二人の隊長
追手が山道に差し掛かった。いると言われた場所に対象はおらず、手分けして周囲を探索することになったのだが、一向に町に出没した気配がない。このまま真っすぐ町を行けば港がある。海に囲まれたこの島から出ようとするのならば、遠回りでしかない山道はとらないだろうと思い探索を後回しにしていたのだ。探索隊の隊長はままよと呟いた。対象を捕縛するのが一刻遅れるだけで肝が縮む思いである。
確たる情報から絶対にまっすぐに海に通ずる街道を進むだろうと隊長は思っていたし、彼に命じた統帥も思っていたに違いない。圧倒的に有利な立場にある軍本営の手の届く範囲から一刻も早く逃れたいだろうと対象の心中を推測したのだが、これが裏目に出た。切羽詰まっていたのは統帥側も同じだったのである。時間が経つごとに、探索隊隊長の焦りは募るばかりであった。
海に面して右翼側の隊から、信号煙が昇るのが見えた。
「紫……だと」
紫は襲撃により死者多数の意である。しかし、信号煙など独立戦争以来軍の通信手段ではなくなっている。三十年で通信技術は発達した。彼らは軍から配給された無線機を持っているはずなのだ。
「応答せよ、応答せよ」
隊長は焦りのあまり、散らばっていた自分の分隊のメンバーが完全に集まるのを待たずに右翼側に、市街地を突っ切って駆けていった。
取り残された隊員が慌てて追おうとすると、今まで気配一つ感じなかった藪のなかから鋭い殺気が立った。口をなにかで覆われ意識が朦朧とするなか、冷たいものが首筋を伝う感触を最後に、彼は自分を殺した人間の顔すら見ることなくこと切れる。
「息子たちよ、つつがなくやれよ」
滴る血を払い、きれいに畳んだ白い布を背嚢から取り出してはまだ残る血をさっと拭う。それだけの余裕が彼――クロリアにはあった。
紫の煙をあげたのはクリスとハートだった。クロリアが妻リアを偲ぶために持っていた、カタル族特有の度のきつい地酒を布に染み込ませそれを口にあてると、屈強な軍人であっても意識が飛んでしまう。必ず口が大きい器に入れ、三刻は放置してアルコールを飛ばさなければいけないと言われるカタル酒は、ここでも案の定コロコロと敵を失神させた。
(絶対自分は吸うんじゃないぞ、ハート)
(わかっている、兄貴)
利き腕じゃない方の軍服の袖を口に当てて風上に立ち、風下の敵が背を向けた隙に後ろから素早く肩を押さえ例のカタル酒を吸わせるのだ。クロリアは風がどちらを向いても計画が遂行できるよう、海に向かって左右にある山地のどちらにも同数の部隊を潜ませていた。更に言うならば、風が岸に直角に吹く海風や山風の時間帯を避けて、あえてここで追手に“追いつかせてやった”のだ。
混乱する敵はクロリアの部下たちが次々に仕留めていった。逃げおおせる敵もいたが、深追いはしなかった。彼らの主もお怒りであろうから、道さえ開ければ少数落ちのびても構わない。
甲高い銃砲の音が左翼側から響いた。突然山から逃げ下りてくる軍人と突然の銃声に、敵が逃げた先の市街は大混乱である。
「兄貴!」
「ああ……総員、進め!」
兄弟はズンズン山の中を進み、同じく向こう側の山を進んでいるであろう父親の指示通り、港の船を強奪する目的がある。
船の所有者には、国を守るということで詫びよう。そうクロリアは言った。本来このようなやり方を好む人間ではない。
「軍の者だ。その船を借りたい」
「あ……あっしの船で逃げるつもりで?」
漁民の男は混乱のなか市民を置いて逃げるのかと殺される覚悟でクロスを睨み付けた。今まで家族を養ってきた船である。高価でもあろう。失いたくはないに違いない、しかし……。
しばし押し黙るクリスの後ろから、時間差なく合流したクロリアが、静かな、しかし威厳のある声で男を説得する。短い言葉で、しかしゆっくりと、目を見て話した。
「すまない。必ず返す、約束しよう」
「軍人の約束ほど信用ならないものはねえ」
「やめなよ、あんた」
男の妻と思しき女性が割って入ってくる。
「命には代えられないわ。船を差し出しましょう」
「俺たちが代々魂を乗せてきた船を、簡単に明け渡すと言うのか、この裏切り者(サクナ)め!」
民族名にもつけられた屈辱的な言葉を聞いて、クロリアの視線は強くなった。その目には怒りと悲しみがあり、ここにいる誰にも向けられない、向けてはならないそれをひとしきり持て余した後、苦しげに声を発する。
「船を差し出さなくても命をとることはない」
「嘘をつけ! 軍人風情が」
「嘘ではない。私はもう軍人ではないのです」
何を言うのかと目を見開く男の前で、クロリアは胸につけた勲章を引きちぎり、海に投げ捨ててみせた。隊内にも動揺が広がるが、クロリアの覚悟は伝染し、それもすぐに収まった。
「なら貴方は何者(なにもん)だ……」
力を抜いた男にクロリアは告げる。
「私は国士です。国の行く先を憂う者……」
その言葉にクリスがまず反応した。ハート、隊員たちも次々に軍帽を投げ捨てていく。
男はガックリと膝をついた。そしてぼそぼそと語りだした。
「貴方が軍人ではないのなら、仇をとってくだせえよ」
「仇?」
「敵さんの船を見つけて駐屯兵団に報告しに行った漁師仲間が戻らねえ……きっと殺されたんだ。粗相を犯したんだか知らねえが、殺すことはねえだろう? 奴の奥さんはショックで死んで、お嬢さんは売られちまったよ……俺にはどうすることもできなかった」
クロリアは言わなかったが、これは敵の奇襲部隊発見の報告を軍部が握りつぶした一例だろうと思った。船の前に立ちふさがっていた男が道を譲ったのを見て、クロリアは歩を進めるとともに素朴な疑問をぶつける。
「なぜその漁師は戦時に海に出たのです」
男は笑って言った。
「決まってんだろう? 海に出ないと食えねえからだよ。それに、その日はその海域でドンパチやらねえって軍人さんが言ったんだ」
そうかと呟いてクロリアは漁船に乗り込んだ。隊員も黙々と続く。死者の行進のように彼らは静かで、暗い顔をしていた。
「感謝するぞ……」
帆船は勢いよく押し出され、押した者も船に飛び乗って帆をあげるのを手伝った。たちまち夜の陸からの風に船は乗り、グングン沖に出ていく。船が見えなくなった頃、やっとのことで態勢を整えた追手の隊が海岸に押し寄せた。
「逃げていく軍人を見なかったか?」
「いんや、こっちには来てませんで」
「そうか」
一言二言交わしただけで隊はあらぬ方向に走り去っていく。
「あの方は軍人じゃねえからなぁ」
やれやれと肩をすくめながら打ち寄せられた海藻を拾い、力なく家に帰るその男と妻は、生業を失ったことから食料を満足にとれず、一か月後に餓死した。
帆をあげた船は地平線が見渡せるくらいには沖にでていた。しかし操業は危なっかしい。隊長のクロリアさえ、文献でしか船の構造や操船法を知らない。
「この紐はなんだ?」
「あっ、それは、今は引っ張っちゃいけない!」
海軍の訓練兵だったハートに質問が始終飛び、そのハートは右往左往で応えようとする。しかしハートの知識とて完全ではない。彼が動かしてきたのは蒸気船である。
ドタバタとはいえ、特に海も荒れておらず敵もおらず、ひとときの平和を隊員は享受していた。五時間の航海ののち、陸が見えてきた。戦争を行っている真っ最中のサンクロリアとメラン国は最短でこれほどしか離れていない。
「いよいよですね……隊長、これからどうなさるつもりですか」
戦果をあげて売国を行う国のトップを困らせるのが目的である以上、これから陸に武装して上陸し敵国土を攻略するとばかり思っていた隊員たちは、クロリアの次の言葉に驚愕した。
「皆、武器を海に捨てなさい。これから我らは“降伏”する。私のことは一兵卒として扱いなさい」
目を丸くする隊員を尻目に、クロリアは佩いていた剣と銃を波の中に投げ捨てる。命令に逆らう訳にもいかず、かといって納得もできない隊員は戸惑いを隠すこともできずにただクロリアを見つめていた。
「どういうことでしょうか、父上」
「降伏って……本当ですか?」
信じられぬものを見たという風な息子二人の顔を、クロリアは交互に真っすぐ見る。冗談を言うお茶目な紳士のように肩をすくめウインクをしてみせたが、話した内容は至って真剣だ。息子や隊員が自分に対して気を使わないで済むようにする布石だろうか。
「本当だと思うか? 降伏すると見せかけるのだよ。これしきの部隊で掌握できる土地など雀の涙ほどだし、殺せる敵兵も限られている。ろくに功績もたてずに捕虜にされては、統帥は逆に我々を見捨ててこき下ろし、威勢をたててしまうに違いない」
お前たちのすぐそばに敵はいる、と国民の目を見据えて述べ、相互不信をかき立てた演説のことを彼らは知らなかった。しかし統帥ならそれくらいのことをしかねないと思っていた。生半可なことをして囚われの身になってしまえば、身内にいる敵のよい餌になってしまう、という一点については大半の隊員もすぐに理解した。
「我々の目指すのは圧倒的な勝利ということになりましょうか」
甲板に集まった隊員たちの後方から声がした。クロリアは息子たちに向けていた視線をその声の主に向ける。
「その通りだ。それこそ、我らだけで我が国の勝利が確定するほどの勝利をあげねばならん」
「そのために一時だけの屈辱を呑む、と?」
また別の隊員がクロリアに質問を投げる。
「まあそういうことだ。我々は内側からサンクロリアを崩す。これから作戦を伝える。心して聞け」
クロリアの顔が一部隊を率いる軍人のそれに戻った。先ほどの顔は、隊員に肩の力を抜かせるためなどではなかった。それは、クロリアが息子たち、息子に等しい隊員たちに見せた父親としての最後の顔のつもりであった。
作戦内容として明らかには言わなかったが、クロリアはこの作戦で死ぬつもりだった。少なくとも一人は死ななければ成功は望めない内容なのである。
知将クロリアの、国を、息子たちの将来を救うための一世一代の大博打が始まった。
「なんだ? 漁船が難破でもしたのか」
双眼鏡を除くサンクロリアの兵が声をあげた。何事かと同僚が寄ってくる。
「どれ、俺にも見せろ……こりゃ、メラン国の漁船じゃねえか。どうする? 上官に報告した方がいいのか?」
「敵艦が現れたら直ちに報告せよとは言われているが……漁船となると」
途方に暮れる兵たちは、漁船に乗っている人間の服装が目視できるほどに船が近づいてもその船を敵とはみなさなかった。クロリアを含む隊員たちは、軍服すら脱ぎ捨て、上半身裸の上腰に麻の布を巻き付ける、漁民のそれに変装していた。
「と、とりあえず、一応報告だ。お前、行ってこい」
「は、はいっ」
慌てて部下が走り去るのをぼんやり眺めた兵は、船に視線を戻し、微かに眉をひそめた。軍人として、ほんの少しだけ違和感を覚えたのだ。しかし彼はその違和感の正体をこの時点では掴めなかった。
「ま、気のせいかな」
一人呟いては後頭部をかきながら兵は持ち場に戻っていく。その兵は彼の上官が戻ったころには大叱責されることになる。
漁船には隊員総員のうち、三分の一しか乗船していない。隊長クロリアが率いる第一隊である。
残りはというと、それぞれ半数の隊員をクリスとハートが率い、“すでに上陸していた”。
漁船が遠くにあっても双眼鏡で目視できるのは太陽が昇っていたからである。太陽が沈んだころに出港したクロリア隊は、もうすでに着いていたのだ。陸を確認したのちあえて沖に停泊し時を待っていた。
息を潜め、兄弟率いる二小隊は海岸に設営された土塁の影に隠れた。
「おい、所属を言え」
「へ、へい。あっしらはメラン島の漁師でござんす。遠洋に出て漁業をやっていたら船長が倒れてしまって……船の帆も壊れてしまって、ここに流れ着きました」
クロリアは顔色も悪く本当に身体の具合が悪いような迫真の演技をみせていた。何も知らずに兄弟がみればたちまち医者を呼んだに違いない。
「メランには戻れなかったのか」
明らかに面倒ごとに関わってしまったという興味のなさげな顔をして兵士が言った。煩わしい、自力で帰れるなら帰ってほしいという思いが顔ににじみ出ている。
「それが、そうもいかなくて」
困り顔の上手い曹長に敵も騙され、中途半端な訛りも見逃してしまう。
ドカンという音が内陸から聞こえた。対応していた兵士もびくりと肩を痙攣させ、何事かと後ろを振り向いた。他の兵士たちも一様に一つの方向を見ている。
クロリアが飛び起きた。手の甲で頬を拭えば、健康な肌がのぞく。たちまち、船の端に固まるように座っていた隊員たちも、怯えるそぶりも忘れて船から飛び降り、海水を被って陸にあがり混乱する兵士たちの頸動脈を小刀で裂いていく。
「貴様ら……グッ」
腐っても相手は軍人である。醜態をさらす訳でもなく討たれていく者や、事態の把握に走る者、部下を集め組織の再構築に臨む者らが大勢、しかしきびきびと入り乱れる。
報告が本部に届き、部隊が派遣されるまでの間に、どさくさにまぎれ市井に紛れ込まないといけない。入国規制の厳しい敵国に、本国にも味方はおらず、時間も限られているクロリア隊がとったのは、混乱に乗ずるという作戦だった。
両翼に隠れていた二隊も躍り出た。やっとのことで態勢を立て直した敵が攪乱される。二隊がクロリアの周りに集い、中央に隠れた隊員が腰に巻いた布を肩まで引き上げた。
「あっ……」
本部に部下を不審船の報告に行かせたあの兵士が顔を青くした。
遠くから船の乗組員を見たとき、漁民の服装にしてはよい生地という印象を受けた。そのことを今更思い出す。
「これは、メラン陸軍の礼服ではないか」
肌の色も髪の色も異なる民族の混血であるカタル=サクナの民は、独立戦争以後ずっと自らの出自に誇りをもって生きてきた。ミタ=ヴァ―レ人との交流で動きやすい衣服を導入し軍服もそれに統一されたが、建国記念日、すなわち独立戦争終結日に着る礼服は民族の伝統服をそのまま用いた。滅多に国外の人間に見せることはないが、メラン島に視察にいったことのあるこの兵はその礼服で出迎えられたことから知っていたのだ。まだ両国が友好な関係を保っていたころの話である。
「そこの二等兵! お前、敵襲を前もって知っていたにも関わらず報告を怠ったな」
この港の駐屯兵団の、指揮官の男が彼に詰め寄った。
「団長……」
「二等兵、二度も敵に内通するとは、許されると思うなよ」
指揮も忘れ一人の男に執着する団長の男は不思議なほどに声色が低く、冷静を装っていた。しかし彼の心情は全く逆だった。
「……申し訳ありません」
明らかに、自分の失態を上司の目から逸らすための材料を探しここに辿りついたという相手に、意義の一つも言えずかしこまるのには訳があった。
「お前の故郷では、裏切り者のことを“サクナ”というそうじゃないか」
この男には喧騒が聞こえないのだろうか。死んだ魚のような目で、二等兵を責め立てる団長の後ろに、あのカタル族の民族服を着た集団が迫っていた。
「団長、あぶな、い」
言う前に、指揮官は斃れた。
「こやつがここの長か」
クロリアが言った。死体となり下がった指揮官を足で転がし、男に間合いを詰める。
「そうだ……俺も殺すつもりか」
二等兵と侮辱的に呼ばれた彼は、新兵にしては年をとっていた。軍服はきれいに整えられてはいるが生地がややくたびれている。そして、肩の部分にはなにやら画びょうを押し当てたような痕があった。嘗め回すように彼を見ていたクロリアは、その彼の軍服の肩に目を止め、ほう、とため息のような声を漏らして男に向かい直った。
「いや、あんたには道案内をしてもらおう」
「……」
男は不満そうに顔を顰める。
「あんた、カタル族だな?」
クロリアが問い詰めるように言った。そこでハートもこの男の素性に思い至る。かつて独立戦争の時代、独立軍の一部隊の人間が敵前逃亡の上サンクロリアに逃れたと。故国を裏切りし者だと言われ、メラン国では口にするのもはばかられてきた。現在彼の存在を知る者は軍部関係者しかいない。
「貴方まで私のことを“サクナ”と呼ぶのか」
男は短刀を取り出した。隊がざわめく。
「裏切り者故従え、と」
その目には、独立戦争以来三十年間蓄積されたのであろう苦しみが見え隠れする。
「いや、違う」
クロリアは言った。
「同族ゆえ仲間にならないかと言っている。これは私にとっては提案であって恫喝ではない」
混血の民族で顔や髪、肌色も違う両者だったが、同族だということは互いにわかっている。しかし、二人の間には隔たりがある。独立を勝ち取った民族の男と、国を持たない民族のまま時間が止まったままの二人。
「よかろう」
男が言った。
「私の名をサンという。ミタ=ヴァ―レ人の言葉で鳥という意味だ。貴方も知っているだろう。この国の民族は鳥を嫌う。蛮族の食べるものだと」
サンクロリアの創世神話の話をしているとすぐクロリアにも気づいた。回し矢で空飛ぶ鳥を狩って生活していたカタル族を、ミタ=ヴァ―レ人が討伐したという内容だった。カタル族にとって不名誉な記述と共にミタ=ヴァ―レ人に語り継がれている。
「穢れた蛮族の末裔として、あなた方の本懐を遂げる手伝いをさせていただこう」
言うや否や、サンと名乗った男は話にも出てきた回し矢のようなものを懐から取り出し、覆いを取り投げ捨てた上でそれをクロリア隊の後方に向かって投げた。それは神話に伝わる回し矢よりだいぶ小ぶりで、かつ刃がついていた。打撃を与えて鳥を失神させる目的の従来のものとは違い、明らかに人を殺傷する目的のものだった。
その回し矢の亜種は絶妙な軌道をつけられて投げられ、数秒後にはサンの手中に戻っていた。慌てて振り返ったクロリアの目には、長い槍で薙ぎ払われたかのように胸や足から血を流して蠢くサンクロリア兵の群れがいた。
「さあ、――こちらです」
クリスとハートはまだこの男を信用するに至っておらず、進むのに二の足を踏む。後続の隊員たちも同じ心境だった。
「大丈夫だ」
クロリアが隊員たちに言った。
「この男は味方だ。さあ行け、無事に逃げおおせろよ」
兄弟は嫌な予感がして眉をひそめる。次の瞬間、クロリアが敵の隊列に突進していく。軍装している相手に、クロリアはほぼ無防備である。
「ちちう……隊長!」
親子関係を悟られてはならないと思い呼び名を変えたが、それもいけないとハートは顔を青くした。この奇襲の指揮官と知られては、クロリアはただではおかれないだろう。
「ハート!」
責めるようにクリスが弟の名を呼んだ。ハートは青い顔のまま嫌な汗をかいている。
「我らが父を助けにいくぞ」
クリスが隊員を率い迫る敵に向かい合おうとする。それをサンが咎めた。
「あなた方は、父親の思いに気づかないのですか?」
「どういうことだ?」
クロリアには作戦を隊員に伝達したときから考えていたことがあった。
町には表と裏がある。町の顔となる大きな店や施設が面する大通りが表だとすれば、排気口や廃棄物置き場があり時に異臭を漂わすのが裏であろう。それは発達した工業を周辺国に先んじて手にしたサンクロリアの町に特に顕著な特徴だった。そして、町に住む者の大半は裏に住んでいる。華々しく表を歩いて来た軍人という種族は、裏に似合わない。
長い布を羽織るようにして腰を帯で締めるのがメラン島の古式の服である。その上半身部分を脱いで腰に垂らしたのがメラン島の漁民が代々伝えてきた様式だった。かさばらないため軍人たちは古い服の様式を模した礼服を携帯することが多く、それを漁民風に着れば敵国の市井に溶け込めると初め考えた。
しかし、それだけではだめだとすぐに気づいた。いくら服装を真似ようとも、軍人特有の肩を張って歩く堂々たる風貌や一般人からすると居丈高に見える口調はものの数日で矯正できるものではない。
先進的なサンクロリアも、神話や宗教に縛られ階級意識も根強い。一般市民を名乗る者のなかに背を丸めることもなく道の端を歩くこともない人間がいたらすぐにばれてしまう。
――隊員たちに強烈な劣等感を身に付ける必要がある。
それがクロリアの出した結論だった。そのために自分は殺されなければいけない、と。
「おい、どういうことだ。答えろ」
「わかりませんか。カタル族の矜持も落ちたものですね」
サンは肩をすくめて呆れてみせる。そんな最中でも回し矢を投げては敵兵を薙ぎ払っていく。薄目しか開けていないにも関わらず、敵により近いはずのクロリア隊の人間にかすることもなく敵だけを傷つけていくのはよほどの鍛錬の結果であろう。
「なら今はこう納得してください。あなた方の長は、身を挺して敵を食い止めておられる。落ちのびて助けに来いと背中で語っていると」
細い目をかっと見開いて、兄弟の目を見つめる。兄弟は、隊長のいない隊での最高責任者であった。
「――わかった」
「兄貴?」
クリスの言葉にハートは戸惑う。見ず知らずの人間に隊の命運を託していいのかとその目は問いかけていた。
「サン、今はお前の言葉を信じる。ただ、裏切ったなら容赦なく討つ。メレ?」
商人言葉でメレとは契約条件を果せるかと相手に問いただす隠語だ。
「……ライ」
破れば命をいただくという意味も込められたこの言葉に、サンは万事了解したと告げた。これは契約成立の言葉の中では最も重く、魂を天秤にかけようという意味だった。輪廻を信じるカタル族では、魂を失うことが最も恐れるべきことであり、天秤の上に魂を乗せたものは死んでもなお契約履行を求め続けられると言われている。
「よし、契約成立。総員、進め!」
クリスの号令で隊は前進した。敵に接触する可能性がもっとも高い最後尾の人間は短刀を抜きいつでも応戦できるようにしていたが、サンにそれは不要だと言われた。
「今は進むことだけを考えてください。敵は私が仕留めます」
前進分の距離も計算して回し矢を投げては手中に収めるサンに、ハートが尋ねる。
「それではあなたの先導がなおざりになるのではないか」
「大丈夫ですよ。私はこの辺りなら目をつぶってでも歩いていられる」
ハートは気づいていなかったが、サンは足音のでない歩き方をしていた。それはカタル=サクナが独立以前より各国に派遣していたスパイのもつ技だった。
いくらか歩いたところで、追手の気配もなくなった。不思議なほど静かな森の中を隊は進む。
「匂いを消すために川を渡りましょうか。皆さん、靴を脱いでください」
隊員たちは顔を見合わせた。後ろの方の若い隊員がぼそりと呟いた言葉をサンは聞き逃さない。
「なぜ匂いを消すのかって? 奴らは私たちを猟犬で追うことが予想されるからです。文字通り、狩るのですよ」
ざわつく背後を全く意に介さぬようにサンは靴を脱ぎ、波を立てないように清流に足を浸す。
「つ、冷たくはないんですか」
さっきの隊員が恐る恐る聞いた。
「冷たいに決まっているでしょう。もしかして、入るのが嫌なのですか?」
チュンチュンと山の鳥が鳴き渓流が静かに水を流すさまはとても命のやり取りをした後とは思えない。気が緩む隊にサンは発破をかける。
「嫌なら置いていきます。そうですね、あそこの木にでも腕を縫い付けて差し上げましょう」
山の風景と同じように静かながら、その声には殺意さえ見え隠れした。サンは今まで使っていた回し矢を懐に仕舞い、新たに釘のようなものを両手に十本ほど指の合間に挟むようにしてとった。縫い付ける、という言葉の意味を理解した兵は背筋に冷たい水が通るのを感じた。
「サンクロリアの猟犬はよく訓練されています。標的を見つけたら大きく吠え、逃げるようなら足をもぎ戦闘不能にした上でその場に留め置きます。それが何十頭も放たれるのです。手ごわい相手とは戦わぬ方がいい。それとも、その身を犠牲にして己の血の臭いで敵を攪乱させ、我々が逃げおおせるのに一役買ってくださる方がおられると?」
サンは尚も続ける。
「この国の猟犬は大型犬です。我々の腰辺りまで頭がきます。しかも獰猛だ」
「私は行こう」
クリスは靴を脱ぎ、冷たい水に足を浸した。
「では俺も」
ハートも後に続く。戸惑いながらも、一人二人と隊員は続き、全員で川を渡り切った。それを三回繰り返すころには、隊員たちの足は冷たさに麻痺していた。
疲れも見せずにズンズン歩くサンに、ついていくだけで精いっぱいの隊員たち。どちらかというと参謀としての活躍を期待され、普通の兵士よりやや劣る演習経験しか持っていないハートの疲労がピークに達していた。断崖を登ると告げられ心が折れたか、苔むした木を掴むという初歩的なミスを犯してしまう。
「危ない、ハート!」
クリスの叫びに全員の視線を集め、きょとんとしながら木を掴んだ手がやや露のついた苔に滑ってしまったことに遅れて気づいたハートは、体勢を立て直すこともできずふらりと上半身に支えを失う。このままでは岩から足を外すのも時間の問題だった。緊迫が断崖絶壁を包む。誰も他人にまで手を差し伸べる余裕はない。
シャ、と聞きなれない音がして、ハートは衝撃を感じた。踵を残し、岩場にぶらりと垂れ下がってしまっていた。しかし、“落ちてはいない”。なにかひも状のものに背中を支えられていることを知ったハートは、たちまち腹筋に力を入れて起き上がり元の鞘に戻ろうとする。
「馬鹿、じっとしていろ」
慇懃無礼を貫き隊員たちと距離を保ってきたサンが荒っぽく叫んだ。
「繊細なバランスでやっと落ちないで済んでいるんだ、ロープに負荷をかけるような真似はやめろ。腹の部分のロープを手に持ったまま、ゆっくりと足を下ろすんだ。足場をちゃんと確認した上でな。踏み外すと後はない」
きつい口調だったが、危地にいる人間にとってはこれほど頼りになる的確な指示はなかった。ハートは言われるがまま足をそろそろと降ろし、身体が斜面と平行に近くなるまで慎重にことを進めた。他の隊員たちはクリスの指示で先に上に上がっている。
「そうだ。そこで目の前の蔓を手に取れ。それは滅多にちぎれない種類の植物のものだから安心していい」
確かサンもこの蔓を使っていたなと考えながら、なんとかハートも頂上に上り詰める。思わず拍手が隊員から沸き起こり、それをサンも咎めだてしなかった。
「いやあ、お恥ずかしい」
ハートが頭の後ろを掻いてみせる。サンは安心したのか少しだけ表情をほころばせ、笑みを浮かべていた。
「ここまでは連中も追ってこられない。この下に、基地があるのだ」
それからのサンは、もう敬語を使わなかった。なにかが吹っ切れたのだろうか。相変わらず無表情ではあったが、情を感じられる相手にはなった。
「基地が、この下に?」
今しがた登ってきたばかりの地面を見下ろして信じられない顔をするクリスに、
「なにか仕掛けでもあるんですか?」
とサンを尋ねるハート。それを見て、サンが意味深に呟いた。
「これが名将クロリアのご子息二人か」
「なにか言いました?」
いや、とサンは首を振る。そして人差し指を口にあてて静かにするよう促し、軍靴の硬い踵でなにか一定のリズムを刻み始めた。
すると、地面だと思っていた足元からくぐもった音が返ってくる。サンはそれを注意深く聴き取り、また前とは少し違うリズムを刻む。
何回かそれを繰り返すと、足元からガタゴトと、大きな家具を二三人で動かしているような音が聞こえてきた。そして、地続きだったはずの地面の一部分が、牛の乳から作ったチーズを食用の短刀で切り取り浮かび上がるように、内側から開けられた。中から埃だらけの色白の青年が現れ、ただ一言やあと言った。
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