保健室に吹く、おだやかな風

「スターリースカイ・スカッシュメタル・リリカルサファイアァァァァァァアア――――――――――――ッッ!!」


 低い、熊の咆哮のような叫びがぽんぽこ大学敷地内にこだました。

 正門を入ってまっすぐ歩いた先にある中央広場。学長の噴水像があるその場所で、学長の名前を叫ぶのは、熊のような体格と熊のような髭と丸いサングラスが特徴的な謎の男である。


「俺様は! ぽん大アンダーグラウンドの王、穴熊あなぐま厳泥丸ごんでいまるッ!」


 時刻は授業と授業の間の休憩時間に差し掛かったところであり、教室間を移動するぽん大生も多い。厳泥丸をちらちらと見ては、十数メートルの距離を置いて、ひそひそ話をしながら学生が歩いている。


「リリカルサファイア! 俺様は、おまえに何度も決闘を申し込んだ! しかしそのたびに無視、無視、無視! 挙句の果てには『決闘なんていいから、お茶しない?』などという舐め腐った答弁を寄越す! ふざけやがって……! 俺様はおまえに勝ち、地上においてもぽん大の王となるのだッ! ゆえに……最終通告をする! 今、ここで、俺様との決闘に応じないのならば……」


 厳泥丸は担いでいた巨大なドリルを、ぶうんと振り回した。


「この、学長の噴水像を! ドリルで破壊してやるぜッ!」

「そうはさせない!」


 遠く背後から聞こえた声に、厳泥丸は振り向いた。

 そこにいたのは、ふたりの学生。

 ひとりは格好つけたポーズをしており、もうひとりは、やる気なさげにそっぽを向いている。


「誰だ、おまえたちは」

「俺たちは、裏サークル〝ヒーローズ〟! ぽん大の平和を守る者だ!」

緑川みどりかわ先輩――おれもう帰っていいですか?」

銀島ぎんじま!? ここは『平和を乱す者は俺たちが許さない!』って言うべきところだろ!?」

「そういや今日――スーパーで安売りやってるんだった」

「あっ! おい銀島! 帰るなって! ぽん大の平和が!」

「そういうのは――ホァン先輩とかとやっててくださいよ。じゃあ――お疲れっした」

「銀島ーっ!?」


 ヒーローズとやらの片方は帰っていった。

 やる気がある方・緑川隼人はやとは、気を取り直した様子で再び構える。


「……平和を乱す者は俺たちが許さない!」

「俺〝たち〟じゃあねえじゃん」

「うぐ」


 心にダメージを受けてうずくまるヒーローズの男を無視して、厳泥丸は声を張る。


「リリカルサファイアッ! 出てこないのならば、噴水像を少しずつ壊すぜッ!」


 ギュインギュインとドリルが唸る。

 凶悪な破壊力を持つそれが、噴水像に突き立てられようとした、その時であった。


「うおりゃ――――――――っっ!!」


 上から飛んできた少女の蹴りに、厳泥丸のドリルは砕け散った。



 ――――厳泥丸にはスローモーションに見えた。ドリルの部品が飛散する。あたかもハリボテのように破砕され、舞い飛ぶネジの銀色が日光を反射する。きらめく光が噴水に射し込み、虹のアーチを形作る。綺麗だ。しかし見惚れる暇はなかった。上空からの一蹴りで厳泥丸最大の武器はおもちゃのように壊されたのだ。「何奴ッ!」即座に厳泥丸は腕を振り上げる。敵対意思は明らか。ならば捻じ伏せるのみ。熊のような右腕が少女の頭を掴もうと唸る。だが、では遅かった。きっとはやぶさでも、狩猟豹チーターでも遅すぎたに違いない。

 なぜならその少女は、風。

 何よりも速く吹き抜ける、嵐の少女なのだから――――



「ぐおおああッ!!」


 鳩尾に直撃した少女の回し蹴りで厳泥丸は吹き飛び、無様に転がった。

 まるで突風のような蹴りだった。常人には視認すら不可能。

 しかし、隼人には見えていた。


「俺と同じ高速移動の異能使い……? いや、少し違うような……」

「誰だ、おまえはッ!」


 厳泥丸の問いに、蹴りを放った足の先から摩擦熱による煙を立ち昇らせながら、少女は答える。

 長いポニーテールをしならせ、小さな胸の前で腕を組み、どんと構えて敵を見下ろすその少女の名は。

 凛々しくもあどけなさを残すその美少女の名は!


「……………………なんだっけ!」



     ◇◇◇



 少女が自分の名前を忘れるレベルにアホだったので代わりにここで解説すると、彼女の名前は、風包かざくるまクルリ。

 十五歳の時にぽん大の用心棒を倒し、己の強さを証明して入学した猛者中の猛者。

 現在はぽん大地下トーナメントで二連覇中の、〈嵐の少女〉の異名を持つ地下ファイターである。



     ◇◇◇



「でね、でねっ! クルリね、その熊さんみたいなおっきいおじさんと戦ったの! けっこう力が強かったけど、ばこーん! どかーん! ってやって、やっつけた!」

「はいはい。じっとしてろー? 今ほっぺにバンソコ貼るからな?」


 ぽんぽこ大学、保健室。

 そこは白を基調とした清潔な部屋で、白いベッドが三台あり、薬品のような匂いがほのかに漂っている。


 椅子に座ったクルリの頬に絆創膏を貼ると、「はいおしまい」と女性の保健師が言った。


「あんまり暴れすぎんなよ? まあ、おまえに関しては、傷だらけが標準なのかもしれんけど」

「えへへー。ありがと~」

「はいよ」


 ゆじゅぅ、というのはこの保健師のあだ名だ。本名は湯川ゆかわ柚香ゆずか。暴れまわった後にボロボロになって保健室を訪れるクルリを世話するうち、すっかり懐かれてしまった二十八歳である。


「バトルの後はゆじゅぅに会いに来てもいいってことにしてるの。でも逆に、バトルの後じゃない時はあんま会いに来ないことにしてるの。ゆじゅぅのお仕事、あんま邪魔したらだめだから。クルリえらい?」

「えらいえらい」

「ほんとに? どんくらいえらい? こんくらい?」クルリが腕を広げる。

「ん? んー、もっとえらいかな」

「ええっ! じゃ、じゃあ、こっからここまでくらい?」クルリが保健室の端から端まで慌ただしく移動する。

「んー。いや、もっとえらいな」

「え、えええ! じゃ、じゃあ、じゃあじゃあ、こっから……」クルリが保健室の端から端へ行って更にそのまま窓から出ていった。


 柚香はそんなクルリを見送って、それから雑務をこなし始めた。保健師にはそれなりに仕事がある。〝保健室だより〟の発行もそのひとつだ。PCを操作してレイアウトを調整していると、クルリがようやく帰ってきた。

 ぷんすこ怒っている。


「ゆじゅぅも一緒に来ないとクルリがどこまで行ったかわかんないじゃんっ!」

「どこまで行ったんだ?」

「としょかん!」

「大学の端まで行ったのな……。でも残念だったな。クルリ、おまえはもっとえらいぞ」

「ええ~」


 クルリが椅子にギシッと座る。「じゃあクルリのえらさは、クルリじゃ表せれないよ~」


 その言葉に、柚香は思わず噴き出してしまった。ぷくくくく、と笑いを漏らす。そんな様子を見て、クルリが首を傾げた。


「どーしたの、ゆじゅぅ?」

「クルリはほんとに面白いよな。そうか。でも、そういうものかもしれないな」

「なにが?」

「自分のえらさは、自分じゃ表せられないものなのかもしれない」


 穏やかに微笑み、PCからクルリに視線を移す。ぽんぽんと頭を撫でてやると、クルリは気持ちよさそうに「んふー」と笑顔になった。

 しばらくふたりしてそうしていたが、やがてクルリが「そうだ!」と素っ頓狂な声を上げる。


「どうした?」

「塾のテストがあるの! ゆじゅぅ、勉強おしえてくれる?」

「仕事しながらでもいいか?」

「うんっ! ゆじゅぅすごいよねー、お仕事しながら先生みたいなこともできるんだもん」

「まあ、分数の計算くらいなら片手間で十分だからな……」


 クルリが小学生用の算数ドリルを取り出し、机に置いた。彼女は現在十六歳だが、学校というものにろくに通っていたことがない。

 柚香に肩を寄せて、問題を解き始める。一問目から間違えたので、柚香が教える羽目になった。


「んぐー」

 クルリが机に突っ伏す。「クルリ、頭よくなりたいのになー」


 キーボードを叩いて保健室だよりに文章を入力しながら、柚香は、風について考えていた。

 吹いていく風に善も悪もない。向かい風も、見方を変えれば追い風だ。風はただそこに流れるだけの、中立の存在。そういう少女だと思った。厳泥丸の前に立ち塞がった理由を聞いてみると、クルリはこう答えた。「わかんないけど、なんか、イヤだったから!」


 柚香はひたすら本能に従ってメチャクチャをするクルリの在り様に、とても癒されていたのだった。


「なあ、クルリ」

「んまー?」

「おまえの偉さは、こっから……」


 PCを操作し、グーグルアースを表示する。

 東京県を映した後、地球を回転させてアメィリカァン国のサンフランスィスコゥまで移動させた。


「……ここまでくらいだな」


 クルリがびっくりして立ち上がった。

 え、え、ええっ! と叫んで、画面を指さす。


「地球って丸かったの!?」


 そっちかよ。

 柚香はまた噴き出して笑った。

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