第2話 希望の日

 

 朝を知らせるあの鐘の音が聴こえる。



(ああ、もう起きないと…。)

 昨日はぐるぐると色々な事が頭に浮かび、眠れない――と思っていたがいつの間にか眠っていたみたいだ。


 起きると同時に背中に鋭い痛みが走る。あまりの痛みに、ウゥッとうめき声がでる。それは昨日ムチを受けた背中の傷だった。


(大丈夫、なんとか動ける。我慢、我慢……!)


 周りを見ると奴隷のみんなはまだ眠っている。いつも一番早起きなおじいも眠っている……。


(きっと皆も昨日はあまり眠れなかったんだ。もう少しだけ寝かせていてあげたい…)



 背中の痛みでぼうっとしていると、隣のおじいも目が覚めたようだ。


「ん?ホープ、どうした?………もしかして痛むのか…。…大丈夫か?」

 起きてすぐに私の不調を感じ取り、心配をしてくれた。


「ううん、大丈夫だよ」

 心配かけないように笑顔で元気よく答える。今日は大事な日だ。少しでも不安なことはないほうがいい。

 自由になれたら不安なことのない日々がきっと……。


 だがふと考える。奴隷でなくなったら、自由になれたら、はたして私は普通に生きていけるのだろうか?


 例えば…。そう、奴隷として生きてきて、人の醜さを文字通り、死ぬほど知った。

 奴隷を人とも思わない人間にどれほど会ってきたか。何度もムチで叩かれ、殴られ蹴られ。それはもう数え切れないほど多く…


人とは醜い生き物だ……。


 あぁでもそうでもないかもしれない。


思い出したのはその一方で、本当に優しく、誠実な人間にもなんども助けられたことだ。

 病気で死にかけた時に、内緒で薬をくれた侍女。驚いて暴れた馬に、蹴り殺されそうになった時、助けてくれた馬の調教師...。


 同じ人間なのに、環境なのに全然違う。本当に不思議だ。醜さは誰もが持っているだろうが、それを出さない人もいる。


 何が違うのだろうか?…人とはよく分からない生き物だと思う。

 だが自由になっても、決して醜い人間にはならないでおこうと私は自身に誓った。


 そんなことを考えていると、みんな目が覚めたようだ。鐘が鳴り終わる。


(そういえば、この鐘の音は好きだけど、誰が鳴らしているんだろう…。)

 屋敷のずーっと遠くの方から聴こえる。


(きっと屋敷の下にある村からだろうけど)

 でもこの屋敷の敷地から外に出たことがないから、実際のことは何もわからない。


 知っているのは、朝と夜の1日2回鳴ること。それによって奴隷の仕事が始まり、そして終わりを告げてくれる。一体誰が鳴らしているのか?どんな色でどれ位の大きさの鐘なのか。


 (そうだ、自由になったらまずはあの鐘を見に行こう)

 やりたいことが一つ見つかり、嬉しくなる。今まではただ外に出たいと思っていただけだった。ただそれだけが私の願いだった。

 でももう違う。そう、これからは自分の意志で歩ける。なんでも自由に願うことが許される。まだ見ぬ世界をこの目で見れる…

 まだ見ぬその世界に恐怖は感じない。なぜならば……




 きっと世界は美しい。




 早くその世界に行こう。みんなで……。みんながいれば、私はどこでだって生きていける。

 明日の朝の私は笑ってる、きっと。屋敷の外からの朝日を見て笑ってる……



 それから私達は奴隷の仕事を始めた。

 背中の痛みは辛かったが、なんとか気を張りつめ我慢した。今日の私は執事長に大人しく従ったふりをし、叩かれたり殴られなかった。

 そうしていつも通りに奴隷の仕事を終わらせ、いつも通りに夕食を済ませた。





 しかしここからはいつも通りではない。屋敷の騎士や執事、侍女、そして貴族……、彼らがぐっすり眠っているだろう真夜中に奴隷達が動き始める。


「みんな起きてるか?」


 部屋には明かりをつけておらず、真っ暗で何も見えない。でも声でおじいだとすぐ分かった。


 今日は朝から驚くほどの寒さで、外はガタガタと窓が揺れるくらい強い吹雪だった。

 こんな日に、こんな薄い服で外になんて出たら凍え死ぬかもしれない…。

 ――しかしそれでも、計画通りに進める。

 ガサゴソと、おじいの声のする方にみんなが寄っていくのが音で分かる。


「吹雪、止まないみたいね。でもむしろ好機かもしれないわ。」

 その優しくて高い声を響かせたのは、私を子ども扱いする彼女だ。


「あぁ足跡が消えるしな。それに追っ手に見つかりにくくもなる。もちろん逃げたのがバレればの話だが…。ま、オレたちが逃げてもすぐには気づかれないだろう」

 そう静かにひそひそと言ったのはガレだ。


 ガレは悪人ではないが少々荒っぽいところがある。簡単に言えば、考える前に行動する人だ。

 でも彼は皆から好かれている。それはユーモアがあり、そして温かい部分も備えているからだ。


 それにおそらくだが彼は、スウナに好意を持っている…。


 (たぶんね…。たぶん)


「ホープとラガーナ。起きているか?」

 私が何も言ってなかったので、おじいに起きているか心配された。


「大丈夫だよ」

 声が他の部屋に漏れないよう、小声で言う。


「問題ない」

 私が言ったのとほぼ同時にそれはすぐ隣で聞こえた。もちろんラガーナだ。

 彼の事はよく分からない。

 実は彼はごく最近屋敷にやって来た。それは3ヶ月前だった。過去の事は何も話さない。奴隷仲間とも必要最低限しか話さず、無口な人だ…。

 年齢はガレやスウナと同じくらいで、20代半ばくらいだろうか?

 ちなみにガレが屋敷にやって来たのは4年前、スウナが3年ほど前だ。私とおじいは7年前の同じ日に来た。つまり私の人生で半分は一緒に過ごしていることになる。

 だから私にとっておじいは、本当に……


「よし、じゃあ計画通り、二手に別れるぞ。川上にあるトムライ村の側の湖に、朝の鐘が鳴り終わるまでに集まるんだ。それまでに来なかった者は……。待たないし待つな」

 念を押すように、きつく言う。


 わざわざ二手に別れるのは万が一、逃げたのがバレた時に全員一緒にいればそれだけ見つかりやすくなってしまうからだ。

 そして集合時間に間に合わなければ切り捨てる。皆でそう決めた。遅れた者を待てばみんな捕まってしまう。

 でも大丈夫、きっとみんな一緒になれる。


「わしとホープは川を渡り、川向こうから川上に登っていく」


「えっと、それから、残りの俺たち3人は川を渡らずに、こちら側から登っていくってことだな」

 とガレさんが続ける。


「大丈夫よ、ルダン。みんなしっかり把握できているわ」

 スウナがそれに続く。ルダンとはおじいのことだ。


「みんな。その……、ありがとう。わしについてきてくれて」

 おじいは泣いているのだろうか?声が震えている。


「でも本当にいいのか?……捕まったら殺されるんだぞ?」


(殺される…)

 その言葉が何度も頭に響く。

 奴隷が脱走して捕まれば、殺されるか、良くて腕か脚を切り落とされる……。



 私は過去に、逃げ出した人が殺されるのを見たことがある。



 私は他の奴隷への見せしめとしてその場にいた。

 今でもその場面を思い出すと、体が恐怖ですくみ震えてくる。その奴隷は腕と脚を縛られ、座らされていた。そして剣で胸を一突きにされた。

 ―――あっけないと思った。人が死ぬのはあまりに簡単だと。



 すごく不安で……、そして恐ろしい…。



「でも、それでも、私は自由になりたいと思う。そうでしょう?」

 そう私ははっきりと言い切った。


 誰も何も言わず、ただ外の吹雪の音が冷たくゴウゴウと聞こえる。

 みんな同じはずだ。ただ自由になりたいと。



 アウォーーーン…



 その時遠くの方でオオカミの遠吠えが聞こえた。その遠吠えにより、言葉ではうまく説明できないが、心がざわつくような気持ちにさせられる。


(なんだろう、どきどきする…。私緊張してるのかな…。落ちつかなきゃ。)


 そのあと5分くらい誰も何も言わなかった。みんな思うことがあるのだろう。



「もう考えるのはいいかしら?そろそろ行きましょう」

 彼女は柔らかな落ち着く声で、この静寂を破った。その声には強い意志がこもっていた。


「あぁ、行こうか。」

 緊張した声でガレが続けた。





 奴隷の入れられるこの部屋の鍵は壊れており、容易にドアが開いた。

 ガレは奴隷になる前は大工をしていたらしい。その技術を使い、前もって鍵穴を壊しておいたのだ。


 もちろんうまく壊せたようで、鍵を閉めた執事長は鍵穴が壊れていたことにも気づいていないみたい。


 暗闇にも目がなれ、屋敷のあちこちに点々とおいてある小さなろうそくの灯りを頼りに、出口に向かう。

 灯りは持たず、静かに屋敷を歩いていく。そして屋敷の裏口につく。ここは屋敷の見回りが来ない出口だ。


 そしてこの裏口の鍵はこちら側から開けられる。スウナが静かにドアを開ける。


 ギィ…。


(ついに外に出られる…!)

 今まで感じていた不安が一気に消え、わくわくして落ち着かない。


「はやく!はやく!出ようっ!」

 と思わず気持ちが声に出る。


 おじいが最初に出る。それにスウナが続く。そして…



 ついに外の世界に足を踏み入れた。

 外は寒く、吹雪で何も見えない真っ暗な闇の世界だった。

 でも私にとっては光の世界…。―――自由の世界。

 なんとも言えない幸福感が全身を包み込んだ。これからは私はこの世界で……


 しかしその時、私が扉から出たのと同時に、風がビュッと吹いて、部屋の中を通る。


 そして後ろの方でガラスの割れたような、ガシャンッと大きな音が鳴った…。






 『そ、そんな…っ?まずい…!』

 言葉通り、スーっと顔から血の気が引いていく。



 暗闇にも目が慣れ、かなり見えるようになっていた私は、サッと後ろを振り返る。そこには少し離れた床に花瓶が飛び散っていた。

 豪華で彩飾の限りを尽くされた芸術品は、今や見るも無惨である。耳にはまだ陶器の割れる音が鋭く響いていて残っていた。割れたその音もまさしく一級品だ。


 今の今まで泥棒のように足音を忍ばせてきたが、それが水の泡になって消えてしまった…。


(さっきの風で倒れたんだ…!!ど、どうしよう……っっ!)


 まずい、まずい…と頭がぐるぐるして冷静に考えられない。他の皆も同じようにオロオロしている。

 すると、大きな声で鋭く、

「走れ!行け!走れっ!!」

 ラガーナだった。


 その瞬間、みんな走り出した…。

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