正義の味方は、三匹のサルとは仲が悪い

桑ケ谷える

白いペンキと、宇宙人の声

『琴音ちゃんはまるで正義のヒーローみたいだね』

 なんてよく言われていたけれど、私から言わせてもらえば、どうして私の起こす行動が正義になるのかまったく理解できなかった。

 お腹がすいていたらご飯を食べる。雨が降っていたら傘をさす。ゴミ箱からゴミが溢れていたら拾って詰める。悲しんでいる人がいたら、困っている人がいたら、助ける。

 公園で苛められて泣いている子がいたら助ける。

 これって考えるまでもなく当たり前のことで、この行為に正しいなんて称号をつけたりしないでしょう? って。

(ダイエットがしたい?)(たまには濡れて帰りたい?)(めんどうくさい?)

(──泣いている人を見るのが好き?)

 小さいときの私はそんな考えを持つ人がいるなんて気付いていなかったけれど、それでも自分の起こす行動が正しいだなんて思ったことは一度としてなかった。ただ当然のことをしていただけで、当たり前だとも意識していない、決まりきった反射行動みたいに。

『ぼくは心配だな』

 泣きながら、俊平がそう呟いたことは覚えている。

『正義のヒーローってね、いつか必ず悪にやられちゃうんだ。勝ち続けることの出来るヒーローって絶対にいないんだ。琴音ちゃんにその時が来たとき、どうなっちゃうのかなって……』

 私は今でも自分のことを正義の味方だなんて思っていないけれど。

 俊平の心配は、まあ、当たってはいた。


 前日に見たテレビの影響だとは思うけれど、立ち寄ったコンビニで募金箱を見つけた私は、いつもより少し多めの硬貨を箱に入れた。夕方の藤沢駅前は人で混み合っている。冷えたコーラを飲みながら、JRの改札前で友達を待っていた。人の流れをなんともなしに眺めながら、空っぽになったペットボトルを自動販売機脇のゴミ箱に捨てようとして。

 その横に、一人のお婆さんが座っていた。壁に背を預け、足はだらしなく伸ばして。長い白髪はぼさぼさでほとんど顔も見えず、髪の隙間から覗く肌は汚れきっていた。黒い上下のスウェットは土ぼこりやらなにやらでボロボロで、ところどころに穴が開いている。靴は履いていなかった。

 お婆さんは黙々と、わき目も降らず、二本の棒針と赤い毛糸で何かを編んでいた。

(──ホームレスだ)

 しかも女性の。私はその時はじめてホームレスの存在を認識した。

 そして昨日見たテレビ番組を思い出した。日本から遠いどこかの国の、子供たちが勉強もできず働いて。貧しい生活を、それでも笑顔で。沢山の兄弟ともに、私たちに出来ることは何か。

 だから私はコンビニで募金をして。

 このホームレスの人に何が出来るんだろうと思った。

「あ、あの──」

 私はお婆さんに声をかけたけれど、お婆さんは私の存在なんてまったく認識してないみたいに、一心不乱とでもいう様に編み物を続けていた。

「あ、あの──すみません、何か、お困りですか?」

「うるさいよっ!!」

 突然、私なんかの声より何倍もうるさい声でおばあさんが声を上げた。私はびっくりして肩をすくませて──ぐい、と横から腕を引っ張られた。

 俊平だった。

 私の右腕を引っ張って、早足に私を連れ去ろうとする。

「ちょ、痛い、なに──」

「いいから来るんだ」

 怒ったような声で言われてしまって、私はただついてくしかなかった。

 お婆さんは最後まで私のことなんか見ていなくて──なにより恐ろしいのは、藤沢駅前の人の行き交う改札前で、誰もお婆さんのことをみていなかったことだ。

「琴音。それはだめだよ」

 人混みを通り抜けて、駅から少し離れたビルの隙間に私を連れ込んだ俊平は鋭い声で言った。

「自分の価値観だけで、他人を決め付けちゃ駄目だ。あのお婆さんは困ってなんかない、君の助けなんていらないんだよ」

 それはおかしいと思った。この日本で、カピパラが温泉に浸かるだけで全国ニュースになってしまう国で、駅前であんな格好してる人が困ってないわけ──

「……じゃああのお婆さんが衣食住に困っていますって言ったらどうするつもりだったんだ? 君にその用意が出来るの? 出来ないよね。それとも野良猫に餌を与えるみたいにパンでも買ってはいおしまい、にでもする? あの人は物乞いじゃないんだよ。あの人はね、今そこらを歩いているサラリーマンと変わらない、只の他人に過ぎないんだ。それに──」

 そのあとに続いた言葉に、私は何も言えなかった。

「──ホームレスなんて今日初めて見たわけでもないだろう」

 その通りだった。いくつかの駅で、見たことがあった。ぼろぼろの格好で、段ボールを敷いて、酷い悪臭をまき散らしている……男の人。

 私は今日初めて女性をみたから、それで。

「それでもなにもない。見なかったことにするしかないんだよ、今までみたいに」

 そして私の世界から悲劇が消えた。

 文字通り、比喩でもなく。


 異変に気付いたのは朝のニュースを眺めているときだ。

 突然テレビ画面が真っ白になって、なんだかよくわからない機械音を発し始めたのだ。

 放送事故かなあと呑気に考えながら洗面所に行き顔を洗ってリビングに戻ってくると、テレビにはどこかの田舎の有名なお祭りが開催されるとのことで、アナウンサーが住民と一緒に踊っている映像が流れていた。

 それからもぐもぐと朝食を食べながらテレビを眺めていると。まただ。突然画面が真っ白になって、謎の機械音。ぴがーざざざ、みたいな。

「ねえこれってうちのテレビが悪いのかな」

 隣に座って食事をとる母に訊ねると、

「?これってなんのこと?」

「え、いやほら、今まさにこの状態のこと──」

「××××××××××?」

 ぼとりと、私のお箸の隙間からウインナーが零れ落ちた。

「……お、お母さん?」

「なあに?」

「え、今なんて言った……?」

「?××××××××××××??」

 母がおかしくなってしまったかと思った。

母の口から、まるで宇宙人が喋っているような、まったく聞き取れない謎の声が飛び出ていたからだ。

「どうかしたの?」

 それは私が聞きたかった。

 混乱する頭で学校に向かう道のさなか、今度は前を歩くスーツ姿のサラリーマンに異変が起こった。内ポケットに手を入れて、ああ歩きたばこか、足元にわざわざ描かれているイラストには気付かれないんですね、ここは禁止区域ですよと伝えようとしたとき。

 そのサラリーマンの姿が突然消えた。消えたというのは正確な表現じゃない……例えるなら、私の眼球に小さな小人が住んでいて、そのサラリーマンの姿だけ見えなくするために白いペンキを使って目の一部分を塗りつぶしたみたいになったのだ。

 何度瞬きしても、ぎゅっと目を瞑って涙をにじませても、そのペンキは取れなくて、私がそうこうしているうちにペンキ汚れの向こうからぽとりと、何かがアスファルトに落ちた。

 たぶん……サラリーマンの吸っていたタバコなのだろう。でも私には見えなかった。だってそれもまた、ペンキで視界が塞がれて確認なんて出来なかったんだから。


「──思春期症候群」

 私の話を聞いて、俊平はそんなことを言い出した。

「都市伝説みたいなものだよ。思春期の少年少女が発症する病気だって言われている。他人を気にするがあまり他人の心の声が聞こえるようになってしまったり、憧れの気持ちが行き過ぎてその人と人格が入れ替わってしまったり──」

 そんな馬鹿な、と昨日までの私なら思っていただろう。

「──世界の見たくないものを、見えないようにしてしまったり」

 じっと俊平に見つめられて、私は目を逸らした。別に、見たくないものがあるわけじゃないけれど。

「間違いなく、琴音は思春期症候群にかかってしまったんだよ」

 かかってしまったんだよ、と言われても……。

「どうしたらいいのかな、これ、治るのかな?」

 今日一日過ごしただけで色々不便があって困ったのだけれど。なにせ視界の一部分が突然塞がれるものだから見えないところが沢山あるし……。

「……それでいいんだよ」

 俊平は何か絞り出すような声で告げた。

「見えなくていいんだ、聞こえなくていいんだ……みんなそうやって生きてる。じきに慣れると思うよ。今の琴音の状態が、当たり前なんだから」

 こんな状態が当たり前であってたまるか。

 すると俊平は悲しそうに笑って、

「そうだね……琴音ならそう言うよね。だからたぶん、これからもっと苦しむことになると思うよ」

 それは悪魔の宣言にも聞こえた。


 そういうわけで、その日から私の世界では悲しいことがなくなった。

 ニュースで何か悲しい事故か事件か、はたまたゴジラが街に現れて破壊の限りを尽くしても、私には見えないし聞こえないのだ。通学路で学生に囲まれながら煙を吐き出す人も見えないし、母親に「死ね!」と告げられ泣いている子供の泣き声も聞こえない。輪から欠けた同級生の悪口合戦も、仲良く肩を組みながら耳元では聞くに堪えない要求をされている後輩も、なにもなにも見えない聞こえない。家で、教室で、体育の授業中に、美術室の窓の向こうにも、放課後の駅前、赤い光の射す帰り道。色々な環境で、様々な場所で、白いペンキは私の目を塗りつぶし、宇宙人の声は世界の音をかき消した。

 ──怖かった。恐ろしかった。

 俊平は見たくないものを見えないようにした、と言っていた。

でもちがう、これはそうじゃない。

これは、私が見たくなかったものが、目を逸らしたがっていたものが、はっきりとそこにあるんだぞ、と示す目印に他ならなかったのだ。

 世界はこんなにも悲しい出来事に満ちていて、私は今までそのほんの些細な場所に触れただけで満足しきっていて、本当は気付いていたのに、気付かないふりをして。

 私の存在がいかにちっぽけなものだってことを、実感させられた。

 自分が正義の味方だなんて思ったことはないけれど。

 正義の味方になりたいと思っていたのに。

 私はなんて──無力なんだろう。


 とぼとぼと道を歩く。

 往く道から宇宙人の声が聞こえて、歩みを進めるたびに宇宙人の声は大きくなる。声は小さな公園から聞こえているようだった。

遊具も置いていない狭い公園。見ればその砂場に、ペンキのかたまりが出来上がっていた。大きさからして子供が何人かいるんだと思う。おぼろげな記憶が、白ペンキの上に子供たちの姿を描きだした。小さいときから何度か見た光景だった。ただ体が大きいとか、ちょっと先に生まれたとか、連れている仲間の数が多いとか、そんな些細な理由で小さな泣いている子をいじめていいと勘違いしている集団──どこにでもあるような、気にしなくてもいい日常の光景。

だから私は通り過ぎた。あれは見なくていいものだったから。聞かなくていい声だったから。

 ──ああなのに。

『──琴音ちゃんはまるで正義のヒーローみたいだね』

 最初に言い出したのは誰だったっけ。

 なんて失礼なやつだと思った。ヒーローっていうのは普通男の子がやるもので、女の子はヒロインっていって助けてくれるカッコいいヒーローを待つ側なんだよ。

 なのにどうして私の足は動いてくれないんだろう。

『でも、ぼくにとってのヒーローは、琴音ちゃんだよ』

 ああ俊平だったかと記憶が繋がった。ぼくがヒロインをやるなんて言い出して、今では立派な男の身体になってまあ。そういえばこの間は強引に引っ張られてちょっとどきどきしたな、なんて思い出す。

『──ありがとね、琴音ちゃん』

 別にお礼を言われることじゃないんだよ。言われたいとも思ってない。当たり前の、これは体に染みついた反射行動なんだから。

 私は駆けだして──勢いそのまま、白いペンキのかたまりに向かって、まるで必殺技を叫ぶみたいに大きな声で、

「──こらっ!!」

と叫んだ。


『正義のヒーローってね、いつか必ず悪にやられちゃうんだ。勝ち続けることの出来るヒーローって絶対にいないんだ。琴音ちゃんにその時が来たとき、どうなっちゃうのかなって……』

 『……でもね、ぼくは心配してないよ』

『だってヒーローは、どんなにやられても、打ちのめされても……』


──必ず立ち上がるんだから。

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正義の味方は、三匹のサルとは仲が悪い 桑ケ谷える @l-r-wanwano

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