婆ちゃん
一刻も早く土地を売ってまとまったお金を手に入れないといけない。トビーの殆どのお金が家賃に消えてしまっているし、育児手当だって雀の涙しか出ない状態だった。毎月の残金がプラマイゼロ。沈む船に乗っかっていて、深く冷たい海に沈んでいくような気持ちだった。
土地の売買権利を持っているのはトビーの婆ちゃんだった。爺ちゃんはトビーの両親と共にとっくの昔に交通事故で亡くなっていた。生き残ったトビーを頑張って育ててくれたのは婆ちゃん一人だった。
その婆ちゃんは今や衰退して、体を動かすことが出来ずに病院で暮らしている。孫のトビーが肺がんであり、自分より先に死ぬかもしれない事を知らず、そしてトビーが密かに婆ちゃんの土地を売ろうとしている事も知らなかった。
幼稚園の息子を迎えに行き、数少ない友人の家に預ける。そして吐き気と背中の痛い痙攣に耐えながら、車をアイオワシティ病院に走らせる。太陽が完全に沈みそうなのでヘッドライトを点けるが、壊れているので片方だけしか点かない。
病院に着いたのは夕方の7時頃。消毒の匂いがキツく、キャベツを沸騰したような匂いが支配しているような廊下を歩いた。
マリア・ブラックウェルの名札が貼られている部屋で足を止め、ドアノブに触れる。
婆ちゃんに最後に会ったのは病院の入院手続きをした3ヶ月前。固形の食べ物を飲み込まなくなっていた。病院に預けて以来、会いに行った事はないし、電話もしたことがなかった。余りにも日々の生活が忙しすぎた。
土地の売却の話が出来るだろうか?少なくともトビーの癌の話は隠さないといけない。
中に入る。
「婆ちゃん」
婆ちゃんは3ヶ月前より弱く小さく見えた。鼻に透明の管が突き刺さった婆ちゃんがベッドで横になっている。酸素が細い管を定期的に流れていく音がする。命が終わろうとしている人間が一人いた。
ベッドの側の椅子に座り、顔を観察してみる。婆ちゃんの目は閉じていた。頬骨はボッコリ浮き上がっていて、シワだらけであった。
「やっと来たの?」
やっとの事で絞り出したような声。婆ちゃんの手が顎に触れた。腕は細く、骨に肉が少しくっ付いているようだった。
「あんた体が細くなってない?食べてるの?」
ゴミ荒らしのおかげで食べているがそれは言わない。トビーの食欲はどんどん減っていき、仕事でも人と話をしている中でも眩暈を覚えることが多い。今も本当はベッドで横になりたいぐらいだった。
代わりにトビーはシモンの話を中心にしたが、マリア・ブラックウェルはあまり反応を示さなかった。
思い切って本題に入る。
「婆ちゃん、土地の話の事なんだけどさ」
「あの畑を手離すのだけはやめておくれ」
間を置かずの返事だったのでトビーの顔が固まった。何故分かったんだ?
「な、なんでそんな事を言うんだよ?」
「だいたい想像できるよ。だけど、あの畑はワタシの唯一の宝なんじゃ。売らないでくれ。あそこであんたの爺ちゃんやお父さん、あんたも育った」
「婆ちゃん、シモンの為にお金が必要なんだよ」
婆ちゃんの目に光は宿っていない。天井に向かって何かを呟き始め、それを聞くために耳を口元に傾ける。
「ワシが死んでも、ちゃんと畑を耕して、肥料を与えるんじゃ。あの土は肥料を与えないとすぐに腐ってしまうのでの」
「俺は後を継げないし、シモンの将来のために必要なんだよ。だから売ったほうが良いんだ」
「爺ちゃんと会った畑なんじゃよ」
「そうかも知れないけど、もう未来を見なきゃいけないんだよ」
そこから20分の間、話を続けたが埒が明かなかった。婆ちゃんはあくまでも死ぬまで売るつもりはなく、こちらの話が耳に入っていなかった。
咳が出てきて、トビーは口に手を当てた。ゲホゲホと咳が発作が続いてなかなか止まらない。胸が痛い。顔をしかめて口を抑えている手を見ると、薄っすらと血が付いていた。慌てて婆ちゃんに背を向ける。
「あんた、何かあったんだろ?」
伝えられない。トビーが癌である事を伝えられない。今から死んでいくお婆ちゃんに自分よりも早く孫が死ぬかもしれないなんて、言える訳ないだろおおおおおお。トビーは頭を抱えた。
「分かったよ。土地は売らないよ」
婆ちゃんに背中を見せたまま言った。服で手を拭いた後、婆ちゃんの手を握り、自分は大丈夫だと伝える。
「本当に?正直に話し・・・」
「大丈夫だって言ってるだろ!」
トビーは病室で吠えた。また、一つ道が塞がってしまった。歯を食い縛る。
「トビー」
婆ちゃんが言う。婆ちゃんがベッドの隣のタンスを開いて、茶色の封筒を取り出した。少し膨らんでいる。それを開けて中にあるものを取り出した。
「ここに1000ドルある。わずかだけど、受け取ってくれ」
皺くちゃなドル札が婆ちゃんの震える細い手に乗っていた。このお金は婆ちゃんの土地から毎年入ってくる収入の全額だった。自分が持っているものを全部トビーに渡そうとしている。
「あんたも生活が大変なんだからさ」
そういう婆ちゃんの顔は笑顔だった。
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