野外演奏1
2週間があっという間に過ぎてしまった。アイオワが暗くなる時間が早くなっていて、仕事の後にシモンを幼稚園から引き取った後、アパートに戻る頃には太陽は沈みかけていた。
夜の冷気がアイオワシティの隅々に手を伸ばし始めた頃。トビーがアパートのドアの鍵を開けて扉を押すと、中は外の世界と同じぐらい暗くてアパートの奥が見えなかった。二人の白い息が見えるぐらいアパートの中は寒い。
ため息をついて玄関の明かりを付け、着込んでいるコートを脱がずに中にあがっていく。湿った洗濯物や出前の残り物の匂いがトビーとシモンを迎えた。
キッチンに足を運び、オイルが足りなさそうな冷蔵庫の錆び始めている扉を開く。ガランとした白い空間に光が灯る。茶色に変色したレタスと卵が転がっているのと、ビール缶が少々並べてあった。これまでジャンクの出前生活だったので、廊下やテーブルの上にはピザの食べ残しなどが散らかっているが、冷蔵庫に置いてある食材は少ない。
料理をしている間、キッチンからテレビの前に座ったシモンの後頭部が見える。テレビモニターの光が居間を青白く照らしている。シモンは目の前のアニメに没頭していた。テレビからもっと離れて見てくれ。うん、わかった。というやりとり。それ以外の会話はない。テレビアニメ、フライパンで卵を炒める音、そして下の階のアパートからかすかなベースの音楽がこのアパートに聴こえる。
今日はいい事が全くなかった。仕事を首になる寸前、ヴァイオリンどころでもない。生活は更に苦しくなると宣告を受けたような気持ちになる。トビーの気分は落ち込んでしまい、ここまで無言のまま帰って来た。ため息が止まらない。
オムレツが出来上がり、ソファーの方に運んでいき、シモンの隣に座る。テレビは猫とネズミの戦いを流していた。息子と一緒にテレビ画面を眺めながら、黙々と食べる。
「おいしいか?」
「・・・いや」
息子はオムレツの中に入っていた卵のカラを口から吐き出す。そしてフォークを皿に置いて、オムレツに手をつけずにそのままソファーの背もたれに身を委ねた。手はコートの中に突っ込んでいて、体を温めようとしているようだった。
「どうした、気分が良くないのか?」
「別に」
ネズミが猫をハンマーで叩いた。
「幼稚園はどうだった?」
猫が地面にぶっつぶれる。
「楽しかった」
シモンの返答に全く力が入っていない。普段ならベラベラ止まらずに幼稚園で起きた事を喋るのに。シモンの眼を伺った。瞳は瞬きをせず、猫に追いかけられるネズミを映し続けていた。
「何が楽しかった?」
「遊んだことが」
それ以上シモンから会話を引っ張り出そうとしても中々続かない。息子はオムレツをフォークで突くだけで中々食べようとしない。
今日シモンを幼稚園に迎えに行った時、ゴンザレ先生は生徒たちにヴァイオリンを指導していた。その中にシモンはおらず、一人で隣の広間でヴァイオリンのリハーサルを聞きながらおもちゃで遊んでいた。レッスンに参加しなくなった日から、トビーはその風景を何度も迎えに行く時に眼にした。自分だけがグループの外にいて、混じることが出来ない。仕事を失いそうな自分だけが落ち込んでいる訳ではないことぐらいすぐにわかる。
ヴァイオリンをまた弾きたいか?とレッスンを辞めてからシモンに聴いてみたことが何度かある。でも駄目なんでしょ?とシモンはいつも話の終わりにそう聴く。いつになったらヴァイオリンを弾いてもいいの?と聞かれてしまう。シモンをがっかりさせたくなく、曖昧にしてその答えを伝えてこなかった。だけど4歳児に聞かれるたび、4歳児に嘘をつくたびに、4歳児の目から純粋な光が薄くなり、シモンは以前と違う子供になってしまっていた。
親として、息子を笑顔を引き出したい。だけどどうすれば良いのかが分からない。居間の隅っこに目をやる。埃を薄く被ったヴァイオリンのケースが置いてある。
「今日、みんなと弾きたかったけれど、先生たちに止められたんだ」
「・・・そうか。でも広間で遊んで楽しかったんじゃないか。車が全部一人のものになったろ?」
シモンは無表情に頷く。トビーは幼稚園のおもちゃについて聞きまくった。色、形、どれが一番好きなのかなど明るく振舞いながら聴く。だけど・・・。
「今度コンクールがあるんだって」
話が音楽に戻る。
「コンクール?」
「うん、ヴァイオリンの」
他の子供たちはゴンザレ先生の練習に参加していて、シモンだけが参加していない。
「あー、そして・・・お、お前は」
咳払いをする。コンクールに出たいのかを聞きたい。息子のヴァイオリンに対する想いを知りたかった。それに、息子にヴァイオリンを続けさせてやりたいという事がトビーの思い込みじゃないことを確信したい。
「コンクールに出たいのか?」
口から出て来た声は枯れていた。でも駄目なんでしょ?いつになったらヴァイオリンを弾いてもいいの?とまた聞かれるだろう。床を見つめて息子の答えを待つ。コンクールに出たいのか?
視界の片隅でシモンがトビーの方を向き、息子の視線を避けるトビーの眼を真っ直ぐ捉えたのを感じる。コクリと頷く顎が見えた。
今、息子にできる事はないのか。
トビーは居間の隅で埃がかぶったヴァイオリンのケースをソファーに持って来た。
「弾くか?」
「え?」
シモンは背筋をピンとさせる。
「弾きたいんだろう?」
「え?え?」
シモンがキョロキョロする。
「ここで?」
ここでは無理だった。先日ヴァイオリンを弾いて苦情がきたばかりだった。トビーはニヤリとして
「アパートが駄目なら、外で弾く事だって出来る」
息子にウィンクを送った。今家にいても仕方がないのだ。このままだと無気力を感じてベッドに就くだけだし、思い切って外に出た方が気分転換にもなる。時計を見ると夜10時。外の気温は零度に近いはずで今から外に出ていくのなら、コートの下に服をもっと着込んで暖かい格好をしなければいけない。
息子は首を傾げていたが、すぐに分かったと言ってくれた。息子の服を準備し、手袋も被らせる。二人とも雪だるまのように丸くなって家を出た。
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