失踪、のち 2
「取り敢えず、帰りません?なんだか酒が抜けちゃったし」
こうして二人でまごついていても仕方がない。なんだか嫌な予感もする。太郎はてっきり賛成が得られるものと思っていたのだが、男はなにやら歯切れの悪い反応を返してきた。
「そうしたいのは山々だが、どうしたものかな、携帯電話が無ければタクシーも呼べないし」
「俺も携帯は上着の中だったからな。ああ、失くし物のこと?俺も貴重品を丸ごと失くしちゃったけど、仕方がないよ。俺は会社の書類を持ってなかっただけ御の字だと思うことにした」
「なんなら、あんただけ先に戻ってもいい。俺はもう少し周りを探してから戻るよ」
「こんな暗いんだから別の日にした方がよくない?」
「月が明るいからなんとかなるさ」
男はそういって肩を竦めているが、初対面の人間とはいえこんな明かり一つない場所に誰かを置いていくのも気が咎めるし、第一太郎にはどう帰ったものか見当もつかない。面倒だとは思うが太郎は男の手伝いを申し出ることにした。そして自分はこっち、あなたはあっちなどと言い合い、手分けして周囲を探ることにした。運良く誰かから電話がかかってきてくれれば暗闇の中でもそれと知れるのに、そう都合よくもいかなかった。
二人は地面を覆って厚く敷かれた落ち葉を足先で引っくり返し続けた。黙って足と目を動かしている最中も、頭の中は疑問で一杯だった。例えば、さっきから否が上でも目に入る、傍らの巨木である。神社に植わっていたと思った銀杏の木も確かに立派だったが、この大木ほどではなかった。十人も手を繋げば幹をぐるりと一周できるだろうか。それほど大きいのである。太郎は木の種類に特別詳しい訳ではないが、葉の形は典型的な広葉樹のそれなので明らかに銀杏ではない。初めから意識に入ってなかったならともかく、いくら酔っていたからといってこんな錯覚の仕方をするだろうか。それに、二人のいる場所は小さな空き地というか、この巨木の幹とその周りを囲った藪との間にできた隙間といった空間で、自分たちがこの深い藪のどこから分け入ってこの場へやってきたのかも分からない。
結局、何も見つからなかった。それどころか、周囲の藪を通して目を細めてみても人工物の明かりや建物の影形すら見当たらない。自分達の他に人のいる気配は全くしないし、誰かがいた痕跡すらない。
気付けば二人は傍らの巨木を一周して元の位置に戻っていた。
「無かったね」
「付き合ってもらってありがとう」
「いいよ。帰ってから警察に届けるのがいいね。財布の中身は抜かれてるかもしれないけど、運が良かったら全部返ってくるさ」
「あまり期待できないが、祈るしかないか」
「どこかに寄ったにしても、寄った場所さえ覚えてればなあ」
「あんたも覚えてないのか」
二人でいくら唸っても、太郎にはそれらしい記憶が欠片も浮かんでこない。そしてそれは相手も同じらしい。これ以上は考えても仕方がない。
「しかし、とんでもない所まで来ちゃったな」
「ああ。実は、ここがどこだかも分からないんだ。さっきから世話になって悪いが、帰り道を案内してくれないか?」
「済まん。俺も覚えてなくて」
「覚えているような口振りだったじゃないか」
「あんたが覚えてないかなと思ってたんだよ。こうなったらさっさと帰るに越した事ないだろ」
男は天を仰いで顔を手で覆ってしまった。太郎だけのせいではないとはいえ、こう嘆かれると申し訳ない気がしてくる。
「期待させて悪いけど、そもそも、俺たちがどこでどう出会ったのかも知らない。失礼かもしれないけど、俺からしてみれば、ここに来てあんたが急にぽんと現れたようなもんなんだ」
「それは俺も同じだ。それでもホテルを出る所までは一緒にいたはずだ。そうだ、その記憶が無いということは、ホテルから出る前にもうぐでんぐでんに酔っ払っていたに違いない」
「ホテル?」
「ああ。ホテルの別の会場で忘年会だかをやっていたんだろ?」
「いや、練馬の居酒屋だけど」
「練馬?ロスにそんな呼び方の場所なんてあったか?」
この外国人は何を言っているのだろう。太郎にはホテルに入った覚えもなければロスとやらに行ったこともないし、練馬とロスの繋がりも見えない。ロスとは一体何なのだろうか。
男も男で怪訝な表情で太郎を見つめている。太郎としては心外なことに、男も同じような感想を太郎に対して抱いているらしい。
「じゃあ、その練馬ってのはどこだ?そこから逆算できるかもしれない」
「練馬は練馬じゃないの?まずロスって何よ」
「は?」
今度は二人とも狐に化かされでもしたような間抜け面を突き合わせた。
「ロスは、ロサンゼルスだろう」
「はあ?なんでロサンゼルスに練馬区があるんだよ」
「区だと?ロサンゼルスに練馬区なんて場所は聞いたことがない」
「そりゃそうだろ。練馬区って言ったら東京都練馬区のことだもの」
男は太郎の言葉を聞いてぎょっと目を剥いたまま固まってしまった。
「ここは、アメリカ、カリフォルニア州の、あのロサンゼルスだ」
「待て待て、ここは日本だ。大丈夫かよ、あんた」
「まだ酔ってるのか?」
「もうすっかり素面だよ」
「それなら、なんで同じ場所にここがアメリカだと言い張る人間と日本だと言い張る人間がいるんだ?」
「おい、しっかりしてくれよ。まさかここに来る前に車にでも轢かれてるんじゃないか?」
「なんでまた」
「いや、だいぶ記憶が飛んでるみたいだから」
「俺がおかしくなっていると言いたいのか?」
「そこまでは言わないけどさ。俺がいくら酔ってたとしても、酔った勢いでロサンゼルスまで飛ぶなんてあり得ないって」
「そうだ、あり得ない。俺にとっても、あんたにとっても」
「どういうことだ?」
太郎がそう訊ねるのにも答えず、男は指を顎に当てて思案顔をしたまま黙りこくってしまった。太郎が巨木の根株に腰を預けると、男も何も言わず胡坐をかいて腰を下ろした。
男が口を開かなければ話にならないので、太郎も自分の記憶を再度検めてみた。その気になって考えてみれば、幾つかおかしな所もある。
太郎が腕時計を確かめてみると現在は夜中の十一時十分頃であるらしい。文字盤に開いた日付の窓には、二十八から二十九へ移り変わろうとする二つの数字が見える。これは太郎が神社にいたはずの時刻とそう変わらない。
神社に入ったつもりが、偶々都会の喧騒が届かない雑木林の窪地に入ってしまったのだろうか?太郎がポケットに手を突っ込んでみれば、そこには三枚のお札がしっかりと入っている。つまり、神社には訪れているはずなのである。ならば神社を訪れた後にここへ移動したのだろうが、果たして、都内の神社にいた自分が、どこか山中としか言えない場所へほんの数分で移動することなどあるだろうか。秒針がちゃんと動いているので時計が壊れているということもない。もしや、おかしいことを言っているのは自分の方なのだろうか。
よくよく思い返せば、過去に酔い過ぎた時の感覚と、今の太郎が感じているものは全く違うものだった。酔いなど憑き物の落ちたように吹き飛んでしまっているし、酒を飲んだ後にこれほど突然醒めてしまうような酔い方はしたことがない。
太郎が考え事に頭を巡らせていると、男の目元に一瞬だけ剣呑な輝きを見た気がした。しかし、再び口を開いた男の表情は平素なものだった。
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