私と彼女と彼女たち
柊 きふゆ
1. 私と朝香
「けっこん」
「言ってなかったっけ?」
間抜けな音で言われた言葉を繰り返す私に、彼女は何でもないように答えた。聞いてない、と思いながら私は前菜のサラダにフォークを突き立てた。
朝香と私は幼稚園からの昔馴染みだ。
実家が歩いて五分の距離にあって、母親同士も仲がいい。そんな小さい頃からの親友だから、趣味は全然違うし盛り上がる共通の話題もあまりない。
お互いに就職して、朝香も私もいまは地元を離れている。それでもたまに、思いだしたように連絡を取るし、親友と言われて思い浮かべるうちの一人。それが朝香。
私は朝香のことがすきだった。
いつだったか、たぶん中学生の時。朝香は将来年収一千万の男でなければ結婚しないと言っていたことを私は思いだしていた。ばかげた話だったけれど、その頃はそれを自由に夢として語れる年頃だったから、無理でしょ、なんて笑いながら話をしていたのだ。
それでも心の内で、半分くらいは彼女は本当にやりそうだな、とぼんやりと考えていた。朝香は昔から要領が良くて、行動力があったからだ。
それなのに。
「どんな人なの」
やっと――実際には数秒も経っていない間をおいて――私は尋ねた。
「会社のバスケサークルの人。二つ先輩でねー、バスケはあんまりうまくない」
ふふ、と思いだしたように朝香はにやにやと笑った。一方で私は、今日二度目のめまいのような心地を覚えた。
会社の人。しかもバスケットボールつながり。間違っても年収一千万男子ではないだろう。
何度も言うが、私は朝香のことがすきだった。
校区が同じだった中学校から別々の高校へと進学して、別々に交友関係を広げながら別々に将来を描くさなか、私はずっと朝香の言葉が頭から離れなかった。
――年収一千万って、どうやったら稼げるものなんだろうか、と。
だからといわけではないけれど、私は大学進学の際、経済学部を選んだ。特別数学に強かったわけでも賢かったわけでもないのに。それからバイトをしてお金を貯めて、三回生の時に進学を決意した理由の一つであるゼミの先生に相談しながら貯めたお金で投資を始めた。
その頃の朝香は確か、女子大で環境デザインをしていた。業界地位の高いデザイン会社に勤めてバリキャリになるとかなんとか、中学の頃とはまるで違うことを言っていたように記憶している。
私は卒業する頃には投資のコツを掴んでそこそこ軌道に乗った資産運用ができるようになっていた。それこそ普通に就職して、OLになるのがアホらしくなるくらいに。
けれど年収一千万の壁は思ったより高かった。
だからその分野で就職をして、法人の投資のやり方や、他人の手はずを学ぼうと思ってひとまず就職はした。手取りを合わせてもまだ一千万には及ばないが、このまま順調にすすめばあと数年で手の届かない夢でもなくなるだろうと思っていた。
そんな時だった。ちょうど長期休暇で実家にいた私が、朝香も帰ってきているらしいと母親から教えてもらったのは。
帰ってきてるらしいじゃん、と連絡をすればすぐに返事があった。そうして久しぶりに会おうか、という話になったのだ。
すっかり様変わりして詳しくはない地元の、最近出来たイタリアンの店で朝香と私は数年ぶりに会うことになった。店を選んだのは朝香だ。
席に着いて挨拶もそこそこに、近況の話になって出てきた言葉が冒頭というわけである。
そもそも彼氏が出来た事だって聞いてない。青天の霹靂ってこういう時に使う言葉なんだろうな、となんとなく思ったりした。
というか一千万はどうした、と言いたい気持ちを私は堪えた。
たぶん朝香はこれっぽっちも覚えてない。
よかったじゃん、とか朝香が選んだならいい人なんだろうね、とか。言えない言葉がぐるぐると頭の中で渦巻いた。
砂を噛んでいるように味のしないサラダを食べ終わると、本日のおすすめパスタが出てきた。香りのいいジェノベーゼ。でもきっと、これも味はしないだろう。
すきだったのに。そんな急に湧いて現れた男なんかより、私のほうがずっとずっと昔からすきだったのに。
どこがすきだとか、いつすきになったかなんてもうはっきりと言えないくらい昔からすきだったのに!
「言ってくれてたらお祝いくらい何か持ってきたのに」
「ええ、いいよそんなの。式はするかまだ分かんないんだけど、もし決まったらまた連絡するから」
「今度は忘れずに言ってよね」
「言うよー、一番に言う!」
笑う朝香に嘘つけ、と私は内心毒づいた。
「ていうかそっちは? なんかいい話ないの」
そこまで興味があるようには見えない様子で朝香が言った。
ざっと半生を振り返るが、もちろんない。私のここ数年の人生はお前の言った一千万という単語に振り回されてきたんだぞ、と恨み節にも近いような言葉が喉元まで出かかった。別に朝香に恨みは一切ないけれど。今はそっとしておいてほしい。失恋したばかりの人間の情緒がまともだと思わないでくれ。
もちろん朝香は、こっちの事情なんてこれっぽっちも察していないのだろうが。
「ない、かなあ……。何なんだろうね、私の人生……」
「じゃあこれからじゃん! いいなあ」
良くないわ。
「式、絶対挙げてほしいな。朝香のドレス見たいし」
露骨に話題を逸らすために結婚の話を蒸し返しながら、若干ダメージを受けている私は本当に馬鹿だと思う。
「でもバカみたいに高いんだよあれ。知ってる?」
「知らないよ」
「調べてみ。ほんと高いから」
私そのお金で家電買い替える方が先だと思うわーなんてなんでもないように朝香はパスタをくるくると巻きながら言っている。
私は笑い返しながら味のしないパスタを噛んで、せめてドレスは見たいな、と本気で思っていた。気持ちは全然切り替わっていないし頭も全然追いついていなかったけれど。
――正直に言って、朝香と付き合えるなんて、思ったことはない。付き合おうと思ったこともない。思っていたらダメ元だろうが何だろうがさっさと告白している。
だからきっといつかこういう日が来ることは分かっていた。
分かっていても悲しいものは悲しいし、つらいものはつらい。それを分かっていなかっただけの話だ。
朝香のドレス姿絶対かわいいから、旦那さんもきっと見たがるでしょ、と心にもない事を言う私に(本当に見たいのは私の方だ)、そんなことないよと朝香は否定するように笑いながらひらひらと手を振った。
その薬指には確かに、大きな石が輝いている。
私と彼女と彼女たち 柊 きふゆ @lutea
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