獲物 ブラックウェル

 ジェームズの畑が燃えた同じ夜、トニー・ブラックウェルは息子のシモンに5冊の絵本を読み聞かせ、1時間をかけてやっと寝かしつけることができた。だけど部屋を出ようとしてドアノブに手が触れた途端、息子が覚めてしまったので、もう1冊読んでやり、毛布を首までかぶせた。


 20分後、トビーは忍び足で息子の部屋を出てバスルームに入った。そこで鏡をちらりと見ると、黒髪の間に白髪がまた増えている事に気がつく。まだ30なのにやけに老体化が進んでいる顔が見返していた。トビーはこの半年間でどんどん痩せていっていた。ベルトの穴一つ分痩せ、1ヶ月後には一気に二つ分痩せていた。体の異変はそれだけじゃなかった。この数ヶ月間の中で背中に激痛が走るようになり、時々吐き気さえ覚えながら生きてきた。


 トビーの肺には癌があった。それも治療ができないタイプのやつが広がっている。早期に症状を見つけられなくて、検査をした時には遅すぎたのだ。トビーは長くて一年、それか短くて半年ぐらいしか命がないと医者に言われている。


 鏡の自分にトビーがガッカリする前に熱いシャワーを浴び、チープな赤ワインを2杯飲んだ。


 廊下は食べ残しのピザ、汗で黄色くなったシャツ、ワインの空きボトルの匂いがした。ハエが横を飛んで行くのが見えたけども、肺癌を宣告されてからもう洗濯や家の掃除なんてやる気力がなかった。


 置きっ放しのゴミ袋、角があるおもちゃのロボットを踏まないようにフラフラしながら自分の寝室へと進む。寝室といっても、大人一人しか入ることが出来ない狭さで、まるで設計ミスをしたかのような息がつまる小さな部屋だ。


 毎日深夜にベッドに倒れこむ生活。次の日には会社。帰ってきたら息子の相手。散らかり放題の自分の寝室に入り、妻のいないダブルベッドに倒れこむのは深夜。このサイクルの渦に飲まれていた。そして今夜も長い1日が終わろうとしている。


 が、寝室のドアノブに手をかけた瞬間、また息子のかすかな泣き声が聞こえた。

 本をもう3冊読み聞かせる。夜1時。ようやく自分が寝る番がきた・・・と思ったら、息子の夜泣きがまた聞こえた。急いで胸をトントンしに行く。


 今夜はそばを離れない方がいいみたいだ。4歳の息子の横顔を見つめながら、

寝息を聞き続けた。


トビーが肺がんである事、そしていつか死ぬ事を自分でも信じたくなく、自分の息子も含めて誰にもこの事を喋ったことはなかった。4歳の息子にどう伝えれば良いのか全く分からなかった。


 だが、全てが失望に終わる訳ではない。明日・・・・、いやすでに今日か。トビーは畑の土地の売却契約書に署名する事になっている。不動産業者の名刺をズボンのポケットの中から取り出す。禿頭の顔写真の横に・・・


「シルビス」


 横で寝ている息子を起こさない声で名前を読む。


・・・シルビス。どこかで聞いたことのある名前だった。どこかで会ったことがあるのかもしれない。記憶を探ってみるがどうしても思い出せない。


 8時間後にこの男がアパートに来る。やっと今よりももっといい生活が手に入る。それだけではない。トビーが亡くなる前に息子に何かを残す事が出来るのだ。トビーが肺癌でやられていく中でも、まだ頑張って生き続ける価値はあるのだ。それは自分の為ではなく、自分の子どものために。そう思うだけで、胸の中は軽くなった。


 隣で息をする息子の小さな胸の上に手を添える。暖かくて、静かに胸が上がったり下がったりて、空気がシモンの若く無傷な胸へ流れていく。おでこには薄っすらと汗が滲み出ていて、トビーと同じ色の黒髪がペットリとおでこにくっつけていた。トビーはその汗を枕元のタオルで拭いてあげた。


トビーは一睡も出来ず、気がつくと翌日土曜日の朝5時30分になっていた。

 

 重たい体を毛布の中から押し出して、肌足で夜の間に冷えきったキッチンに踏み込む。窓から直視しても眩しくない太陽が少しずつビルの間から顔を出していた。淡い色のビルが黄金の色へと変わるのを眺めながる。本当に綺麗だった。新しい日が来たのだ。ようやくグッドニュースがやってくる。今日は希望の日だ。

 

熱いコーヒーを作り、喉に流し込んで体の芯を温める。目が徐々に覚めていく。空になったコーヒーカップを洗面台に置こうとしたが、どのぐらい放置されたかわからないぐらい汚れた皿とコップが溢れていた。


 さあ、久しぶりにアパートを掃除しよう。こんな素晴らしい気持ちになった事は長らくなかったし、もう来ないと思っていた。


3時間後にシルビスが来る。

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