34.***美玉***

 静まり返る庭にどっかり腰を下ろした真桜が狩衣の袖を捌いて、意図的に細く長い息を吐いた。清められる場が美しく整う。


『我が血の盟約において、封じられし御魂みたま美玉みたまに転じる。闇よ、つどいて我が右手を黒く染め抜け』


 ぞろりと足元の影が動く。屋敷に集めた闇の一部が影を通じて流れ込み、真桜の右腕が黒い靄に包まれた。肌を染める毒々しい黒は、真桜を慕うように纏わり付いて澱む。


『神たる我が名において、留めた御霊みたまたせ。月の衣を、彼の者に重ね給え』


 アカリの声が静かに重なる。片膝をついたアカリの象牙色の肌に注ぐ月光が、切り取られたように消えた。


 突然左手に熱を感じた藍人が、手を開こうとして動きを止めた。熱いと感じた手のひらが、じわじわと温かくなっていく。誰かと手を繋いだ時の、柔らかな熱が伝わった。


「……、ですか?」


 藍人の唇が震えながら尋ね、応えるように左手の熱が高くなる。それが嬉しくて切なくて、名を呼んではいけないと唇を噛み締めた。頬を伝う涙を、下から伸ばされた糺尾の指先が拭う。自分は守られる存在ではなく、守るべき弟がいる。


 乳母の名を呼んではいけない。それは言霊となり、彼女を縛り付ける鎖になるから……藍人は未熟ながらにその恐ろしさを理解していた。親すら見捨てた外見の子供を、我が子同然に愛しんでくれた女性。彼女の幸せを願わないはずがなく……目を伏せて呼べない名の代わりに、呼びたかった響きを声にした。


「ありがとうございました、お母様たあさま


 掠れて聞き取れない声に、足元の糺尾は「きゅーん」と狐の声を上げる。その慰めを含んだ響きに、頬を涙が伝った。それでも顔をあげて口角を持ち上げた。笑え、笑顔を彼女に見せて……心からの感謝を伝えなければ後悔する。


 母親はこの白い髪や赤い目を「化け物」と呼んだ。「近づくな」と叫んで突き飛ばす。泣きながら戻った先で、乳母は優しく髪を撫でながら子守唄を歌ってくれた。「赤い瞳は兎のようで、銀の髪は月光のごとく美しい」と肯定しながら、藍人の存在を受け入れる唯一の人だった。


 だから本当は違うのだけれど、お母さんと呼びたくて――最後の最後になって、遅かったけれど。水晶を握った左手に必死で声をかける。幼子が使う呼び方で、最初で最後の孝行を。


「呪縛は解かれたゆえ、乳母殿は己の思う道を選ばれよ」


 山吹の声が凛として場を引き締めた。一族の色違いろたがえの子供を見守った女性へ、望む褒美を与えると天津神の末裔が言祝ことほぐ。歩み寄った真桜が、握り込まれた藍人の左手の上に人差し指と中指を添えて当てた。


「お迎えに参りました」


 運命に翻弄される子供を守る女性に、最上の敬意を表して告げる言葉が柔らかく響き……左手の中で水晶が揺れる。ぱきんと乾いた音がして、ヒビから漏れ出た魂が形を取る。人として在った日の老女の姿で、穏やかに微笑んで会釈した。驚いた糺尾が子狐の姿で尻尾を逆立てる。


 帝である山吹、その妻である瑠璃へ……それから愛し子の親代わりとなる師匠の真桜やアカリ。最後に涙に濡れる子供の白い髪を撫でる。実像はないため、半透明の手はすり抜けた。代わりに国津神の同情を得た彼女の想いを乗せ、風が藍人の白い髪を揺らす。


和絃あいと、私の元に来てくれてありがとう。最後まで思うままに生きなさい』


 真の名を口にして、読み違えた音を正しながら老女は目を細めた。孫と呼ぶ年齢の愛し子を目に焼き付け、迎えの手を取る。片膝をついて出迎える黒葉に頷き、老女はそれきり振り返らなかった。


 掠れて消える彼女の姿を、藍人は瞬きすら忘れて見送る。しかし呼び止める言葉はついぞ吐くことなく……腕の中で震える子狐を強く抱き締めて、自分に愛情をくれた唯一の人を送った。


「よく我慢したな」


 祓えにより切り離した乳母を黄泉へ送る、決まっていた世の理だが藍人が耐えられるか。引き留めようとしたら止める気でいた。だが彼はきちんと理解している。ここで泣いて縋れば乳母は心配で残ってくれるが、いずれまた何らかの怨霊に利用されてしまう。


 彼女の魂が安らぐために、自分が言葉と涙をのみ込む必要がある。藍人は誰に教わるでもなく、その答えを自ら導き出した。くしゃりと白い髪を撫でて抱き寄せる。間に挟まれた子狐が「くーん」と甘えた声を出す。衣に吸い込まれる涙が冷たくなるまで、真桜は藍人の肩を抱き寄せていた。

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