勝利

 独立戦争は独立軍側の勝利に終わった。終わってみれば呆気なかった。わずか三か月で、カタル=サクナはカタル族から独立し、拠点である島の名前をとってメラン国を名乗った。

 戦功順に昇進したり名誉な職に就いたりする軍人が多い中、あの特殊部隊を率い、軍を勝利に導いたクロリアは不思議なことに行方知れずであった。

 彼は二十一歳になっていたが、上官や同僚の慰留を聞かず軍を抜け、人知れず片田舎で暮らしていた。

 彼の妻はリアといい、戦争で火傷を負ったとかで顔の全体が爛れていた。彼はその妻との間に二人の息子をもうけ、農業をしてひっそりと暮らしていた。

 戦争が勝利に終わって三十年、クロリアは五十歳になっていた。二十代の二人の息子は父親の思いも知らず軍隊に入隊し、順調に出世した。息子たち自身は知らなかったが、その出世には先の戦争での功労者夫婦の息子であるということが多少加味された。しかし、クロリアという軍人の存在は秘され、末端の兵士には知らされていない。

 上の子をクリス、下の子をハートといった。彼らは設立されて間もない国営軍に入ったが、そのころのメラン国の政治は緩やかに変わり始めていた。そんなことを二人は知らない。

「いい天気だったな、ハート。今日の訓練はどうだった」

「完璧だよ。明後日の試験にも万全で臨めそうだ」

「それはいい」

 相部屋で過ごす二人は他の女訓練兵がうらやむほど仲が良く、そして二人とも優秀だった。特に兄のクリスは、士官学校を首席で卒業するほどの戦闘機操縦の腕があった。ハートはどちらかというと戦術家肌で、筆記試験の成績は兄を上回ることもよくあった。

 この国の政治の色合いの変化とは、ミタ=ヴァ―レ人の王国サンクロリアへの反発だった。かつて独立戦争の時カタル族側に石油資源の輸出を禁じるなどして独立軍に間接的な支援を行ったサンクロリアは、ここにきて保護貿易を導入し、世界的な干ばつによる不況を乗り切ろうとしていた。商人の国メランにとってこれは痛手だった。

「それにしても、最近野菜が高いな……干し野菜には飽きちまったよ」

 クリスが不満げに支給された干し野菜をよく噛んで食べる。この物価の高騰が、やがて新興国家の行く末を大きく揺さぶる大激震を起こすことになるのだが、この時点でそれに気づいている国民は少なかった。


 やけに軍人が多い。そう思った国民もいたかもしれないが、すぐに忘れただろう。きれいな空のある日、メラン国政府が静かに軍にクーデターを起こされ、政権を奪取された。

 その日二人は休暇を得て外出していた。彼らもやけに軍人が多いとは思ったが、あまり気にすることはなかった。雑貨店に二人は入り雑談を続ける。

「しかし要人でもいらしてるんだろうか。すごい警備体制だな」

「ああ、上官も駆り出されて訓練兵の相手ができないんだろう。しかしこの指輪はいい」

「兄貴、武骨なあんたがそんなものに興味を持つとは、さては女子でもできたのか」

 ハートが茶化すように兄をからかった。恋人を意味する、小指を立てて口に当てるジェスチャー付きで、である。クリスは顔を赤らめ、それは肯定の意味でしかなかった。

自機が伴侶とでもいいそうなほど色恋沙汰には関心をもたず、休暇でも自主訓練と自機の整備に明け暮れるクリスが、その休暇に雑貨店に行こうと言い出したのは今思うと変だったとハートは一人納得する。

「チッ、お前他人(ひと)には言うなよ」

「はいはいわかってますよ」

 やれやれと肩をすくめながらも、ハートは自慢の兄に恋人ができたことを弟として嬉しく感じていた。相部屋で暮らすうちに弟の家事の腕がメキメキ上達したのは兄がそういうことに無頓着だからに他ならない。

「兄貴を支えてくれる女性ができるってのはいいことだ」

 クリスは空軍、ハートは海軍への入隊を希望していた。いずれともに住むこともなくなる兄には、苦しい軍隊生活の安らぎが必要だと常々思っていた。

「なんか言ったか?」

 独り言を聞かれたと思い緊張するハートだったが、見上げた先の兄クリスが険しい顔で見ていたのは自分ではない。

「――上官、これはどういうつもりですか」

 そこには二人の属する訓練兵団の長がいた。

「貴様ら、なぜここに」

 慈悲深きよき兵士になれと言っていた団長その人が、一般人に銃を突き付けている。その事実に遅ればせながらハートも目を見開いて唖然とした。

 緊迫した空気が張り詰める。店の前を通る通行人が、店の中を覗き込んでは見てはいけないものを見たかのように足早に走り去る。

「ニー、今逃げた者の後を追え」

 部下に一般人追跡を言いつける団長にたまらずハートが口を出す。

「その人が何をしたっていうんです」

「クリス、ハート、お前たち二人は軍法会議に出てもらうぞ」

「は……?」

 訳が分からぬと言う風にハートは抗議の構えをみせる。それを今まで黙っていたクリスが制した。

「兄貴……」

「ハート、俺たちに分はない。団長に従おう」

「聞き分けのよいことがいいことだ」

「その聞き分けのよい我らに、教えてくれませんか。この雑貨店の主がスパイでもしていたんですか」

 団長は黙りこくった。そして部下に告げた。つまりは図星だということだった。

「二人を内政攪乱罪で拘束せよ」

「兄貴、なんでこんなことになった? 俺たち、どうなるんだ」

「ハート、落ち着け。上官たちにもなにか考えがあるんだろう」

 二人は軍人に両脇を囲まれ、まさに“連行”と言った風貌で町を歩いた。寮に帰還するや、軍の制服を剥奪され、囚人服を着せられた。寮長が悲しげな顔をしていたことを二人はずっと忘れられなかった。

やがて二人は監獄のなかでも一番深い、ゲジゲジの蠢く地下牢ともいうべき場所に通された。三重の柵にはそれぞれに鍵が付けられている。囚人に許された一角は廊下に比べて圧倒的に天井が低く、腰をかがめないと移動できなかった。

「俺たちがなにしたって言うんだ、俺たちはただ雑貨店に」

「落ち着け、お前は俺が守る――」

 兄の気迫に弟は気圧されたように言葉を飲み込んだ。そして静寂に我に返り、兄に謝罪する。

「兄貴、すまない」

「わかればいい。ここは音がよく響く。狂ったら止められない」

 兄は比較的早くから気づいていたのだ。ここが“囚人を狂わせて病死させる”部屋であることに。

 兄弟はそれからというもの、日を浴びられず身体を動かせない苦しみをなんとか二人で紛らわした。時には楽しい話を、時には同期の話を、上官の失敗を、故郷のことを、息継ぎさえ惜しむように語り続けた。得られない日常を思い出でなんとか先に進めさせた。気が狂いそうになれば、互いが互いを殴っては肩を抱き合って泣いた。

 そして何週間かが過ぎたころ、疲れ果て流石にもう話題も尽きたと思われた二人に、高く響く軍靴の音が聞こえた。

「クリス、ハート」

「……団長」

「よく耐えたな」

「……?」

 二人を苦しめた張本人と思われる男が、親が子をみるような慈悲深い眼差しで二人を見ていた。視線が同じ高さだと気づいたときには、彼の折り目のついた軍服が床に溜まった汚水に汚れていた。

「団長――服が、お召し物がッ」

「この期に及んで私の服の心配ができるというのか? お前たちは――」

 ハートの言葉に一瞬感極まったかのように見えたが、彼はスックと立ち上がり二人に軍人口調に戻って話しかけたため、薄暗い部屋の中では彼の顔を完全にうかがい知ることはできない。

「クリス。ハート。お前たちへの疑いは晴れた。今日から“市民として”、我が国の繁栄を支えよ」

 二人は断固抗議した。軍からの脱退を宣告されたのだ。しかし、二人の願いは聞き入れられることはなかった。

 解放されるにあたり柵の鍵が開けられ、二人は外に出るよう促される。

「うっ……」

 先に立った兄がふらついた。血が長らく通わなかった足は肉が落ち歩行にすら耐えられない。

「兄貴」

「大丈夫だ。ハート、肩を貸せ」

 言われるままに弟は肩を貸した。弟の方は少し手間取ったものの立つことはできた。この拘束されていた数週間において、眠りに就いた弟の足を兄が丁寧に擦ったおかげだった。

「兄貴――俺はのうのうと寝ていた」

「気にするな、寝られずにいたときの片手間にやっただけだ」

 クリスの足は左足が辛うじて動く程度で、右足は引きずることしかできなかった。たちまちハートは兄を背負い、先導するかつての上官を追う。細く冷たい兄の足に唇を強く噛んだ。

「もうすぐ地上に出られるぞ」

 団長がそう言った。日差しに覚悟を決めよ、と言っていた。二人は目が眩まないよう目を閉じる。

「――ッ、まぶしい!」

 閉じた目にすら染みわたる鋭さの日差しだった。この数週間で季節が変わったのだろう、空は近く色は濃い。

 季節の変化すら感じさせぬ地下牢から一歩兄弟は足を踏み出す。二人の後ろで大仰な音を立てて扉が閉められた。

「どこへなりと行け……故郷に帰るのなら、馬車賃くらいは軍から出そう」

 国の役にたつと豪語して田舎を出た若き二人には、無一文で故郷に帰る選択肢はなかった。父親や母親に顔向けができないと、若い二人は考えた。

「町で暮らすことはできないのですか」

「少なくともこの街からは去れ。住む町の駐屯軍に話をつけておこう」

 なぜ元囚人にそこまでの便宜を図るのだろう、とクリスは思った。敵国のスパイが経営する店にいたことで疑いの目が向けられたことはわかる。それだけであの地下牢行きとなることには納得できなかったが、それでも戦功をあげることもなく軍を抜けた者になぜ……?

「兄の足の治療費をください」

 唐突にハートが言った。

「うむ」

「馬車賃も軍への口利きもいりません。兄の足を治してください。兄はパイロットになるのが夢だったんです!」

 ハートの口調にクリスは戸惑った。そんなクリスにハートは安心させるように請け合う。

「生活費は俺が稼ぐから、兄貴は治療に専念しろよな」

 とりあえず隣町に行くことに二人は決め、そこまでの馬車賃と病院への口利きを結局は受諾した。クリスがそうしろと言ったからだった。

「もらえるものは貰っておけ。お前一人で稼げる額など知れている」


 二人は苦労して乗り場に歩いて着き馬車に乗り込んだが、ふと市民の顔色の変化に違和感を抱いた。皆一様に、暗い顔で俯いている。

「どうしちまったんだろう? 街の店も大概閉まっている」

 ハートが誰に言うでもなく呟いた。その呟きに、非難に似た視線が集められ、ハートは戸惑う。

「久々にここらに来られたのかい?」

 老婦人に声を掛けられ、曖昧にハートは頷く。クリスは他の町で仕事を失ってここに来たと嘘をついて誤魔化した。

「おやおや、その足じゃあどこに行っても仕事はないだろうねえ……最近じゃ大学を出た青年も職探しで困り果てているくらいだよ」

 痩せたクリスの足を見て老婦人が言った言葉に、二人は顔を見合わせた。大学と言えば商学と薬学が主な学問で、この国には国立のものが一つしかない。専門的な知識を学べる大学卒の若者は引く手あまただと聞いていたが、彼らすら職がないとなると、兵学しか知らない二人には確かに厳しそうだ。

「どうする?」

「とりあえず、病院にいくしかないだろうな……」

 そう呟いてはまた冷たい視線にクリスは肩をすくめてみせた。医者に掛かることすら恵まれた者の特権だというのだろうか。ふとハートは大事そうに抱えた布の束を力なく見下ろす若い女をみつけてはそれに釘付けになる。

「あんな若い子が晴着を売ることになろうとはな……不憫なこった」

 クリスが弟の驚きを代弁するように言った。

 隣町までまだ時間はかかる。馬の引く交通手段であるこの馬車であるが、その馬さえ満足な食事を与えられていないのか、心なしか歩みがおぼつかなかった。

「あっついなぁ――」

 それから半日、二人は何も言うことなく、ただ団長の持たせてくれた保存食を人の視線から隠れるように細々と食べた。

「兄貴、着いたぞ」

 知らぬ間に眠りこけてしまっていたことを恥じらうようにクリスは身体を起こし、わずかに眉をひそめた。

「どうした、どこか痛むのか」

「同じ体勢で寝ていたせいか腰を痛めてしまった。なに、大丈夫だ。力強い弟が背負ってくれる」

 下りた場所は田舎だった。しかし農地は荒れ放題で、穀物生産量メラン国一位の面影はない。首都の食糧事情を支えていた町の面影はどこにいったのか。

「不作の影響がここまで出ているというのか……これでは国が成り立たない」

 傾いた太陽のことを斜陽ということは二人も知っていた。それが没落を予感させる情景であることを、ハートは訓練兵仲間に借りた文学を読んで知っていた。

 二人の心に浮かんだ不吉な予感を振り切るようにハートは早足で歩きだす。町医者へは、停留所から真っすぐのびるこの道を行けばよいはずだ。

 夏の虫がうるさく鳴いていた。除草剤を撒かれないお陰で彼らは繁栄しているようだった。

「ハート、あの虫を獲れ」

 クリスが不意にハートの肩を叩き、自分を下ろすよう言った。

「虫がどうかした?」

「いいから獲れ。――あの虫は炙ると旨い」

 慌てて兄を下ろしては、ハートはその虫を追いかける。ハートとて兵士であったのだから動きは俊敏なのだが、予想と違う動きをする虫に戸惑い、なかなか捕まえられない。

「ハート、草むらに逃げられてはいけない。その虫は羽根がもげている。道の上で焦らず、そいつの体力を削ぐんだ」

 兄の助言をもとに、ハートはやっとのことで虫を捕らえる。虫を閉じ込めた手をゆっくり開いて、彼は背筋が凍る思いがした。

「――赤い」

 夕焼けに照らされてイナゴが赤く見えているだけだと思っていた。しかし捕らえた虫は、畑によくいるイナゴと似た形ながら、血の色のような赤い躰で食されるのを待っていた。

「これ、本当に食えるのか」

「大陸の東の国に演習に行ったことがあってな。そこはその時大規模な干ばつに苦しんでいた。赤いイナゴが群れをなしてそこかしこの畑を食い荒らすらしい。群れが来てしまったら村が飢えて死ぬんだとさ」

 へえ、と感心するように言ってみせ、ハートはしげしげとそのイナゴを見つめた。ふと振り返ってみると兄のクリスは座った状態で腰を動かしながら器用に三匹も捕まえている。

「はは、これにはコツがあってな」

「空軍の演習ってどんななんだ?」

 ハートの問いにクリスはそうだな、と考えるそぶりをみせる。

「空軍なのに虫を獲って食べるような地上での訓練もしているのかと思ってな」

「ああ、そういうことか。実は我が国の空軍は出来たばかりで、航空機を自国生産するには至っていない。訓練兵の使う訓練機すら貴重で、実際の飛行訓練はあまりさせてもらえなかった」

 ハートは意外だと言う風に目を丸くして聞き入った。

「それで、空軍は主に陸軍と共同で演習を行っているんだよ。陸軍も空軍もあまりこの国には重要視されていないみたいで演習の予算が下りず、滅多に話すこともなかったな」

 メラン島は周囲を海で囲まれているからか、海軍を最重要視し船隊戦術の研究をよく行った。しかし、陸の国境を持たぬ国だからか陸軍の備えを軽視し、他の国が当たり前のように持っている工兵の組織すらなかった。

「それにしても、将来は海軍の軍師とも言われた自慢の弟が軍を追い出されたのは残念だな。国家の損失だよ」

「兄貴こそ、空軍のエースパイロットになっただろうに惜しいことだ」

 ハハハと肩を抱いて笑い合った二人は、いよいよ沈みそうな太陽に我に返り、遊び疲れて家に帰る子供のように目的の町医者へと歩を早めた。


「よく来たな。遅かったので心配したぞ」

 町医者に着いてみれば、その主人と思しき男性が玄関前で立って二人を出迎えた。

「イナゴを獲っていたんです。なにもなく厄介になるのは心苦しかったものですから」

 兄が麻袋を差し出すと、町医者の男は目を輝かせて喜んだ。

「これは有り難い。うちでは婆さんに幼子一匹しかいなくて、イナゴ取りにもなかなかいけない」

 手土産が虫でも喜ばなければいけないほどの内情なのだ、この国は。ハートは胃の腑が静かに冷えるような心地がした。

「病院、患者さんがいっぱいですね」

 ハートは宛がわれたソファーに兄を下ろす。緊張が解けてふぅと息を吐くクリスの足を見て医者は寂しげに言った。

「やっと仕事らしい仕事ができる――ここの患者たちは全員が栄養失調で、私ができることは早く睡眠に入ってもらうくらいだ」

 医者は血の長く通っていなかった青白いクリスの足を毛糸で編んだ長い布で包み始めた。

「こうしてよく寝て、よく上半身を動かすこった。そうすりゃ血も徐々に通うだろう」

「すみません、少し休んでもいいですか?」

 クリスが言った。もちろんと医者が答えるより先に寝息がした。

「君も疲れたろう。今日は寝なさい。明日にはこのイナゴを焼いてやろう」

「いえ、僕はまだ大丈夫です」

「そう言わず、さあ」

 言われるままハートはもう一つあったソファーに礼を言って横になった。医者は名をメルと名乗った。妻は栄養失調で亡くなったと悲しく付け足すように言った。

 翌朝、香ばしい香りでハートは目覚めた。兄のクリスはもう目覚めており、助けを得たのかテーブル席についてメルと楽しげに語らっている。

 その腕のなかには、幼子がいた。亡くした奥さんとの子だろうか。

「ハート、おはよう」

「お、起きたか。いい眠りがとれたか?」

 目をこすりながらハートは頷き、遅れて兄の横に座った。

「この子は?」

「ああ、栄養失調で亡くなった患者さんの子だよ。子を産んですぐ心臓の拍が弱くなって、一日持ったがついに手が及ばなかった。元々身体が痩せていて、子を産める身体じゃなかったんだが、聞かなくてな」

 男でも想像すれば胸が苦しくなる堕胎なのにお腹に子を宿した女性がそれを勧められる苦しみは計り知れない。だが、とメルは語気を強める。

「それ以降、ここでは痩せた女の出産は取り扱わないようにした。是が非でも堕胎してもらうし、それが嫌なら他所に行ってもらう」

「それは――」

 非難できる筋合いにハートはなかった。言葉に詰まる二人にメルは尚も続ける。

「この子は親戚に“忌み子”と言われたのだ。働き手を一人、それも長期間拘束しておいて挙句に死なせた、悪魔の手先だと。貧乏になると心も貧しくなるとはよく言ったものだが、その親戚も悪い人たちじゃない。今いる家族を精いっぱい養おうとして生きている。その思いをコケにして子を産むことが、必ずしも正しいこととは言い切れんのだよ」

 クリスは腕の中の子をじっと見つめた。ハートは逆に子から目を背けた。

「お前たちも、精いっぱい生きなさい。世が荒れれば誰もが悪事をしなければ生きていけなくなる。もちろん進んで悪人になってはいけない。だが、大切な人を守るためなら多少の汚れは受けよ」

 二人は顔を上げてメルに聞き入る。

「なに、生き遅れた老人のほんの出来心の忠告だ。イナゴが冷めてしまったな。早く食べよう」

 二人は支給されたものと思われる硬いパンと焼かれたイナゴを、苦い味のする水で流し込んだ。


 二人は放置され荒れ放題のメルの家の庭に家庭菜園を作ることにした。メルの母親の女性は話し相手ができたからか少し元気になったようで、昔に死んだ自分の夫が残した野菜の種を兄弟に預けてくれた。

 クリスはまだ動けなかったが、雑草をむしったり岩を砕いたり土を耕したりする弟の足元から逃げだしてくる虫を器用に捕らえては網籠のなかに放り込んだ。汗を流し労働した後の食事は硬いパン一つでも身体に染み渡るようで、二人は快活に作業を続けた。時折幼子が大声で泣いたら、母親とともに集団で押しかけて逆に怖がられて大泣きされたりした。むさくるしい軍上がりの男はおむつ替えに挙動不審なほど手間取り、母親に新婚間際の夫を思い出させたりした。

 二人にとってそれは、幼い頃に僅かだけ経験した家族というものそのもので、一日一日が愛おしく、貧しいながらも楽しかった。

「おっ、今日は種を植えたんだな」

 家に背を向けて大事そうに土を盛る三人にメルの頬が緩む。

「はい。芽がでるのが楽しみです」

 メルは目を細めて嬉しがった。

「これでいい作物ができれば、やっと医者らしきことができる」


 そのころ軍部は議事堂で見せかけの合議を行っていた。

 指導者たる軍人は髭を蓄えておりその場にいた人間は表情を完全にうかがい知ることはできず、威勢のいい軍歌が大音量でかけられ議員は陶酔状態に置かれた。

 この日のために反軍部的な議員は排除してあった。中道派と好戦的な人間は軍人に軍神の栄光を見ては拍手喝采した。一方その軍人は自らを讃えるその拍手を五月蠅いとでもいうようにしかめっ面を決め込み、議会の解散を宣言しては足早にそこを去った。

「議会の掌握は上手くいきましたね」

「ああ。これでこの国が戦争を起こしてくれればいい」

「起こすのは我々なのでは?」

 軍人はつけ髭をとって薄く笑ってみせた。

「いつの時代も戦争を起こすのは民衆だよ」

 保護貿易からはみ出した“持たざる国”は世界各地で苦しんでいた。血の通わぬ経済は多数の飢えを産み、略奪へと民衆の意識を向けさせた。

 人々はこういった。独立戦争のときに敗者を植民地にしなかったから今こうして民衆が飢えているのだと。前の戦争を経験した軍人は若い軍人に退職に追いやられ、役にたたない老いた高給取りを追い出したことで民衆はさらに熱狂した。

 その世論が首都から隣町に波及するのに大した時間は掛からなかった。


「赤い紙……」

 手紙を受け取っては震えた手でそれを捨てたメルに、恐る恐るハートが語り掛ける。

「メルさんに召集令が来るなんて」

「二度目の兵役か……あの戦場にまた行かねばならんのか」

 クリスは動くようになった足でメルに歩み寄る。

「メルさんは昔軍人だったんですか?」

「ああ――君たち兄弟の父、クロリア隊長には世話になったものだよ」

「――!」

 二人にとってそれは初耳だった。父親は物腰柔らかで、元来の農家であると信じて疑わず二人は育ったのだ。

「父君の話を、しておこうか。私は生きては帰らないだろうからね」

「そんな」

「今から始まる戦争に大義はない。これは口減らしなんだよ――老人を体よく殺すためのね」

 メルはクロリアの側近として働いた部下だった。

 クロリア隊は天才的な戦術を以てして敵を多数駆逐し、本来なら名誉軍人になってもおかしくなかった。

「しかし、あのお方はスパイのリアという女性を思い遣った。ほだされた訳ではない。裏切り者として生きなければならない女スパイを不憫に思われたのだ。リアは顔を分からぬようにして生きよという軍部の要求を呑んで、クロリア様と生きるために自分の顔に塩酸をかけた」

 二人は息を呑む。優しくはあれど醜い顔の母親に、そんな過去があったとは。

「兄弟よ。今の我が国の状況がわかるか」

「――いいえ」

 ハートが答えた。クリスも首を振る。物価が高いくらいの認識しか二人は持っていない。

「この国はな、侵略戦争を起こそうとしている。サンクロリアに対して」

「えっ」

 メラン国ができる前からある大国に、島国が戦争を仕掛けると言うことにハートは絶句した。

「勝ち目はあるんですか?」

「だから言っただろう――口減らしだと」

 何も言えなくなった兄弟にメルは笑ってみせた。

「なに、全部杞憂だといいんだがな。母とあの子を頼んだよ」

 嫌だと首を振るハートにメルは優しく諭すように語る。

「初めて会った日の次の朝に言っただろう、多少の汚れは呑めと。負け戦に前途有望な若者を連れていくわけにはいかん。苦しいかもしれんが、私のことは早く忘れなさい」

 キリキリと歯を食いしばる二人は、ポンポンと垂らした頭を叩かれ、メルが部屋を出ていくのを見送るしかなかった。

 それからメルが正式に軍に配属されるまでの間、二人と家族は精いっぱい思い出を残そうとした。特にハートは、生まれつきの頭のよさからメルの薬学の講義をすらすら吸収し、医師として簡単な処方なら出せるようになっていた。

 三か月後からメルは滅多に家に帰らなくなり、半年後に、戦争が始まった。

 二人の植えた種が収穫を迎える頃だった、最初の号砲が鳴ったのは。

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