雪の水曜日   Snow On April

 雪の水曜日   Snow On April




『今日はいい天気となりますが、明日から天気は崩れ始め、明後日は雨となるでしょう。』


 お天気予報のお姉さんの精巧に取り繕った笑顔がテレビの画面に映し出される。男からは分からないのかもしれないが、この笑顔は、女にとってはとてつもなく腹立たしい。腹立たしいどころか、はらわたが煮えくり返るというか、腹の虫がおさまらないというか。


 とにかく、いけ好かないのである。生理的に。


「明日、心配だな。」


 朝、朝食を父と二人で食べている。そんな時に、父がおもむろに言った。


「明日、何かあるの?」


 父の仕事はいたって普通のサラリーマンである。よって、天気などあまり関係ないのだ。一瞬、ゴルフかと思ったが、平日にゴルフはないだろうと思った。


「え?」


 父が素っ頓狂な声を上げる。どうしてそこまで驚いているのだろうか。


「明日、遠足じゃないか。」


 そういえばそうだったな、と私は思いだす。どうでもいいと思っていたので、思い出さなかった。当然、行く気はないということだ。


「私、行かないよ。」


 父は私の言葉に、困ったような笑顔を作る。


「ママのせいか。」


 そんな、ママを悪く言うような言葉を使うな。


「ママのことに、そんなにこだわらなくても。」


 この男は何を言っているんだ。私はお見舞いをしたいから、遠足を休むのだ。遠足を休みたくないけどお見舞いに行くわけではない。


「どういうこと?」


 私の言葉に、父の顔は恐怖に満ちる。


「お父さんはママのことなんてどうでもいいって思ってるの?」


 その逆だ。私はそれを知っていた。父はママのことしか考えていない。私のことなど、少しも思ってはないのだ。どうでもいいのは私なのだ。


 その後、居間を静けさが満たす。どこまでも静かな世界。まるで、音を吸い込む雪が部屋を覆い尽くしているような。


 雪?


 私は何か、思い当たるようなことがあった。しかし、それが何かが分からない。きっと、何かを忘れているのだ。


 雪、天気、天気予報・・・


 四月に雪が降るなんてありえない。なんてばかばかしいんだろう。


 ⁉


 似たようなことをかつて考えた。昔に。昔といってもごく最近に。


「じゃ、いってきます。」


 いつの間にか時間が止まっていた私に、父はそう言って、家を出た。私も急がなければならない。


 急いで準備をし、家を出た。




 自転車をこいで、最寄りの無人駅まで行く。無人駅からF駅に着いた後も、再び自転車に乗る。競輪選手になろうかな、などと考えながら無人駅へ急いでいた。すこぶるばかばかしい。


 無人駅に着くと、もうすでに、真綾と楓が来ていた。


「おはよう。」


 私は二人に声をかける。


「おはよう。」


「おはよう。」


 二人は私にあいさつをした。


 二人で何かを話していたようである。


「何話してたの?」


 私は二人に聞いた。


「明日の遠足の話。」


 真綾はいつもとは違い、テンションが高い。


 こいつらも遠足か、と私は呆れる。


「楽夢、具合悪い?」


 私はそれほど機嫌の悪い顔をしていたのだろうか。私の体調を気遣い、楓が言った。


「ううん、大丈夫。」


 楓の顔は、不安げである。自分では笑顔を作って言ったつもりであったが、笑顔が引きつっていたのだろうか。それとも、笑顔にもなっていなかったか。


「楽しみだね、ウニヴァ。」


 ウニヴァとは、遊園地ではないな、テーマパークも古いか。とりあえず、遊園地である。東の武闘館、西のウニヴァと呼ばれるほどの、関西最大級のテーマパーク、もとい、遊園地である。


「そうだね。」


 と、私は適当に相槌を打っておく。


 遠足・・・


 何かが引っかかる。朝、家を出る前と同じだ。何か、何か忘れているような・・・


 私が唸って考えていると、電車がやってきた。


 電車は滑るようにホームへと入ってきて、私たちの目の前に扉が来るように、止まる。


 ガラスの向こうには、相変わらず窮屈そうな車内と、額に眉を寄せた私の姿が反射して映っていた。


 いつも通りに、私たちはなるべく奥へと進む。先に行く人間が奥へ行っておかないと、後続の男子が入れなくなってしまうからだ。


 真綾と楓は、二人で相変わらず遠足の話をしている。


 アトラクションは何に乗りたいだとか、なんとかいうキャラクターに会いたいだとか。


 私はその二人の会話に入れずにいた。


 遠足に行く気がなく、興味がない、というのもその一つだろう。しかし、それは小さな要因である。


 二人は私と違って、理系に行った。そして、クラスも一緒だ。それゆえに、色々と共通の話題もあるのだろう。話を聞く限りでは、二人は当日、同じ班となるようで、一緒に行動することとなるようだ。


 そして、私はその二人にほったらかされることが多くなった。まあ、大して気にはしていないが。


 私の横に並ぶ人影がある。大きさ的に男だと分かる。誰だろうか、と私は横目で隣の男を見る。


 樹であった。


「あ、あんた、なにしてんの?」


 私は驚きを隠せず、声はいささか震えているようだった。


「何してるって、電車に乗ってる。」


「そりゃ、見りゃ分かるけど。」


 私が言いたいのはそういうことではない。こいつは昨日、私に自分の正体が神だと明かしたはずだ。


 もしくはあれは夢だったのか。二年ぶりに見た夢だったのか。


「神様がなに普通に登校してんの。」


「だって、今まで人間と同じように暮らしてきてただろう。」


 つまりは昔から、少なくとも私たちと樹が出会ったころには、こいつは神だったのか。


「神ならテレポートぐらいしなさいよ。」


「僕は普通の身体、いや、普通よりも劣っていることを楽夢は知ってるだろう?」


 そうだった。樹は運動神経がかなり鈍かった。女子の中で底辺に位置する私と同程度の能力だった。平均的な身体能力の女子に、樹は負けていた。


「じゃあ、あの変なやつを使いなさいよ。」


 私は昨日体験した、不思議な体験を思い出していた。


「あれは一種の幻覚だからね。幻覚で学校に行っても、僕の実体はベッドの上だからね。」


「なに勝手に人に幻覚見せてんのよ。」


 では、昨日の現象はどういうことなのだろうか。私は樹の幻覚から覚めた時、病室にいた。では、はじめから病室にいたということなのだろうか。私はいつ病室に着いたのだろうか。まさか夢遊病ような状態になっていたのでは・・・


 樹は私の怒ったような顔を見て、自分の唇に、立てた人差し指をあて、『静かに!』のポーズをとって言った。


「禁則事項です。」


 可愛らしく言った樹の顔を私は思いっきり殴っていた。


 気持ち悪いわ。


「窓側の席、いいなあ。」


 樹の周りは、殴り飛ばされた樹の様子を見て、戦慄していたが、私の後ろの二人はそれに気付かず、相変わらずおしゃべりをしている。


 バス。


 そうか。


 私は今朝からのモヤモヤがすっきりして、いい気分になった。あと、樹を殴り飛ばしたせいかもしれない。




 F駅のプラットホームを下り、一階へ降りる。定期券を駅員に見せ、改札を出ると、そこはいたって都会的な空間である。とはいえ、それは見かけだけで、売店のある方に行くと、一気に田舎の雰囲気が漂う。


 駅を出る。


 そこは、まあ、都会っぽいっちゃあ都会っぽいんだが、足元のレンガがボロボロで、ぼんやりとしていたらついついつまずいてしまいそうな歩道であった。


 私たちはいつものように、駐輪場に向かう。


 駐輪場は電車のコンクリート橋の下にある。


 そのせいか、いつもひんやりとして、湿っぽい。まだ四月の初めなので、駐輪場は少し肌寒かった。


 駐輪場は男女別かつ、学年別に分かれていた。


 男子の駐輪場に向かう樹が見える。先ほど、私の横を通り抜けていったのだ。


 本人は私に殴られたことに、大して何も思ってないようである。私も何も思ってなかったのでよいだろう。


 自転車をなんとか引きずり出し、出口へ向かう。


 この駐輪場は、無駄にセキュリティが高い。


 駅の改札は人間が印を押しているというのに、ここはカードをタッチする自動式である。金の使い方を間違えてはいないだろうか。


 私は真綾と楓と自転車に乗って、登校する。今日子は逆の方面からの電車で、時間が違うので、一緒には登校していない。


 三人は歩道上を三列縦隊で走りながら、ダラダラと登校する。このF市では、自転車は歩道を走ってよい。並列走行は認められていないが、警官に見つからなければ問題ないだろう。極偶に、警官が目を光らせていることもあるので、警戒は怠らないが。


 周りの自転車も、私たちと同じく、並列でダラダラと走っている。そりゃあ、登校時間まで一時間もあるからな。


 一時間に一本ペースだと、こうなる。


「ねえ、樹としゃべってたでしょ。」


 楓が言った。


「うん。」


 私はそう答える。


「なんで樹なんかとしゃべってたの?」


 今までしゃべってなかった樹としゃべっていたのは、やはり不自然だったのだろう。私は昨日のことを言おうかと考えたが、止めておいた。自分でも現実かどうか不明瞭だったからである。ただ、樹のことを私が『神』と呼んだことに、樹の動揺が見られなかったので、あれは現実だったのではないか、とは思い始めていた。樹が悪乗りしただけかもしれないが。


「樹がしゃべりかけてきたからさ。」


 へぇ~、と楓はそっけない返事をした後、


「何をしゃべったの?」


 と聞いてきた。


 やけにしつこいな、と私は思った。暴力沙汰になったから仕方がないか。そのくせ真綾は興味がなさそうだが。


「んーと・・・黙示録の現実逃避について。」


 はあ。


 そう返事が返ってくるとばかり思っていた。みんな大体そのような反応をするからだ。楓もいつもならそのような返事をするはずだった。


「誤魔化さないで。何の話をしたの?ねえ。」


 楓の顔が真剣そのもののように、鋭い光を灯していたので、私は身じろぎした。


「んんー。あー。いやー。別に・・・」


 曖昧な返事しかできなかった。


 ちゃんと答えてよ、と楓は詰問をしてくる。暴力沙汰は、やはりただ事ではなかったのか。


「き、昨日さ、偶然駅で出会ってさ。そしたら、昔話に花が咲いちゃって。それで、今日のはその続きだったんだ。」


 適当に言ってみたものの、問題はどうやって樹を殴るべき理由につなげるかである。


「ふーん、何話したの?」


 そこは重要か?と疑問に思ったが、疑われてはまずいので、適当に話を繕う。


「ええっと・・・アニメ?」


 疑問形になって、しまった、と思ったが、楓は大して気にはしていないようだった。


「何のアニメ?」


 ふと、何故樹の秘密を隠さなければならないのか、と疑問に思う。そもそも、何故、私は問い詰められている。


「うーんと・・・カードキャプターさくら?」


 へえ、と楓はうなずく。何を納得しとるのだ、お前は。


「で、何で殴ったの?」


 単刀直入だな、と私は楓に感嘆した。


「あいつが殴ってくれ、って言ったの。」


 楓の中の樹はどのような少年に映っているだろう、と私は想像してみる。


 昔の少女向けアニメが好きで、そして、女の子に殴ってくれ、と懇願する男子。変態だ。


「へえ。」


 納得するの⁉と私は驚く。せめて樹のために否定くらいしてやってもいいんじゃないだろうか。


 きっと、樹は明日から、変態として女子のネットワークに認識されるだろう。


 正直、そのネットワークの広さは計り知れない。


 まあ、神様ならなんとかしやがれ。


 樹のことを思い出していると、朝のモヤモヤの正体について思い出した。


「ねえ、遠足の日って曇りだっけ?」


 私の言葉に、待ってました、と言わんばかりに真綾が輝きを取り戻す。


「そうだよ。雨は降らないみたいだけど。暑くならないからいい天気って言えるかもしれないけど、やっぱ遠足は晴れてなきゃね。こうパッと青空の下、エンジョイしたいしさ。」


 真綾の言葉を聞きながら、私はフロイトの手帳の内容を思い出していた。


 フロイトの手帳にはこう書いてあったはずだ。


『曇りの日、バス。』と。


 樹は手帳に自分の兄弟に会えば、冥府から愛するものを取り返すことができる、と言っていた。つまりそれは、ママを眠りから覚ますことが出来る、ということかもしれない。


 信じているわけではない。


 しかし、信じるほかに私は何もすることができない。


 私は普段、バスには乗らない。


 そして、偶然にも、バスに乗る日、遠足の日は曇りである。


 私は明日、遠足に行くことにした。


「ねえ、天気予報で雪が降るとか言ってないわよね。」


 私がそう言うと、ハハハハハ、と二人は笑った。


「な、なんなのよ。」


 私は急に笑い出した二人に怖気づいて言った。


「だってさ、四月に雪が降るわけがないじゃない。降っても十二月頃よ。」


「どうしたの。テストで百点でもとった?」


 笑い過ぎて、二人は自転車の操作が荒くなり、危うく転びそうになる。


 あと、八か月。


 二年間と比べると短いが、ママを目覚めさせるためにはあと八か月も待たなければならない。希望が遠ざかっていくのを感じて、私は呆然とした。




 何事もない風景。いつもの教室。


 そんな空間に何事なく溶け込んでいるフロイトに対して、私は怒りを感じる。


 彼は、いつも通りに本を読んでいる。誰と交わるでもなく。


「ねえ、遠足の班って、私、誰とだっけ。」


 私は前の席の今日子に聞いた。


「あんた、本当に物覚え悪いわねえ。」


 子どもをバカにする親のような態度で今日子は私に言った。


「ええっと、私と楽夢とフロイトと、後は、泉さんと元木さんじゃなかったっけ?」


「なんでそんな班になったのよ。」


 泉さんと元木さんはクラスと馴染めていない、私達のような人たちである。


「普通、こういうのってくじ引きで決めるものなのにね。」


 今日子の話から察するに、どうも先生が好きな人同士で組んでいいよ、とでも言ったようである。全く記憶にない。


「フロイトだけ男子じゃない。」


「それは仕方ないでしょ。文系はただでさえ男子が少ないんだから。」


 そう言って、今日子ははあ、とため息をつく。


 文系は男子が少ない。隣の一組は男子が十人に満たないくらいだからだ。


「ねえ、今日って、雪降る?」


「はあ?なに言ってんの?雪どころか雨だって降らないでしょ。この空なら。」


 今日子は外人のように肩を揺らしながら呆れていた。


 空は昨日と同じく、雲一つない青空だった。


 雪は降りそうもない。




 昼休み。


 授業の本番はこれからである。あと三時限も残っている。


 そんな現実に押しつぶされそうになりながら、みんなは束の間の休息を、食事と会話とじゃれあいで現実逃避に費やしている。


 しかし、私は現実逃避している暇ではない。


 現実と戦うんだ。


 私はさっと弁当を食べてしまった。


 どこ行くの、と言いたそうな目をしながら今日子は私を見ていたが、それを言わせるより早く、私はフロイトの机にズカズカと向かっていく。


 フロイトはコンビニのスティックパン(一袋百円なり)を食っていた。


「来なさい。」


 私はフロイトが本を読みながらパンを頬張っているのにかまわず、フロイトの手を引いて、教室を連れ出す。


 フロイトは何も言わず、されるがままに私に引っ張られていく。むしろ教室の連中の方が驚いているようだった。そりゃ、驚くだろうな、と思いながらも、気にしてたまるか、とフロイトを連行していく。


 女の子が男の子の手を引いてどこかに連れて行くなど、この学校では絶対に起こるはずのないことだった。三次元世界で起こること自体ありえない。これは二次元限定の行為だ。


 ただし、二次元に限る!


 そのような行為を、世界の残りかすのように扱われている者たちがやったのだ。そりゃあ驚くわな。


 私たちの行為はかなり目立っていた。


 廊下を進む私たちの姿を、人々は凝視する。


 私はかまわず進む。


 フロイトも気にせずついてくる。


 当の本人が驚かず、第三者であるモブどもが驚いていることに、私は笑いを隠しきれなかった。私はいつの間にか笑いながら廊下を進んでいた。


 どうしてしまったのだろう、私は。


 普段の私では考えられないような行為を、今、私はしているのだ。


 しかし、そんなに重大な事をしているという緊張感を感じない。


 きっと私はやるべきことをしているんだ。


 私はやりたいことをしているんだ。


 ママを助ける。


 きっとこれが、私の今まで生きてきた意味。


 それを終えた後、私はどうなってもいい。死んだっていい。


 でも。


 それを終えるまでは、絶対に死なない。


 死ねない。


 どうあがいたって、生きてやる。


 ママを目覚めさせるまでは。




 私はフロイトを体育館の裏に連れてきた。


「なんだい?告白でもするのかい。」


 お道化たようにフロイトは言う。この道化が。


「昨日、夢の神だっけ?そんなのにあったわ。顔なじみだったから拍子抜けしたけど。で、そいつの話から察するに、アンタはそいつの叔父なんだってね。ということは、つまり、神なんでしょ。」


「だからどうすると言うんだい?」


 そうだ。私はどうするのだろう。なにも考えていなかった。


 でも、なんとなく、こうすべきだと思ったのだ。


「なんとかする。」


 私は真剣に言った。


 プフフフフフ。


 必死に笑いをこらえながらも、フロイトは笑ってしまっている。


「反則だよ、それは。プフフフ。そんな真剣な顔で『なんとかする』なんて。」


「なにがおかしいの?」


 私は怒りを隠さずに言った。


「僕が神だろうと、君の抱えている問題で僕は君に協力はできないよ。でも、大丈夫だ。君なら、君のような愚か者なら、可能性を引き出せるはずだ。」


 そう言った後、フロイトは大声を上げて笑い出す。


 神というのはどいつも人をバカにしてやがる、とフロイトを蹴飛ばそうとした時、頬に変な感触があった。


 ひんやりと冷たい。


 しかし、それはすぐに消えて、生ぬるい液体が頬をなでる。


「君ならできるって言ったろ?」


 雪が降ってきた。




『雪の日、公園』


 それが一体どこを指しているのかは分からない。どこの公園なのか。そして、いつ公園に行けばいいのか。神のいい加減さと生意気さには、苛立ちしか感じることが出来ない。


 雪が降りだした昼休み。私はすぐさま学校を飛び出した。


 荷物は持って出た。


 先生に早退の意を伝えていない。


 家に連絡されるだろう。


 そんなことかまうもんか。


 私は学校の裏にある、学校から一番近い公園に来ていた。


 樹が昨日、教室に現れたのは偶然かもしれない。そもそも、フロイトが画策したのだから、私があの時間、教室にいるということは想像できただろう。


 しかし、今回は違う。


 ここでいいのだろうか。


 私は不安になる。


 やりきれずにはあ、と息を吐きながら、公園のベンチに座る。


 吐く息は白かった。


 信じるしかない。


 私にできることはもうそれしか残っていない。


 気温の低さに、私は身を縮める。春の服装では、真冬並みの気温には対応できない。


 神様なら私がどこにいるかなんて、お茶の子さいさいで見つけられるだろう。


 そう信じることにした。


 信じることしかできなかった。


 しかし、この雪はなんだ。すでに木々には雪が積もっている。地面も雪でじゅるじゅるになってしまっている。天気さえも私をバカにしているのか、と私が癇癪を起していると、誰かが公園に入ってくるのが見えた。


 カーキ色の上下を着た、小さな男。


 いや、その体型は男というよりも、少年と現した方がいいと思った。


 私はその少年の服装を見たことがあった。


 自衛隊の軍服である。


 F市には自衛隊の駐屯地がある。登校中、稀に、自衛隊の軍服を着た人と出会うことがあった。


 自衛隊の駐屯地が町中にあるのは怖い、と思う人もいるかもしれない。しかし、私自体は何の恐怖を抱いてはいない。家が駐屯地から遠く離れているということもあるかもしれない。駐屯地自体は結構目立つところにある。国道沿いにある。しかし、自然と目立っていない。目立つはずなのに目立っていない。この市に駐屯地があるという事実さえ忘れてしまいそうなくらい、目立っていない。駐屯地沿いの国道を通るたび、そういえば駐屯地があったな、と思い出す程度だった。その国道の歩道から駐屯地を見ると、戦車が見えるのだが、その戦車が動いているところを、私は見たことがない。展示用に置かれているのだろうか。それにしても、影が薄い。


 自衛隊員は私に向かって歩いてくる。


 コイツが次の神様かな、と私は思った。


「君がオルフェウスかい?」


 私は違和感を感じる。違和感というよりも・・・


「女?」


 声は低めの声だったが、女性の声に違いなかった。


「ああ。」


 女は肯定し、帽子を脱ぐ。


 短い髪。


 しかし、それはサラサラで整った髪だった。男の髪ではなかった。


 女はその髪を七三分けにしている。


 そして、顔は童顔の男と言われれば納得できるが、言われなければ女にしか見えない顔だった。


「なるほど。君はなかなか面白いね。」


 こいつは神だ、と私は思った。


 初対面の人を前にして、いきなり面白いなどというのはバカにしている。神ってヤツはどいつもこいつも。


「あなたは樹のお姉さん?」


 樹に兄弟はいないが、歳が同じ樹がフロイトの甥なのだから、まあ、なんでもアリなんでしょ、神は。


「樹っていうのはモルペウスのことかい?それならボクはモルペウスの弟だよ。」


 樹の神の名前を憶えてはなかったので、確証はない。


 それよりも大切なことがあるだろう。


「あなた、男なの?」


 私の頭はこんがらがっていた。


「いや、身体の性別は女だし、心も女だよ。弟っていうのは神としての性別さ。」


 訳が分からない。神のことは人間如きが理解できるものではない、とはよく言うが、それは本当だったんだな、と私は体験をもって、理解した。


 女は背負っていたリュックをベンチの私の隣に置いた。


 そして、中からマフラーとニット帽と手袋を出す。そして、私にニット帽をかぶせ、マフラーを巻いた。


「どうして?」


 私は驚いていた。神がどうして人間に防寒着を着せているのか。まるで、自分の子どものように。


「可能性はゼロではなかったからね。」


 見当違いな答えが彼女から返ってくる。


 私は理解した。


 彼女は何故防寒着を持ってきているのか、と質問を勘違いしていたのだと。


 それにしてもおかしい。雪が降る可能性があったとでもいうのか。


「四月に雪が降ることだって十分あり得るんだよ。」


 彼女は私に言っているようで、他の誰かに言っているようだった。彼女の目が、私ではなく、もっと遠くの何かを見つめているように見えたからである。


「そうじゃなくって、どうして私に防寒着を着せるの?あなたは寒くないの?」


 私の問いに、彼女はうーん、と唸っていた。


「雪が降る可能性はゼロじゃなかった。でも、それは天文学的確率で、実際に降るとは思ってもいなかったんだよ、ボクは。でも、降った。これはボクが思うに、君が引き起こした奇跡だよ。」


 いや、質問の答えになってないから。


 私の呆れた顔に気が付いたのか、彼女は言った。


「なんで防寒具を持って来ようとしたのか、ボクにも分からない。どうせ君は寒そうな格好をしているだろうなと思っただけだ。すると、知らないうちにボクの体がリュックに防寒着を突っ込んでいた。もしかしたら、君への手向けだったのかもしれないね。」


 訳が分からないのに、私をバカにしているのがなんとなく分かる。


「女性と話すのは本当に久しぶりなんだ。どうか、ボクの話を聞いてくれるかい?」


 彼女は私の回答を待たず、話し出す。


 つくづく、人をバカにしている。


「ボクの名前はパンタソス。幻想の神さ。人間の名前は野原百合。国民的アニメの家族と同じ苗字だから、よくからかわれたよ。」


 そう言って、彼女、百合は少し笑った。


 軍服を着ているので彼女は、どこか浮世離れした存在のように思っていたが、笑った顔の幼さを見て、私たちと何も変わらない女の子なんだな、と私は感じた。


 軍服のせいで大人びて見えるが、実際は私たちと歳はそんなに変わらないんじゃないかな、と私は思った。


「人間の君にどれほど話していいのか分からないけど、まあいっか。言ったところで人間如きに困るボクではないし、こんな話を信じる人間が君以外にいるとは思えないからね。


 神といっても、ボクは人間なんだよ。ただ、産まれた時から自分はどこか特別な人間ってことを分かっていて、自分の正体と役割も分かってたんだ。役割って言っても、実はなんの役割もないんだけどね。まあ、あるとしたら、君を手助けすることか。今言ったのはボク個人のことだから、他の神は知らないよ。でも、恐らく同じだろうね。僕は実は他の神にあったことはこの前までなくてね。始めてあった神があのタナトスで驚いたくらいさ。


 ボクは普通の女の子だった。変な所、つまり神である自覚はあったんだけど、それを必死に隠してきた。恐らくその存在はこの世界にあってはならないものだ、っていうことを無意識に悟ってたんだと思う。それとも、自分の中の神が知らないうちに働きかけていたのかもしれない。でも、普通の女の子として生きてきた。十四の誕生日になるまでは。


 十四の誕生日、つまり、君と同じようにボクが十四の誕生日になった時、ボクの運命は急に変わった。いや、それは元々そうなるようになっていたのかもしれない。とにかく、今までの世界が急に変わった。


 ボクに神の力、パンタソスが芽生えた。でも、ちょっとボクの場合おかしいことがあってね。能力が二つ芽生えた。一つは幻想の神、パンタソスのように幻覚を見せる力。そして、もう一つは能力というよりも体質というべきものなのかもしれない。今はなんとかなっているんだけど、長い間、その能力は制御できなかった。ボクはその能力を『枝分かれ』と呼んでいる。


 この『枝分かれ』が曲者でね。この能力は可能性が見えるんだ。まあ、未来予知能力とも言えるかもしれないが、それほど正確なものじゃなくてね。


 ある朝、目が覚めた。朝日が眩しくて、目を開けるのが一苦労だったのを憶えているよ。なぜ覚えているかっていうとね、目を開けた後の景色が常軌を逸していたからだよ。


 目を開けると、まず窓と空が目に入った。横向けで寝るのがボクのくせでね。横向きでないと寝れないんだよ。


 そして、その空にあり得ないものが映っているのが見えた。


 木。


 木が宙に浮いていたんだ。


 その木は普通の木と違ってね、まあ、宙に浮いてる自体で普通じゃないんだけども、その木には三つの葉っぱがついていた。その葉をよく見るとね、空に太陽が燦々と輝いているものと、雲が少し多くて太陽が時々隠れ隠れになっているものと、空一面灰色の雲で、今にも雨が降り出しそうなものがあった。それは幹に近い方から晴れ、ちょっと曇り、曇りって感じになってた。その時はこれが何を意味するのか分からなかったんだけどね、何か月かすると法則性が見えてきたんだ。幹に近い葉は一番起こる可能性が高いことを表していて、その葉が地面に近いほど、近い未来に起こることなんだ。最初は能力も不完全だったせいか、見える葉の数も少なかった。けど、一日経つと、その見た対象の末路まで見渡すことができるようになった。いや、なってしまった。


 この能力はね、自分が見ようとしたものの可能性を勝手にボクに見せたんだ。


 町中を歩くときなんて、かなり辛かったよ。人がいっぱいいると人を見ながら歩かなければいけない。すると、たくさんの木がいっぱい見えてね。それが人であることを識別するのさえ辛かったよ。


 人間を含めた、生き物を見るのはとても辛かった。


 生き物の末路って分かるかい?


 それは死だよ。生き物の場合、可能性はほとんど死しか映らなくてね。猫とかを見てしまうと、衰弱か、事故死か、餓死かしかなくてね。いわずもがなかもしれないけど、一番悲惨なのは事故死さ。目を生き物に移した途端、目玉がこぼれる映像が飛び込んで来たりしてね。不安定な能力だったから、急に可能性を見せてくることもあった。それも、可能性も時期もバラバラだったりして・・・


 まあ、人間は末路さえ見なければなかなか面白いものだったよ。あの不安定なランダム再生がなければいつまでも眺めていたいくらいの価値はあった。


 人間ってのは、本当に可能性にあふれている存在なんだね。多くの枝が広がっていて、多くの葉がついていた。子ども、っていっても同級生だけど、彼女らの可能性を見るのは非常に楽しかった。そりゃ悪い可能性もあるよ。でも、いい可能性ばかり見ているのは楽しかった。若い人間ってのは将来の可能性が驚くほど多岐に渡っていた。歌手、芸能人、花屋、警察官・・・色んな可能性で溢れる木を見るのは楽しかった。例えそれが実現可能性が低くても、ボクの目に葉として映ってる限りは可能性はゼロじゃなかったから。


 辛かったのは、その可能性の葉が見つからなかったときだね。友だちに教師になりたいって子がいたんだけど、その子の木から教師になるっていう葉が見つからなかった。


 その時、ボクは気付いてしまったんだ。この能力の恐ろしさを。


 この木に葉がついていないと可能性が本当にゼロなんだってことに。


 自分の木が見えていたら絶望していただろうね。


 だが、あいにく見えなかった。


 鏡を見ても、映るのは鏡の末路、割れた鏡だった。


 これほど救われたことはないとボクは今でも思っている。


 自殺していたかもしれない。


 神が自殺なんて、おかしいと君は思うかもしれないけどね。


 でも、もしかしたら見えるのかもしれない。自分が無意識に見せないようにリミッターをかけたのか、それとも自分の中の神、パンタソスが見せないようにしてたのかもしれない。


 どっちにせよ、見る意思がないから見ないだろうけど。


 どう足掻いたって変えられない未来を見たくないから。


 そう思うと、占いってのは不思議だね。ボクには占いが不思議なものにしか感じられないよ。占いってのは大抵葉がついてることだよ。それを知ったからって、可能性の高低は変わらないからね。あ、こういうことは言うべきじゃないか。占い師に営業妨害で訴えられちゃうかな。でも、可能性が低くとも起こる未来があるから、この世界自体が不思議なのかもしれない。確率って概念もなかなか不思議だしね。数学で玉を取り出すって問題があるだろ。それを実際先生がやってみることがあってね。その可能性の見た時、玉が出てこない可能性があったんだよ。結構低かったんだけど。見たのは一日前だったかな。そして、次の日見ると、玉がない可能性しかなかった。どういうことかって不思議に思って、外れちゃったのかな、なんて期待したんだけど、玉は出てこなかった。入れ忘れてたみたいだ。


 あ、言い忘れてたか。


 可能性は刻一刻と変化するんだよ。変化しないのは死っていう結末だけだよ。その結末も色々あるんだけどね。自殺とか、刺殺とか、絞殺とか。


 その時その人が何をどう選択するかによって、変化していく。ただ、それは確率だけだけど。初めから葉が無い場合は、どうしようもないんだ。


 ちょっと楽しそうな力だな、って思った?


 今は調節できるからいい力だとは思っているけど、ランダム再生と木で対象が見えなくなるのには困った。


 それが治まったのは十八の頃だった。


 ボクは自衛隊に入ることにした。


 なんでかって言うと、まあ、自分の可能性に自信がもてなかったからだろうね。


 他の人間のキラキラした可能性を見て、自分はそんな可能性はないって思った。自分の可能性が見えないから怖かったのかもしれない。自衛隊に入ると可能性は縮まると思ったんだ。


 もちろん、親には反対された。


 自分たちの言う通りにしろ。


 親がそう言ったときに、何かが吹っ切れた。


 そう。ボクは十八年間、自分で未来を決めようとしてこなかったことに気が付いた。どんな可能性があったって、未来を自分で決めなければ、その未来はボクが笑っている未来じゃないって。後悔しながら生きている可能性しかないんじゃないかって。


 ボクの可能性はボクのものだ!


 ボクは親に向かって叫んだよ。


 その時から、ボクは自分の能力を完全に制御できるようになった。


 可能性の木を見えないようにすることも、見えるようにすることも可能になった。


 そして、ボクは自衛隊に入った。


 自衛隊の二年間は辛かったよ。最初の二年間は自衛隊員になるための訓練を受け続けなければならない。訓練の毎日だ。


 女子だって、ボクしかいなかったから。F駐屯地の女性はボクだけさ。


 色んな嫌がらせがあったよ。今だってある。


 二年で自衛官になれてね、実地で戦闘を行うような兵士か事務をするような事務官かに分かれるんだけど、ボクは今、兵士さ。また、訓練の日々さ。同僚が生きてるうちは戦闘を行う可能性は皆無なんだけどね。でも、いや、だからこそ、ボクは兵士なのかもしれない。


 君も自衛隊にならないかい?今自衛隊は女性自衛官を募集中だよ。訓練は女だからって手加減なしだけどね。


 よく自衛隊員になって、後悔してないかって聞かれるんだよ。女性自衛官は珍しいから、遠路はるばる、東京からとかから週刊誌の記者がよく来て、取材で聞かれるんだ。


 ボクは『後悔はしてません』って答えてるし、本当に後悔はしていない。


 昔は可能性がどうこうって考えてたけど、そんなことは実際無駄だったんだって今はそれに気が付いた。人間、って一応神兼人間なんだけど、人間は可能性どうこうで未来を決めるべきではないし、決められないものなんだ。


 自分の意志で自分のやりたいことを決めて、その可能性が例え皆無であってもやりたいことをやるのが人間の生きざまなんだよ。」


 私は最初から話を聞いてはいなかった。急に近所のおばちゃん、いや、近所にはおばあちゃんしかいないか、その如く弾丸トーク(自衛隊員だから弾丸ってね)を始めだした百合をぼんやりと眺めていた。


 百合は話している時、私の方を見ていなかった。これまた誰か別の人に話しかけるように話していた。もしかしたら、自分自身に語りかけていたのかもしれないな、などと思った。


 唯一聞き取ったのは、百合が二十歳だと言うところだけだった。


 二十歳にはみえなかった。


 私と比べても、それほど変わっていないように思える。


 いや、私と比べても無駄だった。


 だって、私の時間は二年前で止まっているのだから。


 私の成長は十四の時で止まっている。


 成長どころか、二年前のあの時から、私は何も変わっていない。


 身長も、体重も、血圧も、心拍数も、何もかも。


 まるで、時間が止まってしまったかのように。


 同級生と比べてみても、百合は彼女らのようにあどけない幼さというものを持っているような気がする。


「あ、でも、無理か。」


 百合は言った。


「百五十センチ身長がないと、自衛隊に入れないや。」


 そう言って、百合は私に顔を向けた。


 ニヤニヤと笑っていた。


 神ってのは、どいつもこいつも私をバカにしやがる。


 私が敵意むき出しに、犬歯をむき出しにして、今にも襲いかかってやろうと思った矢先、百合は私の額に手を伸ばす。


 そして、私の額を女性らしい細くて白い、でも、黒い土がまばらに染みついた指で弾いた。


「君は本当に特別だね。ボクがこんなにもおしゃべりになるなんて。」


 視界が真っ暗になっていく中、洞窟から聞こえてくるような、ボワっとした響きの百合の声が聞こえてくる。


「兄さんと叔父さんが君を試したくなる気分が分かる気がするよ。まあ、あの二人はそれ以上の感情を君に抱いているのかもしれないが。」


 この感覚はどこかで感じたことがある。


 まるで、どんどん水の中へ沈んでいくみたいな・・・


「君は果たして、気付けるかな?そして、目覚めることができるかな?」


 この言葉以降、百合の言葉は聞こえなかった。


 海の底へ沈んでいくような、奇妙な感覚の中、私の心には、不安の泉が湧きおこっていた。




 頬に温もりを感じる。


 心休まる温もり。


 懐かしい感触。


 誰かが私の頭を撫でているのが分かる。


 これもまた、懐かしい。


 まるで羽毛のような撫で方。


 これは、そう、これは・・・


「おはよう。」


 目を開けた私に、誰かが声をかける。


 女の人の声。


 そう、それは私がよく知っている人物。


「おはよう、ママ。」


 私は頭上の女性、二本松夢に言った。


 ママのことがひどく懐かしい気がする。


 何故だろうか。


「どうしたの?そんな顔して。」


「ママ、もうお昼だからこんにちはじゃないの?」


「う~ん、でも起きたばっかりじゃ、おはようじゃないかしら?」


「そうだね。」


「そうでしょ。」


 そうして、ママと私は互いの顔を見つめて、笑った。


 とても幸せな光景だった。


 光景だった?


 どうして過去形なんだ?


 まるで、すでに起きたことのような・・・


「もうお昼だから、お昼ご飯にしましょ。」


 そう言って、ママはキッチンへ行って、お昼ご飯の調理を始める。


 いい匂いが家中に広がる。


 ママの匂いだ。


 この家にはママの匂いが隅々まで染み込んでいる。


 懐かしい。


 まるで久々に匂ったみたいな、そんな変な感覚が私の中にあった。


 なんなのだろうか、これは。


 まるで、今までママのいない世界に飛ばされていたような。


 そんな世界は嫌だ。


 そんな世界に、私の生きる意味など存在しないではないか。


 ママのそばにずっと、ずっと居続ける。


 それが私の幸せであり、生きる意味なのだから。


 私はママが調理しているところを眺めている。


 流れるような動き。


 流線を描くように、腕が運ばれていく。


 それは、さながらダンスを踊っているような。


 ママは妖精なのだ。


 キッチンを優雅に舞う、美しい妖精。


「あら、よっぽどお腹が空いていたみたいね。」


 ママは、私がママを穴が開くほど見つめているのに気が付いて、言った。


 私はお腹が空いているわけではない。


 今のうちに、いっぱいママのことを見ておこうと思ったのだ。


 今のうちに?


 まるで、これからママのことを見れなくなるみたいな・・・


「はい、ご飯よ。」


 そう言って、ママはテーブルの上にチャーハンを置く。


 床にペタリと座り込んでいた私は、テーブルにつく。


 ママ特製のチャーハン。


 だけど、私は知っている。


 このチャーハンは市販のチャーハンの素を使っただけのものだと。


 でも、そんなことはどうでもいい。


 ママが作りさえすれば、どんなものであろうと、世界で一番美味しいのだ。


 そう。ママに敵うものなんて、この世にあるわけがない。


 だから、私は一生ママには勝てない。足元にも及ばない。


 きっと、並び立つことさえ、許されない。


「おいしい?」


 ママは弾けんばかりの笑顔で私に言う。


「うん!」


 私はうれしくなって、思わず顔をクシャクシャにして笑う。


 うれしい。


 ママの笑顔が見れて。


 私はこのために生きているんだ。


「お昼に寝ちゃったら、夜に眠れなくなっちゃうわね。明日、ウニヴァに行くのに。」


 ウニヴァ?


 どうして私は明日、ウニヴァに行くのだろうか。


 ママがカレンダーを見ているのを見て、私もカレンダーを見てみる。


『楽夢の誕生日 ウニヴァに行く』


 そう書かれてあった。


 2012年のカレンダーだった。


 ?


 何かがおかしい。


 いや、何かがおかしいと感じている自分がなんだかおかしい。


「楽夢ももう十四か。早いわねえ。」


「ママは十四才の時、何やってたの?」


 う~ん、とママは難しい顔をして考える。


「なにやってたのかしらね。私は。」


 ママはそう答えた。


「覚えてないの?」


「う~ん・・・いや、多分覚えてるんだけど、思い出に残ることはしてないっていうか・・・なんとなく、毎日をゆらり、くらり、と波に揺られる小舟みたいに過ごしてきたみたいな。」


「ふうん。」


 私は分かるような、分からないような返事をした。


 今の私には、それは分からない感覚だった。


 だって、ママがいるから。


 ママがいなくなると、きっと、そんな毎日なんだろうな、ということはなんとなくわかる気がした。




 夕方。


 私はママと二人で夕飯の買い物に出た。


 周りは木しかないところだから、車で町の方まで行かなければならない。


 ママは車の運転席に、私は助手席に乗り込む。


 私は助手席に乗った時に、なにか、ひどく嫌な予感がした。


 今じゃないから大丈夫。


 何が今じゃないんだ?


 私は心の中にポッと浮かんだ言葉に疑問をもつ。


 やはり、今日の私はなんだかおかしい。


 ママは車のエンジンをかける。


 すると、音楽が鳴りだす。


 米米CLUBの『君がいるだけで』。


 この曲はママと私のことを歌っているんだ。


 柔らかな歌声が車内に広がる中、私は一人で幸福感に浸っていた。


 デパート、と言えばデパートなのだろう、この建物は。


 でも、デパートというよりは、大型スーパーと形容した方がいいのか。


 まあ、とりあえず、大きな店に来ていた。


 家から一番近い店で、まともな所はここしかなかったのだ。


 私はショッピングカートを押していく。そして、ママの進む先をついていく。


 ママは眉を額によせ、献立を考えながら、進んでいく。


 眉を寄せた、その顔も美しかった。


 ママは私の誇りだ。どんな男も振り返って見ないことはない。


 そこだけ空間が切り取られていて、上から女神の絵を張り付けたような、そんな感じ。


 まだ百五十センチには届かないけど、私は一生懸命にカートを押して、ママについていく。


 先に行ってしまうママの姿を見て、私は急に、不安な気持ちになった。


 いつものことなのに。


 私にはママがどこか遠くの、私の手の届かないところへ行ってしまうような、そんな変な胸騒ぎがした。


 私は急いでママについていく。


 どこへも置いていかれないように。


 離れ離れにならないように。




「肉じゃが、おいしいね。」


 ママは私にはそう言った。


「うん!」


 と私は勢いよくうなずく。


 ママは晩御飯に肉じゃがを作った。この前学校で肉じゃがを作った時は、汁のない、変な肉じゃがを作らされたけれど、ママの肉じゃがは、きちんと汁があって、ジャガイモにしっかり味が染みついていておいしい。肉じゃがなんて、料理屋で出される料理に劣るなんて思っている愚か者がいるかもしれないが、そいつは実に愚か者である。


 ・・・愚か者・・・・


 ごく最近に聞いたような気がする。


 異常だ。この感覚は。


 何かがつっかえている。


 今の私の様子を表すと、そうなるだろう。


 エンジンがかかってはいるんだけど、エンジンの中に何かがつっかえていて、それで回転できずに、おかしくなっている。


 やめた。


 考えるのをやめた。


 きっと、こんな風に思い詰めているからおかしく感じるんだ。


 卵が先か鶏が先か状態に陥っているんだろう。


「パパも一緒にご飯食べられるといいんだけどね。」


 パパ?


 ああ、そうか。この頃はまだ・・・


 ?


 この頃?


 まあいい。何も考えるな。余計なことを思い出そうとするな。


 思い出す?


「そうだね。」


 私は父、いや、パパ、やっぱ父、のことなどどうでも良かったのだが、私は自分の心の中の葛藤(なんで私は葛藤しているんだ?しかし、これは間違いなく葛藤だ)を振り払うために、言った。


「ほんと、明日だって楽夢の誕生日だってのに、パパは。」


 ママはプンスカ怒るように、頬を可愛く膨らませる。


「大丈夫、気にしなくてもいいよ。」


 父のことなど、本気でどうでも良かった。


 それよりも、ママが私のことで不愉快になってしまうのが許せなかった。


 でも、ママが私のことで怒ってくれることは、少し、いや、とってもうれしかった。




 明日が楽しみで眠れないってことは、私には一度もなかった。明日が遠足だとか、そういう楽しみなことがあるから眠れないって言っている同級生のことをあまり理解できなかった。


 どうせベッドの中にいれば眠れる。


 でも、今夜、私はなかなか眠れない。


 なぜなら、明日が来るのが楽しみだから。


 なんて理由ではない。


 私がそんなロマンチックな女でないことは私自身がよく知っている。


 昼間、寝てしまったからだ。


 目をつぶってみるが、眠れる気配が全くない。


 それに、目をつぶることに、何故だか抵抗感があるのだ。


 目をつぶるとどこかに行ってしまって帰れないような。


 どうしてこんな気持ちに、不安になってしまっているのだろう。


 人は初めの一歩にとてつもなく不安感や恐怖心を感じる。


 これはなんとなくそんな感じに似ているような気がする。


 もう何年も眠っていないような、そんなバカな考えさえ起ってくる。


 目をつぶっていると、バカな考えばかり湧き上がってきそうだ。


 私は目を開ける。


 そして、窓の方を見る。


 星。


 いっぱいある。


 大して感動は起きない。


 何度も見た景色だからだ。


 春の夜空は大して見るべき点はない。感動させるところはない。


 夏は天の川が圧倒的な威圧感で迫ってきて、私の心を強く揺さぶる。


 春の夜空にだって、きっとどこかいいところがあるはずだ。でも、私にはそれが見いだせない。


 春の夜空は私とそっくりだ、と私は思った。


 そして、夏の夜空はママ。


 ママの美しさを知ってしまったから、私は私の長所を見出せないのではないか。


 それでも、いや、それでいい。


 自分のことばかりに固執して、自分を誇張し続けて、他人のいいところを見つけられなくなってしまったら、もう、その人は終わってる。


「そんな世界、病んでるよ。」


 そうつぶやくと、私は無性に眠くなってきた。


 だんだん視界が狭まってくる。


 視線がぼやけてくる。


 まぶたが力を失って垂れてきているのだ。


 こうなると、何故だか春の夜空を見ていたくなる。


 本当に、私は変わってるな。


 私は意識を失った。




 私は朝早く起こされた。


 まだ目が完全に開いていないが、なんとか下の階まで階段を下りる。


 朝ごはんのいい匂いが充満している。


 今日はその匂いに別の匂いが混じっている。


 コーヒーの匂い。


 ママも私もコーヒーを飲まないから、父だ。まだ父のいる時間帯に起こされたのだろう。


「おはよう。」


 父が私に向かって言う。


「おはよう。」


 私はそっけなく言う。


 これが、いわゆる反抗期ってやつかな、と私は自分で自分を分析してみる。


 久しぶりのことなのに、まるで違和感がない。


 これが私の日常のような・・・


 とにかく、テーブルについて、私は朝食をとる。


 ママもテーブルについた私を見て、テーブルにつく。


「三人で朝ごはんを食べるなんて、ほんと、久しぶりね。」


「そうだね。」


 私の答えは意識せずにそっけないものになってしまう。


 朝食を食べていると、父がおもむろに言葉を発する。


「今日、ウニヴァに行けなくて、ごめんな。」


 父は私が不機嫌なのを、自分が遊園地に一緒に行けないからだとでも思っているのだろうか。そういうのを自惚れというんだ。


「別に。怒ってない。」


 この答えだと、本当は怒っていると思われかねないな、と思った。


「本当に怒ってないから。」


 私はつけたして言う。


 でも、なんだかこれではツンデレではないか。


 だが、まあ、仕方がないだろう。


 相手の気持ちなんて、本当は分からないのだ。


 自分が相手の気持ちを想像して考えるが、それはその人物が相手の気持ちを考えていること自体、その気持ちは本人の気持ちではないのだから。


 だから、気持ちの齟齬なんて、あって当たり前で、相手が私の気持ちをどう思おうなんて、そんなことはどうでもいいのだ。


 私は私の気持ちを見つめて、それに嘘を吐かないように行動していればいい。


 父は私の機嫌を損ねてしまったと思ったのか、早々に朝食を食べて、出勤の準備をする。土曜日だというのにご苦労なこった。


 ママが父のネクタイを整える。


 腹立たしい。


 この感情は嫉妬だ。


 こんな父如きに嫉妬するとは。


 私が男だったら、ママを寝取っていた。


 ママの時が止まる前に。


 時が止まる?


 なんのことだろう。


 私は自分の運命を知っていて、それを今眺めているような、そんな感じ。


 似たような感じは私は何度か感じたことがある。


 デジャヴを見た時と同じだ。


 そう。これはデジャヴと全く同質のもの。


 そして、それはデジャヴよりも鮮明なもの。


「ほら、楽夢も早く準備しないとね。ウニヴァに行くのには三時間はかかるんだから。」


 電車で行けば二時間だが、車で行けば三時間である。


 電車で行ってもいいのだが、ママは車の運転が好きだ。昨日の買い物の時も、車の中でニコニコしていた。


 私は運転の上手さは分からないが、多分、ママの運転は上手ではないと思う。下手の横好き、とでもいうのだろうか。


 好きだったら、上手い下手なんて、どうでもいいや。


 ママの運転を見ていると、そんな、温かい気持ちになってくる。


 ママは私の荒んだ心に優しさの泉を湧き上がらせてくれる、私の女神なのだ。




 ふと、目が覚める。


 どうやら私は眠ってしまっていたようだ。


 ここは車の中だ。


 木々が周りにたくさんある。


 高いところのようだ。


 山の先端が窓から見える。


 ブーン。


 車が速いスピードで走る時の音がしている。


 私はママを見る。


 ご機嫌な様子で、鼻歌を歌っている。


 私はママから目を逸らし、スピードメーターを見る。


 時速は八十キロ。


 法定速度はしっかりと守っている。


 なのに、なのに。


 不安が、いや、不安をもっと濃くしたような感情がどんどん、どんどん湧き上がってくる。


 気が遠くなるような気がする。


 気分が悪い。


 ただ単に、車酔いしただけだろうと思って、フロントガラスから景色を見る。


 あれ?


 これは・・・


 そう。これは何度も何度も見た。


 いや、違う。


 何度も何度も思い出していた景色。


 トンネルが近づいてくる。


 ダメ!


 ママ、ダメ!


 このトンネルに入ったら、もう私たちは一緒にいられなくなる。


 どうして声が出ないの?


 どうして体が動かないの?


 暗くなる周りによって、フロントガラスに私の像が映る。


 でも、その像は私の姿ではない。


『そう。君は過去の幻影を見ているにしか過ぎない。過去は誰にも変えられない。それは君が一番知っているはずだ。』


 その像は野原百合だった。


『それゆえ、君が意識的にせよ、無意識にせよ、過去は変えられないと分かっているから、君は幻想の中でも過去を変えられないんだ。』


 その時がどんどん近づいてくる。


 なのに、私はなにもできないというのか。ママを救うことはできないというのか。


『君は過去にとらわれ過ぎている。君のしようとしている選択は、君の可能性を狭めようとしている。その可能性は、驚くほど少ない。だから、ボクは君を見ていられない。君はとてつもない奇跡を起こすほどの、素晴らしい可能性を秘めているんだ。四月に雪を降らせるほどの。だから、ボクは君によく考えてほしかった。』


 その時は来た。


 その時は驚くほど静かだった。


 そう、それはそうなるのが当たり前のように。


 私は一瞬にして光を失った。




 目が覚めた時、私の隣にママが眠っていた。


 その時、私はママがすぐにでも目覚めるものだと信じて疑わなかった。


 でも、それからママは目を開けることはなかった。


 今でもママの目は閉じたままである。


 その時のまま、何も変わらない。


 まるで、ただ眠っているだけのような顔をしている。


 ママの横で誰かが泣いている。


 父だ。


 父は私が目を覚ましたことにかまわず、ママの手を握って、泣いていた。


 本当に父は私のことなんかどうでも良かったんだな、と実感した瞬間だった。




 私は後から医師に聞かされた。


 私はかなりの重体で、目を覚ます見込みがなかったこと。


 ママは私に比べると全然大丈夫な方だったので、病院に運ばれてすぐに目を覚ましたこと。


 私の容体を見て嘆き悲しんだママは、再び眠りに落ちたこと。


 そして、今まで一度も目覚めていないこと。


 ママと入れ替わるように、私が目覚めたこと。


 私が目覚めることが出来た原因は不明なこと。




 ママの時間は止まった。


 人は寝ていても、怪我や病気であっても、成長することを止めない。


 でも、ママの体はそれを止めてしまった。


 一定の心拍数、一定の血圧、一定の容体のまま、二年間、眠り続けている。


 そして、私の時も止まった。


 私はあの時から、少しも成長していない。


 容体も、あの時のままだ。


 お腹も空かないが、食べている。


 食べても満腹感も空腹感も、満足感もない。


 ただ、食べ物が通り抜けていくような感じだ。


 ママは眠ったままになった。


 そして、私は眠れないままになった。


 ママが私の代わりに眠っているように思った。


 それは、ちょっぴり、うれしかった。




 頬に温もりを感じる。


 心休まる温もり。


 懐かしい感触。


 誰かが私の頭を撫でているのが分かる。


 これもまた、懐かしい。


 まるで羽毛のような撫で方。


 これは、そう、これは・・・


「ママ?」


「おはよう。」


 男の子のような、でもやっぱり女の子のような声が聞こえる。


「百合か。」


 私は百合の膝に頭を載せて寝ていた。


「おかえり、って言った方がいいかな。君なら帰ってこれるとは思っていたけど。」


 ああ、そう。


 そう言って、私は体を起こす。


 公園のベンチで横たわっていたようだ。


 百合の方を見る。


 百合の帽子には雪が積もっている。


 私の制服にも積もっていた。


「ボクは君が初めから帰ってこれることが分かっていた。帰ってくるための鍵は、未来に向かって進む意志だった。君は幻想に送る前からそれを持っているのは分かった。」


 百合はどうみても寒そうな姿である。


 雪が降り積もるほどこうやっていたのだろうか。


 私は一体、どのくらいの時間眠っていたのか。


「君はどうするんだい?君は母親を助けるために奇跡の可能性を無駄にするのかい?」


 そんなの決まっている。


「私はママを助ける。」


 そうだよね、と百合はつぶやいた。


「ボクは君を過去から解き放った。そして、今の君の選択は、自分が本当にしたいことだ。君は自分を犠牲にして、母親を、ペルセポネを助けるのかい?それが君の選択かい?」


 百合は必死に私の決断を否定しようとしていた。


 それはまるで、現実から逃げ出したいと思っているような、そんな印象を私に与えた。


「私のやりたいことだから。自分で決めたことだから。」


 そうだよね、と百合は再びつぶやく。


「そろそろお見舞いに行く時間じゃないのかい?」


 そう言われて、私はスカートのポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。


 教室を出る時間だった。


「あなたはそんな格好で・・・」


「ほら、急いだ急いだ。」


 百合は私の言葉を遮り、私の背を叩いて、早く行け、と促す。


 私がこの公園に来たのは昼休みだ。


 それから今まで、四時間は経っている。


 百合・・・あなたは・・・


「ちょっと待てくれ。」


 百合は去ろうとする私を呼び止める。


「本当は言うつもりはなかったんだけど、言うよ。」


 百合は唾を飲んだようだった。


「君のその選択の結末は、君とペルセポネが一緒に笑っている結末はない。」


 それでもかまわない。


 百合もそれを分かっている。


 分かっているからこそ、私に言ったのだと、私は思った。


 私は百合に背を向けて歩き出す。


「君は本当に特別だね。特別なところはどこにもないけど、もしかしたら、それゆえに特別なのかもしれない。普段のボクはこんなにおしゃべりじゃないのになあ。」


 その声は風に流され、私の耳に入ることはなかった。








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