サラの演技

 7年前のこと。トビーは暗闇の劇場の中の一番前の観客席に座っていた。席のひじ掛けを両手で強く握っていて、いよいよトビーの彼女、サラが舞台に登場して脚光を浴びるシーンを待っていた。彼女が登場するであろう次の瞬間のためにトビーは毎晩演技の練習相手になっていた。光が薄い観客席に座っている大人や子供達は爆笑したり拍手を舞台の役者に送っていたりしたが、トビーの心臓は高鳴りしていてなかなか舞台の物語に集中ができなかった。


 舞台の白いスポットライトが薄暗い青に代わり、物語は昼間から夜のシーンに変身した。舞台の背景は木の陰でいっぱいになって、森の世界が演出される。スピーカーから冷たい風の音が響き、そしてステージの横や下から白い煙が噴き上げてきて、舞台は薄い霧に包まれる。


 舞台に飛び出してきたのは白雪姫。森の中をさ迷い、ハンターに追いかけられている。


「いいねえ、あの子は。タイプだな」


 トビーの隣に座っているボロボロのベージュ色のジャケットと帽子を深く被った男が唇を舐めながら言った。周りに子供たちが座っているのにも関わらず気持ち悪い発言。ここで注意をして騒ぐわけにもいかないのでトビーはこの男を無視した。


 白雪姫は木の間を右や左、そして舞台の前後を走り回った。舞台にハンターが登場すると、観客の子供たちは逃げてーっと一斉に叫び始めた。トビーはまだまだドキドキしていて一緒に声を上げる気にはなれず、首を縮めて舞台を見守っていた。


 突如、白雪姫の前に木のマスコットを身に纏った役者が飛び出てきた。27歳のトビーの彼女のサラだった。


「ウー、帰りなさい、ウー、森から去りなさい」


 サラがシンデレラに向かって腕を振り回すと、腕に取り付けられていた枝が大きく揺れ、葉っぱがワサワサ音を出した。観客の子供たちと一緒に驚いた白雪姫は尻もちをついた。サラは引き続きウーウーと唸り、床を這いつくばる白雪姫を舞台の端まで追いかけていった。


 ワッハハ、と魔物の木を演じているサラは大笑いして舞台を出て行く白雪姫を追いかけていき、舞台の反対側から、スカートを持ち上げて走り出てきた白雪姫のすぐ後ろをついてきていた。サラが腕を前に伸ばすと、その木の枝が思いっきり白雪姫の肩の衣装に引っかかり、逃げる白雪姫の足が止まった。そのままサラは白雪姫に後ろから衝突してしまい、ギャーッという姫の叫びと共に床に倒れる。観客のどよめき。その一部始終を見ていたトビーは席から背筋を伸ばして、ソワソワした。


 立ち上がったのはサラだけであった。白雪姫は何故か立ち上がらず、床に倒れたまま動かなない。


 こんなシーンをサラと一緒に練習をした覚えはない。トビーは手を口に当てて漏れそうな悲鳴を抑えた。白雪姫は気絶していた。ハンターもようやく追いかけてきたが、白雪姫が倒れているのを見ると呆然として立ち尽くしてしまう。ぶっ殺すはずの相手がすでに倒れていた。


そしてハンターが次のセリフを口にした。


「こっちに戻ってこい」


だが、姫の意識はどこか遠い場所に行ったまま戻ってこない。木のコスチュームを着たサラは一生懸命白雪姫に囁き、その木の枝で白雪姫をつついていた。そして青ざめた顔で観客席の一番前にいるトビーの方を見た。どうしたらいいの?と言わんばかりの無言のコミュニケーション。トビーは今、サラと同じぐらいパニックになっていて、顔が汗でビッショリしていた。客であるトビーがサラに何が出来るのだろう。


「芋役者め」


 隣の男がまた声に出して言った。声がやたらと大きく聞こえる。こんな子供向けの芝居でそんな文句を大声で言うなんてトビーは信じられなかった。しかも他でもない彼女のサラに対してだったので、頭の中がカッとして、ギロリと男の方を睨みつけた。注意をしたいが、サラの目の前、そして子供達の前で喧嘩を始める訳には行かない。こういうタイプの男はどこにいようと見境いなく大声で喚くタイプが多い。この男が吐き捨てるように言った「芋役者」がサラの耳に届いていない事を歯を食いしばりながら願った。


 サラの顔の表情は動揺の顔から寂しそうな表情に変わってしまった。この男の批判の声がバッチリ聴こえて傷ついたのだ。トビーの心の中でズンッと重たい物が落ちた。同時に隣に座っている男への怒りもさっきより激しく湧き上がり、隣の男の腕を叩いた。


 姫は目を閉じて全く動かない死体のようで不気味だった。観客の騒めきと子供達の悲鳴が劇場の中で轟いた。そしていきなり舞台の幕が天井から降り降りてこれで終わったかと思ったが、カーテンは白雪姫の体の上に落ちて姫の上半身だけがまだ観客に見えたままになった。カーテンの後ろにいた誰かが叫び、白雪姫の体が後ろに引きずられ、ようやくカーテンに挟まった白雪姫がカーテンの裏へと消えた。


 そこで休憩時間となり、お芝居の前半が終了した。すぐさまトビーは顔を赤くしながら隣の男に喰ってかかった。


「俺の彼女に文句を言ったな」


「ああん?」


 男は面倒臭そうにトビーに目をやった。


「正直に批判を言ってやったほうが、成長するんだよ」


「パフォーマンス中に言うことでもないだろう」


「表現の自由だよ」


「失礼だろ」


「お前みたいな奴は終わった後で、嘘で褒めてやるんだろ?そっちの方が芸術家に対して失礼だ。芋は芋なんだよ」


 男の胸ぐらを掴んだ瞬間、劇場スタッフらによって男と一緒に劇場の外に放り出されてしまった。立ち入り禁止を食らい、男はブーブーと相変わらず大声で文句を言いながらどこかに歩き去った。


ここでトビーも引き下がって去る訳にはいかない。劇の後半が始まるまで後10分。その前にステージの目の前のあの席に戻らなければ、サラはトビーがいないことに気がつき、もっとガッカリしてしまうだろう。自分のせいで白雪姫を観客の前で気絶させ、知らない人から芋役者と言われ、そして応援してくれるはずの彼氏は立ち去ってしまった。こんな終わり方はありえない。


「中に入れてください」


 劇場の扉の前に立つスタッフにお願いした。


「絶対にダメです」


「彼女が木の役で、白雪姫を気絶させてしまって」


「関係ございません」


 スタッフが首を横に振った。お願いします、ダメですのやり取りが暫く続く。強気で説得しようとしても、固く閉じこもった貝の殻を叩くようだった。


 時間がどんどんなくなり焦る。他に入り口はないだろうか。窓からでも入れるのでは。劇場の周りをグルグル見回ったが窓なんて全く見つからなかった。


 オロオロしたトビー、お芝居を見続けたいのかが分からなくなった。何よりもお芝居が終わった後の彼女を見たくなかった。きっと悲しそうな顔をしながら出てくるだろう。彼女に何を言うべきかが分からなかった。


 怪しく劇場の周りをうろついている間にブーッと劇場内から太いブザーが鳴り響く。


「第2幕が始まったようですね」


と劇場への扉を守るスタッフが嫌味を込めてトビーに言った。結局トビーはサラが出てくるのを2時間劇場の外で待つことにした。サラが出てくるとトビーは駆けつけて真っ先に謝った。


だけどトビーの予想を裏切ってサラの表情は生き生きしていた。


「あの後、私が代わりに白雪姫をやったの」


「えー?」


聞けば、サラが気絶して意識が戻らない白雪姫の衣装に着替えて、台本を手に持ちながら演技を続けたらしい。


「楽しかったー」


サラがアッサリと言う。サラは理解ができないぐらい演劇に対して情熱を持っている。お金が全く入らないのに、ここ数年バイトの傍らでオーディションを受けてきた。だが、やっとありつけた役は今日のような白雪姫の喋る木という程度。そしてそれがサラのせいで劇が中断されそうになったていた。それでも楽しいと言うのだ。


「ようこんな事をやれるよな」


「どういう事?」


「だって金にならないんだろう?」


「金にならなくても好きだからやるのよ」


それがサラの口癖だった。好きだからやるのよ。後先を考えない楽観的な笑顔。

トビーは肩をすくめる。金がないことでどれぐらい生活が苦しんでいることか。今後の生活の見通しが良くなるわけでもない。


「ほぼ毎日安いハンバーガーを食べている理由がわかるか?」


それでも二人は美味しくその日も同じお店のハンバーガーを食べるのだった。


 そこから2年後。紅空が薄い青に変わっていくのをトビーの目の前の池が綺麗に反射していた。対岸に目をやると、小さな街灯が蛍の光のように丁度灯り、その刹那、隣の街灯にも光が灯って、それがまた隣へと光が線を引くように、巨大な池の周りを囲んでいく。


 アイオワシティに生まれてから27年、子供の時からこのテリー・トゥルーブラッド公園に何度も訪れてきた。初めて泳いだのもこの池、かくれんぼもこの池、喧嘩もこの池、今の彼女のサラと初めて出会ったのもこの池だった。ここはトビーの人生の一部だった。


 そしてトビーは今も池を囲む歩道を歩いている。だが、今日はこれまでと訳が違う。サラとの待ち合わせのベンチに辿り着くまで、トビー・ブラックウェルは買ったばかりのまだシワが入っていない黒いスーツのポケットに何度も何度も手を入れたりして、今朝ポケットの中に忍ばせた小さな箱をなでていた。この中に入っている小さな物をサラに買うためにどれだけ貯金をしたことか。


 トビーにとって、そして願わくはサラにとっても、今日は特別な日、恐らく人生で一番大事な日になりそうだった。だから見慣れた池の景色ではあるものの、今目のあたりにしている景色を忘れる事はない。今、ここをソワソワして歩くこの緊張した気持ちを一生忘れる事はない。


 プロポーズの流れはこんな感じにする。普段のようにサラに振舞い、彼女の話を傾聴しながら池を一周一緒に歩く。勿論手は繋いでおく。そして初めて出会ったベンチの位置まで来たら跪いて、ポケットの箱を取り出してプロポーズ。涙ぐむサラ。イエス、イエス、オールイエスと言わんばかりの彼女の顔。


 ・・・だが、サラに断られたらどうなるだろう?これについてずっと考えてきた。4年間付き合った関係が終わるのだろうか。断られたときの恥なんかを想像もしたくなかった。拒絶された時に耐えられる自信がなかった。それこそ一生忘れられない傷になりそうだ。少なくとも別れるときは笑顔で別れたい。


 歩道の先からジョギングでこちらに近づく男性がトビーを目を丸くして凝視していた。明らかに場違いなトビーのスーツ姿。今日の為にスーツを買って着込んだこの姿を今から会うサラはきっと怪しむに違いない。彼女からしてみたら、土泥がくっついた工事作業服のトビーの方が自然なはずだった。だけど、今更ここで家に引き返したくはない。万事、計画通りに進むだろう。イエス、イエス、オールイエス。


 そしてポケットに手を入れて小さな箱を指でなぞり、まだなくなっていないことを確認する。ポケットからぼっこりと出ている事が気になる。


 トビーから少し離れたところでサラはベンチに座っていた。膝の上に置いた何かの本に没頭していて、まだこちらに気づいていない。サラのハンドバッグにはいつも本が一冊入っていた。同い年なのに、トビーよりもずっとずっと本を沢山読んでいる女性。サラは白玉藻用の赤いワンピースを着ていた。遠くからでも純伯な細い腕が見える。本を見下ろしていたので、茶髪のオカッパの髪がサラの横顔を隠していた。赤いワンピースから伸びているスラリとした足。踵を合わせてベンチに座っている。


 深呼吸する。トビーの心臓は肋骨を中から叩きつけていた。課題は色々あるが、まだプロポーズの言葉が決まっていない事も気になる。「結婚してください」とだけ言うのにドラマを感じられない。ロマンス映画を参考に色々見たが、どれもこれもしっくりこない。プロポーズの言葉を文章にしてもどうしても滑稽に感じてしまう。結局ムードを見計らって即興でプロポーズの言葉を伝えるのが一番良さそうだった。


「や、やあ」


 サラに声をかけると、彼女が本から顔をあげた。パッチリした目、そしてツヤっとした頬っぺた。笑顔を一瞬見せてくれたが、その刹那、トビーを下から上へと不思議そうに観察し始めた。


「どうしたの?どっかの舞台にでも出るの?」


 サラの目が細くなる。


「まあ、たまには着込んでデートをしてもいいかなと思ってね」


「それは嬉しいけど、着込み過ぎじゃない?」


「何の本を読んでるの?」


 が、サラは質問を無視してトビーの観察を続けた。彼女の目がトビーのポッコリとした指輪が入っているポケットに留まりかけたのに気がついて、慌ててベンチに腰かけている彼女をハグする。


「あれー?どうしたの?」


 とサラ。まあ、そういう変わった日もあるってことさ。サラを立たせて、手を繋いで一緒に歩き始めた。ずっと池水が岸を撫でる音やコオロギの合唱が二人について来ていた。これから少し寒くなる筈なのに、今はまだ肌に優しすぎるぐらい暖かい。いや、トビーは緊張でむしろ汗を掻いていて暑いぐらいだった。


「今日、オーディション受からなかったの」


「え、あんなに練習したのに?」


 大学病院の実態を生々しく描くドラマに登場する主任教授の役を貰えなかった。トビーも何回もサラのセリフの練習に付き合い、しまいには何の治療に使うのか分からない「ロサルタンカリウム・ヒドロクロロチアジド錠」とかややこしい薬の名前まで覚えてしまっていた。


「でも、次のオーディションは受かると思う」


 サラは目を輝かせて言う。サラのそういう自信が毎回どこから来るのかが分からない。根拠なんてないはずだ。


「本当か?」


 と思っている事を伝えた。が、それで地雷を踏んでしまったとすぐに気が付いた。


「どうせ私を信じてないでしょ?」


 サラは手をトビーから離した。トビーを睨んだかと思うと、プイっと反対側の池に顔を向かせた。


「い、いや、信じてるってば」


 慌てて答える。サラを不機嫌にしては絶対にいけない。


「別にいいわよ、トビーに信じてもらえなくても」


 だって、この一年で受かったオーディションといえば、白雪姫に登場する喋る木だった。初めてサラからそれを聞いた時、腹を抱えて笑ってしまった。喋る木なんて白雪姫に登場したのかと。人間じゃない役を貰えて良かったね、と。大体、トビーに役者のキャリアを選んだ意味なんざ分からなかった。トビーの工事現場の仕事よりも金が入ってこないし、あまりにも運任せの職業すぎる。


 トビーは一生懸命サラに謝り、サラの演技の話を世界で最も面白い会話かのように聴いた。ところが、頭の中はプロポーズの事でいっぱいだった。プロポーズプロポーズプロポーズプロポーズプロポーズプロポーズプロポーズプロポーズ。何度も手をポケットに伸ばし、指輪が入った小箱を落としていないかをチェックする。


「聞いてるの?」


 サラが立ち止まる。うん、聴いてるよと答える。プロポーズプロポーズプロポーズプロポーズプロポーズ、プ、ロ、ポー、ズ。


「なんか焦っていない?」


 サラが苛立ちながら言った。トビーは内心ドッキリとする。普段のように全く振る舞えない。


「さっきから歩くのが早くなってるわ。なんで?」


ーーー


そして現在。ダブルベッドで目覚め、元々サラがいた所をボーッと眺める。サラが亡くなってから、サラと過ごした日がよくトビーの夢に出てくるようになった。


暗い部屋に明かりをつけて、今日もサラが生んでくれたシモンを起こしにベッドから立ち上がる。

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