父の裏切り

サナ王女とクロリアは漁港の端にある小さな小屋に閉じ込められ、他ならぬハートとミチに銃口を突き付けられていた。

二人の後ろには、猿ぐつわをされ恐らく固形の食物を長い間与えられていない頬のこけた漁民たちが柱に二三人が束になって縛られている。

「ハート、それにあなたはミチさんか」

「父上ッ、これはどういうことでありますか」

 会いたいと望んだ息子は自分を明らかに敵視し、軽蔑の色すら瞳に浮かべている。一歩引いたところにいたミチは、銃口を一旦逸らしクロリアの足元にそれを向けている。その二人の言動を見てクロリアは察した。自分が刺客を差し向けたことになっているのだろう、と。その情報の真偽を、実の息子に銃口を向けられた状態での反応で見極めようとしている、と。

「どういうことだ、とはどういう意味だ」

「これは父上の差し金ですか」

 ヒステリックに問い詰めるハートの後ろで、ミチはやはりクロリアの顔色を窺っていた。

「後ろにいるのは漁を生業にしている人々と見受けるが、お前は仕事仲間を縛っているのか」

「なにをすっとぼけたことを申されるのか! 漁獲量制限を王に進言したのはあなたでしょう」

 激高という言葉が最もハートを形容しているようで、違った。彼は怒りに身を任せたようでいて、どこか冷静でもあった。その証拠に銃口はクロリアのこめかみを捉えたまま動かない。

 ミチという男は潜り漁の漁師であるとクロリアは聞いていた。そのミチとハートが仕事仲間の動きを封じているということは、仕事仲間に襲撃されたのだろう。

 クロリアは囚われている漁民たちに目を戻した。同時にここに来る過程での馬車からの景色を思い出す。

 漁港は至って普通に活動しているように見えた。そして、ここにいる漁民は想定される人数より少ない。つまり、これは自分に対する踏み絵であって、自分が敵ではないということを漁民たちに示す必要が、ハートたちにはあるのだろう。

「この方はサンクロリア王国の第七王女、サナ内親王殿下である」

 一同が、どよめいた。サナは“ディーケ卿”としてではなく“王女”としてサナを紹介したクロリアの意図を見抜いたように話し出す。

「昨今臣下の身分ながら王家の権勢を脅かしているクロリア家が、そなたらの内情に口を出したと推察するが、どうか」

 ハートはもう完全に銃口を下に向け、呆けたように口を開けていた。

 結果的に言うと、サナの言う通りであった。クロリア家は漁民の権利を制限しようとし、神官権限で国内すべての漁港に漁獲制限を通達した。漁民たちに泣きつかれたクロリア家と対をなす名家のバース家は、クロリア家に関係する人間を漁港から追放してもよいというニュアンスで陳情に回答した。

一方ミチの同僚たちは一般市民であるため苗字を持たず、ハートが親だと言う人のクロリアがクロリア家とは無関係であることを知らなかった。サンクロリア王国における名家クロリア家のクロリアは苗字であり、ハートの父親のクロリアの苗字はマースである。

「心配をかけてすまなかったな」

 “クロリア”を追い出せと勢いづいた漁民たちは、各地で“クロリアらしき”人間の職を奪ったり虐待したりした。この港でも、それが起きかけたのである。クロリアが、クロリア家とは関係がなさそうであることを確認した漁師たちに敵意は失われた。

「いえ、こちらこそ一芝居うってすみませんでした。そうしないと漁師たちが納得しないというので……」

 クロリアがいいんだという風に頷いてみせると、ハートはほっとした表情をした。後ろにいたミチはハートの前に出て、気になっていたことをクロリアに尋ねる。ハートは漁師たちの縄をほどき始めた。

「シャーレを知りませんか。あいつの店に帰ったはずなんですが」

「肉屋の主人か。――私はしばし牢に入れられており、マチという人の手助けで肉屋に逃げた。しかし官軍がこちらに向かっていると肉屋の従業員に言われ慌ててそこからも脱し、逃げる途中で王女と会ったのだ。肉屋の彼のことはわからないが、マチさんは恐らく戻らないだろう。市中引き回しというのだろうか、軍に見せしめにさせられていたらしいから」

 彼と親しかったミチは言葉を失う。こうなるとシャーレの生存も怪しかった。シャーレとマチ、そしてクロリアは合流しており独自の判断で動いているという幻想が崩れた瞬間だった。

「シャーレはマチの無事を確かめるために戻ったんです……。クロリアさん、マチはあなたを逃がして、シャーレに私へ計画の破綻を伝言させました。シャーレは末端の料理人に過ぎません。彼があなたを前もって逃がすほどの危機を感じていたのなら、それは“我々の動向が探られている”ということかと」

 監獄食を作る料理人は、マチの組織改革により改善されたとはいえ、まだ汚い職業と認識され貧民しかなり手がいない。そんな社会の末端の職業社会に潜り込むことは、スパイにとってそれほどリスクはないはずだった。しかし、現にマチは良くて王国軍に囚われの身で悪ければ殺されている。奇妙なまでに静かだった王女が口を開いた。

「それはあなたたちが変なはかりごとを企てるからでしょう」

 王女サナが、やや暗い口調で意味ありげなことを言った。話し込んでいた人々は、その言葉の意味に気づくや青ざめ、次に閃光が小屋に走るのを認めた。慌ててクロリアはのけ反りその攻撃を避ける。王女は続け様にまたも恐ろしいことを言った。

「あなたの息子、クリスって言ったっけ。あの子はもうこの世にいないわ」

 クロリアとハートは、今日以上の悪夢を他に知らなかった。何が何だかわからぬまま、激しい敵意に中てられ初動が遅れる。ハートの頬に赤い筋がつき、クロリアの右肩には血の染みができた。

「サナ王女、あなたの言っていたことは全部嘘だったのか?」

「サナ王女が何を言ったのかしら?」

「あなたは王家に忠誠などないと仰っていたではないか! 敵国のスパイを今殺す必要はなかろう――その必要があるとして、なぜ初対面のときに私を刺さなかった――それに、あの屋敷は」

 クロリアは力の入らない肩を左手で押さえながら後ずさり壁に背を預ける。クロリアはこの女と初めて会ったとき、追手から逃れて安心した瞬間だった。藪に息を潜めるでもなく気の抜けていたクロリアを、女は楽に殺せたはずだ。

「私がサナ王女だと誰が決めたの? フフ。本当の情報も与えて安心させておいて、前提条件である身分を偽る。スパイの常套手段じゃない。屋敷? あれは確かにディーケ卿の屋敷よ。本当の王女も殺してあるけどね」

「さてはお前はサンクロリアの……?」

 下がったクロリアに入れ替わるように出てきたミチが言った。

「違うわ。私はメラン国統帥直属のスパイ。クロリア、あなたに与していたミケ=マラ大佐は執政府の一室で不審死を遂げた。あなたの妻であるリア夫人は統帥に“生かされている”。意味がわかるかしら?」

 クロリアは固まった。

「あなたならわかるでしょう。あなたの息子ハートは肉弾戦に弱い。私一人でも仕留められるわ。あなたがしかるべき返事をしなかったら、あなたの息子は死に妻は辱めを受ける。そしてお仲間は爆死するかもね」

 女は腰から手榴弾を出してみせた。

「だけど、私って優しいから、あなた一人が来てくれたらみんな助けてあげようかな」

 思考を失い固まるハートを固めに、ミチが淡々と告げた。

「交渉になっちゃいないね」

「あんたは黙ってな!」

「いんや、商人気質の俺たちカタル=サクナは黙っちゃおけねえ。メランの統帥様がこのクロリアを欲しがってんのはわかるが、クロリアを渡せばこちらにあるであろう利益を、あんたは明言しちゃいない。これはスナマナ(交渉決裂)どころかマーナ(子供の遊戯)だよ」

 女は虚を突かれたように一瞬口をあけた。その怯みにクロリアは乗じる形で言った。

「私が行けば息子と仲間を生かすという交渉に、相対せよ。メレ?」

 女は聞き慣れない言葉に戸惑いつつ細く短い刀を頭上に構えた。通じない言語に対して身構える行為を取った女は、先ほどまでの会話には参加できていたはずである。――女は、単一言語圏の人間であっても商人の隠語を理解できていない。すなわちカタル=サクナではない。それは彼女が統帥の部下であることを宣言したときから勘付いていたことであったが、それが確信に至る。

「お前はなんだ――カタル族か、ミタ=ヴァ―レ人か?」

「答える必要は……ない!」

 鋭い突きがミチを捉えようとした、しかしハートが女の背後に回りこんだ。

「ならば永遠に答えなければよい。死ねッ……!」

 ハートは女の腰に手を回し、女の身体が固まったその瞬間に女を抱き上げ、ハート自身は反り返って女を投げ飛ばした。対人格闘において劣っていると言われたことがよほど彼の自尊心を傷つけたのだろう。

 ハートの運動能力を甘く見ていたのは、実の父親であるクロリアや組織の仲間のミチ、飛ばされた女だけではなかった。縛られたままの漁民たちも目を丸くしてハートの奮戦を呆けたように見つめている。

「クッ……」

 壁に立てかけられていた木材を倒しながら女はくるりと空中回転して着地体勢をとろうとするが、ハートはそれを許さぬ勢いで女と間合いを詰め、着地する瞬間に胃の腑の辺りに食い込むように拳を入れる。

「何?」

「甘いな、ほれ」

 女は油断しなければハートに投げ飛ばされることもなかっただろう。ハートを敵だと認識した今は、ハートの打撃を手のひらで受ける余裕がある。

 下から入れた拳を下に突き返されて重心が嫌が応にも低くなるハートに、女は技を絶え間なく繰り出す。大きく振りあげた足をハートのうなじに落とす。踵で撃ち落とされて神経に衝撃が来る。見開かれたハートの目を女は片手の指で潰し、目のなかに指を入れたままハートを押し飛ばした。

「目がッ」

 焦るハートを横目に、クロリアは着々と静かに怒りを増幅させていた。サンという回し矢使いに託したクリスを、この女は確かに殺したと言った。仲間の死にも冷静でいなければいけないスパイ組織の掟はクロリアの血肉には無い。ハートの視界が永遠に奪われた今、父親としてのクロリアの正当な殺気がひたひたと潮が満ちるように女に迫っていた。

「ふっ、これだけかい? あんたらの本気は」

 余裕をかます女に、他ならぬミチも怒っていた。国のために人を裏切る情報屋をやっていた組織の人間を裏切り、必要のない戦争に駆り立てたのはメラン国の軍人である。その直属の部下とあっては、ミチにとっては掟を曲げてでも倒すべき相手である。彼は激高した。

 その時、小屋の戸を乱暴に開けて漁港の小間使いが叫んだ。

「避難命令が出ています、聞こえなかったんですか? 皆さん早く逃げてください!」

 ミチは女から目を逸らさないまま来訪者に問う。開け放たれた扉から耳障りな鉦の音が聞こえてくる。

「何事です」

「海賊の大軍が港に近づいています」

「海賊ごときに構っている暇はない」

「軍の見解によると彼らは“ただの群れではない”、統率された暴力です」

 ミチとクロリアは目を見合わせた。

「どこの所属だ」

「それが……軍の人は曖昧な返事しかしてくれなくて」

 嫌な予感がクロリアにはした。どういうものかは説明できないが、とにもかくにもここを離れなければという焦りがクロリアの身体を支配した。音をたてずにネズミを仕留めるはずのフクロウの羽音を聞いたような気分だった。

「ハート、ミチさん、今すぐここをでましょう」

「父上、ここからどこへ行くんです」

「ともかくも、逃げるぞ!」

 クロリアは乱暴にハートの腕を掴み、彼を立たせようとした。視界を奪われたハートは思わずよろめき、クロリアは彼の失明を今更思い出したように息子をおぶっては走り出した。

 残された女は、クロリアたちの慌てぶりが伝染し混乱する漁師たちのなかで、薄気味悪く笑みを顔に貼りつかせていた。

「さて、あんたたちににげられるかねえ」

 統率されているという所属不明の海賊たちは、西の海からやってきた。サンクロリア王国は南東にあるメラン島と戦争をしているのであって、西からの招かれざる客に心底驚いたようだった――神官階級を除いては。王家の秘密はもはやクロリア家だけのものではなくなっていた。敬うべきでない王家を見限るか、それでもなお体制を保持するのか。神官勢力の思惑が片田舎の漁港にも及んでいたのである。

 馬車をひいてきた男は、避難命令を聞いて先に逃げていたようだった。なぜ教えてくれなかったのかと恨めしげにミチが言ったが、男は何も言わず拳を震わせながらハートの潰れた両目を見つめていた。


 サンクロリア王国とメラン国の戦争は膠着状態になっていた。いかんせんサンクロリアにとってメラン島は“いずれ国土に組み込まれる”べき土地であるから、下手に土地を荒らしたくない。さらに、そのメラン島に入植させる自国民も減らしたくないのであった。

狂った軍人独裁者の治めるメラン国に対して手早く大きな戦果をあげ、手早く有利な終戦協定を結びたかったと、サンクロリア王宮と遣わされた独裁者である統帥は口惜しく思っていた。

統帥による士気の高揚が効きすぎたのか、メラン軍がサンクロリア軍と互角に戦ってしまったのも彼らにとって誤算だった。わざと人死にが多く出る作戦を実行させても、人は死ぬが戦果も挙げてしまう。忌々しい自らへの狂信者に統帥はため息をついた。

そういえば駒だったクロリアも逃げたきり所在がつかめない。サンクロリア王宮配下の情報網が、自分に情報をあげてこない――あげられないのかもしれないと統帥は身震いした。

そう、メラン国の軍事指導者である統帥は、自分の直属の配下である諜報機関は持っていなかった。

謎の女はバース家の雇われ人だった。バース家は王家の秘密を知ってなお、体制保持を謳っていたが、それは王家への純粋な尊敬の念からくるものでは到底ない。この時点で王家への求心力は神官階級には皆無である。

バース家は東海岸に多くの土地を保有する特権階級であったが、サンクロリア王国は長く東のカタル族と戦ってきたためバース家の私軍は度々戦争に駆り出され、王国内での勢力拡大を阻害されてきた。

念願たる発言権拡大には、西の土地が欲しかった。しかし西に強いのはクロリア家である。

西から正体不明の敵が来たることをいち早く知っていたはずのクロリア家がそれを握りつぶしたのは、彼らと通じてこの国を乗っ取る算段だろう。――ならば、我々はその正体不明の敵を打ち払い、国防を成し遂げたバース家への畏敬の民意を片手に土地をいただく。もちろん王家には傀儡となってもらう。

そのついでに、クロリア家の血を継ぐクロリアも消しておくのが無難だとバース家は考えた。

「防衛戦争の混乱に乗じてあの混血も消しておけよ」

 青天の霹靂であった未知の敵の強襲に、いち早く軍を出したのは言わずもがなバース家だった。海賊船などいないと言った手前クロリア家は動けない。ざまあみろと呟いたのはその軍を率いるバース家当主の次男だった。

「しかし忌々しい……この土地がクロリア家のものだなんてな」

 サンクロリア王国の繁栄はひとえに西側に偏っていた。そしてそれを何代にも渡って享受してきたのは、目の上の瘤であるクロリア家。ディーケ地方を治めていた人間は消してあるが、念には念を入れねばならぬ。

「うまくやれよ、サクナを裏切る者」

 愛する子を人質に取られた馬車を御す者は、仲間を殺すことを言い含められ、解き放たれた。そして今、殺すべき対象が目の前にいる、一人は視力を失って。

「できない……」

「どうした?」

 男は背を向けていたクロリアに聞かれたことを恥じ、視線を逸らせた。

「い、いえ」

 喉が渇いて声が出ない。何を言っても言い訳にしかならないからだろうか。

 敵を裏切ることをなんとも思わないのに、仲間は裏切れない。それはエゴではなかろうか。そんな思いが男に去来した。

「エゴでもいい」

 喉のつかえがとれたようだった。幸いにも、今度の男の言葉を聞いたものはいない。

「分かってくれるな……愛する娘よ」

 男は舌を噛んだ。次々にあふれ出る血を飲み干し、それでも足らずにささくれた舌で一つの奥歯を動かし、カプセル状の毒薬を嚥下した。

血を胸いっぱいに染み込ませた青白い同胞の姿に最初は驚いたミチだったが、口のなかに手を入れたときに感じたヒリヒリという刺激に全てを察した。と同時に、男が自死を選んでくれなければ喉元に迫っていた矢に気づくこともなかったのだと思うと身震いを隠しきれなかった。

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