第5話 その日、彼は数年ぶりに大声で泣いた(前編)

 次の日も、僕は夏子の病室にいた。

 会話らしい会話もすることなく、ただお互い空気のような存在みたいだった。


――時間だけが静かに流れていった。

 

 ずっと黙っていた夏子が、窓の外を見ながら話し始めた……。

「わかってはいたけれど。いざ自分が死ぬってわかると恐いものね」

 夏子は淡々と話し始めた。

「私には、夫がいるの。残念ながら子どもには恵まれなかったけど、夫婦2人で楽しく暮らしていたわ」

「私の夫はね、絵に描いたような亭主関白で、飯、風呂って偉そうに言うのよ」

 夏子は、楽しそうに話している。


 「でもね。偉そうにしているけど、1人では何もできない人なの。お米も炊けない、洗濯もできない、自分の服もどこのタンスにあるかわからない。可笑しいでしょ」

 夏子は、こちらを見てニコッと笑った。そして、また窓の外に視線をうつした。


「今まで一緒にいて『ありがとう』なんて、一度も言われたことないの。でもね、別にそんなことはどうでも良かった……。あの人と一緒に幸せな人生を送っていたから」

 今日の夏子は、昨日よりも元気でよくしゃべる。

 僕は何も言わずに、ただ黙って夏子の話に耳を傾けていた。


「でもね。数年前に夫は体調を崩して救急車で運ばれたの。薄れる意識の中で、自分の死を覚悟したんでしょうね……」

 夏子は少し上を見ながら話を続けたら。

「救急車の中で、私の手をぎゅっと握ったまま。『今までありがとう』って言ったのよ」


「それから、入院して何とか一命をとりとめたけど脳に障がいを負ってしまったの。そして、話もまともにできなくなった。だから、救急車で交わした言葉が、私とあの人の最後の言葉……」


 夏子の話を聞いて、僕は胸が苦しくなるのを感じた。


「夫は今、施設で暮らしているの。だから、私のお見舞いにもこれないのよ……」

 夏子の顔が急に曇った。

「あの人、私がいないと……。何もできないの……」

「今だって、ちゃんとご飯食べてるか……。元気にしているか心配で……。私がいなくなったらあの人どうやって生きていくの……」

 さっきまで笑顔だった夏子が、大粒の涙を流しながら、僕に話した。


 もうすぐ自分が死ぬとわかっているのに、なんで他人のことを心配しているのだろうか。

 僕は、自分が自殺しようとした時、どれだけ周りの人のことを考えただろう……。


「ねえ、死神さん。あなたは、私たち人間が想像しているような怖い死神ではなさそうね」

 夏子は何かを言いたそうだ。

「死神さん。死ぬ前にひとつだけ、お願いを聞いてくれないかしら」


  僕は、うつむき考えた。

 すると、ドクが僕の耳元で話しかけてきた。

「キキキッ! 旦那。人間のお願いなんて聞くことないでやんすよ。死神なんだから堂々としておくでやんす!」

 僕は無言のまま、ドクを掴んだ。

 自分では気づかなかったが、いつもより手に力が入っていたみたいで、ドクが痛がっていたことを、後から聞いた。


「――お願いって何ですか?」

 僕は夏子に聞き返した。

「ここに、私の夫がいるの」

 夏子は、僕に地図を見せた。

「この施設に夫がいるの。もうずっと会っていないから、少しだけどんな様子か見てきてほしいの」

「わかりました。様子を見てきます」

 僕はそう言って病室を出た。

 ドクは不機嫌そうな顔で僕を見ている。


 しかし、僕は変な義務感に駆られていた。

 死んでいく人のせめてもの願いは、無下にしてはいけない気がしたんだ。


 夏子に教えてもらった施設にやってきた。

 たくさんの老人がこの施設で、生活をともにしている。身寄りのない人、障がいを持っている人、家族が介護できない人。

 理由は人それぞれだ。


 僕が施設に勝手に入っても、人間には僕の姿は見えないから安心だ。

 施設の入所者には、みんな名札が付いていた。

 僕は、「二階堂」の名札をつけている人を探した。


「二階堂……、二階堂……」

 僕は、1人1人の名札を確認していった。

 そんな僕を、ドクは相変わらず不愉快そうな目で見ている。


 大きなホールの窓のそばに、車いすに乗って外を眺めながら、介護士にご飯を食べさせてもらっている男性がいた。

 名札を確認すると「二階堂」と書いてあった。


 僕は、顔を覗き込んだ……。


 夏子の話では、一命はとりとめたが脳に障がいを負ったとのことだった。

 車いすに乗っていることから、自分では動けない様子。窓の外を見ているが視線は定まらず、介護士がスプーンで口元にご飯を運ぶが、無表情でボロボロとこぼしながら食事をしていた。

 介護士が話かけるも、表情を変えず返事は無い。


 食事が終わった後も、ずっと窓の外を眺めている。何かを考えているのだろうか?

 自分は誰なのか? 名前は? 生年月日は? 楽しかったことは? 辛かったことは? どうしてここにいるのか? 覚えていることはあるのだろうか。


──でも、夏子のことだけは覚えていてほしい。

  

 僕は、夏子の病室に戻ってきた。

「死神さん。あの人はどうでしたか?」

 心配そうに僕に質問する夏子。


「元気そうでしたよ。ご飯もいっぱい食べてたし、窓から外の景色を見るのが好きみたいですね。周りに支えてくれる人たちや、友達も大勢いましたよ。」


――これが、僕の口から出た精一杯の言葉だった。


「ありがとう。優しい死神さん」

 夏子は嬉しそうに笑っていた。


──次の日、夏子は死んだ。

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