晩夏に彷徨う夢現

syatyo

晩夏に彷徨う夢現

 僕は夏が嫌いだ。世界の全てが浮き足立っているようなあの空気感が、どうも僕の肌には合わなかった。ましてそこに蒸し暑さなんてものが加わるのだから、最悪としか言いようがなかった。だけれど嫌いなものは夏そのものであって、いわゆる夏の風物詩——とりわけ花火は僕の楽しみだった。


 夏も終わり頃に近づき夜になると、冷え込んだ空気が世界を覆う。北海道の山の中ならなおさらで、僕は半袖を着たことを後悔しながら山道を歩く。


 毎年、夏休みの終わりに行われる地元の花火大会。河川敷で屋台が出され、ステージライブが行われるそれなりに大きな祭り事ではあるけれど、僕にとっては大会というよりは鑑賞だった。


 河川敷からほど近い山の中腹から眺める花火は言葉で言い表せないほど綺麗で、夏の澄んだ空気を伝わってくる破裂音を聞くたびに心が震えた。


 そんなことを思い出しながら、僕は草木を掻き分けて道無き道を進む。山道を道なりに歩いていっては頂上にたどり着くだけ。僕が目指しているのは花火がちょうど目線の高さで見られる場所——本当の形が見られる場所だった。


 青々と生い茂る種々の草木を潜り抜けた先に、僕だけの世界がある——はずだった。


「……誰?」


 一昨年に見つけた僕専用の腰掛けの大岩に浴衣姿の見知らぬ女の子が座っていた。


「…………」


 女の子は答えなかった。というよりは聞こえていなかったという方が正しいかもしれない。彼女は僕の声に反応すらせずに、ただ真っ直ぐに夜空を見つめていた。


「誰なの?」


 もう一度聞いてみる。今度は肩がピクリと動いたような気がした。それでも女の子は口を開かなかった。


「そこ、元々は僕の場所なんだけどな」


 僕は女の子から少し離れた位置に腰を下ろして、嫌味っぽく指摘した。別に僕のものではないことはわかっているけれど、最初に見つけたからなのか、変な独占欲が湧いていた。もちろん本気で責めたつもりはなかった。


 すると、女の子は慌てて立ち上がって僕に頭を下げてきた。


「…………」


 それでも女の子は言葉を発さなかった。日が落ちてしまったせいで声色も顔色も伺えなかったけれど、どうやら僕の冗談を本気で捉えてしまったらしい。こうなると、罪悪感が込み上げてくる。


「いや、別に座ってても良いんだけどさ。——君も花火を見にきたの?」


「…………」


 女の子は沈黙を守ったまま首を縦に振る。


 それからしばらく会話——虚しくも一方的なものではあったけれど——が生まれることはなかった。


 僕は静けさにバツの悪さを感じて、夏の終わりの哀愁を孕んだ匂いを一息に吸い込む。夏というものが嫌いな僕でさえ、夏が終わる時の漠然とした物悲しさはひしひしと感じた。


 ふと女の子が何をしているのか気になった。どうして何も話さないのか。何故この場所を知っているのか。興味は尽きなかった。僕は横目で彼女の様子をチラと伺う。彼女は出会った時と同じく、夜空を見上げていた。僕もそれ以上彼女を見つめているのは気恥ずかしく思い、彼女に倣って空に視線を向ける。


 星が弱々しく輝いていた。いつかの花火大会の日の流星群を思い出す。今年はどうやら星たちは休日のようだった。


「あ……」


 不意に夜空に破裂音が響いた。続いてもう一回。花火の打ち上げが始まる合図だった。再び、横目で女の子を盗み見る。変わらず夜空を見上げていた。


 僕は夏空に視線を戻す。それと同時に閃光が夜空を切り裂いた。あんなにも暗かった世界は赤や緑や青の光で明るさを取り戻し、満ち満ちていた静寂は心地のいい破裂音にかき消される。音が、光が連続する。夜空に散りばめられた星々に混ざって、閃光が花を咲かせる。


 ふと女の子が花火を見ているのか気になって、勇気を出して彼女の顔を覗き込んでみる。底の見えない黒瞳に色とりどりの花火が映っていて——彼女と目が合って、慌てて目を逸らす。


 再び、花火の光が双眸に飛び込んできて、空気を震わせる破裂音が胸を強く打って。このまま永遠に続けば良いのにと思う。


「綺麗……」


 破裂音に紛れる可愛らしい声が、左の耳の鼓膜を震わせる。声に振り向けば、女の子が涙を流していた。


「本当に、綺麗」


「……そうだね。本当に綺麗だよ」


 女の子の涙にどう反応すればいいのかわからなくて、僕はただ相槌を打つ。その間にも夜空に咲く花は勢いを増していく。終わりが近づいている証拠だった——それはおそらく女の子との関係が終わる時間が近づいてるのを示していて。


「——どうして泣いてるのか聞いてもいい?」


 それがどれほど不躾な質問かはわかっていた。けれど、ここで出会ったのが何かの縁だとするなら、涙を放っておくことはできなかった——いや、それは言い訳だったのかもしれない。顔も見ていないのに、相槌のみの会話しか交わしていないのに、僕は彼女の醸し出す掴み所のない雰囲気に惹かれていた。


「……気づいてもらえて嬉しかったから。これ以上は話せないかな」


「どういうこと?」


 その答えを聞く前に、一際大きい破裂音とそれを追いかけるようにして静寂の世界を彩る細かい火花の散る音が僕たちの意識を奪い取っていった。


 花火大会のクライマックス。無数の黄金色の火花が重力に従って緩慢と地面に落ちていく——いわゆる簾柳の花火だった。僕が数ある花火の種類の中で一番好きなもので、このためにわざわざ山を登ってきたと言っても過言ではない。


 だけれど、それは花火大会が終わりであることも同時に僕の元に届けてきて——感動のひと時はあっという間に過ぎ去り、終了を知らせる合図が二回、空虚を裂いた。


「…………」


 何とも言えない虚しさに沈黙して、僕は女の子の横顔を見つめる。彼女の横顔に涙の色はなかった。


「さっきの答え、聞いてもいい?」


「……たぶん、困らせることになるから、言わないでおく。でも、どうしても知りたいっていうなら、来年もここに来て」


 女の子はそれだけ言うと立ち上がって、崖の淵に立った。眼下を見下ろせば足が竦むほどの高さで、よくそんな所で平然でいられるなと漠然と思った。


 そして——、


「こういうことだから。来年も君に会えるのを楽しみにしてる」


 女の子は振り返ることなく、崖から飛び降りた。一瞬の躊躇いすら見せず、そこがまるで小さな段差であったかのように。


 僕は慌てて震える足を鼓舞して崖下を見下ろす。しかし、そこに女の子の姿はなかった。代わりにあったのはいつ置かれたかもわからない花束で。


「……そういうこと、だったのか」


 八月十五日。北海道の夏休みはこの頃に終わるのが特徴で——お盆真っ只中だった。


「…………」


 僕は夏が嫌いだ。世界の全てが浮き足立っているようなあの空気感が、夢なのか現実なのかわからなくなるような雰囲気が、どうも僕の肌には合わなかった。ましてそこに蒸し暑さなんてものが加わるのだから、嫌いとしか言いようがなかった。いわゆる夏の風物詩というやつ——とりわけ怪談なんかは最悪だ。


 だけれど、僕の嫌いな怪談が好きな彼女そのもので、僕の嫌いな夏そのものが彼女との約束で——僕はそんな矛盾を運んで来た夏が嫌いだ。

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