第2話 雨の日のお邪魔虫

 朝露が滴る……優雅な朝ではなかった。


 昨夜降り始めた雨は止まず、テントの中から外を眺めている。


 目の前の小さな花は、久しぶりの恵みが滴るたびに花びらを揺らした。嬉しそうだ……なんとなくそう思い、ルリアージェは無造作に指先を伸ばす。




「ルリアージェ、その花」


「わかっている」


 毒があるというのだろう。花びらは無害だが、茎や根に含まれる毒は失明の危険がある。だからこそ美しいのか、無垢な白い花びらを突いた指先を掴まれた。


 呆れ顔の青年を見上げ、ルリアージェは手を振りほどいて身を起こす。寝転がったまま花を弄っていた指先は、ひどく冷えていた。



「冷えてるね、これ着て。温かいお茶を用意するから」


 テント脇の荷物からコートを引っ張り出して渡される。


 苦笑いして歩き出すジルの手を珍しく温かいと感じた。普段なら冷たいのはジルの方で、ルリアージェは常人より体温が高い。


 指先が冷えていたので心配してくれたのだろう。


「頼む」


 素直にコートを羽織って足を縮めた。抱え込んだ足を支点にごろんと後ろに寝転ぶ。




 敷いたままの毛布は少し湿っていた。


 湿度が高い。まだまだ雨は止みそうになかった。


 森の為に必要な雨だが、行動を制限される者にとってあまり好ましくない状況だった。急ぐ旅でないのは幸いだが、厚い灰色の雲に覆われた空は気分を下降させる。


 夕方まで止まないと判断したため、今夜はここで2泊目の予定だ。食料は足りているし、大木の根元なので風雨の影響も受けづらい。



「寝てるの?」


 近くで聞こえた声に慌てて目を開く。いつの間に寝てしまったのか、ごろんと転がったままの小さく丸まった姿勢で見つめる先に、きちんと正座したジルが首を傾げていた。


 まだ頬が赤い理由は昨夜の拳だが、しっかり無視する。指摘すれば嬉しそうに代償を求める奴なので、気づかないフリをするのが一番害は少ないのだ。


 連れの厄介な性格を知れば、誰もが同じ対応をするだろう。


 すぐ脇に湯気の立つカップが置かれているため、お茶を持ってきてくれたらしい。



「いや……起きる」


「そう? せっかく寝込みを襲おうと思ったのに」


「残念だったな」


 美男美女の会話はテントの外から聞けば、色っぽい状況を想像させる。


 笑みを浮かべてキスを強請る美貌の青年を、全力で拒否して押しのける美女という現場を見なければ……という注釈つき。


 どう好意的に解釈しても、相思相愛の恋人同士ではない。



 なんとかジルを突き飛ばすことに成功し、ルリアージェはお茶のカップを手に取った。


 湯気の出るお茶にふーと息を吹きかける美女は、一部のマニアに人気が出そうだ。おっかなびっくり口元に運ぶ姿は年齢以上に幼く見える。


 ゆっくり一口飲み、ほっと息を吐いた。


「……あったかい」



 次の瞬間―――


 ドンッ! 


 激しい物音と衝撃に、ルリアージェの手からお茶が零れる。カップを取り落としたため、残っていたお茶のほとんどがコートと彼女の服に吸収された。


「あっ」


「……オレは少し外にいるから着替えてね」


 さりげなく手を膝や腿の上にかざしてから立ち上がる。熱いと顔を顰めたルリアージェを置いて、足早にテントを出て行く。


 確かに男性がいれば着替えにくいが、心配性で過保護な彼らしくないため、ルリアージェは「ジル?」と呼び止めた。


 ルリアージェの呼び止める声が聞こえても、青年は足を止めなかった。というより、怒りで我を失いかけているのだ。聞こえた声は言葉として認識できていない。



 テントの外はまだ、しとしと濡れる雨が降っていた。踏み出した足元で白い花が揺れる。


 苛立ちを隠しもせず見上げれば、雨粒が邪魔をした。


 舌打ちして、頭の上で手を振る。見えない傘のように、雨粒はジルの上に降り注ぐことを止めた。


 さきほど結界を破って侵入したお邪魔虫を睨み付ける。


 通常の魔物や獣避けの結界だが、大きな力や攻撃を受ければ砕ける。どうやら力づくで結界を壊したらしい金髪の青年は、きょろきょろと周囲を見回した。


 何か探しているらしい。


「で、おまえは何?」


 腹立たしさのまま吐き捨てた声は、氷より冷たく鋭く響いた。


 地上から2mほどの位置に浮かんでいる金髪の青年は、その声音を正面から受け止めて眉を顰める。


「……あの女じゃない?」


「オレが聞いたんだ、先に名乗れ」


 声が低くなる。機嫌の悪さが力の揺らぎとなり、ジルの周囲で渦を巻いた。


 ふわりと身体を押し上げるような浮力が彼を包む。頭の上に結わえた黒髪が揺らぎ、黒衣の端が風にはためいた。


 苛立つ猫が尻尾を叩きつける仕草に似ている。


「答えろっ!」

 感情のままに吐いた言葉に力が宿る。カマイタチに似た刃が声に重なって、金髪の青年を襲った。


 余裕の笑みを浮かべた青年は手をかざして防ぐが、その結界を突き破って指2本を切り落とす。


「なっ……! ばかな」


「魔物風情が、オレを怒らせるか」


 ジルを取り巻く風が強さを増した。木々の葉を散らし、足元の花を散らせる。台風の目になったジルを中心に、森は大きすぎる力に翻弄された。


 宙に浮いて見下ろす金髪の青年を「魔物」と断定したジルの口元が笑みを作る。


「ならば報いを」


 受けるがいい! とか、多分そんな格好いいセリフが続く場面だった。



「ジル……何をしている。花が可哀相だろう」


 緊迫した空気を読まない呆れ声が響き、着替えを終えたルリアージェがテントから顔を出す。毒があるとはいえ可憐な花を咲かせていた草を手で庇いながら、「やめないか」と再度声をかけてきた。


 逆巻く風の中心で怒り狂っている連れを見ても、まったく怯む様子はない。それどころか、宥めるつもりらしい。


「ルリアージェ……」


 邪魔しないで。


 困惑したように力を緩めるジルが眉尻を下げる。


「ああ、火傷の治療は助かった」


「うん……」


 着替えながら治癒された足に気づいたルリアージェの、律儀すぎる礼にすっかり毒気を抜かれてしまった。


 尻尾よろしく苛立ちに逆立っていた髪が背に落ち着き、刺々しい風は和らいでくる。


「それで、彼は知り合いか?」


 今までの会話を聞いていなかったらしい。警戒心の欠片もないルリアージェの言葉に、脱力したジルが首を横に振って否定した。


「知らないやつ」


「なぜケンカしていた?」


 いや、まったく聞いていなかったわけじゃないのか。


 あれだけ魔力が充満した威圧を前に、ケンカという他愛ない括りに入れてしまうあたり、彼女は規格外の天然だった。


 無視されている現状に苛立ったのか、隙ありと判断したか。


「くらえ!」


 三下の発言と同時に氷の礫が降り注ぐ。逃げ道を残さぬよう広範囲に降る大量の氷刃は、しかしすべて消えた。ジューという音と僅かな湯気、どうやら蒸発したらしい。



「さっきオレの結界を破ったから、お仕置きしてたんだ」


「それは……その、悪かった」


 止める必要がなかったとルリアージェが、反省の様子を見せる。



 …まだ無視するか!?


 怒りが沸点に達した金髪の青年は、大きな氷の柱を作り出す。杭さながら、先端を鋭く尖らせた氷の塊の質量は大きく、今度は簡単に蒸発させられることはないだろう。


 自信作を勢いよく振りかぶり、


「今度こそ死ね!!」


 全力で投下した。



 パシッ


「うるっさいなぁ」


 無造作に右手をあげたジルが杭の先端を受け止め、あっさりと左に逸らせた。


 誘導されるまま氷の柱はテントの向こうに突き刺さる。上手くテントの上を掠めて飛んだ柱は先端が砕け、地面を抉って刺さるが……最後はぐらり傾いで倒れた。


 愕然とする魔物へ向き直ったジルの口元が歪んで笑みを作った。


「もういいや、消えろ」


 先ほどまでの怒りが嘘のように、シッシッと追い払う所作をする。


 バカにされることに慣れていない魔物が、怒りに肩を震わせた。その感情のまま、己の爪を長く鋭い剣の代わりとしてジルに向ける。


 突然長くなった爪をみながら「折れると痛そうだ」と見当違いの感想を呟くルリアージェは、自らの周りに最低限の結界を張った。連れへの心配はない。



 非常識で『圧倒的な力』の持ち主なのだ。



 目の前に迫った鋭い爪を無造作につかみ、ジルは一気に距離を詰めた。爪を一まとめにした手で、魔物を叩き落す。


 上空に浮いて優位に戦いを行おうとした魔物を地に這わせ、足で背を踏みつけた。


「ところで、彼は何しに来た?」


 素朴な疑問を口にするルリアージェに、ジルは「さあ」と首を傾げる。実力の差なのか、踏まれた青年は起き上がれない様子だった。


 足元であがいているが、艶やかな金髪が泥に塗れてくすむだけ。


 努力は報われない。


「そういや……あの女とか何とか」


 言ってたかな? 首を傾げるジルに、テントを出た時の怒りはもうない。


 自分のテリトリーに侵入された猫のように毛を逆立てていたが、威嚇した相手が小物だったため、どうでも良くなったらしい。


 本能と己の気持ちに忠実な男だから、付き合う方も真面目に相手をしていると疲れる。


 青年の言葉を聞き「女……もしかして私か?」とルリアージェが動く。身動きできない魔物の前にしゃがむと、長い爪が伸ばされた。


「おまえっ!」


 どうやら探していたあの女とやらは、ルリアージェで間違いないようだ。だが爪が届くより、ジルが爪を折る方が早かった。


 いつの間に手にしていたのか、黒い刃のナイフで手首と地面を切り裂く。


 柔らかな果物の切り口のように、地面が30cmほど切れた。叩き斬られた両手と一緒に、切れた金髪が泥の上に散る。


 基本的に痛覚が鈍い魔物は、悔しそうに歯を食いしばるが悲鳴は上げなかった。


「次は首を落とす」


 声は鋭く冷たく響いた。


 ルリアージェに危害を加える存在を許す気はないと告げる声色とセリフに、魔物は悪あがきを止める。大人しく地に伏せたままの魔物に、ジルは首を傾げた。


「ルリアージェが目的だとして、心当たりは?」


「ない」


 即答するルリアージェだが、彼女は基本的に興味がないことは覚えない。必要な説明も興味がなければ聞き流してしまうため、断言されても当てにならなかった。


 まだ一緒に旅をしてひと月だが、互いの性格は把握している。


「うん、覚えなかったんだな」


「……否定はしない」


 ルリアージェの微妙な返答に、忘れられた……というか。最初から覚えてすら貰えなかった魔物が叫ぶ。


「おまえ! あれだけ封じたくせにっ!!」


 ぎりりと握り締めた拳をたたきつけて怒る姿に、ルリアージェは考え込む。


 逆にジルは心当たりに気づいて溜め息をついた。


 あれだけ封じた――複数の魔物を封じた現場は見ていないが、魔物を封印した石を売ったのは知っている。店主が言うままの安値で買い叩かれそうになり、慌てて間に入ったのだ。


 交渉感覚皆無のルリアージェに代わって、しっかり高額で売り捌いた当事者だった。



「ルリアージェ、数日前に町でたくさんの封印石売っただろ。あれ、どこで封じたの?」


 ここまで誘導されれば、さすがのルリアージェも思い出す。立ち上がってぽんと手を叩く。


「二月ほど前に訪れた町で封じた。若い女性が何人も犠牲になったようで、仕事を依頼された」


 町に常駐する魔術師は少ない。


 大きな都市ならば別だが、たいていの魔術師は存在が秘されており、ギルドに依頼を出して派遣してもらう形が主流だった。当時はまだ追われていなかったルリアージェも、派遣されて町の魔物を封じたのだ。


 当初の想定より数が多かったけれど…。


「なんだ、逆恨みか」


 ルリアージェは無自覚に、魔物の傷を抉る。


 事実を口にしたのだが、この素直で悪気ない言葉が彼女の欠点だった。相手の気持ちを思いやるより先に言葉を吐いてしまう。


 ちゃんと詫びることは出来るので、性格が悪いわけではないが…。まあ、町の中で人に囲まれて生活するのは向いていないだろう。


「ルリアージェ……それ以上は(状況が悪くなるから)黙ってて」


 空気を読むことに長けているジルが、これ以上の発言を制止する。足元で怒りに震える魔物に、少しばかり同情を向けた。


 ルリアージェとのお茶の時間を邪魔したことや、彼女に火傷を負わせる原因となったのは許せない。しかしあっさり負けた上、ここまで無邪気に傷口を抉られるのは気の毒だ。


「……いいや、もう帰れ」


 背を踏んでいた足と、威圧していた魔力を散らす。とたんに跳ね起きた魔物は距離をとり、こちらの出方を窺っている。動かず睨み付けてくる魔物へ、ひらひらと手を振った。


「帰れって。あと、もう来るなよ」


 ジルの態度が豹変した理由はわからないが、逃がしてもらえると判断したらしい。ふわりと浮いて空中に溶け込むように姿を消した。



「覚えてろよっ!!」


 最後に余計な一言を残して―――。

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