歌うたうひとよ、永遠なれ
乙原海里
ナイチンゲールよ、永遠なれ
彼は、歌を歌として歌っていないの。
大学生のとき、声楽部に所属していた頃の外部講師の言葉だ。
彼は歌に意味を込めない。歌を音の集合体として歌う。それが歌として成立しているか、民衆がどう捉えるか、私には分からない。けれど、彼の歌はそれで完成されているのよ。
講師の言葉はそれで終わっていた。彼の歌に聞き惚れていたのだ。それは私も同じだった。彼の歌は歌ではない。けれど、彼以上の歌唄いには出会えないだろうと半ば確信していた。
私は純粋に歌唄いを目指しているわけではなかった。彼よりも素晴らしい歌唄いに出会いたくて、ざまあみろと彼に言ってやりたくて、歌の世界へ飛び込んだ。今なら言える。そんな不純な動機でお金を稼いでいける世界ではなかったと。けれどあの時の私は、世の中を何も知らなかった小娘は、大丈夫だと息巻いていたのだった。
大都市の路地裏、どうしようもなく荒れていた町の小さな酒場のステージ。それが私の今の居場所だった。あなたほどの学歴があれば、と店の常連客に溜息をつかれるのを笑ってごまかせるくらいには大人になった。
そんなことは百も承知だ。けれど現実を見るより夢を見るほうが容易い。その結果がこれなのだから笑えない。
現実から逃げたくて大学を中退し、ぶらぶらとステージを渡り歩いていた小娘。それが私。どうしようもない私。
何十年物のネガティブ思考を押し込めて、今日も私はステージに立つ。
ピアノの伴奏が店中に響き渡る。
ピアノの彼女の手は少しぎこちない。彼女は名のあるピアノ奏者だったらしいが、事故で手を悪くしたという。プロではやっていけないわ、と震える手を見て笑った彼女を思い出した。だからこれは手慰み。スポットライトを浴びて、歓声の渦に飲まれ慣れた私を慰めているだけ……。記憶の中の彼女の瞳からぽろりと涙が零れた瞬間、私は歌い出した。
ねえ、思い出して。あの青春の日々を。あの時は永遠だった。どこまでも続く青い空も、あなたとの恋心も。
ねえ、思い出して。わたしはあなたを愛していた。あなたもわたしを愛してくれていたわ。幸せだった。けれど、わたしはあなたとはいられない。あなたは遠くへ行ってしまったもの。わたしはあなたと一緒に行けないわ……。
歌い切った後、小さく拍手が聴こえた。オーナーだ。頭を下げ、私は一息ついた。
リハーサルとして選んだのは昔流行った洋楽。愛していた人に置いていかれた人の歌、と解釈しているが本当のところはどうなのだろう。そうやって私は歌に感情を込める。彼とは違う。
お疲れ様、と声をかけてくれたピアノの彼女に、そちらも、と返す。このくらいで丁度いいのだと気がつくまでに数年かかった。大掛かりなステージの上で誰に歌っているのか分からない歌を歌うのは性にあわない。消費されるだけの人生なんて嫌だった。まるで彼のように。
「
彼女に言われて耳をすませると、遠くから歌声が聞こえてきた。天使の賛美歌、人々の思考を奪う悪魔の歌。彼らは世界の安寧のために歌い続ける『
人工知能やら自律機械やらが街に溢れかえっているが、人間にしかできない仕事があるらしい。私にはわからない。そこまでして社会が人間を必要としているとは考えられないのだ。人間なんていなくなってしまえ、と散々地球を破壊したというのに。
「貴女って、知り合いに彼らがいるって言ってたわね」
ピアノの彼女は瞳を閉じ、その歌に聞き惚れているようにして言った。彼らの歌は心を洗う。そういう謳い文句だ。嘘は言っていない。そのように彼らは作り替えられるのだから。
「嫌ってほどに歌が上手いやつでしたよ」
「貴女も十分上手いわ」
「そういう次元じゃないんです。彼は歌を歌っていなかったんですから」
「……どういうこと?」
彼女が首を傾げたのを見て、私は彼の歌声を思い出した。ちゃんと思い出そうとしても記憶は朧気だ。ただ上手かった、とだけ。
不意に、あの時聞き惚れていた講師の横顔が瞼に浮かんだ。私の口は彼女と同じ言葉を紡ぎ出す。
「歌を歌として歌っていないんです。今思えば、彼は彼らになるしか道はないんだろうってくらいでした」
「そう……」
彼女はふいっとピアノに目線を合わせ、それをさらりと撫でると私の方を向いて笑った。
「でも、私は貴女の歌の方が好きだわ。一緒に並んで歌いたくなる。人間味のある音楽はね、聴く人に何かを残すの」
それでも、と彼女はおもむろにポケットの中から紙切れを出した。手のひらサイズのチケットだ。この時代に紙のチケットなんて。それは『とても重要なものだが、ネットワーク上に履歴すら残したくない』という意思そのもの。なにか厄介なことに巻き込まれそうだ、と思っていた時だった。
「一度、彼らのところに行ってみない?」
彼らが貴女を呼んでいるの。彼女の言葉に私は目を見開いた。
私がこんなところに来るなんて。隣にいるピアノの彼女に気づかれないように息を詰めた。
「大丈夫?」
彼女の言葉に苦笑いを返した。ここは公共の場。嫌そうな顔でも見せたら不敬罪で捕まってしまう。なんでもないように首を縦に振って、私は目の前の建物を見た。
それは一種の神殿だった。神様なんて今はいないけれど、それは確かに神殿だった。見る者全てに威圧感と開放感を与えるもの。天に届くほど高い白の塔に私たちは入っていく。
受付にチケットを差し出し、言葉もないまま案内係の自律機械について行く。小さな駆動音はどこからともなく流れ出る音楽にかき消されていく。
「どうして、貴女がこのチケットを持っていたんです?」
彼女に聞いてみたかったことの一つだった。けれど彼女は曖昧に笑っただけだった。人間、隠したいことの一つや二つは持っているものだ。彼女が彼らと関係があったとしても私は何も言うまい。一度瞳を閉じ、深呼吸をした。
いつの間にか自律機械は姿を消し、目の前には彼女が立ち止まっていた。一つの大きな窓の前だ。
「彼よ」
真っ白な部屋だった。そこには一人の男が私たちに背を向けるようにして立っていた。私たちが覗く窓と、彼が見上げる窓以外には色のない部屋に、ぽつんといる彼だけが異質だった。
「こんな、場所で」
わたしのその声で彼は振り向いた。真っ白な部屋に、真っ白な服を着て。白く染められた髪の毛と大理石のように白い肌の真ん中に、爛々と輝く二つの黒い瞳だけが彼を人間たらしめていた。あの学生時代と雰囲気は何ら変わらない。私は思わず手を握りしめる。
「実穂」
あの美しい声はいとも容易く私の名前を呼んだ。
彼と私は恋人だった。多分、という副詞が付いてしまうが、それはきっと恋人らしいことはしてこなかったからだと思う。彼は歌うために生まれてきて、私は歌うのに必死だった。どうして恋人になったのかは覚えていない。どちらが告白したのかすらあやふやだ。
「実穂」
愛しそうに、というのは私のエゴだ。私を射抜く瞳はあの時と同じ。それでも彼は私とは違う。今の私たちは機械を通した声だけで繋がっている。それだけの関係だ。今はそれだけでしかない。
「会いたかった」
さいごに。彼はそう付け加えた。ぽろりと表情を変えずに涙を落とす。それで私は分かってしまったのだ。彼は完全に
「最期が私で良かったの」
僻んだような声が出た。彼との青春は鍵をかけてしまったというのに、私はまだ彼のことを愛していた。だからこそ私は逃げてしまったのだ。彼が私の目の前から消えてしまった現実から。
「君がよかったんだ」
「私の前からいなくなったくせに」
「君がそれを望んだんだろう」
「私がいつそんなことを望んだの」
「君は言葉にしていないが、ずっと僕はそう感じていた。だからここにいる」
彼の言葉に私は眉をひそめた。瞼が震えて視界がぼやけた。
私は愛してたのに、とは言えなかった。言えるはずがない。突き放したのは私だったのだ。私の思いに杭を打つように彼は言った。
「君は、いつも僕の歌しか見てなかったよ」
がつん、と衝撃が全身に走る。思わず膝をついてしまった。喉が引きつって声が出ない。そんな私を見ても尚、彼は無表情で言葉を続ける。
「僕は君が好きだよ。でもそれはもう僕には必要ないんだ。だから君を呼んだ。僕を……僕の歌を愛してくれてありがとう」
そう言い終えると、彼はゆっくりと私に近づいてきた。二人を隔てている壁が憎たらしくて仕方がない。今すぐにでも彼を捕まえてやりたかった。私たちにはもっと語り合う時間が必要だったのだ。
彼は窓に手を押し当て、か細い声で言った。
「さようなら、僕の
ぼたぼたと彼が涙を流したのが見えると、かしゃんと窓が閉ざされた。
それから私はあの酒場のステージを降りた。彼の歌が聞こえる世界で歌うのが苦痛になったのだ。
ピアノの彼女はいつの間にかいなくなっていた。きっとあの白の塔にいるのだろう。彼女の少しぎこちないピアノの音色が風に乗って聞こえてくる気がするのだ。私はその度に胸を締め付けられる。誰一人救えなかった。救うことなんて、できなかったのだ。
ナイチンゲールは墜ちてしまった。私の手元には片道切符の小さなチケットだけが残っている。
歌うたうひとよ、永遠なれ 乙原海里 @otobaru
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