第60話 落ち続ける水滴の記憶(3)

 ジルの知る水の魔王トルカーネは、もっとおっとりした物腰で悠然と構えていた。策略で他者を陥れて楽しむことはあっても、自らが出向いて何かに駆られるように騒ぎ立てたことはない。最古参の魔王である自分への自信と誇りに満ちた男だった。


 癇癪を起こして喚き散らす子供の振る舞いをするような奴じゃない。


「トルカーネ、役割とは何だ?」


 問いかけたジルへ、大きく目を見開いたトルカーネは動きを止め……やがて泣き出しそうな顔で首を横に振った。諦めた態度で俯く魔王に、ルリアージェが声をかける。


「役割は断れないのか?」


 怒って八つ当たりするかと思われたトルカーネだが、大人しく首を横に振った。


「僕が生まれた理由、作られた理由そのものが役割を果たすため。僕が役割を放棄したら、僕自身が不要になるんだよ」


 ぼそっと呟いた姿は、迷子の子供だった。前も後ろも道が分からなくて立ち竦んだ、怯える子供そのものだ。そしてトルカーネは最後の引き金に指をかける。


「だから……ごめん、僕の代わりに滅びて」


 ぶわっと水が大きく盛り上がり、トルカーネを包み込んだ。水の球は海水を巻き込んで膨らみ、多大な質量をもって迫ってくる。彼の足元に巨大な魔法陣が出現した。魔力で操りきれない水を魔法陣で制御するつもりだろう。


「よくわからねえが……追い詰められた境遇に同情はしてやるよ」


 冷めた口調のジルが、ばさりと翼を広げた。黒翼に精霊達が集う。魔族が持つ魔力が操る魔法や魔術は、どこまで極めても精霊に勝てない。精霊を強制的に従わせて引き出した能力と、彼らが自ら望んで揮う力には大きな差があった。


「我が君っ!」


「トルカーネ様」


 側近達の叫びが遠く聞こえる。彼らもリオネルやリシュアと戦っているため、すぐに動けなかった。


 水の精霊が歌い、風の精霊が音を乗せる。火の精霊が温もりを与え、最後に大地が受け止めた。一瞬で行われた精霊達の連携は、トルカーネが入った水の球をじわじわと削っていく。


 制御を失った水が雨となって海や浜辺に降り注ぐ。虹がかかり、青空は無慈悲に遠い。透き通った景色にすべてを委ねるように、トルカーネは水色の瞳を閉じた。半分ほどの大きさになったとき、突然水の球は破裂する。


「バカなやつ……」


 呟いた隣のジルの声だけが、ひどく乾いて届いた。まるで旧友を失ったような、どこか労わりのある声色が殺伐とした雰囲気の中、透明の景色に似合う。


 結界の中にいたルリーアジェが直接触れられない雨は、ぽたぽたと雫の音だけ残して消えた。

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