35.***次代***

 涙が枯れるまで、声が出なくなるまで、呼吸が苦しくなるまで泣けばいい。袖を濡らす涙は、いつか彼の糧になると知るから、真桜は藍人の涙を咎めなかった。


「藍人、いや……和絃あいとか」


 同じ呼び方であっても、意味が異なる名前だ。込められた願いも、まったく別物だった。藍色の人……藍は黒に近い深い色だ。何度も染めて色を重ねて作られる。乳母が重ねて作り上げた人格や姿が、初対面の黒髪の少年だろう。


 真実を覆い隠すほど深く色を重ねた人。そう呼ばれた子供の真の名は『和をもって絃を紡ぐ者』だった。生まれてすぐ親に放棄され、それでも尊い生まれの血筋を守る乳母が選ばれる。彼女は親が名付けを拒否した赤子に、誰とでも和を繋げる存在になるように言霊を吹き込んだ。


 なんという愛情の深さか。その響きの美しさも、名を隠した聡明さも、親に拒まれた子を愛する優しささえ……乳母は本当に和絃を大切にしていたのだ。


「和絃の名は伏せろ。普段は藍人を使う方がいい」


 真桜の指摘に、アカリはゆったりと頷いて付け加えた。衣の先が徐々に不透明になり、指先も髪もすべてが実体を取り戻す中で、厳かに告げる。


「鎮守神は天上の方の代理人であり、身代わりの依代ゆえ……真名は口にせぬ」


 言霊が重要な意味を持つ国で、鎮守神は特殊な立ち位置だった。過去は天津神の一族に連なる帝の親族が務めることが多かったが、真桜の代になり意味を変える。


 神格をもつ者が、仮にも神と名のつく地位に立ったのだ。言霊は活性化し、次代の選定に大きな影響を及ぼした。次も神か、それに順ずる存在が望まれる。


 その意味でもアカリが指摘したように、糺尾が適していた。本人は自覚がないだろうが、九尾の子は九尾になる。九つの魂と命を持つと言われる妖は、この世で神に近しい存在だった。


 だが彼らは逆を選んだ。藍人が神の代理人としての苦行を身に受けると決めたなら、真名を伏せることで人の世から隔絶する必要があった。誰も呼ばぬ真実を身の裡に秘めることで、神格の代わりとするのだ。


「わかりました」


 緊張に強張った藍人の頭に手を乗せ、真桜は少し乱暴に撫でた。ぐしゃぐしゃと乱れる髪に苦笑いする子供の顔を覗き込み、笑顔を浮かべる。


「安心しろ。神の力を借りる方法はいくらでもある。オレの知る術と知識を叩き込んでやるから……頼むな」


 次代の鎮守神となる藍人へ、名実ともに国の鎮守神を務める真桜は、不安を打ち消すように言葉を選んだ。命じるのではなく、頼むという曖昧な言の葉を使う。それから肩を竦めて周囲を見回した。


「ひとまず、後片付けだ。散らかし過ぎた」


「手伝ってやろう」


 アカリがくすくす笑いながら手伝いを申し出る。有り難く受け入れる前で、帝は金の髪を月光で輝かせながら笑顔で逃げた。


「僕と瑠璃はもう寝るね」


「え? 少しくらい手を貸せって」


「残念だけど、瑠璃は次代を宿した身。僕も明日は早いんだよね」


 実際にはもう今日だけど。そうぼやく山吹の声に、真桜が理由に思い至って額を叩く。


「わかった、引き留められないな」


 不思議そうにやり取りを見ている藍人に、理由を説明する。


「次の帝が宿ったら、先祖である天津神と、この国の守護である国津神に報告が必要だ。禊祓は夜明け前から始まる。お暇しよう」


 欠伸をしながら手早く庭の痕跡を消す真桜の横で、見様見真似で手伝いながら藍人も欠伸を噛み殺す。月は天上からやや傾き、空はほんのりと色を変えていた。


 深夜と呼ぶより夜明け間近と表現する方が近い時間帯だ。大急ぎで帰りの道を繋いだ真桜は、子供たちと神将を先に帰らせた。


『ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、ここのたり』


 九字を切って場を清めると、アカリが待つ道へ大急ぎで飛び込んだ。暗い闇を歩きながら、またひとつ欠伸をする。一晩で起きた騒動を思い浮かべながら、アカリは真桜の腕にするりと手を絡ませた。

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