【 Pay It Forward 】

淺羽一

【 Pay It Forward 】

「Kさんが引っ越ししたいねんと」

 関西訛り全開でそう言ったのは幼馴染みのUだった。場所は冷房(設定温度25度)の効いた僕の事務所。ちょっとした仕事を手伝ってもらっていたのだ。8月に入ったばかりで、いよいよ世間が「平成最後の夏」って単語で盛り上がっていた頃だった。


「Kさん」とはUの友人で、絵描き仲間でもある男だった。僕も、彼らが共催した絵画展を訪れた際などに何度か顔を合わせていた。Kは年齢こそ僕やUよりも下だったが、社交ダンスやロシア語という愉快な特技があって、実は以前から僕らの間で「貴族説」が流れていた男だった。その上、普段はを連れ歩いているという噂まで。

「手伝いに行くんか?」

 多分きっとそうなんだろうと思いながら尋ねた。実際、僕もしばらく前に引っ越しをUに手伝ってもらったばかりだった。Uの実家はトラックを持っていて、彼はしばしば友人の引越作業や荷物の運搬作業を手伝っていた。

 しかし、返ってきたのは半分正解で半分間違いのような回答だった。


「行きたいねんけど、ちょうど予定が入ってんねん」

「いつ?」

「8月の25日か26日」

「土日か」

「手伝うつもりやってんけど、その2日間だけどうしても外せん用事が入ってな」

「なら、俺が行ったるやん」

 するりと出た。幸いなことに、僕ならトラックにも乗れるし、その2日間くらいなら予定も空けられた。

「ええんか?」

「ええよ。面白そうやし」


 それは本心だった。だって貴族や美女にまつわる噂のある男だ、興味を抱くなと言う方が難しい。そして同時に、Uの幼馴染みとして、彼が友人と交わした約束を全うさせてやりたかった。僕自身、Uや彼の家族には何度も助けられている。「恩返し」なんて大げさなつもりはないけれど、出来ることならしてやりたい。

「ほな、Kさんにお前が行くって言うわ」

「はいよ」

 こうして、いともあっさりとこの物語は始まった。

 でも、これを書いている今になって、つくづく実感する。運命論が嫌いな僕だけど、全てはとっくにつながっていたのだと。



 事前にSNSで現住所と新居の住所を聞いていて、インターネットとスマートタブレットの助けもあり当日は約束の時間ぴったりにKのマンションへ到着した。マップ機能って便利だね。


 時刻は彼の都合に合わせて午後6時。正直、引っ越しを始めるには遅いんじゃないかと思ったものの、荷物がさほど多くないと聞いていたことに加えて、最高気温が37度なんて異常値を叩き出すような夏だったから、真っ昼間から汗だくになるよりはマシだろうと納得した。


 とりあえずコインパーキングにトラックを停めて、彼の部屋へ向かった。大通りに面したマンションは想像以上に清潔感があり、何より彼の部屋がある高層階からは、大阪城が目の前に見えた。

「最高ですよね、この眺め。僕も初めて見た時は写真を撮りまくりましたもん」

 扉を開けて出迎えてくれた彼に、何より先にその感動を伝えると、Kは笑ってそう言った。久しぶりの再会に気まずさは感じなかった。ただ、以前よりも太ったなとは思った。

 そしていよいよ、室内へ。梱包途中の段ボールなどが散らばる1ルームには、彼女がいた。彼女の名前は……タチアナとでも呼ぼうか。映画『007』シリーズの第2作『ロシアより愛をこめて』で、ボンド・ガールとして活躍したロシア人女性の名前だ。実際はイタリア人女優が演じていたのだけれど、その辺はご愛嬌。それに、実際のタチアナの名前だって、もっと可愛らしくて柔らかい響きをしているし。

 話を戻そう。タチアナはすらりとしたスタイルに、子供かと思うくらい小さな顔を載せた、まさしく「美女」だった。喩えるなら、黒いTシャツとスウェットを着た長身のビスクドールだ。短めに切り揃えられた亜麻色の髪が、LED照明の下できらきらと輝いていた。一点のシミもない肌は、白磁と言うよりもむしろ生卵の表面みたいにつるっとしていて、生気があった。ちなみに、すっぴん。


 すげーな。


 素直にそう思った。いや、実際にKに向かってそう言った。彼は少し気恥ずかしそうに、だけど誇らしそうに「はい、すごいんですよ」と返してきた。

「はじめまして、タチアナです」

 驚くほど流暢な日本語で自己紹介をしてきたタチアナに、慌てて僕も「初めまして」と返した。前日、必死に調べてきたロシア語の挨拶など、全くもって出番がなかった。


 実は、Kからは前もって聞いていたのだ。噂の「美女」の正体が、ロシアから来た留学生で、彼の――あの時点で既に「婚約者」であるのだと。いっそ、その一週間前に、Kがタチアナを連れて実家に挨拶へ行った時に撮った写真もSNS上で見せてもらっていた。

 突然の外国人美女の訪問に加え、婚約の報告という、サプライズ大砲の連発に仰天したご両親の気持ちはよく分かった。実際に会ったタチアナは、写真で見るより遥かに可愛かった。しかも賢い。聞けば、日本に来てまだ10ヶ月しか経っていないのに、日常会話はほぼ完璧だ。


(そら、『早く結婚したい~』とか言うわな)


 梱包作業にかこつけてすぐにする国際カップルを眺めながら、滅多に人を羨むことのない僕でさえ、羨ましすぎて眼から血が出るかと思った。

「ほら、さっさと残りのもんを整理しよ! 段ボールは? 足りへんなら買ってくるで!」

 テーブルの脚を外すだけでも、二人並んで作業をして、今度は外した部品で互いをつつき合うなんつーバカップルに、僕が手を叩きながら指示を出した。隙あらばとする男女を放っておいては、作業なんて永遠に終わらない。

 ようやく荷物の梱包が全て終わった時点で、時刻は既に午後7時を大きく過ぎていた。


 とは言え、確かに彼らの荷物は――一般的な引っ越しと比べれば遥かに――少なかった。特に、タチアナの荷物はミニマリストかと思うほどだった。事実、既に彼女は前の部屋を引き払っていて、数日前からKの部屋に荷物を移していたのだけれど、その際に彼女が持って来たものは、夏用の布団と、スーツケース1個分の服と日用品、そして彼女が大切にしているアニメのフィギュアが2つだけだった。その内の1つは、僕でも知っているもので、彼女にとっては中学生時代から大好きな日本の有名キャラクターのものだった。

「これは、とてもたいせつ」と言いながら、そのキャラクターをぎゅっと抱き締めるタチアナの姿に、ふと「あぁ、この子も普通の女の子なんだ」と感じた。Kを見ると幸せそうに笑っていて、羨ましすぎて耳から血が出るかと思った。


 ひとまず僕とKはトラックに荷物を積んだ。無理矢理に詰め込めば一度に全て運べそうだったが、大切なものを壊してはいけないと思って、2回に分けることにした。一度目の運搬作業の間、タチアナにはKの部屋で休んでおいてもらうことにした。

 トラックに乗り込み、僕はKと完全に二人きりになった。新居はそれほど遠くなかったが、荷物を積んでいるせいもあり、僕はいつも以上にゆっくりと車を運転した。だから、話す時間は充分にあった。


「ええ子やね」 僕が言った。

「マジですごい子なんですよ」 Kが返した。

 ある程度の馴れ初めは事前に聞いていたものの、僕は改めて彼にタチアナとの出会いについて尋ねた。

 Kは、面と向かって話すのが照れ臭かったのか、最初こそちょっとだけためらいを見せたものの、やがてとうとうと語り出した。


 彼曰く、出会いのきっかけはSNSを通じて届けられた、突然のメッセージだったらしい。

 ゲーム会社でデザイナーとして勤務しながら、オリジナルのイラストも描いているKは、以前からネット上に作品を発表する際、日本語だけでなくロシア語でも作品の解説を添えることがあったそうだ。そして、そのような活動を続ける中で、ネット上にロシア人の友人も生まれていた。


 タチアナは、Kと交流があったロシア人の親友だった。そしてタチアナは日本に来て間もなく、SNSを通じてKにメッセージを送った。当時、全くと言って良いほど日本語を使うことが出来ず、ましてや異国の地で頼れる友人・知人もいなかったタチアナにとって、「親友の友人である日本人」はさぞかしありがたい存在だったろう。

 Kは言った。「僕で力になれるなら、なりたいと思ったんです」


 正直、かなりのお人好しだと思うと同時に、あれほどの美女ならそれも当然かと思った。

 そもそもKとタチアナは、共通の友人こそいたものの、面識は全く無かった。辛うじてSNS上で互いのイラストを見たことはあったそうだが――タチアナも趣味でイラストを描いている、それでも会話をしたり顔写真を見たりなんて機会は一度も無かった。

 なのに、突然のメッセージ。しかも会ったこともないロシア人から、〈今、日本にいて、日本語を勉強しています。お話しませんか〉なんて内容のもの。幾ら友人の友人からとは言え、普通であれば不審に思っても不思議じゃない。

 でも、Kはタチアナに会った。さらには、日本人として、彼女の力になってやろうと決めた。実は、こうなるに至った真の理由は、また別にあるのだけれど、それはひとまず置いておこう。


 タチアナからの最初のメッセージは、英語で書かれていたそうだ。

 Kは、簡単な日常会話程度ならロシア語が出来る。辞書を使えばある程度の文章もきちんと読める。だけどタチアナは、それすら本当かどうか知らなかった。そこで彼女は、日本人でも理解してもらえそうな英語を使って、彼にメッセージを書いた。

 ロシア語について僕は全く詳しくないが、英語の文章に関して言えば、日本語と違って文面だけでいきなり書き手が男性か女性か見分けるのは難しい。だから最初、Kはタチアナが男か女かさえ分からなかったと言う。しかし、何となく単語などから女性っぽいと分かって、徐々にテンションが上がってきたそうだ。


 Kは――これを言っても良いものかどうか、それまでプライベートでも仕事上でも女性と接する機会こそあったものの、恋人として正式にお付き合いをした経験は無かったらしい。そんな彼に、「美女の代名詞」とさえ言われるロシア人女性からメッセージが届いた。

 少なからず浮き足立ってしまうのは仕方ない。ましてや、〈これが私よ〉と送られてきた画像に写っていたのがまさしく「美女」であったなら?

 想像しただけで、にやにやしちゃうよね。

 実際、Kも最初はどきどき、わくわくしていたらしい。けれど、そんな浮ついた気持ちは、あっという間に霧散する。


 その日、Kとタチアナが初めて会う約束をしていた日。関西に台風が直撃していて、外には激しい雨が降っていた。

 約束の場所は、難波にある映画館だった。若者に人気のファッションビルの中にある映画館で、いかにも若い女性と初めて会うには良さそうな場所だ。

 だけど、約束の時刻を過ぎてもタチアナは現れなかった。

「で、どうしたの?」

「彼女を捜しました」

「帰ろうって思わなかった? 騙されてるってのは言い過ぎでも、これは何かの冗談で、彼女はそもそも来なかったんだって」 少し意地悪な聞き方をしていると思ったが、僕は敢えてそう聞いた。


「思わなかったです」


 Kの答えは簡潔だった。

「へぇ、何で?」

「外がすごい雨だったんですよ」

 それはきっと、国語のテストであれば“不正解”の問答だった。でも、彼にとっては正解だった。

「彼女、当時まだ日本に来て2週間くらいで、携帯電話も使えなくて、全然連絡が取れなかったんです。しかも日本語だってほとんど喋れなかった。そんな状況で、一人ぼっちなんて、絶対にダメじゃないですか」

「まぁね」

「だから捜しました。何処にいるか分からなかったけど、とにかくきっと近くまでは来ているって思ったから」

「で、見つけたんだ」

「はい。駅の近くにある商店街の入り口で。携帯電話と、壊れた傘を手に持って立ってました」

「壊れた傘?」

「来る途中で傘が壊れて、コンビニで2本目を買ったんですけど、それも壊れちゃったみたいで」

 つまり、それくらい激しい雨風だったと言うことだ。

「僕は勿論、傘を持ってたんですけど。でも、相合い傘なんて出来なくて、タチアナはずっと壊れた傘を使ってたんです。それを見た時、浮かれてた自分が一気に恥ずかしくなったって言うか、罪悪感を覚えて……本当に、ちゃんとしようって思いました」


 この時、Kの言った「ちゃんと」の意味を、それこそ僕は理解出来ていなかった。それが彼と彼女にとって、やがて切ないすれ違いを引き起こすのは、もうしばらく後の話だ。


「1回目がそんな感じだったんで、2回目に会う時は、彼女が住んでいたマンションの最寄り駅を待ち合わせ場所にしたんです」

 まぁそれが正解だね。

「なのに、その約束がきちんと彼女に伝わっていなくて」

 おっと大誤算。

「結局、また捜すことに」

「で、どこにいたん?」

「前と同じビルの所でした。ただし今度は、映画館があるそのビルの裏手」

「それ、よく見つけたなぁ。場所が全く違うやん」

「その時は、たまたまWi-Fiの使えるコンビニを彼女が見つけて、携帯で写真を送ってきたんです。〈今ここにいるよ〉って。電話としては使えなくても、Wi-Fiでネットには接続出来たから。で、その画像に写ってたのが、銀行とスーツ店の外観で。しかも全国チェーンのやつ」

「もっと分かりやすい建物あったやろうに」

「実はその時、彼女の真後ろが有名百貨店だったんですよね」

「そっちを撮っとけば!」

「日本に来たばかりの外国人にとったら、日本の建物なんてほとんど同じに見えるんでしょうね。それで、ネットを使って検索をかけて、マップ上で銀行とスーツ店の2つが同時に写真に入り込む場所を探して、それがどうやら難波だって絞り込めて、だったらきっと前に一度行っているしあのビルの近くにいるだろうと」

「スパイの手口かよ」

「必死だったんですよ。とにかく絶対に彼女を見つけなきゃって。本当に、2回とも偶然見つけられて、あれは一生忘れられないと思います」

 その言い方から、本当に当時の必死さが伝わってきて、感動すると同時に少し笑った。そしてまた、それは単なる偶然なんかじゃないと思った。彼らの出会いは、彼女の行動の結果であり、彼の行動の結果だ。格好良すぎて悔しかったから、そんな風には言わなかったけれど。

「何て言うか、すごい話だね」

「はい。本当に、タチアナってすごいんですよ」


 いやいやお前もな?


「でも、そんなすごい子だからこそ、僕なんかで良いのかなって思う時もあるんです」

 まぁ、そう考えてしまう気持ちは分からなくもない。

「彼女のそばにいたのが、たまたま僕だけだったから。妥協させてしまったんじゃないかって」

「それはちゃうやろ。て言うか、それはむしろ彼女に失礼じゃない?」

「だって、あんなに可愛くて綺麗で良い子なんですよ?」

「それは」もう知ってますけど!?

「その気になれば幾らだって相手も見つかるだろうし。実際、ちょっと前までラーメン屋でバイトしていたんですけど、本当に客の男に声をかけられるんですよ」

「そらまぁ、あのレベルの子がラーメンを持って来てくれたら、そうなるよね」

「だからもう心配すぎて、彼女もあんまりバイト先が気に入ってなかったみたいだし、引っ越しを機に辞めてもらいました」

「結局はのろけかな?」

「僕、いっつも言ってたんですよ。『友達は出来た?』って。日本に慣れて、他の友達も沢山出来たら、もう僕の助けなんて要らないし」

「もうとっくに好きになってたんちゃうの? てか、一目惚れでもおかしないのに」

「それよりも、こんなに可愛い子が僕なんかを本気で好きになるわけがないって思ってました。だからむしろ、ある程度したらちゃんと距離を置かないといけないと思って」

「えっ? 離れたん?」

「離れたって言うか、もっと他の人と過ごせるように、会う頻度を少し減らした方が良いと思って」


 正気かこいつ。


「僕は家族でも恋人でもないんだし」

 それが彼にとっての「ちゃんと」の真実だったと知って、言葉を失った。だけど、心の片隅ではその気持ちが痛いくらい分かる自分もいた。


「でも、そしたらメールが来て。その、〈僕に会えなくて寂しい〉みたいな」

「それは、たまらんね」 嬉しいと言う意味でなく、切ないと言う意味でだ。

「ですよね。それで思ったんです。『あぁ。俺、何してんねやろう』って。僕のことを好きになってくれるかとか関係なくて、きちんと彼女に付き合おうって」


 それもまた切ない決意だと思った。ただ、当時の彼にとっては真剣だったのだろう。それを部外者の僕が否定出来た筈もない。

「彼女って、ロシアにいた時から本当に沢山頑張っていたみたいで――」

 この時に彼から聞いた会話の内容について、ここで記すのは止そうと思う。決して彼女にとって恥ずかしい過去でなく、むしろ聞けば誰もが感心しそうな話であるのだけれど、いかにもお涙頂戴の作り話っぽくなるからだ。ただ、それでも一つ言えるとすれば、


  “目的意識を確かに持った人間の行動力は、何歳であっても素晴らしい。”


「僕、中学生の頃なんて何も考えてませんでしたよ」

「こっちだって、アホみたいなことばっかやってるガキやったで」

 そして結局、僕らの会話はこう締め括られる。

「タチアナって、ほんまにすごいね」

 それを言う度に、僕はまた少し彼と彼女を好きになる。


 とまぁ、このような話を延々と続けながら、新居へ荷物の運搬を終えて、再びタチアナの待つ部屋へ戻ってみれば、時刻はもう午後10時前。

「おそい!」

 玄関を開けた途端に彼女が怒ってきたけれど、それさえも可愛いとしか思えないよね。


 それから大急ぎで残りの荷物をトラックに積んで、今度は3人で新居へ移動した。ただし、荷物が思ったよりも少なくて荷台に空間が出来てしまい、さらにそこへKにとって「家族」である観葉植物の鉢を置くことになったので、鉢が倒れないよう見張る人間が必要だった。つまり、Kだ。決め手は、荷台を指差しながらタチアナが言った「ロシアではみんなふつうにのってるよ」


 こうして僕は、図らずもタチアナと2人きりになった。背面のガラス越しに、こちらを心配そうに見つめる男の顔があったが、無視した。

 彼女は最初に会った時よりも、多少は緊張がほぐれたのか、それまで以上に魅力的な笑顔を見せていた。

 そらまぁ、こんな顔を見せられたら好きになるし、不安にもなるな。僕はそう思いながら、どうしても聞きたかったことを聞いた。

「最初に彼と会った時、どう思った?」


 果たしてタチアナは少しだけ考えてから、「なんてやさしいひとだと、おもいました」

 それからかすかに悪戯っぽい笑みを浮かべて、

「あと、ちょっとかわいいひと」


 そう言った瞬間の彼女が、人種とか国籍とか関係なく、本当に年相応の恋する女性って感じがして、気付けば僕はさらに尋ねていた。

「いつから彼を好きになってた?」

 後ろではガラス越しにKが聞き耳を立てているようだったが、幸か不幸かエンジン音に紛れて僕らの会話が聞こえるはずもない。するとタチアナも安心したのか、こう言った。

「じつは、けっこうまえからすきでした。でも、そのときはまだ、にほんごもあまりはなせなくて、どうやってかれにいえばいいのか、わからなかった」


 聞いたかKよ!

 と、聞こえていないKに向かって内心で叫んだ。


 お前がうじうじ悩んでいた時、彼女はもう既にお前のことを好きだったんだとさ! 何だそれ! 羨ましすぎてのど仏から血が出そうだ!

「ないしょ」と口に指を当てたタチアナを見て、生まれて初めて

(あぁ。『もげろ』って、こんな時に使う言葉だったのか)

 と悟った。


 やがて再び新居へ到着し、荷物を全て下ろし終わった時には、午後11時半。作業後はご飯でも……と言っていたが、この日は止めて、翌日に改めて食事をすることにした。本格的に同棲を始める最初の日だ。日付を越える瞬間は、2人だけで向かえるべきだろう。翌日は、新しい家具や家電を買いに行こうと決めた。


 蛇足だが、実はこの時、僕が財布を落として失うと言うハプニングがあり、それも食事会を翌日にする理由の1つになったのだけれど、これはもう僕の「あるある」なので仕方ない。めちゃくちゃ心配してくれて、僕以上に本気で探してくれたKとタチアナには感謝しかない。ちなみに結局、財布は路上で見つかった。これも「あるある」だ。


 さて、翌日。僕は正午に改めて彼らの新居を訪れた。タチアナは昨日と打って変わって黒いプリーツ・スカートをはいていて、上半身には謎のカタカナが書かれた白い半袖Tシャツ。


「あれさ、ロシア語の読みをカタカナで表記してるの?」

「いえ。単にヨーロッパ土産とかにある、デタラメな日本語Tシャツです」

「あ、そう」 これもきっと「あるある」だ。


 それはともかく、僕らはまず大型インテリア・ショップと、家電量販店を訪れた。実は、この日は夕方5時にKの前住居で、退去前の部屋の状態確認に立ち会わなければならず、あまり時間が無かったのだ。


 だが、ここで思わぬ誤算が生じた。ミニマリストかと思っていたタチアナのテンションが、実際にKと一緒に寝具や食器などを選び始めたら、急上昇したのだ。そして巨大なカートを2人で1台ずつ押しながら、色々と相談を始めるカップル。僕はと言えば、その問答無用で幸せそうな光景を、少し離れた場所からカメラで隠し撮りするばかり。

 あぁ、こんな場面、前に映画で観たなぁ、と思った。料理に使うお皿を選んでいる時、タチアナが「にほんのりょうりにつかうさらは、Kちゃんがえらぶ。ヨーロッパとロシアのりょうりにつかうさらは、わたしがえらぶ」と言った時は、まさしく国際結婚だなぁと思った。


 諸々の品を買い終わり、大型家電の配送手続きも終えた時には、時刻は午後3時半。結局、前夜は部屋の掃除をしなかったので、退去前の掃除を考えれば良い頃合いだった。

 僕達はいったん、新居へ戻って購入した物品を部屋に運んだ。それから、荷物の開封と整理をタチアナに任せて、僕とKは掃除道具を片手に“前の”部屋へ向かった。

 僕達は手分けして床を磨いたり、トイレの汚れを落としたりしながら、また話をした。勿論、話題はタチアナのこと……ではなく、そもそもどうしてKがロシア人と友達になっていたのかだ。はっきり言って、僕はまだこの時点では、Kの「元貴族説」を捨てきっていなかった。

 果たして彼の口から語られた内容は、僕の浮かれた予想を遥かに超えていた。


「高校の時、ネットがきっかけで知り合った親友がいて、そいつがすげー絵の上手い奴だったんですよ。で、僕もそいつに影響されて絵を描くようになって。でも、ある時、そいつが死んだって連絡が来て」


 思いがけない話に、僕は便器を抱えていた体勢のまま「え?」と返した。

 Kは浴室の壁を磨く手を止めて、当時を振り返るように語ってくれた。

「本当に、いきなりだったんです。病気とか変な様子とか全然無かったのに、ある日いきなり心臓が止まって、呆気なく死んだって」

「それは、驚いたやろね」

「はい。でも、それ以上に悔しかったのは、お葬式に行けなかったことです。ちゃんと訃報が届いて、他のネット仲間は参列していて、なのに僕だけが高校生で、お金も無くて飛行機の乗り方とかも分からなくて」

「遠い場所に住んでる人やったんや」

「東北でした」

「そっか」

「だけどそんなの、言い訳なんですよね。だって言っちゃえば同じ日本じゃないですか。ちゃんと調べれば飛行機とか電車の乗り方なんてすぐ分かっただろうし、お金だって、親に事情を話して頼むことだって出来たかもだし。なのに、どうしてか僕、『自分一人で何とかしなくちゃ!』って思って、でも結局は何も出来なくて。本当に自分が無力に思えて、後悔ばっかり大きくなって、一時期もうどうしようもなくなりかけたんです」


 現在のKの声に悲壮感は無かったが、だからと言って当時の彼の気持ちを僕ごときが完全に推し量れるとは思えない。「そうなんや」としか返せない僕に、Kはさらに話を続けた。


「そんな時かな、ネットで面白い人を見つけたんですよ。ロシア人のアーティストの動画だったんですけど、やたらと日本語のスラングで文句を言うんです。で、それが何でかやけに気になって、コメントを送ってみたんです。そしたら彼、実は日本語の意味をほとんど分かってなかったんですよね。でも、それをきっかけにして、交流するようになって」


 そこでKとロシア人の絵描きは、互いの言葉を勉強し合うようになったと言う。Kはロシア語を、相手は日本語を。またそんな中で、Kは自分が描いた絵を彼に見せたそうだ。


「僕の絵を『良いね』って言ってくれたんです。その瞬間、すごい心が晴れたって言うか、楽になったって言うか。親友がきっかけで始めた絵が、彼が死んでからは単なる惰性みたいになってたのに、それをちゃんと褒められて、認められた気がして。それで僕、本気でこの道で生きて行きたいと思って、イラストの専門学校に進んで、今の会社に就職したんです」


 思わぬ感動秘話を聞かされて、僕は完全に面食らっていた。こいつ、こんな隠し球を持っていやがったのか、って気分だった。


「そんなことがあったんで、僕のロシア人に対する印象って、めちゃくちゃ良いんですよね。だからもしもいつか、今度は僕が友達とかロシア人を助けられる番が来たら、今度こそ全力でサポートしようって決めてたんです」


 そしてKは誇らしそうな笑顔を浮かべて、「だから僕は、タチアナから助けを求められた時、絶対に彼女を支えようと決めた」と言った。しかしそれは「保護者として」と言う単語が前提となっているかのような言葉だった。


 本音を言おうか。僕は、「こいつは馬鹿だ」と呆れた。


 どうしてそんなにも難しく、或いは真面目に考えたのか。単に、可愛いロシア人の女の子とお近づきになれてラッキーで済ませておけば、変に距離を置こうとして彼女を傷つけることは無かったし、彼だって「どうせ自分なんかじゃ」と卑屈になって芽生えかけた恋心を押し殺してしまうことも無かったし、事態はもっとスムーズに進んでいた筈だ。


 全くもって、馬鹿だと思った。こんなにも愛すべき馬鹿は、滅多にお目にかかれない。


 タチアナが言った、「ちょっとかわいいひと」の真意をやっと理解した気がした。

 Kは、この不器用な男は、彼女と最初に会った日も、きっと馬鹿みたいに本気で彼女を捜し回ったのだ。ネット上の、それもほんの些細な繋がりを馬鹿正直に信じて、台風で大荒れの天候の中を、事前に貰っていたたった1枚の写真だけを頼りに、見ず知らずのロシア人を捜して、遂に異国の地で壊れた傘を握りしめる彼女を見つけた。そしてその瞬間、彼なりに本気で「ちゃんと」しようと一瞬で決意した。理由はただ、「かつて自分がロシア人に助けられたから」


 こら、敵わねーな、と思った。タチアナも彼を好きだって気持ちを素直に告白出来なかった筈だと納得した。

 この男はシンプル過ぎるのだ。しかも面倒臭すぎるほどに頑固。そのくせ肝心な部分で男としての自信が足りない。


 これは後になって聞いた話だが、タチアナはタチアナで、実はボディタッチなどでさりげなく、時に大胆に想いを伝えようともしていたらしい。そして勿論、Kもまた健全な男子としてそれにどきどきしていた。だが、そこで彼は「俺でもいけるんじゃね?」と思うのでなく、「こんな風に男を誤解させるような行動をさせちゃダメだ」と考えた。いっそ自分は離れるべきとさえ決意した。そしてそんな彼の気持ちが伝わって、タチアナもまた最後の一歩を踏み出せなかった。宝物みたいな2人の関係を壊したくなかったから。


 これがテレビの連続ドラマだったら、画面の前で視聴者が悶絶するかぶち切れるぞ、と呆れながら、同時にこんなKだからこそ、幼い頃から夢の為にひたむきに頑張り続けてきた女性のハートを射止めたのだと理解した。

 だけど、そんな2人にも再び転機が訪れる。


 平成30年5月某日。それは、彼らが最初に出会ってから半年以上が経過していた日で、タチアナの誕生日を翌日に控えた日曜日。Kとタチアナは、関西でも有数のデートスポットである海遊館を訪れていた。いつもの保護者と健気な留学生としてではなく、単に出身国の異なる友人同士としてでもなく、初めてのデートに挑む男女として。


 引っ越しの諸々が済んだ後、焼き肉屋で食事をしながら、タチアナが嬉しそうに「はじめてのデート。はじめてのキス」と言った。中ジョッキを片手に幸せそうな笑みを浮かべる彼女の顔が、ほんのり桜色に染まっていて、それをまぁにやにやにやにやと眺めるKの顔も赤ら顔で。僕はと言えば、そんな2人の幸せオーラに釣られて笑いながら、羨ましすぎてほうれい線から血が出そうだった。

 海遊館での初デートの後、Kとタチアナは一緒に彼女の部屋へ行き、そこで改めて彼から彼女に「好きだ」と告げた。本当は、もう会うべきでないとも思っていた。彼女はそれに映画みたいなキスを返した。Kが他に何を言うより早く彼を抱き締めた。それがつまり、「はじめてのキス」だ。そして2人はそのまま、彼女の誕生日を一緒に迎えることになる。


 って、マンガかよ!


 と思った読者も多いだろう。実際、書いている僕でさえ、あまりと言えばあまりに美しくまとまりすぎていて作り話じゃないかと疑うレベルだ。

 だけど、これは全て実際に起きた出来事であり、また数ヶ月後に結婚を控えて現在進行形でいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃしているバカップルの始まりの物語なのだ。

 尚、このお話には余談があって、ことあるごとにやれ


「タチアナが晩ご飯を作ってくれました。マッシュポテトと鳥肉のハンバーグ。ロシア料理ですって」

「タチアナがお米の炊き方を教えてくれって言ってきて、一緒に炊いたご飯が今日のお昼の弁当に入ってるんです」

「今日は僕が仕事から帰ったら、そのタイミングに合わせてタチアナがお米が炊き上がるようにセットしてくれてました。あ、おかずは焼き魚とシイタケのニンニク炒めです」

「部屋にいると、すぐにタチアナが僕の方に近寄ってくるんですよね。スキンシップは嬉しいんですけど、ちょっと恥ずかしい」

「僕は幸せすぎるんですけど、そっちは羨ましすぎて血が出すぎて、もう全身真っ赤でしょうね」


 み・た・い・な・自慢でKが僕を煽ってくるので、いい加減に腹が立って、


「だったらこっちはお前らのエピソードを全世界に公開してやるわ!」


 と考えて小説化の許可を彼らに貰おうとした時のことだ。

「実は今日、タチアナと一緒に指輪を買いに行ってきたんですよ。難波にあるショップって言うか、ビルなんですけど」

「それってまさか、例の映画館が入っている?」

「はい。最初に待ち合わせていたビルです」

 なんてまぁまぁ感動的なオチまで付けてくれたので、最早、争う気も失せた。


「もーどーでもいーよ。勝手にしてくれ」


 こっちはもう脚色とか嘘とか演出とか一切無しで、ただ事実だけを書くから、後はこれを読んでくれた人に任せよう。

 ちなみに、彼がその後で見せてくれた写真には、細いアームの表面に緻密な模様が刻まれたプラチナの指輪が11.5号と6号の2本ずつ並んで収められていて、それだけでそのペアリングを選んでいた時の彼らの様子が目に浮かんでくるほどだった。しかも、指輪の裏にはそれぞれ互いの星座石であるガーネットとアクアマリンがあしらわれ、アクアマリンが放つ美しい海の色は、彼女が日本を夢見るきっかけにもなったキャラクターのイメージカラーらしい。


 全く、完敗だ。末永く幸せに暮らせば良いさ。そしてぶくぶく幸せ太れば良いさ。そしてそして何年かしたらべらぼうに可愛い赤ちゃんにでも恵まれれば良い。そうやって永遠に途切れること無く愛情と幸福の輪を繋げて行けば良い。


 全く、嫌になる。物書きなのに、「少し早いけど、結婚おめでとう」くらいしか書ける言葉が無いじゃないか。

〈了〉

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