しく言う。しばらくするとシモンの涙が止まり、ヒックヒックと肩を時折震わせている。
「きっと、ヴァイオリンを弾く中でママと会えるかも知れないよ」
こんな子供に自分も癌でいつかはいなくなるなんて伝えられない。本当に申し訳なかった。だからこそ
「愛している」
これを小さなシモンに伝えた。
風が強く吹き、葉っぱが歩道をこすりトビーたちの側をかけ抜いて池の水面にぶつかった。寒すぎる。
「さあ、今夜は遅いから帰ろう」
シモンを引き離して顔を見た。シモンの顔は涙でクシャクシャになっていて、髪の毛まで涙で濡れておでこにピッタリ張り付いていた。
「さあ帰ろう」
手をシモンに伸ばす。シモンはその手を握らなかった。
シモンはケースを開けてヴァイオリンを取り出した。震えながらもヴァイオリンをあごの下に置き、弓を弦の上に置いて構えた。
さっきよりも優しい音色が流れ、ヴァイオリン特有の悲しい音がかすかに曲に混ざって伝わってきた。小さな指がヴァイオリンの弦を滑らかに滑る。ヴァイオリンはシモンより大きく見えるし、弓だって腕よりももっと長い。だけども、今だけ演奏するシモンの方が大きく見える。
トビーの硬く冷えた心が溶かされていくようだった。トビーは音楽の素人だったが、この瞬間だけ人生で最高の音楽を聴いている気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます