対面

 シルビスを笑顔で出迎えた。最初はたわいのない話をする。若いのに少し老けていませんか、疲れていませんかと訊かれて、売買契約書を渡される。トビーは笑い飛ばしながら受け取った。が、笑顔を保てたのはそこまでだった。トニーの口元は徐々に鉛のように重たく硬く閉じ、眉の間にシワができて真剣な顔持ちになる。手にしていた書類を握りつぶしそうになった。差し出された売買契約書の文面にトビーの目がクギ付けになった。トビーは自分の目を疑っていた。嘘だろ、と。


「いかがですかな?」


 キッチンテーブルの反対側に居座るシルビスが聞く。眼鏡の奥の青い目が契約書とトビーの顔を一瞬行き来した。


「い、いかがと言われても・・・聞かされていた額の10分の1にも満たさないじゃないですか。これでは息子の学費にもならない」


 頭に血が上り、シルビスの目を睨む。こいつはどんな面でここにいるんだ?


「安すぎだろ。この価格は」


 契約書をテーブルに置いて、手を引っ込めた。


「それが現段階の最大のオファーです。他の方達はもっと安い値段で売っていますよ」


 シルビスは早口でハキハキと打ち返してきた。


 ウケイレラレナイ。トビーは自分の息が荒れてきていて、胸の中に何かが詰まったのを感じた。それを押しやる為に何回か咳をしなければいけなかった。


「こ、これでは売れない。そもそも以前オファーした額と全く違うじゃないですか」


 書類を指で叩いて訴えた。何枚かの紙がテーブルの上を滑り、キッチンの床に落ちる音がした。シルビスの顔は動揺せずにポーカーフェースを保っている。むしろこう言われるのを、醜い話になるのを最初から予測していたようだった。ただ、肩をすくめて、床に落ちた書類を拾って一箇所に整えた。


「手放したいけど、この値段では手放したくない。そのお気持ちは分かります。だけど現実を見ましょうよ。あの田舎の土地がなんの役に立つのですか?誰も買いませんよ。そして、後継者もいない土地をどうするつもりなんですか?私どもに一気にスパッと売ってしまった方が良いですよ。それに・・・」


「この値段は酷すぎると言っているんだ」


シルビスを遮る。


「少しかも知れませんが、子供の教育の足しにはなりますよ。それが一番大事ですよね?」


突然また咳が出てきた。発作が続く。


「これじゃあ全く足りないよ」


発作は続く。咳がより強く出る。


「そんな金じゃあ全く足りないよ」


トビーが絞り出した声は枯れていた。流し台で水いっぱいを口に含んでうがいをしたい。少しだけ胸の痛みが収まり、口元を拭きながら


「あんた、子供はいるのかよ?」


「いませんね。女性に一度もモテずに、私は運が悪かった」


「じゃあ、一人で子供を育てる苦労がお前に分かるのか?どれぐらいの金が人一人を育てるのに必要なのか知っているのか?」


「トビーさんがご苦労されているのは、十分、私にもわかります。だからこそ、売れる時にスパッと売ってすぐにお金が入った方が良いと言っているんです」


トビーは頭を横に振る。


「あんたにはわからない。わかっていたら、こんな酷い値段を提示して、俺の息子の教育の話なんてできないよ」


 シルビスは笑顔のままだ。あのメガネを殴ってやりたい。砕けて目に刺さればいいのに。トビーの心臓は肋骨を激しく叩きつけ、どす黒く重いものを体中に流していた。


「おいくらが欲しいのですか?」


「3ヶ月前、あんたが提示した額。今の10倍以上あったはずだ」


 トビーの声は震えている。


 時計を見ると、この男を迎え入れてから1時間は経過していた。キッチンの空気は

こもっていて、トビーにはこの空間にいるのがきつかった。窓の外ではシルビスが来た時の晴れやかな天気はとっくに終わっていて、小雨が窓に連続的に砕けていた。


「この3ヶ月で、私どもの経営が傾いて来ましてね。どうも他の会社でも中々おたくあたりの土地を買ったりしないんですよ。私どもだけが唯一買収を頑張っているんです」


「そんなの信じられるか」


「私ども以外にオファーは来ましたか?」


 誰からもなかった。返事の言葉が詰まる。肺癌が宣告されてから三ヶ月間、トビーの問い合わせに返事をしたのはシルビスだけだった。


「はっきり言いましょう。私たち以外にあの土地を買う業者はいません。私たちのオファーが最後のオファーだと思ってもいいですよ」


 シルビスがそう説明してから、沈黙がキッチンを支配した。考え込むトビーの返事を待ちながら、シルビスは壁のヒビや片付けられなかった流し台の皿に目が行ったり来たりしている。こっちを向け。


 キッチンのドアが開く音がした。ドアの隙間から目を擦りながらシモンが入ってきた。トビーと同じ黒い目と髪をしたシモン。昼寝から目覚めたばかりで、キッチンから声が聞こえたのだろう。


「パパ、本読んで」


「部屋に戻りなさい」


 シモンはトビーのいる流し台まで歩み寄って来たが、トビーはその小さな肩に手を添えて止めさせた。


「また、後で読んでやる」


 出来るだけ苛立たずに言う。シモンは怪訝そうにトビーを見た後、シルビスの方も見る。シルビスは4歳の子供に挨拶をせず、青い目でジッとシモンを観察していた。


「このおおきい人、だれ?」


シルビスだとトビーは説明する。それ以上は何も言わない。やがてシモンは頷き、キッチンから駆け出て行った。ドアは開けたままだったので、トビーは一旦それを閉じる。


「・・・トビーさん」


 シルビスの声は小さかった。これまでの機械のようなハキハキとした交渉用のビジネス声ではなく、危うく聞き逃しそうになる声。


「あん?」


「可愛いお子さんですね」


 一層低めな声。シルビスが座っているテーブルに近づいて耳を傾けなければ聞こえない。


「あ?ああ」


「きっと大事な大事な子供でしょう?これまで失礼になると思い、あえて聞かなかったのですが、母親の方は?」


「もういないよ。亡くなった」


 感じの悪い沈黙が続く。いつの間にかキッチンの中が暗くなっていて、窓の隙間から冷たい空気が忍び込んでいた。そろそろ明かりをつけないといけない時間になっている。


「・・・では尚更・・・」


「聞こえないよ」


「トビーさんの大事な宝という訳ですね。手放したくない宝ですね」


 シルビスの顔は相変わらず考え込むような表情だった。アパートの中に入ってから初めてそんな顔を見せている。ずっとトビーを捉えて外さなかったシルビスの青い目のピントがトビーから外れていた。もしかしてシルビスは子供が好きなのだろうか?そういう一面があるのかも知れない。


ああ、とトビーは答えて咳払いをしてテーブルに戻る。だけど椅子には座らずシルビスを威圧感を込めて見下ろした。といっても、座っているシルビスのハゲ頭はトビーの肩まで届いていたし、シルビスの体はトビーの萎んでいく体と比べて圧倒的に威圧感があった。


「とにかく、こんな値段で売れない。これが答えだ」


「トビーさん。私はこれで私たちの交渉が終わりだとは思えない」


 シルビスがトビーを見上げて言う。どんなクライエントでもちょっとした後押しが必要なのだと信じている。その事を告げてから、挨拶を交わしてシルビスはアパートを去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る