第1章 闇の世界へ

第1話 鐘の音

 


 朝日が昇ると共に、美しい鐘の音が響き渡る。





「ホープ、そろそろ起きなさい」

 そう言われて夢から覚める。朝日が目に当たり、思わず目を細めた。すぐ側にある窓の外を見れば、空はよく晴れており、まるで胸一杯に爽やかな風が吹き込んだように清々しい。そして冬だと言うのにとても暖かな朝だった。



「おはよう、おじい」

 私はぼやける目をこすりながら、声の主を探した。

 ゆっくりと体を起こすと、心は清々しいというのに、体はまだ寝足りないのだろう。ずっしりと重くてダルい…。

 私に声をかけてくれた老人は、もう既に支度を終わらせていた。そしてまるで自分の役割であるかのように、みんなを起こして回っている。


(もう一眠り、もうひと眠りだけしたい…)

 これほど気持ちの良い朝だというのに、起きてまず始めにそう思った。しかし疲労感の残る体に無理やりムチ打ち立ち上がる。

 そうして未だに続いている美しい鐘が鳴り終わる前に、支度をサッと終わらせる。


「疲れた顔をしているな。どうした、眠れなかったのか?」

 私を起こしてくれた老人は、心配そうに笑いかける。


「ううん、大丈夫だよ。ありがとう、おじい」

 私は心配をかけないよう、それに笑顔で応える。


「そうか。ならいいんだ」

 まるで鏡のように、老人も笑顔で応えた。


(今日もなんとか乗り越えよう…。 昨日も乗り越えられたんだから…。)

 そう心の中で踏ん張って、私はその心に灯るユラユラと揺れる小さな炎を無理矢理に燃え上がらせた。


 日々がとても長く感じる。それは恐ろしいほどに。



 ここは世界の東の地域にあるナガルの国。そして私はこの国の貴族であるスナトルの屋敷にいた。

 広くて格式の高いこの屋敷には、多くの侍女や騎士、コックなどが住み込みで働いている。


 しかし私は屋敷で寝泊まりしている。しかし働いている訳ではない。ましてや貴族でもないし、屋敷の大切なお客人とも違う。私に対する待遇は劣悪で、食事もまともに与えられていない。





 私は『奴隷』なのだ……





 私には外の世界のことは何も知らないし、分からない。

 しかし、奴隷という人の尊厳を踏みにじり、自由を縛る行為は許されるべきではないことは分かる……。


 奴隷は私を含め全部で5人だ。先ほど皆を起こしていた、"おじい"と私が親しみを込めて呼ぶ老人も奴隷である。

 そんな彼はここ2、3年で、足が悪くなってしまい、奴隷の皆はそれをとても心配している。



 ふと気がつくとなんだか急に静かになったような感じがする。――どうやら鐘が鳴り終わったようだ。

 美しい鐘の音が鳴り終われば、奴隷達は皆、一階の狭い部屋に集合し指示を受けることになっている。

 そうして奴隷みなで、いつもの部屋に移動した。









 部屋に入るとすぐ大きな音でお腹が鳴った。


(お、お腹鳴っちゃった…)

 顔がカアッと熱くなり私は下を向く。


「うふふっ。大きな音!……でもお腹空いちゃうのも分かるわ。昨日の夕食いつもよりずぅーっと少なかったもんね」

 "ずぅーっと"に力を込めてそう言ったのは、スウナという年若い女性だった。スウナは口を抑えながら、クスクス笑っている。私はそんな彼女によく子供扱いをされてしまうのだ。


「わ、笑わないでよっ…」

 私は口を尖らせながら言う。


「あら、ごめんなさい…」

 謝罪の言葉と共に、案の定なぜか頭を撫でられる。


「ちょっと!!スウナさん、また私のこと子供扱いしてるでしょ!やめてったら!」

 私は文句を言いながら、彼女の手を払いのける。


「ふふっ。怒っちゃった?ごめんね…」

 謝ってはいるが、全然反省しているようには見えなかった。


(スウナさんって、きっと小さい頃はイタズラっ子だったよね。絶対…)

 どうせこの心の言葉を口に出しても、彼女には上手くかわされ、からかわれるだろう。

 そう思い、言いたいのをなんとか我慢してそれをゴクリと飲み込んだ。


 そんな彼女は私の心を知ってか知らずか、にこやかに笑っていた。でもそんな風に私に優しく微笑みかける彼女を見ていると、自然に私も笑顔になった。


やっぱり、なんだかんだ言っても、私は彼女が大好きだった……


 整った顔立ちをした彼女は、女の私から見ても美しい女性だと思う。きっと瞳の色と同じ青いドレスを着たなら、さらに美しくなるだろうに……。

 そんな彼女は奴隷になる前は、酒場で歌手をしていたらしい。彼女には私の知らない外の世界の歌をたくさん教えてもらった。

 


「もう子供扱いしないでよね」


「うふふっ!はーい、分かったわ」


「お前たち静かにしなさい。 執事長がそろそろ来るぞ」

 険しい顔をしたおじいが低い声でぴしゃりと言った。






 




 それから30分ほど遅れて、まるまると太り頭の禿げた執事長は、イライラしたように部屋に入ってきた。


(遅かったな…。もしかして寝坊したのかな?)

 珍しいと思った。いつも時間通りにきっちりやって来て、禿げて少ししかない髪の毛を丁寧に整えて来るのに……


 彼は謝罪することもなく、いつも通りで挨拶もなしに命令口調で話し始める。


「今日は1番から3番は屋敷内の掃除をしろ。4、5番は馬と家畜の世話と小屋の掃除だ。昼までには終わらせろ。昼からは……」

 少し甲高い声で、私たちを番号で呼びあげ、偉そうに指示をしていく。


(こんなに待たせたんだから一言ぐらい謝ればいいのに。いい大人が…)

 心の中で彼に悪態をつく。


「おい、お前」

 私の軽蔑した冷ややかな目に気づいたのだろうか?太って細くなった鋭い目できつく睨み付けられる。


(言ってやりたい…。けど我慢だ)


 私が何も反応しないので、ズカズカと私の目の前に早足でやってくる。

「聞こえないのか?お前だよ5番。なんだその目は?俺に何か言いたいようだな」

 そう言うと彼は腰に提げていた馬用のムチを手に取る。


 その様子を見た私は恐怖で身がすくんだ。次に何が起こるかはよく知っている。

 そして私の体は、まるで硬直したように動かなくなった。まさしく蛇に睨まれた蛙…


「背中を向けろ。……早く後ろを向けっ!その根性叩き直してやるよ……。よくもまあ奴隷の分際で。そんな態度がとれるな」


(あぁ…、今日も最低の朝だ…)

 自分のとった態度に、心底後悔した。


 『バシンッ!バシンッ!バシンッ!』

 ムチの鋭い音が何度も何度も何度も、部屋中に響いた…。







『カァンカーン』

 あの鐘の音が聞こえる。


「あぁ、やっと終わった…」

 日が落ちたことを知らせる鐘の音が聞こえる。やっと長い長い一日が、終わりを告げた。


「い、痛い…」

 背中はまだズキズキと痛む。

 これは1週間だなと私は目処を立てる。―――1週間とは痛みがなくなるまでの期間だ。


『ホーホー……』

 どこからかフクロウの鳴き声がした。私は声の主を探そうと、窓の外を見る。月は雲に隠れており、先の見えない真っ暗な闇だった……。


「はぁ……。見なきゃよかった」

 私は大きなため息をついた。なぜなら外を見たからだ。

 普段はあまり窓の外は見ない。どうせ出られない世界、私には関係のない世界だから…。見ると辛くなるだけだ…。


「さぁ、早く部屋に戻って、ご飯を食べて、元気になろう!」

 そう独り言を言った後、バチンっと頬を叩く。


「イタタ…。ちょっと強かったかな…」


 私は掃除に使ったブラシや雑巾を片付け、奴隷たちの夕食が置いてあるキッチンに向かった。



 大きな扉を開けキッチンに入ると、帽子をとったコックが3人いた。パッと目についた1人のコックは料理道具を手際よく洗っていた。どうやらコックたちの仕事はもう終わっていたらしい。

 次に、よく磨かれた台の上を見ると、見るからに冷めた夕食が置いてあった。冷めているのはいつも通りだ……


 台の上の夕食を見て、私は心の中で文句を言った。

(今日も量が少ない…。なんで?昨日も少なかったのに今日もなの?)

 

 するとまるで聞こえたかのように、皿を拭いていたコックの一人にジロリと見られる。文句言うなよと言わんばかりに…。


 今朝の執事長から受けたムチの傷がズキッと痛んだ。


 今日はもうこれ以上問題を起こしたくない…。私は台の上にある冷めた料理をすばやく台車に乗せて、そそくさとキッチンから退散した。




『ガラガラガラガラ……』

 私は台車に5人分としては明らかに少ない料理をのせ、奴隷達の部屋に運んでいく。


(あぁ、背中が痛い。ムチで打たなくてもいいじゃない!執事長って大嫌い!)

 14才の子供が相手であるのに彼は手加減なんて全くしない。そうしてむしゃくしゃしているとすぐ部屋についた。

 私たち奴隷は夜になると、外から鍵がかけられるこの部屋に戻らなくてはならない。まるで牢獄だ。



 一体私たちが何をしたって言うの……?



 沈んだ気持ちでガチャリとドアを開けると、皆すでに部屋に戻っていたようだ。彼らは服についた泥を払っていたり、床に座って窓を眺めていたりと各々がバラバラなことをしていた。


「ご飯もらってきたよ。みんな早く食べよ」

 これ以上待つとまたお腹が鳴りそうで、私はそわそわしていた。


「ありがとう、ホープ。いつも悪いな」

 老人は細くてシワの多い手で私の頭を優しく撫でた。疲れと痛みが少しだけ無くなった気がした。



 奴隷達全員そろって、静かに夕食をとる。

 明日もこの疲労感は残るのだろうか、と体の重さにため息をついた。皆そろった夕食であるのに、誰もなにも話さない。―――きっと皆も疲れているのだろう……。



 そうして夕食も終わりに近づいたとき、はっきりと落ち着いた声でおじいが言った。

「明日は運命の日だな。何が何でもここから出ような……」


 そこで皆、おじいに注目する。そんな彼は深いシワがいくつも刻まれた顔で、私たち1人1人の顔を見る。

 するとそれに合わせ皆が力強く頷く。もちろん私も。


(そうだ、明日は運命の日だ……。)

 沈んでいた心が、一気に薔薇色に変わる。


 終わりのない長い長いこの時は永遠に続くと思っていた。終わりが来ることは決してないのだろうと。

 食事の手を止め、水の入ったコップの水面を穴が開くほど見つめる。



 私が奴隷になってからもう7年……になる。



 私たちは明日の夜、屋敷から逃げ出すことに決めている。




 明日は希望の日…。




 食事を終わらせ部屋の明かりも消し、それぞれは床につく。

 ムチで叩かれた背中が痛くて、疲れているのになかなか寝付けない。


(明日はどうなるんだろうか…。私は本当に大丈夫だろうか…。自由になれるだろうか…)

 月の光が冷たく部屋に差し込んでいた。嫌な想像が一瞬頭をよぎる。それは恐ろしくて、私はぎゅっと目をつむった。



 痛む背中と共にじわじわと不安も広がっていく……。



(落ち着け私。深呼吸、深呼吸…。大丈夫、私なら大丈夫。私はきっと自由になれる。きっと……)

 すでに緊張している自分にそう言い聞かせる。



 あぁ早く自由になりたい…



 

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