箱入りどもの東西見聞日記

花田次郎

失踪、のち

失踪、のち 1

「うん?」


 太郎が、少し用があって寄った神社の片隅で起こったことである。大層立派な銀杏の木へ向けて尻を剥き出しにしてかがんだ直後、ふと違和感が太郎を襲った。


 はて、何かおかしい。俺の目の前にはお稲荷さんの小さな社があったはずだ。

 いくら酔っていたとはいえ、高まる便意に急かされていたとはいえ、目の前の社が突然どこかへ消えてしまうのは少しおかしい。月の明るい晩である。社と銀杏の木に挟まれた暗がりだったからこそ、こうして太郎はすぐ先の未来で待つ開放感へ向けて尻を突き出しているのである。右手にはつい先ほど尻拭き紙の代わりとするために社から失敬したお札が握られている。


 酒の入ってうまく回らない頭を必死に働かせてみる。

 太郎は酒を飲むと腹を下すタチだ。今日は忘年会で、飲んでいるうちに気が大きくなって普段より多くジョッキを空けた。案の定、帰り道で気分よく歩いているうちに腹が痛くなってきた。冷や汗を浮かべながらコンビニへ駆け込んだが、運の悪いことに客用のトイレがどうしても見つからない。とんでもない美人で親切な客から唐突に、ここにトイレはありませんよと告げられ、何も買わずに急いでコンビニを飛び出した。手まで振られて送り出されたのは思い出しても恥ずかしいが、顔に出ていたのだろう。それほどの危機だった。


 自宅まではまだだいぶ歩かなければならない。そこで公園の入り口が見えた。記憶では公衆便所もなければ人目を避けて事に及べる場所も無かったはずだが、下腹部の方は限界だった。ここで覚悟を決めるべきかどうか太郎は考えた。しかし入り口から様子を窺ってみれば、暗闇の中、中学生らしき子供たちがベンチに並んで無言でゲーム機をいじっている。急いで公園を通り過ぎた。


 そして遂に、月に照らされて闇夜に鳥居が浮かんでいるのが見えた。そこからはもう何も考えずに走った。油断なく、足音の立たないよう、腹に余計な負担のかからないように抜き足差し足で走った。脂汗で眼鏡がずれるのを頻りに直し、灯り一つない境内を右に左に目を向けて最適な物陰を探り、敷地の端にちょっと大きい犬小屋みたいな影を見つけた。あれは絶対に社務所でも物置でもない、社殿でもないなら人が頻繁に訪れるはずもない。そのお稲荷さんの裏側へ向けて歯を食いしばってひょこひょこと走っていると、社の正面に矢鱈と貼られているお札が目に入った。


 そうだ、紙。様々な想念がアルコールの入って冷静さを失った頭に渦巻いた。最悪、御手水を使わせてもらえば、いや、それは流石にまずい、ならば境内の玉砂利で擦れば、いや、俺の尻が耐えられまい。やがて、はたと気付いた。紙なら目の前にあるではないか。少しでも発覚を遅らせるため、数が減ったのが目立たないように一枚ずつ間に置いてお札を頂戴し、最後に人生最大の信心でもって手を合わせ、社の後ろへ駆け込む。ジャケットと上着を放り捨てて息を詰め、震える指先でベルトを外す。下着ごとスラックスを膝まで勢いよく下ろす。油断せずにまだ息は吐かない。遂に期待感を膨らませながら腰を下ろした。


 そして今。顔を上げれば不気味な雑木林が、月影も鮮やかに目の前を覆っていた。さっきまで自身を苛んでいた便意などどこかへ吹き飛んでしまっていた。


「はん?」


 どれほどそうしていたのだろうか。太郎が腰を下ろしながら呆然としていると、すぐ後ろから他人の声が聞こえた。びくりと跳ね上がりそうになるのを堪え、左肩ごしに振り返ってみると、いつの間にか一人の若い男が太郎の背後の木の傍らに立っていた。解いたネクタイを首にかけて仕立ての良さそうなシャツの胸襟を大きく開き、ズボンを下着ごと一番下までずりさげたままという、とんでもない姿で立っていた。駄目押しに、両手で木の幹をがっしと掴み、裸の腰を木の股へ向かって突き出しているところだった。


 互いの視線がはたとぶつかり、戸惑いながらも下へ向かった。両者の剥き出しの下半身が月明りに冴え冴えと浮かび上がっていた。


「あー、はぁ、あー、んん、なるほど、うん」


 男が何やら呟いていたが、二人はどちらともなく気まずげに視線を外してズボンを上げた。太郎が手に握っていたお札は急いでポケットの奥へ突っ込んだ。ベルトを締め直したりシャツをズボンに突っ込んだり、さも忙しいかのように振舞いながら互いに相手の様子を探っては、また視線がぶつかってぎこちない笑みを交わしたりしていた。太郎は恥ずかしさで相手の目をまともに見られなかったが、取りあえずは人と会えて安心していた。


 多分、酔い過ぎて自分で訳も分からずに知らない場所へ迷いこんでしまったんだろう。狐に化かされた気分だが、不幸中の幸いか腹痛も鳴りを潜めている。この分ならすぐに家へ帰れそうだ。どうせこの人も知らない人だ、これも明日になれば笑える思い出になっているさ、とこんなことを考えていた。


 そう思えば、この見知らぬ男に話しかける勇気が出てきた。こんな夜中に人気のない場所で股間を木の股に突き立てていたのだから極めて不審な人物に違いないが、顔を真っ赤にして弱っているのを見ると、妙な親近感まで湧いてくる。金髪の白人だから外国人だろうが、さっきの呟きから察するに日本語もある程度は通じるはずである。


「あの、失礼」

「ああ!どうも、酔い過ぎたらしくて、これは見苦しい所を」

「ははは、お互い様です」

「ははは、それもそうだ、ここはお互い秘密ということにしましょうよ」

「ええ、僕も酔っぱらっていましたし」

「ああ、それはどうも。それで失礼ですが、私たちは一緒に飲んでいたのでしょうか?」


 太郎からすれば、そんな記憶はない。神社で尻を剥いたと思ったら雑木林で尻を出していたのである。しかし、かなり酔っていたのは事実で、どこかの時点で記憶が混濁したかと言われれば、さもありなんと思ってしまうくらいには酔っていた。しかし驚いた拍子に酔いも醒めたのか、今は清々しいほど頭が冴えている。


「すいません、今さっき僕も酔いが醒めたようで、それらしい記憶が全く無いんです」

「そうですか、私もです。困ったな、パーティー会場、ではなさそうですけど」

「はは、どう見ても雑木林ですね」

 太郎がそう言って笑うと、男は不安そうな目で太郎を見つめてきた。

「失礼、パーティーに招待された方ですか?」

「パーティー?や、忘年会帰りです」

「クリスマスパーティーでなく?」

「ええ」

「参った。何をやってるんだ俺は」


 男は一つ悪態をつくと、腕時計を見ながら唸り始めた。そして何かを思い出したように顔を上げると、今度は焦った様子で自分の着ているものをばたばたと叩き始めた。


「無い。携帯電話も財布もない。指環は着けてる。時計も」


 男の呟きを聞いて、太郎の頭もさっと冷えた。暗い中で月明りを頼りに地面に視線を走らせた。記憶では地面に放り投げておいた上着が、どこにも見つからない。目を一杯に広げてそれらしい影を探したが、木の根や落ち葉が見えるだけである。藪に引っ掛かっている訳でもない。影も形も無い。もしやどこかに置いてきたか、それとも誰かに持っていかれたか。そこで嫌な予感がして男の方を見てみれば、彼は彼で、悄然とした様子で太郎へ疑いの目を向けていた。


「一応訊ねるけど、あんた中国人か? 小金ならくれてやるから俺の携帯電話を持ってるならすぐに返せ」

「日本人だよ。なんだその言い草。俺が中国人だったとしても失礼だろ」

「物取りしようとした所を俺が正気に戻ってバレそうになったから誤魔化してるんじゃないだろうな。こんな場所でズボンを下ろしているなんて、怪しい奴だと自分から言っているようなものだ」

「三分前の自分を忘れたのかよ。あんたこそ盗ってないだろうな」

「俺がそんな人品卑しい人間に見えるか!大人しく出せば警察にも、いや待て。あんた、ちょっと俺を身体検査してみてくれ。俺には何も後ろめたいことはないぞ。ほら、どうだ」


 太郎が胡乱げな目を向けていると、男はさっさとやれと言わんばかりに手で煽る。男の身体から出てきた物と言えば車のキーと何かの番号札だけである。今度は太郎が両手を上げ、男が太郎の身体をまさぐる。出てきた物は、毎日身につけている腕時計の他、口臭予防のミントタブレットと尻拭き紙になるはずだったお札、そして尻ポケットに入れていた皺だらけのハンカチ一枚だった。やはり太郎の貴重品も上着と共にどこかへ消えていたのである。


「疑って済まなかった。やはりどこかへ落としてきたのかもしれない。物取りなら俺の指環や時計を見逃すはずないもんな」

「なんだ、結局酔っ払ってたのか、俺たち」

「どうかな。そうだと思うが」


 男は訳が分からないといった様子で頭を掻いている。この男の様子を見ても、太郎には彼が全くこの場の状況を把握できていないように思われた。

 太郎にしても、何があって自分が今ここにいるのかどうも釈然としなかった。太郎には、ほんの一瞬、外界から意識を逸らした間に周囲の状況が丸っきり変化していたように感じられたのである。何かあったのだろうと思うが、不自然に冴えた頭をいくら捻っても自分のここ数分の記憶には何の隙間も無い。男の様子からも何の糸口も見つからない。第一、今の今まで全く知らなかった人間である。


 ならば、この変態男と二人で人気のない場所にいるこの状況はどういうことだろうか。

 太郎は背中に薄ら寒いものを感じ始めていたが、同時にこの状況を信じきれないような、何か大したことのない理由でちょっとだけ道を外れてしまっただけだという気分も感じていた。

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