必ずなんとかします

翌日の朝、トビー・ブラックウェルは舌打ちをした。


1時間前、たった60分さえ早く起きていれば、ゆっくりと熱いシャワーを浴びれていた筈。そして日の出の光で暖かく照らされた居間でインスタントコーヒーの匂いを楽しめた筈だった。


だが、妻がいなくなってから3年、今までそんな事が出来た試しがない。遅刻。今日も幼稚園に息子を届けるのが遅れる。


息子に3日連続で着させて汗臭くなったTシャツを被せ、戦闘ポーズを決めているパワーレンジャーの靴を右足に急いで履かせた。数週間前に買ったばかりなのに、いつの間にかシモンの足は一回り大きくなっていて無理やり履かせなければいけなかった。


「もう片方は?」


玄関にゴミの山のように散らかった二人の靴に視線を走らせた。ない。パワーレンジャーの左の靴がない。ピンチなのにパワーレンジャーがいない。そんなことがあるのか?が、靴の山に手を突っ込んで探すが見つからない。


「最後に左の靴をどこで見かけた?」


「左足にあったけど」


今度はベランダの方にすっ飛んで探しに行く。ネクタイが宙に跳ね上がり、シャツの肩に引っかかる。まだ会社に行っていないのに脇や背中から汗が滲んでいた。ベランダの前にたどり着くが、そこにあるのは息子が外のどこかで集めてきた小石、空のスナックの袋と二人のサンダルだけ。イライラして窓を叩くと、窓が外れて落ちそうになったので慌てて止める。天井から吊るされている裸電球がスイッチを押していないのにチカチカ光った。


「ポケットの中にあったよー」


遠くから声がする。これだから月曜日は嫌いなんだよ!


シモンを抱えてアパートを飛び出し、廊下に躍り出ると強烈なオシッコの匂いに出迎えられた。落書きやチューインガムや割れた瓶が散らばる廊下を走り、エレベーターへ。だが、エレベーターは3階で止まったまま。こちらの5階まで上がってくるロープやギアの音がしない。


だから階段を使ってアパートを降りていく。暗い中の階段を駆け下りる間、シモンは嬉しそうにキャッキャと黄色い声を上げて、まるでサーカスのショーを楽しんでいるように小さな手を叩いていた。


路上に駐車している車の助手席に息子を放り込む。


「ほら、行くぞ!行くぞ!」


エンジンに火をつけるが、ポンコツ車はなかなか動かない。悪態をついてアクセルを踏んで爆音を吐かせる。


「うごかないねえ」


呑気な声。


「動けえ」


ボンッと音がし、車がようやく前進。危うく前に止まっている車にぶつかりそうになる。アパートの階段でマリワナを吸う黒人やアジア系の若者たちがこちらを指差して冗談を言い合っている。


ゴミが全く収集されていない宅街の入り口を飛び出して、テキサスA250の高速を突っ走った。


チビッコ達が合唱する「線路は続くよどこまでも」のCDを息子に聞かせながら、妻の物だったアイパッドを息子の手に押し込んで運転に集中する。


「お前、物は元々あった場所に置けって何回言わせるんだよ。今日は大事な取引があるのに、俺が遅れている場合じゃないんだよ」


イライラしながら、目の前の車を追い越した。片手でシャツのボタンをかけながら、前をトロトロ走る車にクラクションを鳴らす。


「とうちゃん」


「あ、なんだ?」


「なんでもない」


「言ってみろ」


「おこらない?」


助手席をチラッと見る。シモンはクリっとした黒い目でこちらを見上げては自分の小さな膝に視線を落としていた。大体何を言うのかが想像が出来た。嫌な予感。ハンドルの手を緩めて、落ち着いた声を絞り出した。


「ああ。怒らない。約束するよ」


「幼稚園の鞄を家に置いてきた」


「なんだと!」


タイヤとアスファルトが削りあって車が左右に揺れた。目の前の車にぶつかりそうになり、数回分の心臓の鼓動が飛んだ。


「忘れろ」


首を横に振る。


「えー!?」


「仕事に遅れるわけにはいかん」


「やだやだやだやだ!」


シモンは前の車のポーチに何発か蹴りを入れ、ガムテープで止めてあったポーチが壊れて、そのまま床に落ちた。


「やめろ!」


何回交通規則をブチ破ったのだろうか。幼稚園の前でブレーキをガッと踏み、タイヤが悲鳴をあげて停車。何とか時間通りに辿り着いた。


早速シートベルトをに手を伸ばして外そうとした。そこで息子がポツリと呟く。


「とうちゃんはいつまで、ぼくといっしょにいてくれるの?」


手が冷たいシートベルトの金属に触れたまま固まった。一気に口の中が乾いて、舌がうまく回らない。


「ど、どうしてそんな事を聞くんだ?」


目をやると、シモンは前の壊れかけたダッシュボードを見つめていた。買ってやった靴に足が入らなくなったシモン。そろそろ小学校に入る時期を迎える息子。


時々ドキッとするような鋭い質問をするようになっていた。最近、何を考えているのか分からないような瞬間が多い。幼稚園を卒業するとはいえ、大人っぽい顔をする時がある。息子が肺癌で調子がおかしくなっているトビーに気がついたのだろうか。


「いつもとうちゃんは時間がないから」


勇気を絞ってシモンの目を見る。だが、シモンはこちらに目を向けてくれていない。車の前を喚く子供や親や先生たちが横切り、幼稚園の中に入っていく。


二人だけの世界、二人だけの時間を1分だけでもここで作りたい。息子の質問にしっかりと答える義務がある。


「シモン」


シモンはダッシュボードから父の顔を上目遣いで恐る恐る見る。


「お前から離れる事は一生ないよ。お前が望むまでパパは側にいるよ」


今はそう言うしかなかった。トビーはまだ病気の事を伝える準備ができていない。ソッとシモンの小さなおでこにキスをすると、子供っぽいヒマワリの様な笑顔を見せてくれた。


◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉◉


仕事の後、幼稚園に迎えに行くと、息子は幼稚園の遊び広場の奥の方でしゃがんでいた。横に髪の毛がボサボサ伸びているゴンザレ先生が腕組みをして立っている。二人の前に黒いケースが置いてあり、今にも滑り落ちそうな手つきでシモンが取り出したのはヴァイオリンだった。


ゴンザレ先生はシモンのヴァイオリンを汚いものを見るような目で見下している。最低でも500ドル(7万円クラス)のヴァイオリンを買ったほうが良いと先生から言われていたけど、それを魅力な激安50ドル(1万円クラス)で価格を抑えた。


その結果、毎回先生からブーブー文句を沢山言われてしまった。安物の見た目がモチベーションを下げるわ、弾きにくいわ、変な癖がつくわ、音のレンジが狭いわ。


シモンとゴンザレ先生に気づかれないように、トビーは二人に近寄った。


「で、では1、2、3!」


先生が指揮官のように命令する。


ヴァイオリンの棒(確か、弓と言う)を持った息子の腕が震えながらゆっくりと横に伸びる。すると醜く黒板を引っ掻くような音が出た。素人のトビーでもこれはおかしいとわかるぐらいだった。


ゴンザレ先生はキッとて顔を横に降った。


「ま、まま、全くダメですね。もう一度、もう一度です」


その時、息子は顔を上げてトビーが見ていることに気がついたようだった。こちらを見て驚いた顔をしている。トビーは勤めて笑顔を作り、シモンを励ますつもりで深く頷いて見せる。


息子は弓を持ち直す。今度は震えずに、まっすぐと弓が宙に留まる。母親に似た薄い口はキッと閉じていて、父親譲りの黒い目は揺れずに弦を見つめている。息子とヴァイオリンだけの世界が現れた。


サッと弦の上を息子の腕が切る。無駄のない音が一発放たれる。弓を握った手のアングルが次々に微妙に変わり、ヴァイオリンの弦と共に指紋が踊っているように見える。一つ一つの音がトビーを揺さぶる。息子のメロデイーを聞きながら、開いた口が閉まらない。息を忘れそうになり、大きく空気を吸う。


シモンの全身のエネルギーがヴァイオリンにぶつかっている。顔の表情を変えながらヴァイオリンを奏でる。沢山の悲しみを知った大人のような顔、そして無邪気な子供の顔。息子が作り出す顔の表情は4歳児のものではない。


 息子が弾く音楽。まるでトビーの全てを音楽で表現しているようだった。悲しみや喜び。お母さんがいない悲しさ。しかし、それだけじゃない。元気で溢れんばかりの喜びのエネルギーで満ちている。


ゴンザレ先生は真剣な眼差しでシモンの音楽に合わせて細かくリズミカルに頷く。大人のおでこから汗が出ているではないか。意地悪そうな顔が笑顔になっているじゃないか。


音楽に関して素人のトビーでもわかることがある。それは他の4歳の子供にこれほどの集中力は絶対にないということだった。まだ1から10までも数えられないような子供が、こんなにも自分を表現できるのだろうか。


最後、息子の腕はゆっくりと胸から外へと水平に伸びていく、弓もヴァイオリンもそれに合わせて最後の音を生み出す。


「ブラボーッ!」


ゴンザレ先生が叫ぶ。息子は笑顔で先生を見上げた。シモンの最大のファンのトビーは全力で拍手し、手が真っ赤になっても叩き続けた。


やはり信じられない、凄い。演奏が終わってもシモンから目が離せなかった。


その後、息子は五十ドルのヴァイオリンをケースの中に閉め始めた。ブツブツとゴンザレ先生が文句を言う。


「シモン君、そのヴァイオリンは酷すぎます。それが君の才能を抑えてしまっている」


そして先生がトビーの側に歩いてきた。腕組みをしていて、先ほどまであった満面の笑顔が完全に消えている。


「残、念、ですな。今日が最後のシモン君のレッスンになるなんて」


「残念ですか?」


「え、ええ、こ、こんな才能がある子は中々いないですな」


トビーの資金が切れて、これ以上先生の授業をシモンが受けることが出来ないのだ。

先生と一緒に後ろを振り返り、片付けを続ける息子と、良いブランドの服を着てはしゃいでいる子供達を見た。オシャレな靴、オシャレな帽子。息子の横に並んで、子供達がシモンと一緒に笑い合っている。一人の子供が取り出したヴァイオリンには艶があり、幼稚園の天井の光を反射していた。シモンはそれを観察して触ろうとするが、その子供はシモンから高価なヴァイオリンを引き離す。


先生は言った。


「ききっと、こ、このまま続ければ・・・」


「続ければ?」


トビーは反射的に聞いた。ゴンザレ先生はトビーの目を真っ直ぐ情熱がこもった眼差しで見ていた。


「こ、この国を代表するような音楽家になる可能性があるのでは?いや、きっとそうなるに違いない」


「本当ですか?」


「も、もちろん、あ、あなたも聞いたでしょ、シモン君の音楽を」


「先生、シモンには才能があるんですね?」


「ロ、ロケットです。ちゃんとした練習をすれば宇宙に飛んでいけます」


自信の炎が宿っている先生の目をまっすぐ見た。


そこでトビーは分かった。この世を去る前に息子に出来ることがある。死ぬ前に何としでもお金を集めてヴァイオリンという息子の才能を最大に活かす道を作ってやる。例え彼が一人になっても、このヴァイオリンが彼に希望と道標を与えてくれるかもしれない。ヴァイオリニストの道を進む準備を、残された命を使って整える。


このまま失意のうちに死んでいくのではなく、最後まで息子の生活のためにもがいてもがく。これが自分の最後の仕事だ。熱い息が喉から這い上り口から出ていく。拳を握る。心臓が力強く鼓動し始め、トビーの中に力が湧いてきた。


その時、息子が駆け寄って、トビーの足に飛びついた。体は軽く薄く、丸い顔はトビーの細く肉が落ちてしまった足にうずくまっていた。トビーを見上げるシモンの目は輝いていた。トビーと同じ黒い目をしているシモン、母親の薄い唇を持つシモン。


「ヴァイオリンは楽しいか?シモン」


「うん!」


トビーは先生を見返す。


「必ず」


力を込めて返事をする。


「必ず金を見つけてなんとかします」


そして幼稚園を後にした。

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