失踪、のち 3
「何か思い出したか?」
「いや、これといって。そっちは?」
「さあ、どうだろう、今思えば筋の通らないところはあった。とりあえずここが東京だと仮定してみよう」
「東京だと思うんだけどな」
「どっちでもいい。とにかくそう仮定するんだ。見ろ、まだ九時にもなってない」
そう言うと男は太郎の鼻先へ腕時計の時計盤を突きつけてきた。見れば確かに男の時計の示す時刻は九時前である。黒い時計盤で上品なデザインの時計だった。太郎の物と違ってカレンダーのようなものは見当たらない。
どういうことだろうか。同じ土地にいる二人の人間が時計の時刻を共有していない。飛行機に乗ったはいいが、時差分を修正し忘れたくらいしか太郎には思いつかない。
太郎は一先ず男の話を聞くことにした。
「いいか、ここは日本だ。しかし、俺の時計はロサンゼルス時間のままのはずだ。この時間は、パーティーと同じ日の夜ならまだ催しも終わってない時間だ。俺がパーティー会場でしこたま飲んで友人たちと馬鹿な話をしてから一時間も経っていない。俺はこんな短時間でロスから日本までやってきて、顔も名前も知らなかったあんたと飲んだくれた挙句、それまでの記憶をすっかり失くして森の中で目を覚ましたらしい。どう思う?」
「おかしい話だね。時計は合ってるのか?」
「ああ、ぱっと見ではな。少なくともホテルにいた時点では狂ってなかった。それに、ちょっとぶつけるだけで壊れるようなへぼな時計じゃない」
「なら、別の日の九時だ」
「なるほど。それなら、この時計が示しているのは、二十七日以降の九時に違いない。午後九時かもしれないし、午前九時かもしれない」
「二十七日?」
「いいから聞いてくれ。東京の方がロスより十六時間早い。ロスが朝の九時なら、東京は次の日の深夜一時だ」
ところが、太郎の時計は十一時を少し過ぎた時刻を示している。
「ロスから東京まで、そうだな、十二時間としよう。大体そのくらいだと思う。そして、俺がクリスマスパーティーで二十六日の午後九時まではロサンゼルスにいたのは間違いない」
「何日だって?」
「二十六だ」
「今日は十二月の二十八日だ、俺にとっては」
「時差だ。まあ聞け。俺がある時点で日本に行くことを思い立ったとする。そこで出発時刻と到着時刻を比べれば、移動時間と時差を合わせて二十八時間の差がついていることになる。ならば、俺が九時にパーティー会場にいたのが確実である以上、どんなに早く飛行機に乗り込んでも、東京に着いた時には東京時間で二十八日の深夜一時以降でなければならない。そうだろ?」
男は頻りに目で太郎の反応を確かめながら話し続けた。男の話では、太郎が仕事納めへ向けて自宅で眠っている間かそれより後に日本に着いたと言いたいらしい。
「俺のこの時計がロサンゼルス時間の二十六日夜九時を示しているわけでないことはさっき話したな。そもそも、ロサンゼルスでいう夜九時は東京の昼一時だ。明らかに今は昼じゃない。となると、この時計が指しているのはロサンゼルス時間の二十七日か二十八日の朝九時、つまり東京の二十八日か二十九日の深夜一時を指している可能性が高いという訳だ。ただし、ここが二十八日の東京なら俺はさっき日本に着いたことになるから考えづらい。三十日以降ならお手上げだ」
「二十九日の深夜一時か。ここが東京なら、って話だったね」
「そうだ」
「それが本当ならあんたは十二時間、もしくは三十六時間は完全に記憶が無い訳だろ。異常だ」
「ああ、異常だ。しかし、あんたが東京からロスに来た場合も、移動時間分の十二時間は意識を失ってることになるんだぞ。それはお互い様だし、今更だ」
「それは、まあ。でも、飛行機なんて便や航空会社でいくらでも時間は変わってくるだろ。八時間の便もあるかも」
「いいや、十時間は下らないだろう。搭乗手続きもあればチケットだってすぐに取れるとは限らないんだから、短くなるとは考えない方がいい。長くなる分には構わないさ。そういう問題じゃないからな。なあ、あんた、忘年会だか何だかの記憶はあるんだろ。聞かせてくれ、矛盾があるかどうか、確かめてみよう」
男は、あるかどうかと口では言っているが、どこか矛盾があると確信している様子である。太郎にはそれが何故なのかは分からなかった。それに、問題じゃないとはどういう意味なのだろうか。
彼が言っているのは細部を詰めればすぐに穴の開くような理屈だが、アプローチの仕方に間違いはない気がする。自分達の絶対に存在するはずのない時間と場所を候補から外すことで、現在の状況を同定してみよう、という話らしい。やりようによっては有望かもしれないが、それは前提が間違っていなければの話だった。
「その前に、俺の時計にはカレンダーもついてるんだけどさ、それによると今は二十八日夜の十一時だって言ってるんだ」
「俺の予想の二時間前か。なるほど、じゃあ俺はパーティー当日の深夜にロスを発ち、二十八日の昼前にでも東京へやってきたのかもしれない。そしてその日のうちにここへ来た」
「そうじゃなくて、十一時なんだ。一時でなく」
男はそれまで悩ましいような表情を浮かべて顎を擦っていたが、太郎の言いたいことが分かったようで、今はきょとんとしている。
男は自分達の時計がそれぞれの土地にいた時から弄られていないことを前提として話している。すると、妙な話になる。どう考えても二時間差になるはずがない。東京が深夜十一時の時に時計が九時を示す場所は、時差二時間分だけ西か、十四時間分だけ西の位置なのだ。もし二つの時計が合っているなら男のいたそのホテルはロサンゼルスにあるはずがないのである。
飛行機で余所に行くつもりが東京で一度降りねばならなくなった、といったような事情があったのかもしれない。どちらにせよ、一度でも時計が弄られない限りは、世界中どこをどう経由しても二人の時計は十六時間差を保ったままになるはずなのである。するとやはり、どれか一つは時計が弄られていることになる。ならば、それは恐らく太郎の時計である。太郎が日本の首都から文明の影もない山中へ瞬間移動をしたのでなければ、それしかない。
「一時の間違いだろ」
「十一時だよ、どう見ても」
「何故だ?」
「俺が知るかよ。ほれ」
二人の男が額を突き合わせ、月光を頼りに苦労して腕時計を確認する。太郎にとって見えるものは先と変わらない。相変わらず、文字盤に開いた窓には日付の表示が二十八から二十九へと変わろうとするのが見える。ふいに男の怒りのこもった視線が太郎を射竦めた。
「どう見ても十一時だな。こういうことは早く言ってくれ」
「長々と説明をしたのはあんただろ。とにかく、あんたの話はどっちの時計の時間も弄られていないのが前提だ。あんたは心神喪失状態の人間が時差を計算して腕時計の時間を直すはずがないと思ったんだろうけどさ、実際は弄られてる。これじゃロサンゼルスが中国の片田舎になっちまうぞ」
「ああ、それかニューヨークの隣だと思ってた」
冗談のつもりだろうが、二人とも笑わなかった。男は唸ったまま太郎の左手首をじっと見つめ、そこに現れている意味を必死に汲み取ろうとしているように見える。やがて、諦めたように溜め息をついた。
「あんたの言う通り、俺たちの時計のどちらか、もしくは両方とも意味の無い時刻を指しているらしい。もういいだろ、あんたの覚えていることを教えてくれ」
「俺の忘年会は二十八日だった。忘年会がお開きになった後、俺は自分の家の最寄り駅まで電車に乗ったんだ。電車から降りた時間は十時四十分だった。しょっちゅう乗る便だからよく覚えてる」
「まさか午前の話じゃないよな。日本では朝から酒を飲むのか?」
「そんなはずないだろ。昼間は仕事をして、その後皆で飲んで、夜中の十時四十分に電車を降りたんだ。昼間はあんたと会ってる暇もないし、その間の記憶もちゃんとある。ほら、カレンダーの日付も変わりそうだし」
「じゃあ今の時刻はそれ以降で間違いないのか」
「まあ。でも俺の時計を見れば」
「数分前じゃないか」
「そうなんだよ、困ったことに」
男が信じられないものを見たような目で太郎のことを見てきた。確かに暢気だったかもしれないが、もっと変なことも起こっているのだから誰だって多少のことで驚かなくもなる。それに、この男の使った理屈でいけば説明出来ないこともないのである。
「そんな目で見るなよ。俺だって事ここに至って自分の記憶に拘ったりしないって」
「俺たちがたった数分前に出会って突然ここへ移動するなんてあり得ないだろ。弄られた時計は、確実にそっちだ」
「分かってる。だから、俺自身は信じられないけど、俺がどこか南米にでも行くつもりがロサンゼルスで降りちゃったのか、ここは東京で何の用も無いのに俺が時計を弄ったか、どちらかだと思う」
男は太郎をじっと見つめたまま何も言わない。太郎も変な事を言っているのは自覚しているが、彼は口を挟まず話を聞いてくれるらしい。
「今度はここがロサンゼルスとして考えてみよう。俺がロサンゼルスまで十二時間で行けば、時差との差分で、到着時には四時間だけ時計の針が戻ってる。忘年会があったから、今がロサンゼルス時間で二十八日の夜七時以降なのは間違いない。あんたの時計が正しいとして、直近の九時は同じ日の夜。俺はアメリカの交通事情は分からないけど、ロサンゼルスから二時間でこの場所へ来たのかもしれない。それが難しいなら、今は二十九日の九時の可能性が高い。三十日以降がお手上げなのはこの場合も同じ」
「なるほど」
「一番見込みがあるのはロサンゼルスの二十八日夜九時だと思う。記憶を失ってた時間が短いからね。それにしたって、あんたは少なくとも丸ごと二日分の記憶を失い、俺は半日と少しの記憶を失ったことになる。地球の反対側で、二人の人間がこれほど長い間記憶喪失にかかり、ここで偶然出会った。どう思う?」
「現実的じゃないな」
「あんたの言った空白の三十六時間も似たようなもんだよ」
「俺が言った記憶喪失十二時間コースの方ならどうだ?ここが東京で二十八日の深夜一時だというのは」
「それだと俺は時間を遡らなくちゃいけない。流石に、俺の同僚や予約してた居酒屋のスタッフまで全員が全員二十八日だと思ってたけど実は前日でしたってのも無茶がある」
「そうか、そうだったな」
「しかし、そうなると結局どういうことなのかさっぱり分からない」
男の反応を確かめるために太郎が目を遣ると、男はなんだか妙な目付きで太郎の方を見つめていた。太郎にしても、自分も同じような顔で男の方を見返しているのかもしれないと感じた。ここが東京とロサンゼルスのどちらと仮定しても、筋の通った説明をするためにはあまりに不自然な点を飲みこまなければならない。
「なあ、あんた。普通の生活をしている健康な身体を持った人間が、寝てた訳でもないのにそんな長い間の記憶を全く失ってるなんて、どう考えてもおかしい」
太郎にそう言われた後も、男は太郎の言っていることを噛みしめるようにじっと太郎を見つめ続けた。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「そうだな。記憶の確かな所から推論を重ねていけば、どうしても無理が出る。東京とロスは俺たちが酔っ払った偶然で出会うには離れすぎている。つまり、俺たちのどちらかが嘘をついているということだ」
「急に何を言い出すんだよ」
「そうだな。悪かった」
「記憶が無いのに嘘も何もないだろ」
「辞めよう、余りに不毛だ」
「俺たちはお互い酔ってた。だから酔い潰れたついでに旅行したってのがある意味自然だったけど、他に何かあったんだ」
「例えば?」
「あんた、実はファイトクラブとかやってないだろうね」
「映画の話か?あれは不眠症かと思ったら二重人格だったってオチだろ。普通の生活をしている健康な人間はどこにいった」
「あんたの頭に血が溜まっていたとしたらどう?そういう男の話を聞いた事がある」
「どんなだ」
「こんな感じだ。車で事故を起こした男がいた。幸運なことに派手な怪我が一つも無かった。それから彼が普通に生活していたところ、数日後に突然倒れて病院に担ぎ込まれた。調べてみれば、頭に溜まった血が脳を押しつぶしてたんだ。手術で血を抜いて男が目覚めると、そいつが覚えていたのは事故の瞬間までだった。つまり、事故からそれまで数日間の記憶を全く失ってたらしい。どう?俺たちに似てない?」
「あんたにそういう心当たりがあるのか?」
「無いよ。ま、そんな人間が二人も揃うのは変だね。じゃあ、ここがロサンゼルスか東京のどちらかだっていう前提がおかしいんだ」
これまでは二人のうち一方はいつも通りの生活の延長上に現在がある前提で話し合っていた。もっと言えば、暗にそれが自分であることを期待していた。しかし、今やその可能性は薄くなってしまったのだ。
「でなきゃ俺たちの感覚に反するからそうしたんだ。そうなればいよいよ偶然の助けは得られない」
「確かに、この場合、俺たちが偶々ここにいるのはおかしい。意図を持ってここに来たけど、事故か何かがあって、その記憶すら失ったのかもしれない。とすると、ニューヨークみたいにどこか中間地点で出会った可能性は?腰を据えて計算しないとちょっと思い浮かばないけど、時差の条件に合う場所は必ずあるだろ」
「あるかないかで言えば、あるかもな。それに意味があるのかどうかは別として。ただ、ニューヨークではない」
「なんで?」
「大体考えてみろ、真冬のニューヨークなら今頃こんな議論している暇はない。答えが分かる前に凍え死ぬに決まっているからだ」
そこで太郎ははたと気が付いた。自分は今、上着も着てなければ、何の防寒具も身につけていない。コートだのマフラーだのは全部神社の境内に転がしたまま消えてしまった。太郎たちが今いる場所では何ら寒さを感じなかったために気付くのが遅れたが、もしここが日本なら、年越し直前でこの恰好で済むのは妙なことである。
「やけに暖かいな」
「のんびり尻を出してただろうが、何を今更」
「あんただけはひとのこと言えないだろ」
「お互い辛いから言うな」
そこで男がむくりと顔を上げた。
「東京って、この季節でも上着無しで過ごせるほど暖かいのか?」
「まさか。一晩で凍死まではいかないだろうけど、絶対に風邪は引くね。実際、記憶を失くす直前までは寒さと飲み過ぎで腹を下してたんだ。そっちは?」
「ロスだってそうだ。たまに一晩くらいはこういう日があるかもしれないが、珍しい」
「そっか。じゃあ、決まりだ。俺たちがいるのは、東京でも、ロサンゼルスでもない」
ならば、ここは一体どこなのか。自分達が置かれたこの状態は一体何なのか。自分たちがここまでやってきたのにどんな経緯があったのか。結局、分からないことだらけである。
しかし、太郎はつい口元をほころばせてしまった。こんな簡単なことに気付かなかった自分の抜けっぷりに腹は立つが、全き謎だった今の状態が、ほんの少しだけ良い方に転がったことが素直に喜ばしかった。
男の反応は静かなもので、長い溜め息を一つついて項垂れてしまった。まるで始めから答えが分かっているにも関わらず、それが信じられないような様子だった。
「そうだろうな。例えばメキシコシティなんかに行けばいい。あそこなら気候も温暖だし、俺たちの時計の時差も十四時間ほどになるだろう。だが、これが何を意味するか分かっているのか?今やこの場所や日付に意味は無い」
「なんでまた」
「あんたはどうやって自分がここに来たと思うんだ?」
「さあ。でも、何かびっくりするような偶然が起きたんじゃない?」
「賭けてもいいが、どんな偶然であれ、俺もそこにいなきゃいけない理由は一つもない」
「じゃあ、偶然じゃないって言いたいのか?誰かが俺たちを誘拐でもしたってのかよ」
男は太郎の態度を見、額に手を当てて俯いてしまった。太郎が何か失言でも言ったのだろうか。そうでなきゃかなり失礼な奴である。
「あんたがとんでもなく暢気な奴だというのは分かった。それだけ分かれば十分だ。じゃあ、今度はそれを話し合おうか」
「その前に、そろそろあんたで呼び合うのは不便じゃない?」
「そうか?ああ、それもそうだな、長い付き合いになりそうだし」
「縁起でもない。俺、太郎って言うんだけど」
「タロー、タローか。俺はセオドア、テオでいい」
「改めてよろしく、テオ」
「よろしく」
どちらともなく右手を差し出して二人は握手を交わした。太郎は、この男との気まずい出会いをふと思い出した。なんとも形容しづらい第一印象も今では少し変わっている。
理知的だが、状況への不満を微塵も隠そうともしない、力強く色鮮やかな青色の瞳。浅黒い肌に、挑発的な目元と鼻筋。酷薄そうな薄い唇。表情や輪郭には隠し切れない気性の激しさが現れていた。仕立てのいい服を着た若い美男子ではあるが、そのふてぶてしさといったら自分を鷹だと思っている美しい雄鶏といった雰囲気である。
彼の恰好も相まってテオとの月明かりしかない森の中でのファーストコンタクトは恐怖でしかなかったが、これでもそこはかとない頼り甲斐も無くはない。変な意味ではなく、太郎とは尻と一物を見せ合った仲でもある。ただ、好むと好まざるとに関わらず、今はこの男しか頼る相手はいない。太郎自身が認めたくなくても、木の幹に腰を押し当てていたこの男だけが頼りなのである。
箱入りどもの東西見聞日記 花田次郎 @telemuch
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。箱入りどもの東西見聞日記の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます