逆繊月は、暁に溶けて。

青葉 一華

第1話

 星が降ってくる。


 つい先程まで厚い雲に覆われていたのが嘘のように、紺青がその白さを削り取った。

 ぽつりぽつりと残された雲は、自分の存在を主張しているかのように輝きを増す。


 落ちた。


 膨らみ輝いたかと思うと次から次へと僕ら目掛けて落ちる。


 その光景に何も言わず。ただ二人、広大な空の下で。何の灯りも無く立っていた。


いつもと変わらぬこの場所で、いつもと変わらず上を見る。


 そんな夏の始まりも、今日が最後だ。夜明けを待って、目の前の君は新しい土地へと旅立つ。


「綺麗。この流星群、見れてよかった」


 なんの悲しみも見せず言う彼女に、胸が痛んだ。いつかこの日が来ることは分かっていた。だがいざその日になってみると、生まれてから十六年、いつも隣にいたその場所に君の姿はもう無くなる。その事実が奥へ閉まった君への想いを煽動させた。


 じわりと痛みが熱を持っていく。

 だが泣くわけにも、引き止めるわけにもいかない。


 町の皆に知られたら、彼女はきっと止められるだろう。誰にも肯定して貰えず、ただこの狭い世の理に、君は潰されてしまう。

だから僕は、僕だけは、彼女の味方でいようと思った。

 君がどこに行こうとしていても、僕は君の背中を押す。例えそれが、誰もが畏怖するあの場所であっても、それは変わらない。


「怖くないのか」


「......うん。全然」


 怖くないよ。

 振り向く影に2つの月が反射する。逆繊月ぎゃくせんげつのような、鋭い強さがその瞳にはあった。

 僕が危惧しているような恐れや後悔は無く、僕へと真っ直ぐ向けられるその視線には、この先への希望だけが煌々とひかっていた。


「そうか。君は強いんだな」

「強くないよ。下ばかり向いていると、綺麗なものも見えないもの。だから顔を上げるの」


 彼女の言葉に促されるように、見上げた星は降り止むことを知らない。

 視界の端で揺れたワンピースが、柔らかく暗闇を削る。


「私ね。私の事を、君が止めないでくれて、嬉しかったんだ」


 風に乗せた声が、横を通り過ぎる。置いていたリュックサックから一冊のスケッチブックを取り出し、一度表紙をめくると、それを僕へと差し出す。

受け取ったオレンジ色の鮮やかな刺激には、見覚えがあった。


「これって......」


 それは君が常に持ち歩いていたものだ。暇さえあれば、それを片手に町を歩いていた。

 その中身を見た事は一度もない。町の風景でも描いてあるのだろうか。


「それ、私が行った後に見てね。大切な物だから。君に持っててほしいの」


 俯きながら、愛おしげに撫でる。その手が僕の指に触れた。


「君は......相変わらず勝手だ」


「君にだけだよ」


 懐かしさをなぞるように指先を交える。

 思わず零れた彼女のえみがとても苦かった。君はとても幸せそうに笑う。僕らは別れてしまうのに。


アルバムのページを捲る。


「私の両親が交通事故に遭ったすぐ後、よくここに来たよね。二人で学校サボって、ここから海を見てた」


目を閉じる。君の瞼の裏には、僕と同じ光景が見えているのだろうか。記憶の中のアルバム。その一枚一枚に、何にも変え難い思い出が浮かぶ。


「......もう5年か」


 鋭い金の縁は山に沿って地平線へと近づいていた。

星が降ってくる。紺青の空は青藍せいらんへと変わる。


まだ暑さを知らない風が熱を連れて、繋いだ温もりだけが残る。


「それから」

「あの時も」


「......」


 体が強ばる。二年経った今でも、あの日を思い出すと、決意が揺らぎそうになる。君の心に初めて触れた。

きっと死ぬまで忘れない。


 繋いでいた手に、ぎゅっと力が入った。

 そして「ありがとう」と前置きしてから、彼女は言った。


「私のを、手伝ってくれてありがとう」


その笑顔が件の日に重なった。


──関東地方に、雪が降ったあの日。僕はいつもの場所に向かった。だがそこに居た人間は、いつもとは違った。


すぐに幼なじみの少女だと分かったが、僕の知る、彼女の面影はそこには無い。

じっと空を見上げ、誰に向かうでもなく口にする。


『私、死にたいのかな』


何も言えなかった。鉛から落ちる真っ白な雪と共に、君は今にも冷たい空気に消えそうだった。


『人はどうして、自分で死を選んではいけないの?平等に生きる権利があるのなら、平等に死ぬ権利もあるはずなのに』

『本当の幸せって自分の望む時に終われる事なんじゃないのかな』


透けてしまいそうだ。消えるのではなく、見えなくなる。姿は見えないのに、確かにそこに居る。

白い肌が雪と同化して、君は透けて見えなくなる。


 君は変わった。僕の知る「幼なじみの彼女」はもうここには居ないのだと悟った。

目の前の少女は、凡人ひととは違う存在だ。自らの人生に終止符を打つ事を悪だと思わない。君は──


君は、この世界に順応できなかった。

 疑問を見て見ぬふりをするこの世界に。君は呑まれたくないと言った。


「私、人間じゃないのかもしれないって、何度も思った。自分は人間に生まれてくるべきじゃなかったんだって」

「でも、君に話して変わった。誰にも受け入れて貰えなかった思いを、君が。......君が、知ってくれた」


 光が差した。金赤きんあかの核から、黄檗色きはだいろの繊維が徐々に辺りを照らしていく。その細い1本が僕らへと注がれ、君の頬へと反射した。


 月を映していた君のそれは、黄金の粒を風に乗せる。満面の笑みを浮かべる彼女は、この日を待ちわびていたかのようだった。


「僕は......ただの人で。君を救うことは出来ない。本当の友達なら、本当に君が大切なら。きっと君が行くのを、止めるんだろう」


 君が行くところは、皆が恐れる死なのだから。


「でも、僕は君に感化されてしまった。君のその考えは間違っていないと、僕も思ってしまった。だから、僕は君の背中を押すよ」


 間違っている。自分のしている事は。そう頭ではわかっている。頭の中は矛盾だらけだ。


 自殺は犯罪。命を絶つという行為は、他人だろうと自分だろうと、それは殺人なのだ。

 それを手助けしようとしている僕は、間違いなく、「犯罪者」だ。


 止めなくては。今ならまだ......。


 だが顔を上げると、目の前の君はこんなに幸せそうに笑っている。「自分の望む時に死にたい」「人生の最高の時に消えたい」そう言っていた彼女の夢が、やっと叶うのだ。


 覚悟を決めよう。僕は、世界中で僕だけは、彼女の望みを叶えてやってもいいだろう。

 涙は決して流さない。笑って、精一杯の言葉を伝える。


「僕は、君に会えて良かった」


「私も。ほんとうに。ありがとう」


 繋いでいた手が零れ落ちる。

 真っ白なワンピースが大きく羽ばたいて、小さく羽根が見えた。

 きっと君はどこまでもそれで飛んでいくんだ。


「さよなら」


 風に乗って聞こえた言葉に、僕は笑顔で返す。

 風が吹いたかと思うと、そこには黄檗色の粒子だけが残っていた。キラキラと輝いて、鱗粉のように軌跡を残す。

一羽の鳥が目の前を駆けた。


夜が明けたのだ。


 夏の始まり。流星群と共に、君は空へと飛び立った。


 もうここに彼女が来ることは無い。

 呆気ないものだ。それが率直な思い。あんなに大切な人を失ったというのに、涙ひとつ出ない。


半分ほど顔を出した太陽を、ただ見ていた。ふと横に置いてあったリュックサックに目が行く。


「これ......」


 開いたままのそこには僕が渡されたのと全く同じスケッチブックが刺さっていた。

 思わず手に取りページを捲る。

 中には通学路や校庭、裏山や河川の絵が描いてあった。


 慌てて渡されたスケッチブックを見つめる。これは何だ。僕が知っている物とは違う。心の臓が大きくそして、速く脈打つ。

 恐る恐る開いて......絶句した。しばらく何も言えず、その場で立ち尽くす。呼吸も忘れ、苦しくなってようやく息を吐いた。


「......っは。やっぱり、君は勝手だ」


 感情をき止めていた何かが壊れ、胸の熱さが目頭に伝わって溢れ出る。まだ薄暗さの残る空から、夏の始まりを告げる最後の流星が流れた。


声を上げた。君の名前を呼んだ。両手で抱いた一冊のスケッチブック。

その中に描かれていたのは、


 僕の絵だった。


 その時気づいた。君も、僕と同じ思いだったんじゃないかって。同じ気持ちで、一緒に居たんじゃないかって。

 僕は、君が何よりも大切だった。


「僕は、君の事が​──​──」


 声に出しても、もう彼女には届かない。

 だが後悔はしない。彼女は幸せだったんだ。幸せに生きたんだ。

 君がいたということは、僕が忘れない。


 僕らを見ていた流星は、月のお供に一人を残し。

 滲んだ空の逆繊月は、暁の色に溶けていた。

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逆繊月は、暁に溶けて。 青葉 一華 @ichikaaoba

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