野外演奏2
息子が後ろをテクテクとついてくる音がする。
「どこ行くの?」
「テリー・トゥルーブラッドだよ。あそこの公園の池なら散歩する人達しかいないから大丈夫だよ」
「寒いよ」
シモンが隣に追いついて、小さな手袋をした手でトビーの手を握った。冷たい風は二人のコートの裾の間からも容赦なく侵入してくる。ずっと上では雲が横へどんどん風で流されている。こんな寒さと風の中でヴァイオリンなんて弾けるのかと疑問になる。だども普段やらないことをやろうとするためにも、この息苦しい状況から抜け出すためにも、歩き続けて不安を振りのけないといけなかった。
テリー・トゥルーブラッドに着くと澄んだ空気が杯を満たした。足元では小さな波が岸にチャプチャプ打ち込んでくる音がする。目の前の池は暗闇の向こうまで広がっていて、かろうじて対岸の街灯が小さく見える。時間は夜10時40分。安全確認のために辺りを注意して見渡したが、何人かのカップルやビジネスマンが散歩しているぐらいで、特に物騒な気配はない。ここなら座れそうなベンチもあるし、街灯のちょうど真下なので暗すぎると言うことはない。寒さと風の強さを除けばヴァイオリンを弾いても問題なさそうだ。
息子が手を擦りながらヴァイオリンをケースから取り出す。
「弾いているうちに暖かくなるよ。まあ、20分だけでも弾いてみろよ」
トビーはベンチに深々と座り顎で促す。息子が今更エーッとふてくされながら、ヴァイオリンを顎の下に構えて、弓を弦の上に置いた。
シモンは眼を閉じる。息子のまぶたの向こうではどんな世界があるのだろうか。トビーはポケットの中で拳を握る。これから久しぶりに息子のヴァイオリンを聴く事になる。
ギーーーーーーーッ。
錆びついた鉄を引っ掻く音。すぐにシモンは弓を弦から下ろして、トビーを伺った。これでもやるの、と。これは音楽なのかと。息子にヴァイオリンを弾かせて喜ばせたかったのだが、こんな耳を覆いたくなるような音じゃあ、どうしようもない。親として子供をなんとか励ましたいのだが、救いようのない音だった。
「クソじゃな!」
しゃがれた声がどこからか聞こえた。トビーが声の方を振り向くと、いつの間にかショッピングカートを押してこちらに歩いて来る老人がいた。深緑の服はボロボロで、街灯のオレンジの光で露わになった顔にはシワや黒い汚れでいっぱいだった。ホームレスだ。
練習してるんですよ、トビーは説明する。
「そんなクソな音じゃあ話にならんよ。近所迷惑じゃ」
ショッピングカートを手放して息子に近づいてくる。
「近所迷惑って・・・」
「貸してみい!」
一瞬で老人はヴァイオリンをシモンからひったくる。そしてギー、ギーと体を大げさに揺らしながら弾き始めた。
「ハ、ハッピーバースデー?」
トビーは老人が弾こうとしている曲を言い当てる。トビーは腕を組み、早くここを去れと老人に冷たく伝えるような目線を老人に送った。下手なハッピバースデーは、
徐々に黒板を削るような騒音へと変わった。
「どうじゃっ」
老人が腕を広げてトビーたちにお辞儀する。トビーもシモンも静か・・・と思ったら、意外にも息子がキャッキャとお腹を抱えて笑い始めた。今日一日ずーっと良い顔をしてこなかった息子が嬉しそうだ。息子の笑い声につられてトビーも口元が緩んでしまう。何が、「どうじゃっ」だ。
「それだったら俺でもできますよ」
トビーはヴァイオリンを老人から取り上げて、適当に弾き始めた。
「お前さんに才能は一切ない」
老人が夜の公園で、木をのこぎりで削るような音を奏でるトビーに断言した。あんたに言われたくないよ、とトビーは思った。
今度は息子がトビーからヴァイオリンを取り上げて、弦のチューニングを始めた。そして弾いてみると、先ほどよりも少しマシな音になっていた。オー、ブラボーっとホームレスの老人が叫ぶ。少し気にくわないが、息子の応援に繋がるならこの老人と一緒に拍手をしてもいい。
「さあ、演奏をしてみい。お前が指揮者だ」
抵抗するトビーを老人はトビーをシモンの前に押したてた。
「な、何をするんですか」
シモンがヴァイオリンを顎の下に構えてクスクスおかしく笑って構えている。もう、どうにでもなれ。トビーは指揮者の真似をして手をブンッと降った。それに合わせるかのようにシモンはヴァイオリンを弾き始める。
くっだらないことをしているなあ、指揮者の真似事なんかして。だけど、シモンが演奏を続けるにつれて気持ちは徐々に真剣になっていく。もちろん、トビーの腕の振り方は適当だ。だけど、ヴァイオリンを弾き続ける息子を目の前にして、眼を閉じてヴァイオリンと一体になって音楽を弾いている息子を見て、鼻や指が冷たく赤くなっても弾き続ける息子を見て、この「お遊び」を止めたくなかった。
ヴァイオリンの音色が、この公園中に響いている。安くてしかも埃のかぶったヴァイオリンだけど、この池の水の上を音楽が生き物のように駆け抜けている。強く、弱く、早く、ゆっくりと。
そして気がついたら老人以外にもトビーとシモンの周りに人が集まって囲んでいた。カップル、ビジネスマン、犬を連れた老人。中にはスマホでトビーとシモンの動画や写真を撮ったりしている人もいた。トビーの体にヴァイオリンの音色と共に電気のようなものが流れてくる。楽しく、悲しい音色が、トビーの体の中に入ってくる。体が熱くなる。
そして最後、シモンが音楽を弾き終えてヴァイオリンを下ろす。トビーもシモンも息があがって汗をかいていた。
誰かがパチッと手を一回叩いた。続いてすぐに別の誰かが手を叩き、瞬く間に拍手へと繋がった。指笛を鳴らす者もいて、とても夜中の池の雰囲気とは思えない。みんなが笑っていて、シモンに熱い目線を送っている。ホームレスの老人は客から小銭を集めるのに必死だった。
拍手が続く中、シモンも笑っていた。気持ちのいい笑顔。トビーは大きく深呼吸をして、肺が池の綺麗な空気で満たすのを感じた。自分の息子のために何かが出来たのだ。誇らしい。トビーの気持ちはこの言葉に尽きる。
時計の針は既に夜中の12時を回ろうとしていた。満点の星空がこの瞬間を優しく愛おしく見下ろしている。家の方角に戻る。演奏をしている間は気にならなかったが、池の側はやはり寒い。だが心はワクワクしていて、二人とも熱い息を鼻や口から吹き出していた。二人とも弾むような足取りで歩道を歩いた。シモンはヴァイオリンのケースをブンブン振っている。
「シモン、コンクールに挑戦してみようぜ」
先生がいなくてもなんとかなるんじゃないのか。ここで練習を続ければ良いのでは?
「う、うん!」
トビーは手をシモンに差し伸べる。それをシモンが硬く握る。よしっ、やろう!やってやろう。シモンの眼にはこれまで見たこともない光が宿っている。さっきのパフォーマンスで自信がついたのだろうか。隣を歩くシモンは片方の拳を固く握っている。眼は歩道の奥を、明後日の方角を見つめている。
アパートにたどり着いた。トビーはしゃがんで自分の靴を脱いでいた時。
「父ちゃん」
シモンがそばで言う。トビーの視線は左の靴紐にあり、指は靴紐を解いていた。
「うん?」
片方の靴を脱ぐ。
「あのね」
もう片方の靴も脱ぎ、今度はシモンの靴紐をほどき始めた。
「なんだ、言ってみろ」
「今日は楽しかった」
シモンの靴紐を解く手が止まる。息子の顔を仰ぐと、トビーに似た黒い髪、目つき、そして母親の唇、自分の分身が、自分よりも大事な存在が今日は楽しかったと眼の前で言ってくれた。息子のために俺は頑張れる、とトビーは思った。だから誰がなんて言おうと、息子が喜ぶことはやる。悲しい時には一緒にいる。これからもずっと。
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