トビーの仕事


翌日、トビーは職場のパワーポイント作成代行サービス会社「ペーパーラッシュ」に向かって車のアクセルを踏んだ。ペーパーラッシュは低価格で良いプレゼン資料を提供するのが売りの会社だ。3年前、トビーの妻がいなくなり、地獄を味わった後、ようやく立ち直って就職ができた場所だった。安月給だが、トビーのガタガタの精神で雇ってくれそうな場所はここでしか見つからなかった。


会社のロビーに入り、セキュリティガードの服を着たお爺さんに会釈する。


そこで突然、背中に激痛が走った。痛みを無視できず、もう喋ることが出来ないぐらいの歯をくいしばるような痙攣が波のように行ったり来たりしていて、その場に立っているのが辛く床にうずくまった。筋肉がねじれるのを感じながら、隅っこの壁の方に移動した。痛め止めの薬は全く効いていないようだった。


セキュリティガードのお爺さんが近寄って言った。


「ここで横になることは出来ません」


「あ、ああ、すみません」


トビーは次の言葉を発するためにゼイゼイ空気を吸った。


「背中が、い、痛くて」


「ここで横にならないでください」


なんとかして立ち上がる。背中の痛みが徐々に薄まっていくのを感じながら時計に目をやる。10時30分。10時の出社契約なのに遅刻していた。今日中にボスに給料を上げてもらう話を持ちかけるつもりだったので、本当は絶対に遅れたくなかった。


少しでも給料を上げてもらい、そのお金で息子にヴァイオリンのレッスンをもう一度受けて欲しかった。息子のポテンシャルを信じるゴンザレ先生の元で、レッスンを再開するチャンスを与えたいのだ。遅刻は給与上昇の交渉にマイナスに働くだけだろう。舌打ちをして乱暴にタイムカードを押した。


小さなオフィスを見渡すと、ボスも含めて従業員3人がパソコンに向かって黙々とキーボードを叩いて作業している。遅れた事を詫びるが、誰も顔を上げてくれない。自分のテーブルに視線をやると、大量の書類が山岳のように重くのしかかっていて、自分のパソコンすら見えない。


「トビー、それを1時間で頼む」


ボスがパソコンの向こうから素早いテンポで命令する。


トビーの仕事は全ての紙資料をホッチキスで留めること。ただ留めればいいわけじゃない。読み手のことを考えないといけない。基本として、ホッチキスを留める角度としては45度が良いといわれている、というのもめくった後もおりやすいためで、見る人のことを考えた角度だ。例えば、ボスは左利き。だから左上にホチキスをするのではなく、右上で止めておく。すると資料が読みやすくなる。だが、ボスが喜んだことも気づいたことはない。


いかに綺麗にまとめられるか。一ミリの紙のズレに神経を尖らしてきた。


この3年間は家電、IT、通信、金融、不動産、テレビ、外食、物流となんでもジャンルをこなしてきた。ホッチキスを握る人生。地獄からの立ち直りに丁度良い、単純な仕事だった。


単純な仕事だが、今日は給与のことを考えて、手が震えている。目の前の作業に集中ができず、頭の中ではこれまでの生活を次々に振り返っていた。


初めて事務内で面接をした時。


「トビー。プレゼンで大事なのは何か知っているか?」


ボスから訊かれて、トビーはこう答えた。


「見栄とかデザイン?アニメーションで驚かせる内容でしょうか?」


「違う!」


刹那、上司はテーブルを手で叩く。その衝撃で、トビーに差し出されていたコーヒーが溢れた。突然の大声に驚いてトビーは周りを見渡すが、当時働いていたスタッフは誰も気にしていない様子だった。


「一番大事なのは成果を出す事だ。結果を出さない資料は全てゴミだ!」


その後、その場でトビーの再就職が決まった。オファーされた給料は時給で換算すると9.25ドル(約1000円)とアイオワ州の最低賃金だったが、5ヶ月の無職、無気力感を経験した後、仕事にありつけただけで心が少し躍って嬉しかった。最低賃金だけでは生きていけないというのは知っていたが、子供がいるということでアイオワ州の政府から少しは援助金が来るだろう。支援がなければ成り立たない生活のスタート。贅沢は一切できない生活。だが、再生の一歩を切ったのだ。


今日まで徹底的に貯金をして、無駄を削った生活をしてきた。たとえ1セント(1円弱)であっても安ければ街の反対側にあるスーパーマーケットまで歩いて、そこで牛乳を買った。病気でも、怪我をしても病院にはいかなかった。服も3年前と同じものを着ている。麻薬の栽培をして、マリワナの匂いを醸し出す奴らの横の部屋で暮らしてきた。


ある冬の日。アパートに帰る途中で息子は楽器屋の前で立ち止まった。視線はヴァイオリンを捉えていて、手を引っ張っても中々帰らない。それが毎日続いて・・・。帰り道は必ず楽器屋の前を通らなければいけないから避けられなかった。毎日、アパートに早く戻るありとあらゆる理由を言って、小さな息子の手を引っ張って、お店から引き離すのが本当に辛かった。


アパートに帰った時、廊下でアルコール臭い若者が寝ているのが見えた。時々こういう奴が廊下にいて、息子の手を繋ぎながら傍を通らなければいけない。


どうして廊下で寝ているの?と息子に大声で訊かれる。さあね、と濁して答える。


若者はブツブツと何かを呟き唸っていた。その若者の目は沢山泣いたということがわかるぐらいに腫れていて、廊下の天井をボーッと見上げていた。そこでフと思った。この若者が今後笑う事があったとしても、心の中は今のようなボロボロな姿で、無気力で、希望がないのかもしれない。誰も手を差し伸べることがなかった孤独な人間。そういう物語をこの若者の体は語っていた。


息子にこんな風に育って欲しくない。その時に思ったのだ。この母親のいない息子の、唯一の味方としてヴァイオリンを買い与えたいと思った。それで喜ばせられるのなら安いのではないか。トビーだけでできることは限られているが、せめて子供には好きなことをさせてやるチャンスを与えたい。


だから息苦しい生活の中でも、銀行からお金を下ろし、息子にヴァイオリン(一番安く、ゴンザレ先生にバカにされるやつなのだが)を買った。ヴァイオリンのケースを握った息子の顔を見た時、人生の中でこんなにも誇らしげに思ったことはなかった。胸いっぱいの静かな満たしがあった。


幼稚園のゴンザレ先生のヴァイオリン授業で貯金がほとんどゼロになる。


視線をパソコンに夢中になっている二人のスタッフたちに移す。ボスに給与増を持ちかけるのは彼らがオフィスを去った後、二人になった時だろう。


いくら上げてもらえるだろうか?せめて9.25ドル(約1000円)を12ドル(約1340円)にしてもらえないだろうか。すると1ヶ月で収入が1080ドル(約12万円)増える。最低賃金の生活から抜けると、給料が上がった分だけ政府の援助金は減るだろう。だが計算をしてみると結果的には、ゴンザレ先生のヴァイオリンレッスンを週に2回は問題なく受けられる。


オフィスにいる午前中、トビーの手はホッチキスを何度も押しまくり、オフィスにカチカチ、バン!と気持ちよく響く。今ではホッチキスを左手で逆手で持つようになり、書類を持ち替えずに効率よく職人のように仕事をこなしている。


今日は作業に完全には集中できない。生活を少しマシな方向に変えられるかもしれなく、期待と不安で息がしづらい。それでもホッチキスを取り出し、書類をホッチキスで留める。そして次の書類をホッチキスで留める。そして次の書類をホッチキスで留める。プレゼン用紙30人分、全部で840枚分を終わらす。後はこれをクライエントのオフィスに運ぶだけ・・・。


あっ。そこで気がつく。間違ってクライエントのプレゼンの右上の部分を留めてしまっていた。左上にしなければいけないのに。こっそりとクリップを剥がすが、手が震えて綺麗に外せない。紙が少し破けてしまう。いや、そもそも外しても意味がないのだ。もう一度プリントアウトして綺麗なプレゼン紙をもう一度留めていかなきゃいけない。


ボスに恐る恐る報告をすると、その場で怒られる。紙の費用と時間を無駄にしたと、無能だと。ガミガミ言われながら、歯を食いしばる。遅刻した上に、このミスで、また給料を上げる交渉に不利になったからだ。


給料が上がらない場合。母親がいなくなって息子が唯一興味を示したヴァイオリンを完全に手放すことになる。父親の力不足のせいで。それだけは避けたい。


トビーが全ての資料をホッチキスで留め、クライエントのオフィスに納品をしてオフィスに戻った時、スタッフの二人はもう帰宅済みで、静かなオフィスの中をボスだけがパソコンの後ろで相変わらずのスピードでキーボードを叩いていた。


窓の外は暗く、隣のビルの蛍光灯の明かりが目立っていた。


さあ、言うなら今だ。始めよう。


「・・・お話があります」


この蚊のような細い声を出すのに10分かかった。


「うん?」


ボスはパソコンから相変わらず顔を上げず、高速でキーボードを打っていく。


「私は3年ここで働き続けました。プレゼンを作るのを手伝い、数100のクライエントにお届けしてきました」


そこでボスのキーボードのパチパチッ、ッターンと音が響いて、急にボスの指が止まる。


「これからも頑張るつもりです。ですが、息子の教育費が増えています」


ボスがパソコンの2画面の間からトビーを覗いた。ボスの髪は薄い。口はうっすらと開いていて、下の歯がかけているのが見える。


「その、私は、その、私の給与を上げて頂けませんか?」


ボスは背もたれに身を委ねて、足を前に伸ばし、天井を見上げた。そのまま話し始める。


「君はここでどれぐらいの貢献をしているのかね?君が言ったように、ここではプレゼンを作っている。だが、君はホッチキスで紙を留めているだけだろう?」


「だけど、私がいるからこそプレゼンが行き渡るし、私が届けに行ったりもする。そこで手に入るクライエントの情報や次の仕事だってあります」


「電動ホッチキスを使いたいと思っていてな」


「え?電動?」


「自動でやってくれるやつだよ。手動でやるよりか仕事が早いんだよ」


そして安いんだろう?


「兎に角、今は給料を上げられないな。仕事がうちに来るのは、プレゼンを作っている君以外の人のおかげなんだよ。後は私の営業力かな。まあ、君が仕事をもっと持ってきてれるような人材だったら話を別なんだがね」


オフィスが静かになる。それに対抗する言葉が思い当たらない。


「息子の教育費か。私は子供を持っていないから想像できないな。いや、君の疲れた顔を毎日見れば大体想像はできるよ。白髪も増えたんじゃない?」


「ご存知の通り、俺には妻がいません。息子と過ごせる時間だって限られています」


「それは大変だな」


「だけど、その中で息子がヴァイオリンをやっているんです」


「ほお」


「そのヴァイオリンを弾いている時が、一番輝いているんです。だけどこのままだと、レッスンが受けられなくて、アパートでも弾けなくて、ヴァイオリンを手放すことになる。お金がないんです」


ボスは両手の指を組んで、その上に顔を乗せて話を真剣に聞いているようだ。


「でも、ここで給料さえ上がればなんとかなるんです」


オフィスがもう一度静かになる。そしてボスはため息をつく。


「君のやっていることがどれぐらいの貢献をしているか、吟味してくれ。失礼だが、ヴァイオリンなぞ、贅沢すぎるじゃないか。世の中、そんな事すら出来ない人間は普通にたくさんいるよ。ヴァイオリンなぞやらなくても、他のことを見つければいいじゃないか」


トビーの中で怒りが込み上がり、顔が熱くなるのがわかった。母親がいなくなったシモンに申し訳ないと毎日思うからこそ、ヴァイオリンで喜びを見つけたシモンに喜びを与え続けたいのだ。虚しき日々でようやく息子が見つけた喜びは、例え楽器であったとしても、それは贅沢なんかではない。ゴンザレ先生が言うように子供に才能があるのなら、それを伸ばしてあげるチャンスを与えるのが親の務めなのでは。他の事を見つければいい、それはそうなのかもしれない。だが、今のトビーとシモンにとって、1日を乗り切るのがやっとの家族にとってそれは簡単なことではないのだ。


「給料は上げてもらえないのですか?」


ボスは席から立ち上がる。そしてトビーの肩に手を置いた。


「余裕はないんだ。さっきも言ったが、ホッチキスで留めるのも自動化しようと考えているぐらいなんだ」


肩の上のボスの手に重みが加わる。


「これが君にとって意味することはわかるか?」


唖然とする。給料は上げてもらえないのは勿論、それだけではない。ボスの言っている事が意味するのは一つしか想像できない。ヴァイオリンどころじゃなくなってしまう。頭がクラクラし始め、足が震え始めた。


「本当にすまない。君と君の息子の健闘を祈るよ」


「他のタスクを任せてください。なんでもやります。デザインもやり始めます」


「そこは別にいいんだよなあ。それでうちへの仕事が増えるという訳でもないし。フリーでやって数をこなしてくれる奴らもいるし」


「じゃあ、営業の方をもっとしますので」


「気持ちはありがたいが、こちらも長い間検討した上で出した答えなんだ。君がもっといいところに就けるようにこちらが出来る手伝いはするよ」


ボスはそのままキッチンの方に行き、電気ケトルの水を沸かし、ボス専用のカップを一つ戸棚から取り出してテーブルに置いた。そして戸棚のトビーのカップを取り出そうとした。


「ボスがやろうとしている事、俺の家に与える影響を考えてください」


ボスの手が戸棚のトビーのカップを持ったまま止まる。電気ケトルのお湯がボコボコと沸騰する。ボスの手はカップを持たずにポケットの中に隠れる。


癌で死んでいるんです!と言いたい。切り札を使うなら今だった。だけど「癌」という言葉を口に出したくなかった。そう言えば確実に死んでしまう事を認めることになってしまう気がしたのだ。生き残る希望がまだ残されているというのをトビーは心の奥底で信じていた。


電気ケトルの音がパチンと鳴り、沸騰が止まった。そしてボスは申し訳なさそうに首を横に振った。

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