3 見たこともない顔

江戸の活気ある朝である。日照と共に仕事を開始する人、人、人。

米の炊き上がる匂い、包丁の音、赤ん坊の鳴き声にあやす声。

表長屋には暖簾が掛けられ、通りには物売りの声が響く。


今日も変わらぬ朝だろうと誰もが思ったが、どうも違うらしい。


パカラッ、パカラッ。

茅場町を駆ける一頭の馬が大番屋へ向かっているのである。馬が駆けることが珍しいのではない。

騎手の身なりがあまりにもミスマッチなのだ。

「たのもう!」

大番屋の門前で下馬をした騎手が大きく叫ぶ。潜り戸から肌艶の良い月代の使用人が顔を出して、騎手を見る。

使用人はギョッとした。

「派手……いや、」

派手であることは珍しいことではない。山の手では派手な身なりをする若者が増えているし、この使用人だって暇が出れば下町を飛び出して、流行に乗りたいと思っているくらいだ。それに、古から洒落た身なりをする目立ちたがりを『傾奇者』や『伊達者』と称する風潮はあるのだ。だが、それとも違う。洒落ていない。どこか古さを感じてしまうのである。

「つまり、ダサい」

使用人はハッとした。つい、思ったことを口に出してしまうのだ。恐る恐る騎手の顔色を伺う。190センチはあろう身体からは威圧感を感じるが、口許は緩んでいる。

「すぅ…」

使用人は謝罪の言葉を述べようとして息を大きく吸ったが、有無も言わさず騎手が割り込む。

「まあ良いだろう!パンチの利いたこのアフロ!そして、愛と希望のグラサン!流行り廃りは順繰りだ。ならば俺がその先駆者となる!ところで若者よ、俺はバカなアホがここにいると聞いて来たんだが、通して貰えないだろうか」

騎手ことアフロで髭面なおじさんの言う『愛と希望のグラサン』とは、ハートと星を型どったレンズのサングラスを指している。パーティー用と言えば伝わるだろうか。

「へ?」

怒鳴られると思っていた使用人は、思わぬ返答にあっけらかんとした。サングラスで目元が見えないため、表情を読むのが難しい。「安心するには気が早い。いつ怒鳴られるか、構えておいた方が良さそうだ」と、使用人は再び縮こまる。

「おっと、これは失礼。私はこういう者です」

アフロのおじさんは棒貸屋と書かれた法被の内ポケットから丁寧に名刺を取り出した。



***



そのころのモモンガといえば、今まさに朝食の配膳がされていた。

「かーっ、これだけ!?」

「文句があるなら下げるぞ」

「やだね」

茶碗半分にも満たない玄米と残りかす程度のほうれん草が入った味噌汁。モモンガは大きく開けた口に玄米を掻き入れると、続けて味噌汁を流し込んだ。ものの10秒で完食だ。


一方、カヨは正座をして、ちまちまと細かく食べ進めている。

「礼儀正しいっちゃ正しいんだろうけどよ、ちったぁ美味そうに食えよ。余計に辛気臭くなるだろ」

モモンガが小言を挟むと、カヨは無言でキッと睨みを効かせた。

「わかったよ。黙ります、黙ります」

モモンガはカヨに背を向けて横になる。


その時だった。

「モモンガー!お前って奴は!なんて様だ!」

怒声と共に牢のあるこの部屋の戸が勢い良く開けられる。開けたのは番人でもなければ使用人でもなく、アフロのおじさんであった。

呼ばれたモモンガは飛び上がり、声の主を見て叫んだ。

「て、店長ッ!」

「くぅぅ、生きてたぁぁ。お前が捕まったって、聞いて、俺は、俺は……」

店長と呼ばれたアフロのおじさんはわんわんと泣きじゃくっている。何を隠そう、その正体は粕壁宿棒貸屋の店長である。

「いやぁ、店長が来てくれなかったら一生檻の中だったぜ。にしても早かったな」

「馬を借りたんだよ、レンタル料はお前の給料から引くからな」

「げ」

先程まで涙を流していたのが嘘のように淡々と話す店長に冷や汗を垂らすモモンガ。

「何が『げ』だ。身元保証人としてこうやって迎えに来てやったんだ、安いくらいだろう」

「そこはホントに感謝しますよ、感謝してますとも店長。けど、その格好で良く信用してもらえたな」

「そりゃあ、俺が有名人だからさ!」

効果音をつけるならキランだ。こうなると面倒臭い。と、モモンガは思った。

「へー」

「ちょっと!塩対応やめて!」

ほらな。

「わー、さすが店長。知らなかったー。すごーい。センスいいですねー。そうなんだー」

モモンガは褒め言葉のさしすせそを棒読みする。

「古いなモモンガ。今は『まみむめも』だぞ!」

「ツッコミそっちかよ!まあ、いいや。早いとこ出してくれよ」

「それもそうだな」

茶番劇を切り上げ、途端に冷静になる二人。

カヨは二人を見ながら「一体何者なのよ」と思っていた。


こうして、牢から出ることを許されたモモンガは取り上げられていた荷物を身に付けながら、店長が先に外へ出たのを確認すると、そっとカヨの元へ向かう。

「何よ」

モモンガはカヨの問いには答えず、立て膝をついて、手招きをする。耳を貸せという意味だ。カヨが応じる。

「俺がここに来る間、お前と同じように囮だと言った男が殺された。必要なら雇ってくれよ」

モモンガはそう言って懐から名刺を出し、カヨに渡す。

「用心棒だったの……。悪いけど、その人を護れなかった用心棒なんか雇いたくないから」

「そう、だな」

モモンガが一瞬、ほんの一瞬だけ顔を曇らせたが、直ぐにへらりと笑う。

「他の奴を雇えばいい。江戸じゃ腕の立つやつはいくらでもいんだろ」

そう言ってモモンガは去って行った。酷く冷たいことを言ってしまったことをカヨは後悔したが、外からモモンガの笑い声がするとその後悔も消えて行った。

しかし、一瞬だけ見せたあの悲愴な顔だけは消え去ることはなかった。

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