神話の嘘
内外の学者が指摘してきた通り、サンクロリア王国の神話にはおかしい箇所がいくつもある。
回し矢という狩猟具は当時の地層からはでてこない。よって神話の騎士団がカタル族を討伐するにあたり回し矢でカタル族が自滅したという伝説の信憑性が疑われている。
さらに、騎士団の騎士が創始したという王国の、成立理由を裏付けるものとしてはその説得力が弱い。騎士団が華々しく凱旋したのはいいが、相手側の自滅は騎士団の功績ではない。
そんな“弱い”神話を受け継ぐように、この国の王権は弱かった。神格化された王の権力は神官勢力に分割され、王の決定権は王領で栽培している木綿の売値に上限が付けられているほどだった。質のいい木綿を安値で買い叩けるということでサンクロリアの商人が勢力を拡大する要因の一つでもあった。
「今日、国王陛下がなにか話をされるそうだな」
「急な話だ。わしらのような田舎者には関係がない話だろうな」
王国南部の農家が話していた通りにはならなかった。王都に飛んでいた町長が馬を飛ばして町に戻る。
「皆の者、今すぐ広場に集まってくれ」
そこで農家が聞いたのは、生活を直撃する王のものと言われる言葉だった。
「なんだって、戦争が終わる?」
「ってことは、麦を高く買い上げてくれる制度も終わるのか?」
戦争景気で儲かる業種があるのも事実だった。この農家が栽培しているのは麦だったが、麦だけで生活が成り立つわけではない。近隣の農家と等価交換して野菜は手に入ろうとも、生活用品まで村で全て調達するのは難しい。
遠くの村まで買いに行かなければいけない農具などは、やはりお金があった方が買いやすい。そのお金は、政府が軍用にと麦を高値で買い上げてくれることで賄えていた。
さらに、父や兄弟、息子が徴兵され帰らぬ人になった家庭も多い中、戦争がどちらの勝利とも言えない形で終わってしまうことにやりきれない思いを抱く国民も多かった。
「あたしの息子は何のために死んだんだい? 身重の妻を残して、この国が豊かになるならと出征していったんだ。国は植民地を手にして国を豊かにすると言っていたではないか。こんなやり方で終わられたら、やっと生まれた孫が飢え死んでしまうよ」
稼ぎ頭を失い、持っている土地の半分以上を耕せず、少ない収穫量の品質の悪い麦を高く買ってくれる場所がなくなると女ばかりの家を養えないと老婆は嘆いた。嫁いできた嫁は栄養失調で、出産後五ヶ月経っても満足に働けない状態である。
「ばあさん、ワシらも助けるから……」
「あんたらに乳が出せるんか?」
老婆は叫んだ。
「うちの嫁は器量がよく息子ともようやってくれていた。不作が続かなければあの子はいい母親になれていたんだ。あの子は今も、満足に起き上がれない自分を責めて苦しんでいるよ」
「不作さえなければ、そもそも戦争が起こることもなかったろうになあ……。息子さんのこともお嫁さんのことも不憫なことだ」
秋には豊作を祝う祭りが開かれ大いに盛り上がる村の広場が、お通夜のように静まり返った。
王国西部の港でも混乱は訪れていた。
所属不明の海賊船が多く港に船をつけ、荒くれ者たちが港近くの歓楽街に溢れだした。治安は悪化し、漁業で生計を立てていた漁民たちの半分が親戚などを頼って港町を出ていった。
一方、これを商機と見た人も一定程度存在し、異国人をもてなすために賭場を開き大金を稼ぐ者も現れた。そして親戚を頼れず町に住み続けざるをえない人たち向けに、用心棒稼業の力自慢も町に集った。
しかし、彼らを呼び寄せたクロリア家が実権を失い王家が侵略戦争を放棄するようなそぶりを見せたことで、クロリア家が王国を乗っ取ったときに利益を享受しようとしていた彼らは彼らの船で、まさに潮が引くように町を去ってしまった。
環境の変化に何とか適応しようとした人々も、今度こそ仕事を失ってしまった。誰も客のいない夜の町に、店先に吊り下げられた灯が虚しく輝いた。
戦争は始めてしまった時点で、ボロ勝ちしてやっと採算がとれる事業である。サンクロリア王国はメラン島すべてを植民地にできるほどの圧倒的な戦力差と敵に内通者を送り込む手の回しようで勝つしかない戦争を起こしたつもりだった。ここで止めるなら初めからやるな、が国民の総意だった。
クロリア家に王国を乗っ取る決意をさせた神話の嘘とは、次のようなものだった。
クロリア紀元前一千年、サンクロリア王国ができる前には強力な帝政を敷くモーレ帝国があった。その帝国の者たちは髪を一か所だけ残し長く編む風習があり、その編み方で階級が判別されていた。
そんな中、北方から騎馬の一族が下りてきた。彼らが通った場所には草木も生えないと言われるほどの暴虐無人ぶりで、放牧を生業としていた。
農業を生業としていたモーレ帝国は彼らの存在を問題視したが、排除はできなかった。騎馬の民族はモーレ帝国領の周辺で停留し、その数を増やしていった。
千年経つにつれその騎馬の民族の売る毛皮や皮革製品が帝国の民の心を掴み、帝国の主産業である織物業が成り立たなくなってしまった。
モーレ帝国の皇帝はとうとう彼らを投獄し、混血児は国外追放した。
そんな折、モーレ帝が崩御する。そこに、騎馬の民族の宗教観に共感した帝国民の一部が騒ぎ出した。これは神の呪いに違いない、と。
皇帝の座を継いだ王子は、その一部の帝国民に討伐の兵を差し向け、投獄していた異国民をほぼ全員処刑した。
生き残った騎馬の民は帝国民の一部と合流し、その帝国民の一部は古くからの風習である辮髪を切り落とし、ともに坊主姿の異形の集団として国外に逃亡した。
彼らは三年後国に帰還し、国を乗っ取った。
彼らが国を追われて以後天変地異が相次ぎ皇帝の親族が多く疫病で死んだ。その偶然が、彼らが神の代弁者であるという論説に拍車をかけた。
モーレ帝国の民が皇帝を支持していたのは氾濫が多く制御できなかった大河を治水して地域に繁栄をもたらしたからだった。自然を扱えぬ皇帝への尊敬が冷めるのも早かったのだ。帝国は内部から瓦解した。
その後帝国は騎馬の民族の酋長の名を取ってサンクロリア王国と名付けられた。サンクロリア王国はモーレ帝国の現人神思想を受け継いだが、王家への尊敬が無くなっても反乱されることがないよう、各家から男子を一人徴集して人質にした。サンクロリア王国は古くからのモーレの風習を改め、辮髪を禁止した。
時を遡る。書庫で隠れて歴史書を読み漁るサナ王女は戦慄していた。自分たちの祖先は土地に根付かぬ民族で、サンクロリア王国は外敵から国を守った英雄の国ではなく国を乗っ取った征服王朝に過ぎなかった。
一族は名誉な血を引く者であると事あるごとに言っておきながら、その根拠を示さなかった父王に、サナは反発をしていた。サナが書庫に忍び込んだのはこれが始めてのことだった。
「逃がした魚に国を獲られる……回し矢の皮肉はこのことだったのね?」
国土を荒らしていた妖、カタル族とはモーレ帝国の民であり、彼らへの侮蔑をサンクロリアは神話に組み込んだのだ。
「それにしても、モーレ帝国のことはなにも残ってないのね……」
モーレ帝国を構成していた民族は土地を追われ、彼らが築いた文化はサンクロリアによってことごとく破壊され、二代、三代と時間が経つうちにサンクロリア建国神話の真実を知る者も少なくなっていった。
「ひっ」
サナ王女は急に具現した人の気配に戦慄する。小さい頃から書庫に入れる人間は制限されており、近づいただけでこっぴどく叱られた。その記憶がサナの身体を支配する。
「おうじょ、さま?」
振り返ればそこには汚れた子どもがいた。女の子かとサナは直感したが、その子どもは男の子だった。
王家や神官家、各地の有力者としか合わない人生を送ってきた。馬車から見える市井は雑多そのもので、どこか自分の住む世界とは分離して考えていた。その下界の子が自分の目の前にいる。サナは思わず怯えていた。そんなサナに子どもはにっこり歯を見せて笑った。
子どもは王家の男色に使われた、貧しい家から差し出された供物だった。王家の人間でも入れる人間が限られている書庫は、知られたくない事象の隠れ蓑にもなっていたのだ。
「おうじょさま、僕だれにも言わないよ」
その子どもは声を潜めて言った。ことが済んで、来たままの汚い服に再び袖を通し、何事もなかったかのように養護施設に返される子どもは王女よりも大人だった。その子は字も読めない。だからこそ闇を知れた。
「じゃあね、おうじょさま」
その子は手を振って、数字の五を表す言葉が遠くからしたことに反応し、去っていった。
「あの子、眉が太かった」
サンクロリア王国内の少数民族としてのカタル族の特徴だった。
「でも、カタル族がモーレ帝国を構成していた民族なのはわかったけど、サンクロリアを構成しているのも大部分はモーレの民、つまりはカタル族でしょう? ならあの子のような少数民族としてのカタル族はどういうことなんだろう……言ってみれば同族じゃない」
知識欲に憑りつかれた王女は、自分が書庫に隠れていることも忘れて再び思索に耽った。
何度も書庫に足を運んでいた王女も、とうとう身辺の自由が利かなくなり、当時子どものいなかったクロリア家への降嫁への淡々とした手続きが進むのを、指をくわえて見ているしかないようになっていった。
サナが嫁ぐのは、クロリア家の年老いた長であった。彼の妻は子のできない身体だと言われ実家に帰されていた。
うら若き乙女は、胤を残すためだけに降嫁したが、結局子はできなかった。子ができない身体だったのは、当主の方だったのである。
サナはそのことに勘付くと、クロリア家が隠していた男児の義理の母親になる手続きを済ませ、自分が神官を継いだ。そこで、子を操る親としての権力に目覚めた。
サナはある考えに囚われるようになった。最後に王家の書庫に足を運んだときに読んだ家系図には、モーレ帝国の乗っ取りを指揮したクロリアという英雄は王家の祖ではなくクロリア家の祖であったと書いてあった。そのことを利用すれば王国を乗っ取れるのではないか、と。
息子を王にするのがサナの夢になった。そのために彼女は息子を監禁し教育を施した。
時を同じくして、王女と書庫で鉢合わせた貧民の子が、メラン国の軍人としての作法を学んでメラン国に入国した。サンクロリアの暗部である、移民や少数民族が集うスラムで長く生活し、容姿端麗という理由で王家の飼い犬となった青年であった。
彼は王家の望む功績と引き換えに王国の最下辺で生きる少数民族の地位向上を約束された。彼に逆らうという選択肢はない。
彼の名を、マナ=サーシャといった。王の好みで女性風に与えられた名だった。
統帥は自身の親書を手に、執政室でサンを待ち構えていた。ミケ=マラ大佐は統帥の目配せで静かに部屋を辞す。
「よく来てくれたな。――そなた、私に恨みがあるだろう」
サンは死んだ魚のような目を少しだけ見開いた。
「私のせいで多くの人民が死んだ。お前たちの仲間も殺したのだろう」
「……」
「ここで私を殺すか?」
統帥はサンを挑発した。サンは笑った。
「ここであなたを殺しては、死んだ仲間の命が無駄になる。せっかく戦争を終わらせられるのに、国の代表を私怨で殺めることは私の信念に反するのです」
今度は統帥が顔をあげた。そして薄く口元に自嘲の笑みを浮かべたあと、すぐに軍人の顔に戻った。彼は重厚な革の椅子から立ち、サンの目前に歩みを進めた。
「そうか。ならば一個人として謝らせてくれ。すまなかった」
サンは答えず直立不動だった。
「許すかどうかは、任務を果たしてから決める」
「……」
「任務の詳細を教えてください」
クロリアとハート、ミチは閑散とした港町でこの三か月用心棒をして生計を立てていた。海賊あがりの海の男たちが町を闊歩していたころは、喧嘩も絶えなかったがある意味活気もあり、人々の儲けようもあった。
しかし彼らが去ってしまっては、仕事のしようもなく失業者が道を埋めた。飲食店を構えるために船を売った人も多かったからだ。海にも出られず、店も儲からないとなっては店主やその家族は職を失い、借金から逃れるために夜逃げしたり、薬に走ったりする者が続出していた。
そういう意味では、用心棒稼業の需要はまだあった。依るべきものを失った人々が薬物に走り、治安は悪化していた。
薬物の蔓延は喧嘩や暴力沙汰の治安悪化よりたちが悪い。弱みに付け込み薬物を売りつける組織は背後に存在し続けるため、売りつけられた貧乏人を拘束したところで問題は解決しない。
退けてもまた立ち上がる、人間でないものを相手にするような焦燥感と閉塞感にクロリアたちは囚われていた。しかも、倒さなければいけない相手は完全な悪ではない。
三人は代わる代わる番をして、雇い主の身と財産を守る仕事を続けていた。その夜の当番はハートだった……のだが。
「今日は珍しく何事も起こらなかったな、ハート。……ハート?」
座って窓から外を見ているはずのハートが、いない。ふと視線を下に滑らせると、ハートは右肩から血を同心円状に流しながらそのただ中にうつ伏せに倒れていた。
「ハート!」
「クロリアさん、どうされました? あっ」
身体が固まったままのクロリアを押しのけるようにミチが部屋に入ってくる。見張り部屋の入口は人一人やっと通れる幅である。
ミチは倒れているハートの肩を叩き、ゆっくりと身体を仰向けに近い形にし、ハートの上半身を胸に抱えるようにして頬を口に近づけ呼吸の有無を探った。
「まだ息がある!」
クロリアもすぐに倒れたハートの足元に膝をつき、上半身に引きずられて捩じられた状態のままの脚をまっすぐに直す。
ハートは薄目を開けた。しかし、光は既に薄れ力はない。
「ハート、なにがあった。誰がお前をこんな目に」
そのとき階下から依頼主の夫人の悲鳴が聞こえた。くぐもった悲鳴だった。
「クロリアさん、様子を見てきてください」
「……しかし」
「ハートさんには私がついています」
クロリアは喉の奥から出そうになった言葉を押し込めて階段を下った。そこには、薬物中毒の人間ではなく、至ってまっとうな種類の人間がいた。
「憲兵……?」
「ご主人は、今どちらに」
双葉葵に盾をかたどった王家直属の機関にだけ許された紋章が胸に踊る。王家の権力が弱いこの国では、神官家が所有している土地では神官家が警察権を牛耳っている。王家直属の憲兵がこんな辺境に来るなど珍しいことだった。
「主人は今出掛けております」
「どこに、出掛けられました?」
夫人に無駄話をさせないという決意を憲兵から感じられる。思わずクロリアも黙り込んでいた。
「主人が、何をしたって言うんですか」
夫人は憲兵の視線を遮るように立ちながらどこか挙動不審だった。
「奥さん、時は一刻を争います。本当はわかっておられますね」
憲兵は驚くべきことを言った。
「この家の倉庫を改めさせてもらう。アリエン反応が出次第あなた方を裁判にかける」
アリエンとはこの港町に流通している中毒性の高い薬物の名称だった。幻覚や幻聴のほか、服用した人間の人格を攻撃的に変えてしまうなどの害を持っていた。クロリアは動揺を隠せない。倒すべき敵は雇い主だったなんて……。
「まさか、奥さん、あなたが?」
「私じゃなくて、夫です」
憲兵は思ったよりいたようで、玄関口にいる二三人の奥で十人ほどの足音が聞こえた。それらの足音は慌ただしく、倉庫のある場所に向かっていくようだ。
上階からも慌てた様子の足音が聞こえた。固まったままの夫人を置いてけぼりにして、ミチが早口で捲し立てた。
「クロリアさん、早く逃げましょう! 二階から見ていましたが、ここは薬物の取引き場所として摘発されています。我々も仲間だと思われてはただではおかれません」
「しかし、ハートが」
「ハートは私が背負っていきます。王直属の憲兵の権力は、行使されることが少なかっただけで法律には弁護人なき裁判を開けるほどの権利が約束されています。裁判にかけられては最後です、死刑にも簡単にされてしまう」
クロリアは戦慄したが、それを聞いている憲兵もいた。クロリアに小突かれてミチも憲兵の存在に気づき、顔を青くする。
「ミチさんでしょうか。私は指揮官のエラージと申します」
しかし憲兵はなぜか、クロリアとミチには礼を尽くして接した。雇われ用心棒に過ぎない二人に、である。ということは、二人の素性を知っている可能性があった。
クロリアはハートの様子を耳打ちしてミチに聞く。ミチは大丈夫だという風に頷き、止血はしてあると言った。しばしの沈黙ののち、聞くことに困ったミチはエラージに尋ねた。その間もエラージは二人の邪魔をするようなそぶりをみせない。
「あなたは、なぜここに? 王家の者は神官家の土地には滅多に入れないはずでは」
エラージは微笑んで言った。
「メラン国大使リディア=ケンショウから、あなた方二人を丁重に扱うよう王家に要請があったそうです」
クロリアも、ミチもその名に聞き覚えが無い。しかし憲兵の言葉はやけに断定的で、それが二人の不安を駆り立てる。しかし、ここは王直属の機関にハートの保護を願い出た方がいいのだろうか? そもそもこの憲兵が本当に王の下の人間だと証明できるのだろうか。
クロリアとミチは戦争状態にあった二国が終戦に向けて進み始めていることを知らない。だから、皇太子立太子の会議で神官勢力の力が削がれたことも、サンがメラン国に潜入したことも知らなかった。
「そのリディアさんが我々を?」
「ええ。戦争は終わる、力を貸してほしいと」
クロリアとミチは顔を見合わせて、頷いた。
「わかりました。……二階に息子がいます。止血したのですが出血しており保護をお願いしたい」
「ご子息が、お怪我を?」
応対していたエラージの後ろに控えていた二人の男が彼の目配せで二階に上がっていく。そしてすぐに、顔の青いハートを背負って階段を下りてきた。憲兵がハートを背負ってきた男に問う。
「二階から、出入り口は見えたか?」
「はい。すぐ下が玄関であり、勝手口も見えます。ただ、薬物が貯蔵されていると思われる倉庫は死角になっており見えませんでした」
なるほど、とエラージが眼光を鋭くした。
「見張りを刺しヤク(アリエンをはじめとする薬物の総称)を持って逃げたか……どこまでも金への執着が強い男だ」
厭世的な気分が町を支配しているこの町では、現実逃避の手段は一定の需要を示し続けていた。ある意味手堅い商売と言える。やりきれない思いを全員が抱いた。
そんなとき、取り調べを行っている屋敷を取り囲むように立っていた自警団の男が、屋敷のなかに入ってきた。
「大変です、皆さん! ここの屋敷の主人と同じ服を着た男が、川に浮かんでいたそうです」
「同じ服? 顔は判別できないのか?」
「はい……。近くに薬物中毒者が多くいたことから、彼の持っていた薬を目当てに大勢の中毒者に襲われ、なかなか手放さないため暴行を受けたものかと……」
夫人が口を両手で覆って崩れ落ちた。そんな一人の女性を一瞥して、エラージは続ける。
「それで、アリエンはどうなった」
「全て持ち去られたようです」
話に置いてけぼりにされながら、二人にもわかったことがある。他ならぬ自らの蒔いた種に、雇い主は滅ぼされたのだろう。
「ここの捜査は我々が行います。王都へは部下がご案内しましょう」
ハートをおぶってきた二人が、クロリアとミチの前に進み出て、軍帽を胸にあてて敬礼した。
「ジン少尉とロイ中尉だ。人物は私が保証しよう」
二人は二人の軍人に連れられて、王都へと向かった。
組織の基地でなにをするでもなく暇を持て余していたクリスは、聞きなれない足音に身体を固くした。
基地の中心部に位置する食堂――基地への入口が突破されたときにはその場にいた人間は身を挺して仲間への警告音を出し続けなければいけない。その間に蜘蛛の巣状にわかれたエリアが各々食堂と繋がる道を潰すため。
食堂に居合わせた人間は死ぬ。そのことに気づいたクリスにサンは言った。「全体のために死ぬに決まっているだろう」とさも当然のように。
そのとき感じたわずかな反発を、クリスは懸命に思い出さないように心のうちに押し込めた。自分が今、ここに存在してしまった以上、仲間の足かせになる訳にはいかないのだ。
臨時の長のサリから教わった鉦をクリスは秘密の場所から取り出し手に握る。嫌な汗が身体中に浮かんだ。
「――え?」
虚を削がれた気分になった。食堂の頭上にある出入り口からは、確かに聞きなれた暗号が靴音として聞こえてくる。
誰か知らないがともかくも仲間なのだろうとクリスは信じ、しかし信じ切ることもできず、鉦を握りしめたまま器械のギアを回し始めた。
徐々に開く戸の向こうに青空が見える。逆光で暗かった来訪者の顔が、クリスの目が慣れるにつれ見えてくる。
「……お前か」
青空の下で見下すように告げたのは、サンその人だった。
「え」
その身を包む衣が、メラン国軍人の着る軍服だったことが大きく違ったが。そして、片腕がない。
「統帥の身の上を調べに行ったのでは?」
「ああ。そして俺は彼の親書を預かっている」
「――――えええええ」
何事かと皆が駆けつけるほどの声で驚くクリス。
「今度からは警告音はお前のその素っ頓狂な声にするよ」
昇降機で降りてきながら嫌味っぽくクリスの耳元で囁くサンだったが、その顔には再会を喜ぶ笑みが浮かんでいた。
「何事です?」
サリが駆けつけた。そして呆けたように口を、あんぐりと開けた。
「サンじゃないですか」
「サリ、元気でやっていたか?」
「ええ……。その服はもしかして」
「ああ、これか。サリ、喜べ。俺たちの悲願が叶う。戦争が、終わる」
サリが膝から崩れ落ちた。国を離れ他ならぬ国を思っていた情報組織が、その主導権をよりにもよって本国の指導者に奪われた。依るべき場所を失った組織の苦悩を、クリスも基地のなかにいてよく耳にした。
島の影に隠れたサンクロリア海軍の奇襲部隊の情報は握りつぶされた。独自捜査でサンクロリア王家とメラン国統帥の接点に気づいてしまった構成員は、町で帽子を買いに行った際に心臓発作で倒れ、その直後に生きたまま彼は正体不明の組織に運ばれていった。彼は死亡と王家から発表され、不審死でもなかろうに遺体は戻らなかった。その他にも彼らには苦渋を飲まされたことが多々あったのだろう。
クリスは同じ民族であったが蚊帳の外だった。メラン島の民族衣装を着た男とサンクロリアの大道芸人の姿をした二人が間違いなく同族であると認識できることを、不思議に感じてもいた。
「それより、あなたはなんでここに? 何があったのか知らないが統帥の手下になったんならこんな地下組織に来ちゃあまずいでしょう」
確かになとサンは笑う。膝をついたサリを抱き起しながらサンが言う。
「名前もない俺たちの組織に名前が付く。政府直属の機関として各国の情報収集にあたることになる。外交庁という新しい政府機関の下で、俺たちは働くんだ」
感動の再会にヒビができた。それは徐々に食堂に集まってきた構成員の間にも伝染していく。集まった人間の顔色が喜色と困惑顔に分かれていき、その後に詰めかけた人間が事情を聞き同じように顔色を変えていく。
「それは……どういうことです?」
サリが引きつった笑顔でサンに問う。一方サンは真面目な顔でサリを初めとする同じ空間にいる仲間に聞こえるよう食堂を見渡しながら淡々と説明を始めた。
「この戦争はサンクロリアが仕掛けた罠だった。メラン国統帥というのはサンクロリア王家が遣わした違法入国者で、サンクロリア王国内で差別されていたカタル=サクナの孤児だった。少数民族の地位向上を約束されて嘘の身分を演じていた。メラン国が負けるしかなかったこの戦いだったが、サンクロリア王家と神官家の力関係が変わったことで戦争はサンクロリア側の意図が達成されないまま終結を迎えつつある――サンクロリア王家が終戦協定をメラン国に求めてきた」
食堂がざわついた。サンクロリア王家が混乱していることは情報として掴んできた者も多かったが、まさかサンクロリアから終戦を求めてきたとは思っていない者がほとんどだった。
「それであなたがメラン国側の使者になったのですか。とんだ出世ですね」
サリが皮肉を言った。サンはメラン国独立戦争の際敵前逃亡をしてサンクロリアに取り入った人間だった。サクナ(裏切り者)という言葉を嫌うサンが、裏切った相手に取り立てられたことを、サリが強烈に見下している。サンとてそれをわからない訳ではなかった。
「そうだな」
サンはサリの悪意を軽く受け流した。サリの怒りももっともだと思ったのである。
あえてどの機関にも属さず、メラン国に最もよいと思われる方法を独自に編み出し、独立して情報収集に当たってきたこの名もなきスパイ組織は、看板がないことを誇りにしてきた。
商人の作った国メランの国民は多くの国々を跨いで商売をする。その行き先で商人が得た世界情勢に関する情報を、本国の人間の先入観に左右されないために活用するために独立戦争の功労者が作ったとクリスも聞いていた。
そんな組織が、例え組織の本懐を達成するための条件かなにかにされたかしてどこかの機関に組み込まれるのは、構成員にとってこの上ない侮辱であり、苦痛だった。それは組織の設立理由をないがしろにするものだからだ。
「抜けたい奴は抜ければいい。俺も政府も追わない」
「去る者は追わずってか。飼い犬にされて喜んで尻尾振る腰抜けがどれだけいるか、な。あとから人数が足らないと泣きつくのはなしですよ?」
サリがサンに噛みついているお陰で、食堂に会した「離脱反対派」の怒りが抑えられている。導火線があちこちにぶら下がっていながら、サリが火花を一手に引き受け火薬に触れないよう制御していた。それは長年仕事を共にした仲間への、袂を分かつ前の最後の友情なのかもしれないとクリスは思った。
「当たり前だ」
「――まあいい。それで、あなたが使者としてサンクロリア王宮に無事辿りつけなければ、戦争は終わらないんでしょう? それまでは俺たちはまだ同志だ。見えないところから警護しましょう」
「感謝する」
再会の感動はぎこちない別離に変わり、サンはメラン国大使リディア=ケンショウとして基地を去った。その去り際に、クリスに言う。
「こんな肩身の狭いところにいるのも苦痛だろう。――お前の父と弟に会わせてやろう。こちら(メラン国)側の要求として、クロリアとハート両人の保護も通達してある」
「父とハートが生きているんですか?」
クリスは立ち上がった。
「ああ。少なくともあちら側(サンクロリア王家)は二人を保護したと通達している」
「ああ……」
クリスはこわばっていた肩の力が抜けるのを感じた。サンが苛立つようにクリスの答えを急かす。
「で、一緒に来るのか、来ないのか」
「行きます」
クリスは即答した。
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