先生の嘘
午後4時45分。太陽はまだ沈んでいない。トビーはゴンザレ先生が幼稚園から出て来るのを向かい側の道で待っていた。幼稚園は丁度、高層ビルに囲まれた影の中にあったので、温度が冷んやりとしている。風が吹き、空気が冷たいので、手をジャケットのポケットに入れながら待った。それでもジャケットの破れや擦り切れ、虫食いで出来た穴からトビーの温度を奪って行った。
幼稚園のドアが開き、ボサボサの髪をした男性が出て来た。風が吹いて、そのボサボサの髪と腕に抱えている楽譜らしい紙が揺れた。
「ゴンザレ先生」
道路を渡り、先生に後ろから声をかけた。先生はビクッとして、ヒョロリとした体をこちらに振り返らせた。眼鏡のレンズの影響で目が大きく、腫れぼったく見える。トビーを観察するように上から下へと見た後、ようやくトビーを思い出してくれたようだ。
「トービーさん?」
「トビーです。先生、息子の授業を再開してください」
早速切り出した。ゴンザレ先生は口をパクパクしながら、返事の言葉を絞り出そうとしていた。もう一度、先生は忙しくトビーを上から下へとスキャンをし、情報処理をしているようだった。
「む、む、息子にやる気はあるのですか?」
「え?」
一瞬言葉に詰まる。冷たい風が急に吹いて体を打った。
「あるに決まっているじゃないですか」
「それはほ、ほ、本人の言葉ですか?」
息子に聞いてはいない。だが、時には聞く間でもないことがあるのだ。息子には才能があるのだ。やる気がなければ、あんな演奏なんて出来るはずが無い。
「そうです」
「じゃあ、何故シ、シモン君がここに一緒にいないのですか?」
「友達のトマスの家に行っているからです」
「私が見てきた生徒たちも、お、お、親から無理やりやらされるタイプは脱落しています」
ゴンザレ先生は眼鏡に手を掛けて調整した。こちらの反応を伺っている。
「うちの息子は脱落しない」
キッパリと言う。
「先生、カートス音楽小学校に通わせてやりたいんです」
「カ、カ、カートス!?」
先生が悲鳴に近い声を出した。腕の間に挟んだ楽譜が落ちそうになり、乾いた咳が通りに響く。
それは無理もない事だった。
カートス音楽小学校は名前の通り、音楽に特化した学校だ。ニューヨークの寮制度の学校であり、入学の難しさではアメリカで断トツ。大学であるハーバード、スタンフォードを抑えて全米一の入学の難しさで、各楽器に毎年数人しか取らない狭き門。だが、徹底した高レベルの教育を提供している音楽学校は、アメリカではこの学校のみだ。教師との1対1の授業など、きめ細やかな教育を受けることができ、音楽部門卒業生には、ジリアン・マー、マイルス・ブラッドフィールド、ショーン・マニロウ、ジェームズ・グラスなど個性豊かな名前がずらりと並んでいる。
「あそこは・・・」
先生が周りを見回しながら答えを探しているように感じる。
「な、なんて言えば良いんでしょうねえ?」
先生の混乱が消化されるのを待つ。先生は込み上がる笑いを堪えようとしている。
冗談を言っていると思われているかもしれない。だが、トビーは先生の目から視線を外さない。まともに相手にされない状況が逆にトビーの意思と決意を固めさせる。拳を固く握り、必ず息子の将来のために先生の協力を貰うと自分の中で囁いた。
必ず、ここで話をつける。
「かなり上手い、だけでは入れないんですよ」
「わかっています」
「狭き門ですよ?」
「わかっています。だが先生は過去に生徒を一人そこに送っている」
それを聞くと、先生の目は遠くを見た。
「あの子は・・・、稀に見ない才能で、一生にもう一度彼女のような生徒と巡り会えるとは思えない」
そしてハッとして我に返り、首を横に振った。
「それと、一般家庭からでは経済的に耐えきれないでしょう。トビーさん、奥さんと別れたんでしょ?一人なんでしょ?学費は高いですよ?」
「あそこは学費は無料だ。先生は知っている筈です」
声を強めて跳ね返すと、側にいた鳩が飛び上がった。先生は顔にパンチを喰らったような顔をする。
「あ、ああ、いや、だから、入学してから服やら生活費がかさんで大変なんですよ」
「金はあるんです。息子を名門に通わせてやりたい」
先生は腕組みをする。先程から時計を見たり、トビーの向こうをチラチラ見たりしている。
早くこの場から立ち去りたいのが伝わる。先生は素早く口の端を吊り上げ、無理やり笑顔を作った。
「私の幼稚園の授業参加を断る理由はありません。受けたい人は受けられる」
当然の事を解説するように両肩を上にあげた。笑顔は弱々しい。
「また私の授業に来てください」
そしてゴンザレ先生が側を通ろうとした。駄目だ。これで終わらせない。
「それだけじゃないんです、先生」
「ど、どうしたのですか?」
「先生、私はその金のために遠い田舎で畑仕事をする事になった」
「ほお」
「そこで・・・」
トビーは言葉に詰まる。ここが核心なのだ。先生は耳に手をやった。
「え?聞こえませんでしたよ」
「息子を」
「え?はい?」
「先生に預けたいのです」
「は?」
「私と一緒に田舎にいると、先生の授業が受けられなくなる。先生の評判は最高だ。だから先生の元で勉強させてやりたいんです」
「いやいやいやいや、落ち着いてください」
先生は首を横にブンブン振る。そして一歩後ずさりをする。
「お金はあります」
「いや、ちょっとそれは違います」
「お願いします。チャンスを、息子にチャンスを与えたい」
トビーは自分の顔を先生の顔の前に寄せ、先生の肩を強く握った。風が吹くが、体や顔が熱くなっている。
「私がお願いするのは初めてではないかも知れない。だが、私と私の息子は違う」
「いいですか」
先生は声を荒げた。その目は先ほどの同様の揺らめきはなく、しっかりとトビーの目を捉えていた。
「私はそのような教え方をしません」
トビーの手を払いのけた。
「いんや、先生」
先生は背を向けて歩き去って行く。
「だったら、明後日の水曜日、息子と会ってください。彼を見てやってください」
トビーは叫ぶ。先生は振り返る。顔に青い血管が浮かんでいるのが見える。そして目にはうっすらとした涙が浮かんでいる。
「い、いいですか、ハッキリと申し上げます」
その場で先生が怒号を返すかと思ったら、その声は枯れていた。ハッキリと申しあげられなさそうだった。そのままどこかに行くかと思っていたが、トビーに近づいた。かなり顔に近い。先生の湿った息の匂いがする。
先生はつぶやいた。
「あなたの息子はそこまで音楽の才能はない」
ドキッとする。
「私は何人のも生徒を見て来た。だから大体わかるんです」
「だから、間違った希望を持たせた私がいけなかった」
「間違った希望?」
「だから、そこまでやる必要はないんですよ。金の無駄なんです」
「嘘だった?」
トビーは呆然とする。それじゃあ、仕事を辞めたのは、婆ちゃんに黙って契約をしたのは全く意味がなかったということになる。
先生はチューインガムだらけの地面を見つめながら話した。
「曲を完璧に弾くことは難しいかもしれませんが、感性を伸ばすことが出来ます。耳だって発達します。だが、そこまでです」
暫く二人はその場から動けなかった。もう太陽は沈んでいて、道は暗くなり、側を通る車がヘッドライトをつけ始めていた。冷たい風がまた吹き、ゴンザレ先生がブルッと震える。
「そして、さようならです。そして、ごめんなさい」
薄暗い道を歩み去る先生の細い背中を見届けた。ゴンザレ先生は100メートル先の角を曲がる前に最後、トビーの方を一瞬振り返った。
先生は角の向こうに消えて行った。
トウモロコシ畑の下 @Kairan
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