水底
ハートは鬱蒼としげる森のなかで野宿していた。サンクロリア王国は大陸から突き出した半島に存在する国家である。サンクロリア東部一帯を、東港周辺を残して覆う森を抜けて、反対側に出たところにいい漁場があるという。
「とれたての貝はうめえぞ。食べたことはあるか?」
素潜りの達人とも呼ばれるこの男はミチと名乗った。
「いえ……実家は農家だったので。あと海軍訓練兵時代も、演習が忙しく新鮮な海鮮物を食べている暇はありませんでした」
海軍という言葉にミチは反応した。興味深そうに話を盛り上げる。
「へえ、お前元々海の男なんだな。それなら直に暮らしにもなれるよ」
ポンポンと頭を叩いてくるミチにハートは肩身が狭そうだ。
「いえ、僕は体力があまりなくて、海の男っていうほど男らしくないというか」
謙遜するハートにミチは断言した。
「お前の体力が軍人にしては劣っているのはわかるさ。しかしだ。お前は今まで俺にちゃんとついてきてるじゃないか、やわな男ならとうに音をあげてるぜ――あと、お前はれっきとした海の男だよ。実際に海に出なくてもわかる」
ハートはミチの言葉を世辞と聞き流した。仕留めた野兎を捌くミチにハートは気になったことを聞いた。
「そういや、基地からだいぶ離れたところにありますよね」
「俺の仕事場か?」
「はい」
ミチは手を作業の手を止めてハートの顔を見る。
「危険な思いをしてまでなぜ、定期的に、マチさんは基地に帰ってくるんですか」
潜伏先から出るということはすなわち、尾行される危険性が付きまとう。定期的に基地に帰るなら、嘘の行き先を用意する必要もある。そこまでしてなぜ基地に戻るのか、ハートには不思議だった。
「まああれだ、俺の生家とされている家の主も同志だからな、多少ごまかしは効く。あと、どうもサンが気になってな」
「彼がですか」
「ああ」
ミチはうなずいた。
「“あれ”は、育ての母親を失ってから笑顔を見せていない」
ミチはそれきり黙りこくる。陽気な海の男だとばかり思っていた人間が深刻な顔をしては、ハートの胸がざわめく。聞いてはいけなかっただろうか、そう思ったとき
「まあ、表の顔のときは鳥が食べられないだろう? それが一番の理由だ」
そう快活に言ってみせた。
確かこの国では蛮族の風習として宗教的に鳥食が禁じられていると聞く。そしてその蛮族とは我々のことであった。ハートはたちまち現実を思い出す。
「鶏肉はやっぱりうめえ。魚も貝も旨いが鳥には代えられない」
ミチはいつもの陽気さを声だけでは取り戻していたが、眉が少しだけ寂しげだった。
「そろそろお前も髪を切るべきだろうな」
兎肉を頬張りながらミチが呟いた。カタル族は伝統的に、頭髪を一か所だけ伸ばして編む辮髪を男女問わず行っている。
「いよいよですか……」
いつもは気にしなくても、生まれたときからあった風俗を切り捨てるのはたやすくない。まるで、自分そのものを否定するような嫌な気分になるものだ。ハートもそうだった。
「嫌なら、やめればいい」
「えっ?」
ミチは言った。ハートは思わず肉を落としてしまう。慌てて拾い、土を払って、しかし食べることをせずミチの顔をじっと見つめた。敵国の人間だと宣伝するようなことをしては、ミチも危ない。
「ここからなら、引き返せる。明日には街に出る。覚悟ができないなら帰れ」
いやに厳しい口調だった。しかしそれはミチの優しさである。
「帰れば誰かが故郷(メラン)への道を立ててくれるだろう」
「嫌です!」
ハートは叫んだ。叫んでから慌てて口を押さえる。それを見てミチがやや微笑んだ――ように見えた。
「きついぞ、いいのか」
「難しい任務なんですか? それとも潜水に体力が要るとか」
「違うんだ。よく聞いてくれ――君は、仕事仲間が貶めるべき敵という事実に、耐えられるか?」
わかっていたことだったが、いざそのことを思うと裏切る瞬間のことが想像できない。想像できたら不幸にもその場面が来てしまったときに楽だろうとハートは思いを馳せた。その幻想は打ち砕かれる。
「俺たちは調査対象の秘密も、何気ない会話も、すべて求められれば差し出さなければならない。差し出すときは一瞬でも、裏切りは会ったとき、対象と接触したときから始まっているんだ」
ハートは黙り込んだ。渦を巻くように色々な言い訳が頭に浮かんでは消える。祖国を牛耳る裏切り者を倒すため、故郷に帰るため。思いつくがそれは、騙される側も納得する理由にはなりえない。何か行為を行ったとして、行為を受けた側が許せない理由があったとすれば、その行為は犯罪そのものなのではないか。
サンクロリアは交戦中の敵国である。わざと母国を負けさせようとしている者がいる。そんなことが、これから出向く浜辺の漁師たちに関係あるのだろうか。
「まあ、あと一晩あるからな。しっかり考えるこった」
翌朝、朝日がいつになく厳しくハートのまぶたを射った日。一晩考える間もなく出ていた結論を、太陽が今一度質した気がした。それでも答えは変わらない。ハートはゆっくり目を開く。
「起きたか」
ミチは言った。温かい声だった。
「ミチさん、やっぱり俺は行きます」
「そうか。ほれ、朝飯だ」
差し出されたのは木の蜜を使って作ったというジャムをつけた硬いパンだった。
「そろそろ干し飯(ほしいい)もおしまいだ。この国のパン食に慣れなければならない」
パンというものが嫌いという訳ではなかったが、どうも口の中が渇く気がして米食の方が好きだった。しかし任務のためならとハートは口いっぱいにそれを頬張る。
「え……」
口の中いっぱいに広がる甘い香りがした。まるで花弁を食べているような感触だった。木の蜜なのになぜこんなにも香り豊かなのだろうか……。
「マチのやつが作ったんだよ。俺たち同志も、パン食に馴染めるようにとあいつが作ったジャムだ。どうだ、前ほど口が乾かないだろう」
花弁を噛むような香りの次には、子供の頃に花の蜜を吸ったときのような水分が口に広がった。硬いパンも驚くほど食べやすくなっている。
「おいしいです」
「そうだろう」
心なしかミチは嬉しそうだった。
「さて、これから俺たちは枯れ枝売りになる。次の町の人間は今の時期に冬に備えて枯れ枝を取っておくのだが、働き盛りの男は出征でいないからな。女の子がするところもあるが、老人だけの世帯だとそれも厳しいだろう。だから枯れ枝を集めて安く売ってやると喜ぶんだよ」
「なるほど」
二人は荷物をまとめて周囲の枯れ枝を拾い集め始めた。
「なるべく湿ってないのを選ぶんだぞ」
「はい!」
十分な量の枝が集まったところで、ハートの髪は切り落とされた。きれいに頭を剃りあげられたハートは、還俗したばかりの元僧侶という設定になった。
サンクロリアでは国王が宗教的指導者も兼任している。進んだ同化により国王もさすがにカタル族を神に反する蛮族とは言わなくなっていたが、戦争が始まってからはその論調が復調の兆しを見せているようだった。
国王の下には政務を取り仕切る神官がおり、その下に様々な階級の僧侶がいる。
本来僧侶を名乗るには国王の名による認定が必要だが、戦争の混乱でそこは多少曖昧になっている。そこに付け込んだ形だ。
できることならそのような危険な身分偽装はすべきではない。基地にいるときに髪のことは片づけておくべきだったのだが、ミチの優しさがそれを遅らせたのだろう。あるいは、ハートがすぐに諦めると踏んでいたのかもしれない。
「さあ、いくぞ」
「はい」
二人は町に向かった。
森を抜けたところに小さな集落があった。顔見知りの老婆がミチを見つけては、郷土料理だというトチモチを振る舞ってくれた。
「おうおばあちゃん、さては若造に惚れたな」
「そんなことないわよ……でも、久々に若い男の子を見たわね」
なんでもトチモチはトチの実というアクの強い果実を何重にも処理してやっと作られる手間のかかったお菓子らしい。
「おいしいです」
ハートの言葉に老婆は照れたような顔をした。
「ありがとね」
「しかしこれを食ったのは久々だなあ」
ミチは幸せそうな顔をしていた。こんなときに、ハートは思い出してしまう。関わったすべての人の情報を売りさばく日がいつかくるかもしれないという事実に。
「どうした、具合でも悪いのか? おばあちゃん、奥の部屋を貸してやってくれんか」
ミチが浮かない顔のハートを“対象”の老婆から隔離してくれた。肩を貸され歩きながらミチに小声で言う。
「ありがとうございます」
「気にすんな。それに連日の野宿で疲れたろ。久しぶりに布団で寝てな」
ハートはミチの優しさに甘えることにした。綿の入った布団で寝るとよく眠れた。
さすがに寝すぎたかと気怠さを覚えた身体をゆっくり持ち上げたハートは、窓からもれる静寂から外がすっかり暗くなっているのを認めた。森は時折吹く風に思い出したようにざわめき、すぐに静けさを取り戻す。
「……ミチさん?」
横で呻く声がしてハートは声をかけた。顔を覗きこめば確かにミチだった。
「どうしました」
葉についた夜露のような汗を顔いっぱいに浮かばせてミチはうなされていた。
「ミチさん、ミチさんッ。悪い夢でも見ておられるんです」
肩を揺さぶると、ミチは二回呻き、胸を押さえて咳をし、閉ざされた瞼をさらに強くつぶって、手を頭に当てながら目を開けた。
「大丈夫ですか」
「ああ」
明らかに大丈夫ではない枯れた声でミチは言う。
「昔の夢を見ただけだ。悪かったな、起こして」
「いえ……」
大きく首をふってハートはミチを慰める。
「僕は十分寝ましたから。それよりもう夜なんですね」
振り返った先には窓があった。
「あのばあちゃんには了解とってあるから心配すんな。ばあちゃんお前のことよほど気に入ったのか、明日の朝飯まで用意するとか言うんでな。お言葉に甘えたんだよ」
そう言ってミチは目を細めた。
「あのばあちゃん、ちょうどお前くらいの息子を戦争で亡くしてる」
「そう、だったんですね」
ミチは微笑んだ。
「だから、今日明日(あす)くらい息子の代わりを演じてやれ」
わかりました、とハートは答えた。
翌日は雨だった。砂時計のただ中にいるような絶え間ない音が人を憂鬱にさせるのか、ミチはいつもより無口だった。
「んじゃ、行くか」
「はい」
剃髪僧のなり損ねという設定の使い勝手の良さに気づく。世俗に帰ったばかりで習慣に疎く、返事だけはいい人間を演じておけばしばらくは大丈夫だ。
しかし、気になるのは僧の仕事である。僧がどういうことをするものなのか知っておかなければ、いずれ話題に困る気がした。
「あの、ミチさん」
荷物がある身で傘をさすのは不便なので、二人とも蓑を羽織っている。雨脚はやや強まりつつあった。集落から延びる道をずいぶんきており、家々はもう遠く小さいところにあった。
「サンクロリアでの僧はどんな仕事をするんですか? 神官の部下だから宗教行事でしょうか」
商人の国であるメラン国にも宗教がないわけではなかったが、元来商人というものがある土地に長くとどまることをしないのであちこちの宗教観を各人が取り入れており、カタル族由来の宗教の影響力は弱まっている。それゆえ若いハートが宗教に現実味を持っていないことはやむをえないことだった。
「いや、宗教行事は神官がやるんだ。僧は現人神の王の下で働くという名誉と引き換えに安月給で働かされる体のいい官僚だ。色々な部署の僧が普通に事務作業をしていたりする」
ハートは目を瞬かせた。
「それにだ。僧のうちの優秀な者は国の宗教行事に動員されたりするようにならなくもないが、神官には絶対になれない。神官は身分なんだよ。その血統のものしかなれない。あと、僧は各家庭から一人は絶対に輩出する不文律があるから、男子が一人しかいない家は事実上断絶してしまう」
「その……不文律っていうのは、破れないのですか?」
「事実上破るのは難しいだろうな。僧を輩出するのは王家への服従を誓うことを暗に意味する。差し出さなければ、その家が周辺から村八分にされてしまう」
先進的な王国とばかり思っていたハートのサンクロリアへの印象が崩れていく。ずいぶん前時代的だとハートは感じた。
「体のいい人質ですね」
ハートは素直な感想を言った。
「そうさな。体のいい人質であり、体のいい労働力というわけだ」
サンクロリアの闇をハートは見たような気がした。
クロリアは薄暗い地下牢に一人の人間が下ってくる音を聞いた。ペタペタと音がしている。軍靴ではないことだけはクロリアにも理解できた。
目隠しをしてクロリアはここに連れられた。出口から真っすぐ階段が下りてくる訳でもなく、曲がりくねった道の先は囚人には見えない。誰が来るのかクロリアは最後まで掴めずにいた。
「やあ」
場所に似つかわしくない陽気なあいさつをして男が立っていた。クロリアは鎖に繋がれて跪いている。まず目に入ったのは来客の足元だった。
「下駄か?」
「スリッパと言いましてね。靴を履くまでもない場所で主婦などがよく履きます」
それは靴から踵とつま先を取ったような形態をしていた。
「……あなたは?」
「マチと言います。あなたの食事を作ってきた者です」
柵越しに手が差し伸べられた。少しだけ目を見開いたクロリアは、笑って言った。
「あいにく手は塞がっておりまして」
マチと名乗った男もハハハと小気味よく笑う。
「直に自由になりますよ」
そう言うとマチの隣にいた聾の牢番は鍵をあけ、クロリアの自由を奪う鎖を解いた。
「行きましょうか」
「どこへ行くのです」
マチは先を進み、聾の男はクロリアの腕を肩に回させ身体を支えながらマチに続く。連れてこられたときは目隠しをしていたので正確ではないが、来た時の道順ではないようにクロリアには感じられた。そしてやや上り坂であるとも。
「あなたには国王に毒を盛っていただきます」
謎の地下通路を散々歩いた末、辿りついたのは厨房のような場所だった。金属で統一された清潔な印象の部屋に、まな板や包丁が整頓されて置かれオーブンのような場所もある。
「ここで、あの混ぜご飯を作りました」
「ああ、あなたが」
クロリアは納得する。マチはカタル族の血を濃く引くカタル=サクナであった。その直感を裏付けるように、マチは髪の生え際に手を入れ、ひょいとかつらを取ってみせた。はらりと綺麗に編まれた辮髪が垂れ下がる。
「コボナの出汁がよく出ていましたでしょう」
マチは得意げに言う。心なしか胸を張っているような気がした。
「ええ。しかしこれからどこへ行くんです」
マチは顔を冷静なそれに戻し、囁くように告げた。
「今私の同僚たちは休息時間で町に出ています。この部屋を出て二番目の角を右に曲がったところに勝手口がありますから、そこから脱出してください。それから、牛の肉を扱うメレという肉屋を探してください。そこの主人は同胞です。話は彼から聞いてください」
幼いころから秀才と名高いクロリアには手順を覚えることなど造作もなかった。次々に放たれる言葉の端々まで何かに書き記すこともなく記憶し、それを実行するだけの力がクロリアにはある。
「肉屋メレ、か。信用の置けそうな名だ。――万事了解した」
クロリアは差し出された短刀で髪の毛を切り落とした。マチが生ごみにでもして処理してくれるのだろう。
「それにしても、牢獄から直結する通路を作るとは、たまげたな」
マチは不敵に笑った。
「信用のなせる業ですよ。緊急時の通路に使うと言って作らせました」
そうかと言ってクロリアは走り出した。用意のいいマチがどこからか持ってきていた帽子と上着を手に持って、勝手口に急ぐ。
音をたてて乱暴に戸を開け、同時に帽子を被る。仕入れ先への使い走りにされた料理人に化けられていたらいいが、とクロリアは考えていた。
足早に歩くクロリアに数人の人間が不快感を示したが、それは肩がぶつかったからなどというたわいもない理由からである。囚人であるということは幸いにも誰にもばれなかった。中に着ているのは囚人服だというのに不信感を抱かれなかったのは、上着が格式の高い銘柄のものだったからだろうか。
「牛肉を買いたいんだがいい店を知っていますか? 久々に町に出てきて風景が違いよくわからないんです」
“肉屋メレを探している”などとは言わない。最初からある店だけに行く人間はその店に単なる買い物以上の何らかの目的を持っていると見なされる。肉屋の所在を探す人は肉を買う人でなければいけない。
「ああ、ここらで牛肉ったらメレが有名だね。しかし最近の大不況であそこも大変らしいよ」
一発で店名が出てくるとは思っておらず、クロリアは心のなかで喜んだ。しかしそんな素ぶりはみせない。
「そうですよね……ただ妻にたまにはいい肉を食わせてやりたくて」
世間話に合わせただけのつもりが、やけに感情がこもってしまった。最愛の妻リアは今どうしているだろうかと胸がざわつく。それがかえって演技に説得力を加えたらしく、病気の妻をもつ紳士というイメージを相手は勝手に作ってくれた。
「大変ですね。奥さんのためにいい肉が見つかればいい」
「どうもありがとう」
礼を言って、クロリアは指定された場所に向かった。果たしてそこには朝日を思わせる赤々とした看板に「新鮮・美味しい 牛肉といったらメレ」という文字が躍っていた。
「もしもし」
「お客さん、初めてだね」
それとなくクロリアは目配せをした。肉屋メレの主人は読んでいた新聞を畳みクロリアに歩み寄る。
「どんな肉をお探しですか」
「心臓の肉を買いたい」
初めて来た客に親切にする体で内臓を冷やしている奥の貯蔵庫に誘う。クロリアも彼の後ろに続いた。
一つ角を曲がり、外からは見えない場所に出た。真っすぐ行けば貯蔵庫があるが、横を見ればもう一つ戸がある。長い間使っていない倉庫としか見えない汚れた戸の前で、主人はクロリアの腕をとりそっと引き寄せる。
「聞いています、あなたはクロリアさんですね。指定した帽子と上着を奴はちゃんと揃えたようだ」
暗号でもなく、信号でもなく、服装でクロリアの変装と身分の伝達を済ませていたことにクロリアは感嘆する。
「この戸の向こうで待っていてください。閉店まであと三刻ありますので。手でつまめる菓子と茶くらいは用意してあります」
ほこりがかぶった把手に小指をかけて、開いた先の空間は広々としていて小奇麗だった。部屋の真ん中には二人分の座椅子と脚の短い円卓があり、ここに来た来客は座って主の歓待をうけるということがわかる。
円卓の上には生菓子と茶葉の入った円筒状の入れ物があった。クロリアは生菓子を口に含む。甘い果物の香りが口の中に広がり急いでここまで来た疲労が取れていった。
「この類いの菓子は時間がたてば硬くなると聞いたが、柔らかいな。計画が時間通りに進んだということなのだろう」
クロリアはその菓子を、そこにあった三つ全て食べてしまった。気を張り詰めていたので糖分を身体が欲していたのかもしれない。
三刻後、主人がやってきた。
「どうも、お待たせしました……あらら」
胡坐をかいたまま夢鼓を打つクロリアの後ろには二人の男が立っていた。
「父さん」
肉屋の主人と、クロリアの長子クリスだった。
ミチと共に潜水士の仕事を始めたハートは、徐々に仕事仲間の信頼を勝ち取っていった。
海水のなかに目を開いたまま顔を浸すと、当然のことながら目に塩水が染みる。しかし歴史ある潜水士たちは眼鏡のようなものを使おうとしない。ハートが海水のなかで目を開けたまま長時間そのままでいられるようになったのは三か月ものちのことだった。
それでも先輩潜水士たちの十分の一の時間も潜れない。ハートに与えられた領分の浅瀬の貝はすぐに獲り終えてしまい、潜水士たちの妻と晩飯の用意をするのが恒例になっていた。
そんなある夕方のこと。船を出して魚を獲ってきた漁師に、貝と魚の交換をしてもらう役目をハートが担った。内地に売りさばく商品にはならなかった小ぶりな魚や、内地に送るまでに腐ってしまう種類の魚、傷がついてしまった魚などは近隣の家々で分け合うのが慣例である。
いわば潜水士見習いのハートを近隣に紹介する通過儀礼のようなもので、役目を言いつかった人間はハートだが付き添いでここらの潜水士を束ねる長の妻に帯同する形だった。
「はじめまして、ハートと言います」
「私は遠洋漁業をしているミラという。よろしく頼む」
そのころ岩場で終業までの追い込みをしていたミチは、やけに周囲が静かなことに気づく。
「やけに静かだなぁ」
言った瞬間に息を呑む。周囲には確かにいなかった、潜水士の仲間は。
ついさっきまで笑い合いながら仕事をしていた仕事仲間たちが、燃え盛る松明を持って岩場の周りを取り囲んでいる。
岩場には、今朝がたに駆除したはずの猛毒を持ったウミウシが大量に放たれていた。
時は満潮に近づき、岩場の周りは大半が海水の下になった。ウミウシは海水を避けて岩場に上りながら松明にひかれてミチに尻を向けている。鮮やかなウミウシとその向こうに燃えたつ松明は幻想的な光の風景を醸し出していたが、これが人生最後の風景になるなら一生御免だとミチは思った。
「水底に沈め、サクナ(裏切り者)」
「サクナ、か」
民族名にこんな名詞が入っていることがおかしいのだと思った。悔しさが胸にこみ上げて、しかしすぐその感情は、生まれてからずっと身の中に持っていた感情の逃げ場に霧散した。霧となった感情のなかに、懐かしい風景が浮かび上がる。
本当の人間として感情を出すことを長い間できない生活をしてきた。カタル=サクナだというだけで実の親を殺された子ども同士だったマチと、スラム街をよくたむろした。善人を強請っても得られる銭はわずかだった。
どうせ悪事をするなら、本国の人間を守る穢れ役をしないか、と言われたのがきっかけだった。これが走馬灯なのだろうか、自分が組織に入ったときのことを思い出している。その人は自分と肌の色も髪の色も違ったのに、なぜか同族だと確信できた。その感覚こそがカタル=サクナの同胞である印だと言われた。依るべき場所ができたことに安堵した。それが国だろうが人間だろうがどうでもよかった。
他国に溶け込み新鮮な情報を上にあげる。他国に芽生えたほんの少しの不信感や、民衆の動向を事前に察知することで多くの人間が死ぬ戦争を避けられるかもしれないと言われた。自らは泥をかぶり次善を為そうとするその人は、どんな神話の全知全能の神より尊く見えた。
開戦前夜、制空権と制海権をかけた海戦でサンクロリア海軍が奇襲作戦を弄していることを掴んだ同志がいた。彼の部下が本国にそれを伝えに行くと、なぜか伝令役の男は帰らなかった。
それ以前に、サンクロリア王国とメラン国が戦争をしなくてもよかったかもしれないのだ。メラン国は古米と呼ばれる一年以上前に収穫された米を国が強制的に徴収し国庫に貯蔵している。その年に収穫された米のうちの何割かを国庫に備蓄する制度があった。組織の人間の認識では、切り詰めれば向こう二、三年はメラン国民を養える量があったはずなのだ。わざわざ戦争を仕掛ける理由がない。米の平等な分配を望まない勢力、あるいは人間が身内にいるとしか思えなかった。
そんな折に、サンがクロリア隊の少年たちを連れて来た。彼らいわく、メラン国の頂点にいる統帥と呼ばれる軍人が、敵国に通じて利益を得しめようとしているという疑惑があるという。なんとなくそうだとは思っていたが、確信が得られずにいた疑惑に裏付けが得られてしまった。ミチだけでなく、組織の誰もが憤った。穢れを背負って守りたいと思ったモノが自分たちを見捨てたのだ。
ミチはその時から密かに進めていた計画があった。兄弟も同然と思っているマチとの連携もあるというのに、こんなところで死ねない……。
「我らを裏切りし者よ……カタル=サクナの心を見よ!」
赤々と血を送り出す自分の心臓を、天高く差し出して見てもらいたかった。サンクロリアの王を殺すことで、この戦争はこれ以上民衆の死を伴わずに終わらせられると信じた自分の心臓は、穢れていますか?
メラン国では統帥が相互不信を駆り立てていると聞く。今さら国に帰るのは不可能だと思っての計画だった。
「せめて、ハートは生きて返さないと」
クロリアという母国の英雄の子を、死なせるわけにはいかない。あの若者に、この背にのしかかる重りを背負わせてはならない。
「死ねるかッ」
松明が消され、ウミウシが一斉にこちらを向いたその時、荒れだした海にミチは飛び込んだ。
海は荒れており、服を脱いで身軽になることに手間取ってしまう。そうこうしている間に波が口にかかり、塩水を何度か飲んでしまった。これでも海の男であるから泳ぐことはできる。しかし、荒れた夜の海となれば話は別だった。
潜水用の防水服から水が染み込み、衣服が水を吸って重くなっていくのが感じられた。やはり、自分はここで死ぬのか……?
「ミチさん!」
故人の顔が脳裏に浮かぶ。とうとう迎えが来たのだろうか。
「ミチさん、しっかりしてください!」
波の踊る海にいる感覚を引きずって、ミチはじたばたと四肢を泳がせた。しかしそこは陸上で、自分は生きている。
「ハート?」
自分の肩を揺さぶるのは確かにハートだった。しかし、自分はなぜ助かったのだろうか。
「俺は……なぜここに」
支えられて上半身を起こせば、見えたのは手足を縛られ地面に伏している仕事仲間たちだった。
「お前が、やったのか?」
「いいえ」
ハートは首を振る。
「ならば誰が……」
ミチは息を飲んだ。そこには見慣れた顔があった。
「いい肉が手に入ったんだ。食べるか?」
その人はそう言って笑った。
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