26.***黒血***

 脱皮だっぴのように体を脱ぎ捨てた蛇神じゃしんの器は、束石つかいしの根本に冷たく横たわる。しかし霊体や神格を含めた本体は、都から離れた沼地で眠っていた。


 自由に動ける。手足とした乳母の霊を使い、秋の鎮魂と子孫への継承で地上に現れた地祇ちぎを襲った。彼らの霊力や神力は蛇の乾いた身を潤す。他者の神力を貪り、ようやく満ちた気持ちで長縄たる身を木に預けた。


 途中で邪魔が入ったが、霊体を回収すれば回復は容易だ。これほど体が軽いのは久しぶりで、うとうとと微睡まどろむ。


『これで隠れたつもりですか? この程度の神格で我が主を傷つけたなど……千々ちぢに裂いても足りませんね』


 聞こえた見下みくだす声に、シャーと威嚇音を発する。首を持ち上げた蛇神は、腹部に走る激痛に身を捩った。


「ぐぁああああ」


『実体を纏っているのですか。驚くほど下等な存在です。我が主に見せることなく、このまま裂いて消しても構わない気がしてきました』


 溜め息をついた黒葉が、手を上に掲げる。のたうつ蛇の体に突き刺した杭は、闇の神王しんおうである作り主から与えられた己の身の一部。それゆえに簡単に消えることはなく、抜けて敵を逃す心配もない。


 右手を掲げて、容赦なく振り下ろした。首を切り落としてしまいたいが、真桜の許可なく命を断つ愚は犯せない。彼が許可を出せば、すぐにでも裂いて切り刻みたいが。


 昂る感情を抑え、黒葉は緑の瞳を細めた。真桜はこの瞳を、暖かな春の新緑にたとえる。しかし黒葉自身はまったく別の印象を持っていた。澱んで腐った水の色だ。暗い闇の底で、地を濡らす苔の色でもある。明るい印象を持つのは、主人である真桜の心が優しい証拠だった。


 少なくとも人のような優しさを持たぬこの身は、他者には物腰柔らかく見えるらしい。それは誰に対しても同じ、公平に接するからだろう。裏を返せば、彼らにまったく興味がない。主人である真桜以外の存在に心を動かされなかった。


『まず、品のない声をあげる舌を切りましょう』


 苦鳴をあげる蛇の舌先を落とす。呻く蛇から杭を引き抜いた。指先で摘んだ蛇は、抵抗の意思を見せる。鎌首を持ち上げて噛みつこうと牙を剥いた。


『愚かですね。まだ力の差がわかりませんか』


 嘲笑する黒葉が、胴体の傷を強く握った。闇の杭が刺さった傷は癒えない。滴る黒い血を手に纏つかせ、黒葉はにやりと笑った。


『わかりませんか? のろっても闇の眷属には届きません』


 効果はない。それは本来の姿に戻った真桜も同じだった。現在は母親から引き継いだ人としての姿を纏っているため、人と同じようにしゅにかかる。しかし人形ひとがたを捨てて闇の神族となれば、すべての呪いは彼に届かないのだ。


 ぎゅっと握った手の爪をぐいっと傷口に突き立てた。ぬるりとした感触で食い込む。血が流れるたび、小さな光が逃げ出した。中で同化しなかった地祇を闇にかえしながら、黒葉は淡々と数えた。


『ひ、ふ、み……おや、ひとつ足りませんね』


 地上に降りた地祇の数から回収した数を引くと、ひとつ足りない。しかし蛇の中にはもう残っていなかった。同化して吸収した様子もないことから、黒い血で汚れた指先を唇に押し当てる。考え事をする時の癖だった。


 まだ逃げ回っているのだろうか。


『っ! ずるいぞ』


 煩いやつに見つかった。そんな眼差しを向けた上空で、式神が薄い衣をひるがえす。華炎だった。対の華守流もすぐに合流するだろう。もう少し痛めつけたかったのですが……仕方ありませんね。


 気づかれないよう溜め息を吐いた黒葉は、人好きのする笑顔で蛇を手に一礼した。


『真桜様のもとへ戻りましょう』


 黒い血を撒き散らす蛇を強く握る。激痛に身をよじる自業自得の蛇神に、優しく声をかけた。


『我が主が優しいと思わぬことです』


 それは呪術のように蛇神を侵食した。言葉に含まれた恐怖と、声に混ぜた闇が蛇の精神を壊していく。


「待て! その蛇は神だ!」

 

 足元で騒いだ人の魂にちらりと視線を向け、木の上に足をかけた黒葉は少し眉を寄せる。考え込むように口に手を持って行き、すぐに簡単そうに人の魂を回収した。


 くるりと指先で描いた円に囲った魂の濁りに、どうやら元凶にたどり着いたらしいと頬を緩める。手土産が出来たと喜ぶ黒葉は、用済みとなった蛇神を式神に預けた。

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