誰かがいる

車の外は寒く、風が吹いていた。傘をさしているものの、前や横や後ろから太い雨が頭に叩きつけてきて、あっと言う間にびしょ濡れになる。おまけに冷たい空気が裾や襟の間から肌に流れ込むのを止められない。


早く家の中に入らなければ。ところが、息子は雨の中で遊びたいのか、抵抗して手を振りほどいて傘の外に飛び出す。日々、自我が強くなっている息子を引き止められない。


「ちゃんと中に入っておきなさい」


息子の背中に叫ぶ。


が、シモンは畑の間の小道を泥を蹴飛ばし、キャッキャ笑いながら自然の道を歩ドシドシ歩いている。その小道は細いが、サッカーフィールド一個分に近いほどの長さがある。元々その両側には背の高いトウモロコシが一面に育っていて、その宝の畑の間の小道を婆ちゃんがシモンの手を引っ張りながら歩いたことがある。今では無造作に雑草が生えているだけで、元々手入れされていた土地だとは思えない。


シモンが歩く先に視線をやると、その先には松の木が生えた山がある。その山も婆ちゃんの物だ。


婆ちゃんの家、畑、山。これらを売りたいのだ。お金に。シモンのために。シモンの将来の為に。


「帰って来なさい!」


イラついてもう一度叫ぶ。


「いやー」


小さな声が跳ね返ってくる。息子はそのままパシャパシャと泥水をはねて、水たまりの中にまた飛び込んだりする。そしてジャンプ。そしてジャンプ。そしてジャンプ。小さな靴、ズボン、黄色のジャケットがどんどん泥色に染まっていく。最後には地面に座り込んで、目の前を跳ねるカエルのような緑の生き物をジッと観察していた。


深いため息をし、息子に向かって歩き、やっとの事で家の方に息子の体を方向転換させる。靴が泥の中に沈んで、冷たい泥水が靴の中に染み込み、足を前に踏み出すとグジョっと靴から灰色の水が湧き出ていた。


やっと婆ちゃんの家の玄関には、バラが描かれているガラスのドアがあった。鍵を取り出して、鍵穴にさす。中々回らず、ドアが開かない。この数ヶ月の間、鍵穴の形が変わったのだろうか。軽い体当たりをし、バンっと開けて、ドアを壊しそうになった。


「とうちゃん、ものは大事にしろって言ってたのに」


「そう言ってたっけ?」


とぼけた。玄関は薄暗かったが、埃が漂っているのが乾いた匂いでわかる。壁のスイッチを押すが、頭上の電球に光が灯らない。一歩中に踏み入れると、蜘蛛の糸が顔にかかるので振り払う。


左にはキッチン。右には2階へと続く階段がある。


雨音以外に何も聞こえてこない。家には誰もいないようだった。人がいない間に移民が住み着いている話をよく聞いたことがあるので、少しホッとする。


「怖い」


息子が声を漏らし、雨に濡れたまま中々入ろうとしない。考えて見れば、この辺りにいるのはトビーとシモンの二人だけだ。そうであって欲しい。


キッチンに向かう足音がレンガの壁にぶつかって跳ね返る。キッチンのドアは木でできていて薄く、傷跡だらけ。開けると、オイルが足りないタイヤのような悲鳴がした。中には焦げた跡の暖炉がある。火が付いていない空間は薄暗い。


懐かしい。子供の時に、ここで爺ちゃんからチョコレートをもらったりしていた。テレビもずっと付けっ放しで、やけに色が濃い70年代の番組が流れていた。そのテレビは今では埃を被っていて動きそうにもなかった。


椅子にかかっている蜘蛛の巣を手で払って、二人の濡れたジャケットを置いて乾かそうとする。トビーの胸ポケットにある車の鍵がぶつかって軽い金属の音がした。


「暗いね」


「電気はつきそうか?」


息子を抱き上げて、キッチンのスイッチを押させるが、何も反応しない。というより、電球が付いていなかった。


その時。


コンコンコン。


誰かがドアを叩いている。息子を宙に抱えたまま動きが、そして息も止まる。


「誰かなあ?」


「さあ?」


と囁き、シモンを床に置いて、黙るように指を口元に置く。


コンコンコン。


まただ。シモンの肩を強く握って動かないようにする。それからドアのノックは止まって静かになった。


急に雨の音が強くなり、足元が冷たくなる。どうやらキッチンのドアの隙間から風が忍び込んでいるようだった。つまり、玄関のドアが開いて空気の流れが出来ているのだ。つまり、このドアの向こうに誰かがいる。勝手に入った誰かが。キッチンと玄関を挟むドアは薄い木で出来ている。ロックもなく、蹴ってしまえば簡単に倒れてしまいそうなドア。ボロいのでドアの隙間がいくつかあり、向こうを伺うことが出来る。


静かにドアの隙間から玄関を見る。


玄関には、黒いコートを着た誰かが立っている。男か女かもわからない。それがこちら側を振り向く。膝が震え、心臓が胸を殴り、息を必死に止めようとするが、どうしても息を切らしてしまい、身構える。後ろに目をやると、息子が危険を察したのか、口に両手を当てていた。もう一度、隙間を覗く。


黒いコートはドアのすぐ向こうにいた。だが、そのまま後ろを振り向き、玄関の右側の階段を登って行った。そして二人の真上の床を踏みつける音がする。


ドアを開けたいが、さっきのように家中に響いてしまうのは確実だろう。さあ、どうする?キッチンを見渡して、身を守れそうな物を探す。ナイフぐらいはまだあるはず。


その瞬間。


ハックション!


振り向くと、息子の前のテーブルの周りに埃が飛び散っている。息子は鼻を押さえて二発目のくしゃみを止めようとしている。


上で歩く音が止まる。


息子が鼻で空気を吸うと、ジュルジュルっと音がキッチンに響いた。


息子を抱えて、ドアを蹴り破って玄関に出る。駆け足が上から移動し、次の瞬間、階段を降りる音が聞こえる。


雨の中を無我夢中になり走る。後ろを振り向かず、車をめがける。トビーの脚が突然止まった。脚が上がらない。前に進めない。次の瞬間、胸を刺すような痛みが走った。そのはずみでシモンを抱えていた腕が緩み、泥水の中に息子が落っこちた。


「痛い!痛いよ」


クラクラし、視界がぼんやりと霞んだ。目の前を矢の嵐のように降る雨を捉えられない。ずっと先の自分の車がデタラメなフワッとした黒の塊となった。どうバランスを保って立っているのかが分からない。その瞬間、胸から喉へと熱いものがマグマのようにのし上がってきた。口を抑えたのも遅く、大量の血がこぼれてきて、泥をうつ雨水より鈍い音と共に地面を叩きつけた。


「とうちゃん?とうちゃんっ?」


空気が吸えなく、咳が止まらない。咳が体の中にある空気を締め出すのを止めない。目を開けてられず視界が真っ暗になって・・・。何かが聞こえる。別の足音・・・。


「逃げ、ろ」


トビーはその場で意識を失った。

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